その星の地に足を着けたとき、彼女はそこで足を止めなければならないことが決まっていた。通り過ぎることが出来ないのは、どこへも行けないからだ。
それはアビゲイル・ウィリアムズが長い長い――そして終わることのない星々をめぐる旅の途中で、1104番目に訪れた惑星だった。それはなんでもない日々の生活のように、なんでもなく通り過ぎていくためにあるための星のはずだった。
彼女の宇宙の旅の足となる『船』は、一つ前の星を出発してからというものの、ひどく不安定な状態にあった。
「光速惑星間移動の際の時間計算が、うまく動いていないみたいだ。もちろんただの船としては動作するが、これを直さない限り他の宇宙とのチャンネル接続が行われる前の段階で我々は足止めを食らうことになる。要は我々はこの船の中でじっとすることしかできないというわけだ」
星にたどり着く少し前に、叔父はアビゲイルにそう説明した。ひどく疲れ切った顔が説明することの多くはアビゲイルにはわからなかったが、しかし彼女にも『船』が今までにない不安定な状態にあることはわかっていた。自分の存在証明が揺らぎ続けていることや、ひどく呼吸がしづらいような気がすることに気がついていて、叔父を問いただそうとしていたころのことだった。
「停止していない状態で検査をするすべはないが、このままの方向で進めば時空計算なしの位置計算だけで辿り着ける距離に惑星が来る。そこに船を止めて、一度様子を見てみよう」
そうしてやってきたのが、1104番目の星なのである。降り立つことのないはずの星は、あたかも運命かのような顔をして、彼女たちの前にやってきた。
彼女は星を去るたびに、その星に自分だけの名前をつけることにしていた。
『船』には未来から過去までの本や音楽や詩があって、彼女は星を飛びだったときから、次の宇宙までの長い長い時間をかけて、たくさんの言葉の中から素敵なピッタリの言葉を探す。
だから彼女が降り立ったとき、この星にはまだ名前がなかった。
『船』の本当の名前をアビゲイルは知らない。あの日飛びだつことを決めた彼女を受け入れたそれは、今や彼女の家のようなものだった。そこで生まれ育った子どもたちが、家に名前をつけないように、それはただ『船』としてそこにある。
それ以外の足を持たない彼女にとって、今まで体験したことのないその『船』の不調は、親しい人の病気のような不安を彼女に覚えさせた。彼女の叔父は「旅をしていると稀にあることだ」と、良い大人のようにアビゲイルを宥めた。その言葉を信頼する理由は十分に揃っていたというのに、彼女はどうしても逸る気持ちを抑えることができなかった。落ち着かない彼女の態度を見かねた叔父は『船』が星につくと、「散歩でもして来るといい」と、『船』のメンテナンスを手伝おうとしたアビゲイルを半ば強制的に追い出した。結果として、彼女は降り立つどころか、立ち止まることもなかったであろう星に立つことになったのだ。
「酷いわ。私に手伝わせてくれたっていいのに!確かに難しいことはわからないかもしれないけれど、でも例えば荷物を持つとか、なにか覚えておくだとか、そういうことは渡しても出来るはずよ。何も追い出すことないのに!」
苛立ちを隠さずに、地面を蹴るように歩いていく。拗ねるなんて真似をしてみせたのは、随分と久しぶりだということに気がつくと、彼女の苛立ちは霧散して、もっと曖昧な物思いに落ちていった。大人になるための時間を与えられない人間は、子どものふりをすることができない。昔周りの大人たちが、時折うまく子どもになっていたことを思い出すと、彼女はそこにきっと辿り着けないであろう自分のことを寂しく思う。寂しさを紛らわすために、大人のように考えてみたりもする。
(でも、叔父様はきっとわたしのことを思ってくれたんだわ。素直にありがとうが言えないのは、だめね)
そうやってずいぶんと上手になった反省を終えたころには、彼女はその星の円周にして4分の1も歩ききっていた。
