跳ね上がるように起き上がると、汗にまみれた体に風が吹き抜ける。深夜の温度ですら冷やせないほどに熱くなった体を、少し荒くなった呼吸で整える。二段ベッドの下から無理矢理覗いた時計で三時を確かめて、安堵のため息をこぼす。
夢だ。夢だった。
夜は箱庭にも等しく訪れて、まだ暴れたままの心臓の横で眠っている。まだ暗闇に慣れない目の先ではベッドフレームの輪郭ばかり見えて、それがどうにも落ち着かない。狭い部屋のほうが気に合うと言ったのは強がりではないけれど、こういうときだけは一人部屋が懐かしくなる。あの殺風景な白さが懐かしい。あの部屋なら、この心臓の音が聞こえる心配だっていらないだろう。紗枝の夢を見て心臓を鳴らしているなんて、二段ベッドの上の人間に知られたくはない。
夢の中で紗枝は満面の笑みを浮かべていた。今まで見たことのないぐらい。貼り付けられた社交のためのそれでも、愛嬌の良さから生まれる自然な笑いでもなく、とにかく大きく笑っていた。右手で立てた中指を、あたしに向けては笑っていた。
暗闇に慣れた目の奥に映るのはやはり目の前の景色だけだ。逃げ場を探して目を閉じても、無力な思考は塗りつぶされ、幻想だけで埋め尽くされる。思い出しているのはあの中指か、それともあの笑みなのか。妄想ですら焦点のブレるこの精神じゃ、とても眠りにつくことなど出来ないだろう。目を閉じることすら諦めて、音を立てずにベッドを抜ける。喉を潤すために開いた扉のそばで、そっと止まって耳を済ませた。紗枝の息の音がしていることがわかって、ようやく部屋の外に出ることが出来た。
冷たい水が体を通り抜けていく間も、ずっと夢のことを考えている。物好きばかりのこの寮でも、深夜出歩くやつはいない。ただ静かに空気だけが張り詰めるこの廊下の奥で、冷水機の音で空気を破っている。
もう選んだのかこうなったのかわからない粗雑さをそのままにしているあたしと違って、紗枝は品をずっと残している。唯一の罵倒は元婚約者に向けられたものだけだ。その紗枝の立てられた中指が夢だというのにいつまでも張り付いてくる。
深層心理を漁ってみればろくなことにはならないことはわかっていた。立てられた中指の意味よりも、あの笑顔のほうが気にかかる。見たことのない笑みだった。紗枝がもし中指を立てられるぐらい自由になれたら、ああいうふうに笑うのだろうかと思う。
冷たい水で冷やした体を壁にもたらせながら、さっき色褪せて、言葉の影のほうが強くなった夢を振り返る。今頃目を閉じて静かに眠っているであろう彼女の、あの強烈な笑顔を思い出している。
いくら底の見えない奴だろうと、紗枝だって人間だ。起きているとき目を開いているように、眠っているときは目を閉じているはずだ。そうやって言い聞かせながら記憶の海を潜っても、瞳を閉じた紗枝の姿は蘇らない。
そうして初めて、眠る紗枝を見たことがないと気がつく。二段ベッドの階段はバリケードのようで、上ろうと思ったこともなかった。記憶の中の紗枝の姿から上手につなげようとしても、夢で見た紗枝の姿ばかりちらつく。
頭を振って逃げ出して、冷えた廊下を戻る。静かに部屋に入っても、彼女の呼吸は同じように続いているらしい。夢の内容を振り払って横になろうと薄い毛布をめくった途端に、あの中指が蘇る。
まだ耳をすませば彼女の息は聞こえていて、よく眠っているようだ。少しだけ、その顔を拝んでもバチは当たらないだろう。もしかしたら、あの夢は何かの暗示かもしれない。彼女が無事であることを確かめて、それで戻る。それだけだ。そう言い聞かして、手放した毛布の代わりにそっと二段ベッドの階段の手すりを掴む。
本音を言えば、少しだけ苛立っていた。夢の中の出来事だというのに、どこか憤っている自分がいた。中指を立てられたことではなく、あの彼女の笑顔に。ああいう顔ができるなんて、あたしは知らなかった。音がしないように小さく踏みしめながら、彼女の寝顔を拝見する。
