気がつけば、もう夜になっていた。
雑居ビルのエレベーターから吐き出されるように歩道に出ると、太陽はもういなくなってしまった。少しばかりの春をくれたそれが隠れてしまえば、まだ残ったままの冬が主張しだす。東京の三月はまだ冬だ。凍えるような冷たさはいなくなったとしても、まだどこかに凍ったままの何かが確かにあるのだ。決して見つけられないそれを、もっと大きな暖かさが包み込んで溶かしてなかったことにするまで、本当の春はやってこない。そんな気がする。
小さく息を吐くと、ほんの少しだけ息が白くなった。昨日までの陽気は追いやられて冷たい風が大きな顔をすることは、昨日の夜からスマートフォンの天気予報で知っていた。知っていても耐えられないことはある。
「……さむ」
声に出すと、何故か向かってくる風が強くなったような気がした。外気に晒された肌が痛い。気休めにコートの前を合わせるように強く握りしめて歩き出す。
地下鉄入り口までの歩道を進んでいく。周りの人達は、どこに向かっていくんだろうか。背比べするビル同士の中で、一際大きなビルに貼られた広告だけが明るい。やっぱりこの街は苦手だ。そう思いながら帰る足を早めた。
▲
私と佐久間まゆのルームシェア(・・・・・・)が始まってから、もうすぐで一年になる。リビングに置かれたホワイトボードは少しだけ汚れが落ちづらくなってしまっていて、まゆの最近の悩みになっているようだ。私の部屋の厚い技術書はついに本棚に入り切らなくなって、本棚の上に無造作に積み上げられるようになってしまっていた。まゆには危ないですと不評だけど、まゆが載ったファッション雑誌も一緒に隠してることはバレていないはずだ。多分。
一年も経てば、ただのルームメイトとか、ただの友達というにはひどく近い距離になってしまった。交わされた「おやすみ」と「おはよう」は確かに二人のために積み重なっている。二できるだけ一緒の食卓につこうとするから、まゆが好きな魚の種類を大体把握していたし、二週間に一回は映画を一緒に見ようと約束していたから、まゆの好きな俳優の名前を10人はそらで言えるようになっていた。クリスマスパーティーのケーキ作りだって、正月の初詣だって、一緒にやったのだ。そうやって特別と普通の時間を積み重ねた関係は、他の誰とのものとも違う。
一般的なルームメイトとの距離感を私は知らない。どれぐらいの距離であれば正しいのかは、正直よくわからない。もしかしたら、互いに踏み込みすぎてしまっているのかもしれない。ただ、今二人で暮らしているこの家は心地いい。言葉がなくても伝わることが、少しずつ増えてきた。
二人の生活を振り返るとき、与えられてばかりだ、といつも思う。泉が徹夜をしてることを見つけたときにする怒った表情だって、遅く帰ったときに迎えてくれる、少しだけ眠そうな安心した表情だって。数え切れないぐらいいろんなものを貰っている。その一つ一つを丁寧に大切に思うときだけ、なんとなく、許されているような気がした。
深夜まで続く作業の手が止まることが多くなったのは、気のせいじゃないだろう。ふと気がつくと、スマートフォンに入った二人で作った料理の写真を眺めていることもある。一枚一枚をなんとなく分類して整理するのは、何故かやめられなかった。料理の写真、出かけたときの風景や、二人で一緒に撮ったもの。こっそり撮ったまゆの寝顔は、見つからないようにスクリーンショットのフォルダに紛れさせている。机に突っ伏して眠る彼女の姿が小さい画面に広がるたびに、どこかが小さく棘を刺されたように痛むのだった。
△
「はい、これ。泉ちゃんに」
夕食後の皿洗いを済ませて部屋に戻ろうとする私を、まゆが呼び止めた。
大学が春休みに入り、少しだけ二人でいる時間が増えてきていたときのことだった。私もまゆも毎日ゆっくりできるというわけではなかったけど、それでも生活の半分以上を埋めていた学生としての活動がなくなると、それなりに余裕ができていた。一月には二人の勉強道具で埋まっていたテレビの前のテーブルも、小さな花瓶と、まゆが貰ってきたガラスの熊の置物と、まゆから借りている単行本が並んでいた。
その日も二人で映画を見る約束をしていたから、十六時には帰宅して、まゆと一緒に夕飯を作った。まだまだ冬が厳しかったから、メニューはシチューにしようとまゆが決めた。まゆから頼まれた野菜とお肉とを買って帰るのは、慣れたことだ。買い物だけが私の仕事じゃない。まゆによれば私は、テキパキとよく動いてくれる、とても助かる、らしい。
そうして料理をして、一緒に席についた。食べながら、猫の話をした。まゆはどうやら猫を飼いたいらしい。元はまゆが借りた部屋なのだからまゆに決定権があるよ、と言うと、そうかもしれませんけど泉ちゃんと一緒に決めたいんです、と怒った顔で言われた。皿洗いは当番制で、今日は私の番だった。そうして少し冷たい仕事を終わらせた私に、まゆはなにかを手渡した。
はたしてなんだろうと思いながら、受け取ったそれを見ると、可愛らしい包装に包まれたお菓子のようだった。透明な包みの先にトリュフが見えて、今日が二月十四日だったことを思い出した。バレンタインデーだ。