ひどく小さな惑星だった。この星がアビゲイルが1103番目に訪れた恒星《信号機》――赤と青の光を交互に放つ、とても美しい星だった――の惑星であることは、彼女も降り立つ前から知っていた。《信号機》の惑星の中でも一番小さい惑星で、地図の上では目を凝らしていなければ見落としてしまいそうだった。
「まるで星のかけらが落っこちてしまったようだと思ったけれど、本当にそうみたいね……」
彼女が――正確には彼女ではないのかもしれないが――昔暮らした星は、ひどくささやかな大きさをしていたが、それよりもこの星はずっとずっと小さい。軌道が確認出来なければ、少し大きな隕石か何かだと勘違いしてしまいそうだった。それでもその星は確かに軌道を回る。恒星のまばゆい光がらずっと遠いところで、ただただ回り続けている。
その事実を地図に向かって確かめていたときのことを思い出しながら、彼女は星を歩く。熱源よりもずっと遠くにあるものだから、星の空気は氷のように冷たい。その殺風景な世界と、どこまでもただただ冷たい空気だけがあるその場所は、冬の初めのようだった。冬が来ると、大人も子供も揃ってみんな、どこか寂しそうな表情をした。子どもたちは初めのころだけで、雪が降るとそんなことも忘れ、ただただ遊び回っていたけれど。
「こっそり隠れて、ラヴィニアと雪でお人形を作ったりしたわ。見つからないようにおいておいたのに、次の日に雨が降ってしまって……」
その寂しさと、今この星は同じ呼吸をしていた。だから、彼女はその時の胸の痛みを思い出して、足を止めてしまった。止めてしまったらそれが最後で、悲しみに落ちていくことしかできない。辺りを見渡しても、彼女の慰みになるようなものはなかった。
寂しさは底のような場所だ。一度覚えてしまえば、他のどこかにいけるまでは、次の朝が来るまでは、ずっと寂しいままだ。それを彼女は長い旅の中で理解していたから、寂しさから逃げ出そうとはしなかった。ただ、少しの慰みがほしかった。
(あの星の光が、見える場所まで行きましょう。そうすれば、少しは安らげるはず)
たとえどれだけ遠くても、確かに星の光は伝わる。この星のどこかに、あの光は届いているはずだった。それを目指して、ただアビゲイルは歩きはじめる。冷たくなった空気は乾いた季節を思い出す。海は冷たく荒れ、黙り込む季節の中で、それでもあの故郷にはどこか暖かさがあった。ラヴィニアと家の外で別れて、一日分の寂しさを抱えながら、家の暖かい暖炉を目指して歩いた季節だった。ひどく曖昧な記憶の中で、肌触りだけになってしまったその記憶は、感傷だけを連れてくる。
彼女に寄り添う記憶の数々が、今は風のように彼女に吹き付けては、心の底まで冷たくしていく。暖めてくれるはずの思い出も、今は冷たいまま。今彼女に必要なのは、ただただ光だけだ。
下を向いてただ歩くと、少しずつ足跡が広くなっていくのがわかる。逃げ出すように進むその足は、故郷にいたころの自分よりずっと大きく、どこまででも行けた。
(今のこの足なら、あの街を抜け出せたのかしら。今の私なら、どこかへ行けるのかしら)
そうやって俯いていたから、彼女は最初、その光に気がつけなかった。
「あ――」
目を向けたその先には、赤い光がただあった。それは彼女を照らしも暖めもせず、ただそこにあった。まるで、なんの慰めにもならないそれは、ただ向こう側にあって、それだけで。だから、彼女は気がついてしまった。
(この星には、朝が来ないのね)
星には朝が来ない。ただ光が見えるか、見えないか。それだけだった。太陽の光が変えるための朝はない。
その事実を慰めるかのように、恒星の赤はただただ光り続けていた。その光が見えなくなるまで、彼女はそこに立ち尽くしていた。
やがて飛びだった彼女は、次の宇宙までの長い長い間をかけて、星の名前をつける。忘れたことを思い出すための名前が、また一つ積み重なっていく。