北極にペンギンはいない。
後藤ひとりにもそのぐらいの知識はあった。
だから自分はペンギンではないと確信を持っていた。
自分の足音がいやに「キュ」だと「ギュ」だのという音を立て始めてても。
そもそも靴、履いてないし。
北極にペンギンはいない。
だから、北極にいる自分はペンギンではない。
完璧な理論だった。
自分の大きなくちばしを除けば。
北極に吹く風は冷たい。
北極にペンギンはいない。
北極にたどり着いたのではなく、行き着いてしまったのが正しい。
どの大陸も彼女には合わなかった。
南極に行った時はたしかに人間だったはずだが、どんな姿をしていたのか思い出せない。
孤独が自分で、自分が孤独で、姿はわからなくなった。
画面越しに見れば可愛いなと思う姿も、鏡がなければ見ることはできない。
水面を覗き込みたかったけれど、落ちたら死にそうなのでやめた。
ペンギンって泳げるっけ。飛べないだけ?
冷たさにやられた彼女の脳はすべてを躊躇している。
北極にペンギンはいない。
南極大陸を横断した時には見たはずだが、なぜか記憶がない。
陸地があるのが悪いと、そう思った記憶しかない。
北極には陸地がない。だからうまくやっていける気がした。
もしかしたら、同じように陸地がだめな誰かがいて、そこで共感してもらえるかもしれない。
温かいコーヒーを分けてもらえるかもしれない。
そう思ったが、北極には誰もいなかった。
そして自分はペンギンになった。
後藤ひとりは泣きたくなった。
北極を歩きながら、生き延びる道を探す。
北極にペンギンはいない。
ホッキョクグマは遠くから見た。
明らかになにかを食べていたので、怖くなって逃げた。
おそらくペンギンは餌の立場だろう。
常に後藤ひとりは食われる側の立場である。
ギターヒーローのチャンネルの動画を更新していないことに気がつく。
今の姿で動画を投稿すればバズるんじゃないか?
そのためには日本に帰らなければいけない。
どれぐらいの距離泳げばいいのか、後藤ひとりには想像がつかない。
家から高校よりは近いかな、と後藤ひとりは考える。
北極にペンギンはいない。
そう考えると、ここから配信したほうがウケがいいかもしれない。
スマートフォンぐらい持ってくればよかったが、きっとペンギンになる間に落としてしまった。
そのへんに落ちてないかと思ったけど、ピック以外何も見つけられなかった。
ピックを拾うことはできなかったので、そのままにしておいた。
とりあえず家に帰ろうとした。
どちらが北かわからない。
二度ほど迷って、食われかけた。
後藤ひとりは疲れ果てた。
どこにも辿り着けそうにない。
バランスを崩して転ぶ。
氷の冷たさが全身に伝わる。
どこからともなく悪意のこもった声が聞こえる。
北極にペンギンはいない。
北極にペンギンはいない。
北極にペンギンはいない。
北極にペンギンはいない。
「いるよ!」
「ここにいるよ!」
そう叫んでみたつもりだったが、後藤ひとりはそもそも叫び方を知らなかった。
後藤ひとりが人生で叫んだことはなかった。
それに、ペンギンになってしまった今、喉からは「グォー」とか「キュー」といった音しかしなかった。
もし周りに他のペンギンがいたら、いるよ、と共鳴してくれたのだろうかと彼女は思う。
周りに他のペンギンがいたら、彼女は叫べなかっただろうけれど。
彼女は涙をためながら、ここにギターがあればいいのに、と思った。
あと、アンプとスピーカーと電源。今までで一番いいフレーズが弾けたかもしれない。
ペンギンも悲しくなると泣くらしい、と後藤ひとりは初めて知った。
しかし、ギターがあっても、弾くことは叶わない。
なぜならペンギンには手がないから。
足は四本あるので、足で弾けるようになっておけばよかったのかもしれない。
(今の私って存在意義なくない?)
冷たい風にさらされながら、後藤ひとりはそう思う。
北極にペンギンはいない。
誰も助けてくれなかった。
立ち上がる元気すらなかった。
(元からないのか)
そして目を閉じる。
「ひとりちゃん、ひとりちゃん」
目を覚ますと、暖かな布団の中で後藤ひとりは人間になっていた。
毛布には少し暑い朝の太陽が、自分の体を照らしている。
母親の優しい声を聞いて、汗ばんだ体の輪郭が意識を縁取る。
涙が頬を伝って、彼女は口を開いた。
「北極にペンギンはいるんだ……」
「いないわよ?」
母親はそういって、それから「早く起きないと遅刻するわよ」と言い残し、部屋を出ていった。
「いないのか」
体を起こしながら、部屋の隅でいつも通りに笑っている黒いギターを見つめる。
早くバイト行けよ。そう笑っている気がする。
「いないかも……」
後藤ひとりの軸はブレる。
着替えて、顔を洗い、朝食を食べる。
北極にペンギンはいない。
ギターケースを背負って家を出る。
北極にペンギンはいない。
後藤ひとりは繰り返した。