いつからか波の音をきくようになった。
どんな季節にいようと、夜になると、ざん、ざざん、と、目を閉じている私の鼓膜に響いてくるのだった。
鼓膜の奥でなる音は、眼の前でなる音とは違う仕組みで鳴っているらしい。今でも、野営のための炎が弾けるときの音に重ねて、波の音が聞こえていた。消えてしまうのではないかと炎に手を伸ばした私を、フェリクスの手が遮る。
「何をやっている!」
彼の鋭い声に、ゆっくりと我に戻っていく。ゆっくりと顔を上げると鋭かった彼の表情がゆっくりと歪んでいくのが見えて、ああ、またか、と思ってしまう。こんなに心配をかけるような人間ではなかったはずだ、と思いながら、私は声を出す。
「消えそうだったから」
「何が?」
フェリクスの声に同調するかのように、炎は煤をうっすらと広げながらその勢いをやめない。熱が遠ざかり、近づいてくるのを温度で理解しながら、私はこれに騙されたのだということがわかった。
「海の音がしたの」
私がそう言って、フェリクスは剣の手当を止めたままの手をこわばらせた。炎を反射する鉄が遮られていくのが、私の目にうつった。青く揺らめいていた熱が、波なのかもわからないというのに、音だけはいつまでも鳴り続けているのだった。
故郷は北国だった。海は見えなかったはずだ。森には慣れていたはずだ。親しんでいたかはわからないが、しかし、あの静かに揺らめく木々の音は体の奥に染み込んでいて、だから夜を過ごすことに恐れはなかった。フェリクスについて行くと決めて、一緒に旅を始めたころはそうだったはずだ。しかし今では、夜はすっかり想像上の海に支配されている。
私が海を本当に見たのは一度だけだ。
まだ私たちが学園にいたころ、一度だけ海へ行った。泳いだり、貝殻を拾ったりといった、海らしいことはなにもしなかった。その代わり、私達は戦っていた。戦ってばかりだった頃のことだ。今でも傭兵として日々を暮らしているはずなのに、あの頃のほうが戦っていた、と思うのは、もう今では殺しも日々の糧の一部になって、曖昧な境界が生まれてしまったからだろうか。
その日は、戦いが終わり日が暮れてから、用事を済ませる同行者を待ちつつ、海を眺めていた記憶がある。ざん、ざざん、と鳴く海から波がやってくるのをただながめていた。本当にそう鳴いていたかはたしかではない。ただ、今木々の中で今わたしが聞こえる音を辿っていくと、その海が思い出されるというだけの話だ。
あのとき、貝殻でも拾っておけばよかったのかもしれない、と思う。おおかた捨ててしまうだろうが、今になって少年のように波の音を創造するようなことはなかったのではないか。波の音が聞こえるようになってから、そういう後悔がうっすらと膜のようにあって、波の音が聞こえるとき、その感情も一緒に震えることがある。
そのときフェリクスはいただろうか。隣にいたのは誰だったのだろうか。おぼろげに浮かぶ顔のどれもが、正しいようにも間違っているようにも思える。ただ、遠くに来たということだけが、確かだった。
遠くに来た。離れている。どちらが正しいのかはわからないままだ。
体をつなげるうちに、望んでもいないはずなのに、フェリクスの動きはなめらかになっていた。
彼も気づいていたはずだ。
気づいていたはずだが、彼はその頃からいつも瞳を閉じていた。
初めて彼が激情の末に私を組み敷いたときは、彼は目を開けていたはずだった。私がゆっくりと目を閉じていくと、細められた視界の先で彼がくやしさとかなしさを混ぜ合わせたような色になっていったのを覚えている。私が引き込んだとは思っていないが、あのときの色に私が混じっていないとも言い切れない。
あの森の暗さを思い出す。投げ出された指先には湿った土が触れていた。彼の髪の毛の向こうには暗い空が木々に切り取られて歪な顔をしていた。
始まりの感情こそ激しさを表していたけれど、それさえ散ってしまえば二人の間にあるのは作業でしかなった。行動には慣れていき、所作はなめらかになる。少しずつ摩擦が消えていくと、より一層互いは離れていく。
それは悲しくはなかったはずなのだが、私は声を上げてしまった。
「フェリクス」
わたしがそう問いかけると、彼の目は開いた。日々の目をした彼がなにかを私に確かめていたけれど、私はその声を聴くことができなかった。
