日菜の手を引いていたときのことを、思い出している。
前に立つのはいつも私だった。紗夜はお姉ちゃんだからね、という言葉があまりにも単純に誇らしかったときのことだ。私の右手があの子の左手を掴むと、日菜は嬉しそうに笑った。そうして二人で手をつないで、どこにでも行けた。二人ならどこででも。
寄り道しがちなあの子の手を掴んであげられたのは私だけだった。私だけが、日菜をどこにでも連れて行ってあげられる。それが誇らしくて、自分の右手はまるで魔法のようだと思っていた。とても素敵な5分間がくれた、私への贈り物。
母の背中を一緒に追いかけた。父の声のする方へはしゃいで走った。二人でこっそり歩いた夜もあった。怒られるときも、手は離さないでいた。二人の手は本当に魔法だった。
電車の扉をくぐり抜けるとき、私は必ずあの子の手を握った。日菜が電車に置いて行かれないように。日菜だけがホームに置いていかれないように。いつも強く強く握って、扉を超えた。今思えば、おかしな話だ。
二人だけで初めて祖父の家に行ったときは、それは強く強く日菜の手を握っていたから、祖父母が日菜の手を見て驚いたのを覚えている。
『おねえちゃんのうしろを、はなれたりしないよ』
もっと優しく握りなさいと祖父に諭された私がふくれっ面をしていたのを見て、日菜がそういった。その言葉を聞いた途端、なぜか急に安心して、その日か教えるら私は後ろを振り向くだけになった。日菜を振り向くと、いつも日菜は私を見ている。それで私は安心できたのだ。
そういうことを、思い出せるようになった。
日菜に手を引かれて歩きながら、そう気付く。二人で買い物に行った帰り。最寄り駅の二駅手前で扉が開くと、笑顔で、日菜は「降りるよ」と言った。そうして私が反応する前に、私の両手から荷物を奪って、空いた私の左手を右手で掴んで歩き出した。
扉が閉まる音がして、私は現実に戻る。前を見ると、日菜が笑っている。静かなホームの上、二人分の荷物を持って。
私が何か言おうと口を開く前に、日菜は頭を下げていた。
「ごめんなさい」
そうして顔を上げて、破顔してこう言った。
「一緒に見たいものがあるんだ」
少しだけなれない道を、日菜と手を繋ぎながら歩く。
「付き合わせてるんだから、せめて持たせて」
そういう日菜から無理やり荷物を取り返して持つと、私の塞がった両手を見て悲しそうにため息をつくものだから、私の右腕が少しだけ負担を強いられることになった。左手のに繋がれた日菜の右手が嬉しそうに動く。
「昔、ここおにぎり屋さんだったよね」
「そうだったかしら」
「そうだよ。お姉ちゃんと一緒に買いに来たことあるもん。一回だけだけど」
「よく覚えてるわね」
駅前を通り過ぎて、少しずつ私達の家の方へ。片手で数えられる程度の記憶を少しだけ取り戻しながら、日菜に連れられて歩く。
日菜はこういうとき、とりとめのない話をする。今日行ったお店の話。昨日買った洋服の話。
私もこの子も、よく見えるようになった。頷きながら思う。見えてるものが増えて、見えるものが増えて。そうして重なった部分が、今言葉になって現れる。そんな気がしている。
「それで」
日菜の言葉が切れたところで、私から声を掛ける。
「ん?」
日菜は上機嫌で振り向く。話を聞くとき、じっと私の目を見る。ぶつかりそうになる前に注意を促しながら、私は続ける。
「そろそろ、どこに行くのか教えてくれてもいいんじゃないかしら」
「もうちょっと待っててね、あともう少しだから」
私の質問に、日菜ははぐらかす。その表情を見て、何も言えなくなった私は、ただ日菜についていくだけになった。
「この角の先だから」
そういう日菜の足元が、少しずつ淡い赤に染められていく。歩道を覆い尽くしたその花びらに、日菜の思惑も、そしてその結末もわかってしまった。
夕暮れの日差しの中で、少しずつ影を落としているブランコ。それ以外の遊具はなにもない。注意書きだけが立ち尽くす側で、桜の木たちはすでにその花を落とし始めていた。