そっと顔を出して、彼女の表情を見つめようとしても、廊下の月明かりに慣れてしまった目では彼女の表情までは見つめられない。慣れていくのを待ちながら、少しずつ顔を近づけていくあたしの顔に、突然右腕が飛び出して頬をなぞった。
「何してるの」
届いた声に、転げ落ちなかった自分を褒めたい。踏み外しかけた足をどうにか腕だけで支えながら、声にならない声を上げかける。
「そこまで驚かなくてもいいじゃない」
あたしを驚かせた張本人は、体を起こしながらそう言って笑った。思わず反射的に叫びそうになるあたしの前に、右手の人差し指が差し出される。夢のそれと重なってさらに心臓の跳ねる私をおいて、紗枝はため息をつく。
「深夜よ。大体、玲が急に登ってきたのが原因よ。不審者かと思ったじゃない」
言われてみればもっともな主張に、あたしは体制を立て直しながら口を閉じるしかない。どこか釈然としない気持ちを抱えたまま梯子の上で固まるあたしが不憫だったのか、紗枝はそっと毛布から出ると、もう一人座れるようにと端に詰めた。
「とりあえず、上がる?」
そう言われて横を叩かれては、従うしかない。初めて登り終えた梯子からゆっくりと二階へと移動すると、紗枝の匂いが少しだけ強くなってどこか恥ずかしくなる。夜を怖がる子供が母親の布団で眠るときのような、安心と恥じらいの混ざった感情が湧き上がる。
あたしが体を紗枝の隣に収めるまでの間、紗枝はあたしの顔をよく見つめていた。情けない自分を晒しているとわかっていても、まだ高く鳴り響く心臓の前で上手に取り繕う方法がわからない。
どこか認められなかったけれど、夢の内容に散々揺さぶられていたのだろう。
「何があったの?」
だから、紗枝のその問に、そのまますべてぶちまけてしまった。言葉にしてみればなんてことない馬鹿な話なのだけど、それでも自分には衝撃だった。言葉にしていくことで、ようやくそれがわかる。
あたしの話を黙って聞いていた紗枝から、説明を終えて黙り込むあたしに、少しいつもより柔らかい声が投げられる。こういうときふと、自分と彼女の間のものが見えて恥ずかしくなる。
「だから、見てみようって思ったわけね」
「そんなことないってわかってるはずなんだけどな。眠り邪魔しちまって、悪かった」
あたしがそうやって謝ろうとすると、紗枝は首を軽く振る。
「大丈夫。元々、眠り浅い方だから」
「そうなのか」
知らなかった事実にどこか驚いているあたしの顔を、紗枝は覗き込む。近づいたその瞳に怯んだあたしに追い打ちをかけるかのように、紗枝は口を開く。
「それで、何がショックだったの?」
そう問う紗枝の言葉に、あたしは怯む。中指を立てられた夢を見たことが問題ではないのだと、そう気づかれている。
あのきれいな指先が品のないメッセージをあたしに投げつけるよりも、苦しかったことがある。
「あたし、お前があんなに笑ってるの、見たことないぜ」
それが、結局一番悲しかった。あたしに中指を立てられる自由な彼女の笑顔が、今までで一番きれいだったことが悲しかった。未来を掴んだように見えて、足枷だらけで進んでいるあたしじゃ、あんなに自由にさせられないのかもしれないと。
そんなどうにもならないことを考えるあたしの横で、紗枝のため息が聞こえた。
「知らないなら、それでいいけど」
あたしに聞こえるように嫌味を言う紗枝の顔は、珍しく拗ねているように映る。言葉の真意を確かめる前に、紗枝の体が傾いてその重さが肩へと伝わる。この狭いベッドの上では身じろぎも上手にできないからそれをただ受け止めることしかできない。
「私、結構笑ってると思うんだけどなー」
その言葉の裏には、遠慮のない不満が見える。どこに不満を持ったのか、結局理解できないまま、でも自分の何処かではわかっているような、そんな気もしている。
「知ってるよ」
結局、そんなことしか答えられなかった。夢の景色が薄くなっていく中で、もう一度あの中指と笑顔を思い出そうとする。肩の重みが少しずつ本物になっていくのを感じながら、いつかあの笑顔を見れますようにと思った。朝になれば、また全て忘れているのだろう。