彼は大丈夫なのだとわかった。
その日から、少しずつ波が鳴り始めた。
今でも、わたしをさらうことはなく、しかし確かに近づいている。
「お前に必要なのは、壁だ」
フェリクスはそう言った。この人の言葉はいつも低く鋭かったが、これほどまでに苦いのは久しぶりだった。目元を歪めて話す彼の声を最後に聞いたのは、あの戦争の最中だったか、それよりももう少し前のことだったのか、私には思い出すことができない。
波のことを話した二日後、私たちは報酬を受け取り街を移動しようとしていた。与えられた報酬ではしばらくの暮らしができそうだったが、もうこの土地で仕事を続けることは難しそうだった。街の自衛団に目をつけられていた。吹っ掛けることもなく仕事をした私達に多く報酬を払った老人を見捨てていくのは心苦しいが、政治をする気は私達にはなかった。
「そろそろ潮時だ」
先に荷物をまとめた彼は、着替えをまとめる私に向かって苦々しく呟いた。私は様々なものを思い出していた。下卑た目線、失われていく行き先、倫理。
「出ていけということ?」
最後の一つを終い終えてから、私はゆっくりと立ち上がっていった。少しの怒りも言葉に出てこなかった。
村で下から二番目に安い宿では、ベッドを置けばあとは少しの踏み場しか用意されていない。二人の間には仕事の道具だけが転がっている。足に力を入れると微かに木が鳴くが、その音の弱さが私の虚勢を裏付けていた。力んだりするものではないと昔グレンに教わったときのことを思い出した。
「そういう選択肢もお前にはある」
「本当に言ってるの?」
私がそう言うと、彼は目を伏せた。もう互いに、誰が何を失ったのかには気づいていた。
私が追いかけたのは彼のこぼれた心だった。
彼が許したのは私の空白だった。
私の空洞になった心臓に、海は入り込んでいたのだ。彼の魂を掬うことはできなかった。何をしても埋められないと気づいた私の心臓が、諦めて波をひいたのだ。
私は急に耐えられなくなって、ベッドに腰を落とした。安物のスプリングが鳴って、それが妙な色気を発していることに気づいて笑ってしまった。
「もういい」
狂ったつもりではなかった。そう告げる前に、彼の瞳の切実さに言葉は追いやられてしまった。かわりになる言葉を探そうとしても、本心ばかりが浮かんでいく。
「置いていってくれていいから」
私の言葉を無視して、彼は大股で私へと近づいてくる。倹約しようと安い宿を取るのではなかったと思った。もう三歩でも離れていれば、彼を止める言葉が見つかったはずなのに。
「もういい」
フェリクスはそういうと、私を抱きかかえるように倒した。彼の硬いからだが私に触れて、波の音が乱れた。ざん、ざん、と聞こえた海の音が、彼の呼吸の音と重なる。波をまだ探す私の目を、隠すかのように彼の手がかざされて、初めて口づけをされる。
口を離して、いつもより性急に彼とつながった。彼の熱になれるころには、あの海の音は遠ざかっていた。耳を傾けてみても、波の一番高い音が聞こえるかどうか、というような感じだったし、そうやって私が遠くを探すたびに、フェリクスの手が私の体に強く触れたから、音を探し続けることはできなかった。
「もういいんだ」
そういわれて、ようやく、いいのか、と思った。それは納得でも諦観でもなく、ただ引いていく波がさらっていく貝殻のように、私の中に引き込まれる。そうなのか、と思った。もういいのか。
流れる波を手で塞ぐような、そういう無謀さで彼は揺れる。私も同じように揺れていたいのに、私が向かうと引き寄せられ、近寄れば彼に押しのけられる。二人で繋がり切ることもできず、留まり続ける私たちを、ただ波だけが見つめている。
フェリクスの吐息が私の体にかかる。目をつむり、口をふさぎ、体を揺らす彼の額の汗を拭うと、彼はゆっくりと目を開いた。この瞳に私が写っているということが、どこか本当ではないように思えて、私は口を開く。
「ねえ、フェリクス」
「なんだ」
歯を食いしばって答える彼に、私は笑ってみせる。
「海が」
揺れる体が重なる瞬間にすいこまれた言葉を、もう一回選ぶ。
「海が、見たいわ」
私の言葉に、彼は頷く。また彼の体が動く。彼の熱をすり込まれるたびに、私の体の芯の熱は少しずつ引いていく。
夜は更ける。波は遠ざかっていく。