やっぱり。口には出さない。隣で見るからにがっかりしている日菜がいるから。相変わらずこの子はわかりやすい。
「あれー、もう散っちゃったのかな」
「先週末にはもう満開だったんじゃないかしら」
この子がわかりきったことを言うときは、何かしら不満や悲しみがあるときだ。そうわかっていながら、私は敢えて真面目に取り合う。少し面倒なのは、多分みんな同じだ。
「え、そうなの」
「ニュースでやってたわよ」
「知らなかった……」
忙しいアイドルの見では、ニュースに目を通す時間もなかっただろう。律儀に落ち込む日菜に、なんだかおかしくなってしまう。気づかないなんて、無理もないことなのに。
「えー……」
日菜が大きくため息をつく。確かに頭上の桜は、見頃とはとても言い難い。すでにその多くは地上に落とされていて、鮮やかな緑の中に少し息遣いを見せているだけだ。
花見をする人間もいない。きっと先週末は、この辺りにもブルーシートが広げられていたのだろう。子どもたちももうそれぞれの家に帰ってしまったのだろうか、今は私達二人だけだ。
「すごい綺麗だったのになぁ」
そういう日菜は、小さな子どものように拗ねてみせる。こういう表情をまた見るようになったのも、最近のことだ。
「見たことがあるの?」
「うん。一昨年ね、たまたま見つけて。すっごい綺麗だったんだぁ。あたり一面ばっかりって感じで」
「ばっかり、じゃなんだか飽きてるみたいよ」
「そっか。でもとにかくスゴかったの。本当にあたり一面桜色でね」
そういいながら片手でスマートフォンを弄っていた日菜は、目当てのものを見つけたようで私に画面を突き出した。
明るい赤に染まったその写真は、確かに見事な満開の桜だった。今よりずっと人の多いここが映っている。
「すごいわね」
ありきたりな言葉でも、日菜は満足したようだ。でしょう、と少し得意げな表情を見せる。
「それからずっと見せたかったのに」
そういう日菜は、またいじけた子どものように振る舞う。
「そういうことはあるわよ」
「わかってるけどさぁ」
まだ頬を膨らせたままの日菜の頭を撫でる。いつもならすぐに嬉しそうにするのに、今日はあまり機嫌を直してくれない。
「また来年、見に来ればいいでしょう」
「……そうだけど」
まだ膨れたままの日菜は、まだ納得の行かないような顔をする。仕方ないでしょう。でもさぁ。意味のない問いかけが続く。
きっと笑う私のことを、思ってくれたのだろう。その健気さと、どこか抜けている感覚におかしくなってしまう。
ふと思いついて、日菜の頭に乗せていた手を、そっと離す。日菜が気づかないなんて、珍しいことだ。
「今年こそは、見れると思ったのに」
まだ不満げな日菜を横目に、私は鞄からスマートフォンを取り出した。そうしてそのままカメラを構えて、口を開く。
「日菜」
振り向いた顔と葉桜がちょうど収まるように、シャッターを切る。パシャリ、と機械的な音がして、保存されていった。
カメラロールがまた少しずつ埋まっていく。決して全部が、綺麗なわけじゃないけれど。
「え?」
「帰るわよ」
あなたの驚いた顔が本当におかしい。シラを切る。ここで笑ってしまったら、なんとなく悔しいから。いつかは笑えるようになるでしょう。
まだ何がおきたのかわかりきってない日菜の左手をつかむと、家に向かって歩き出す。
「えっ、ちょっとまって」
慌てて歩幅を揃えて、私の隣に立つ日菜。目を向けたりはしない。隣にいることは、わかっているから。
「ここから家まで、いくつか公園があったでしょう。一つ一つ見ていきましょうか」
目も合わせず声に出した私の言葉に、日菜の表情が明るくなるのがなんとなくわかる。昔からわかっている。まるで子犬のような表情を見せるのだ。こういうときは。
「うん!」
日菜が返事をして、私の右手を強く握った。まだまだ長くなりそうな帰り道を、二人で歩いていく。