「今日、バレンタインか……」
完全に忘れていたことにショックを受ける。一週間前には思い出していたはずなのに。テレビで見た料理番組のチョコレート菓子特集の映像が脳にちらつく。よく考えれば、今日行ったスーパーでもうるさいほどチョコレートの宣伝をしていたではないか。なんで思い出せなかったのだろう。
半放心状態になった私を見て、まゆが首を傾げた。
「どうかしましたかぁ?もしかして、チョコ苦手だったり……?」
「違う違う、チョコは好きだよ。まゆから貰ったのならなおさら」
不安そうな表情になったまゆに慌てて否定する。ずいぶんと恥ずかしいことを余計に口にしたような気がした。
「よかった」
返事を聞いたまゆは、不安そうな表情を柔らかく崩した。こういうときのまゆの目が好きだった。受け取ったチョコレートの包装を指で撫でる。
「本当にありがとう。……ごめんね」
最後の言葉にまゆはまた不思議そうにした。
「どうしたんですかぁ?」
「いや、バレンタインすっかり忘れてて……チョコとか何も用意できなかったから」
ごめんね。そう付け加えると、まゆは笑った。
「なら、一ヶ月後楽しみにしてますね」
「うん、そうしてください……ありがとね」
絶対に覚えていようと決意しながら、手元のチョコレートを見る。クッキーとトリュフがそれぞれ二つずつ可愛らしくハートの形で作られていて、近づけてよく見ながらまゆに聞く。
「すごいね、いつ作ったの?」
たしか昨日まではなかったはずだ。そう思っていると、まゆは優しく笑いかけた。
「今日、泉ちゃんが帰ってくる前に。事務所のみんなの分は、明日渡そうと思って冷蔵庫に入ってます。食べちゃだめですよ」
「そんなことしないよ。もう貰ってるんだし」
一体自分はどんな人間だと思われているのか。小さくため息をつく。深夜にコーヒーを淹れているのを何度も目撃されているとなれば、仕方のないことなのかもしれない。
苦笑いをする私に向かって、まゆは少しだけ距離をつめた。ちょっとの上目遣い。この前雑誌で見た姿と同じだ。
「泉ちゃんのだけ、ちょっと特別なんですよ」
そういうと、内緒ですよ、とまゆは人差し指を立てて口に当てた。ひどく可愛らしい。
気づくと、少しだけ握りしめる力を強くしていた。割ってしまうかもしれない。危ない。
何も言えない私に、まゆはもう一度笑いかけた。
「いつもお世話になってますから」
「そうかな」
「そうですよ」
それなら、私はまゆにとっても大きな特別を用意してあげなきゃ。あまりにも気障らしい言葉は飲み込んで、代わりに当たり障りのない言葉をかける。
「ありがとう。さっそくだけど、貰っちゃっていい?コーヒー淹れるね」
「もちろん。そのために作ったんですから」
「ありがとう。まゆもコーヒー飲む?」
「ミルクがあるなら、淹れてほしいです」
「わかった」
コーヒーを淹れるための準備をする為にキッチンに戻る。途中でふと思ったことを口にした。
「作ってるところ、見たかったな」
「ダメですよぉ、こういうのは秘密にするのが鍵なんですから」
「そっか」
一体それが何を開けるための鍵なのかは、なぜか聞けなかった。
△
それが一ヶ月前で、つまり今日はホワイトデーだった。ちゃんとそれを覚えていて――スマートフォンアプリのカレンダーで三回ぐらい通知した――、いつもより少し早めに家を出て、帰り道にプレゼントを買う予定だった。本当は外でディナーだとか、考えていたんだけど。
そうして雇用先の一つである桐生つかさのオフィスに向かって、彼女と日がくれるまで過ごした。新サービスの検討は、わかってはいたが穴だらけの設計だった。
思わぬ延長に思わず溜息をつくころには、太陽の光はもう見えなくなってしまっていた。
「思ったより時間かかっちゃったな。ごめん」
「いいよ、この分もタイムシートに書いとくから」
社内の小さなミーティングスペースには、二人が使った資料がちらばっていた。帰宅するために荷物をまとめながら、今日渡された要項を確認している。六十階建てのビルの二十五階のニ区画分のオフィスには、休日だからか二人しかいない。儲かってるんだな、と泉はなんとなく思った。
「じゃあ、また始まり次第チャット入れるから、確認しておいて」
「わかった」
返事をしながら、スマートフォンの電話を開く。春休みに入ってからは家にいることが多いから、メールじゃなくて電話にしてくれとまゆに頼まれたのだった。なんで電話なのかはわからないけど。
「ごめん、ちょっと電話していい?」
「いいけど」
「ありがと」
断りを入れてから通話ボタンを押す。単調な機械音が三回と半繰り返されたあと、まゆと繋がる。
『もしもし』
答えるまゆの声を聞くと、いつも少し安心する。繋がった先ではテレビの音が遠くに聞こえていて、どうやらキッチンに立っていることがわかる。
「泉です。今日帰るの七時半ぐらいになりそう」
『わかりましたぁ。気をつけて帰ってきてくださいね。夕ご飯食べましたか?』
「食べてないよ。もしかして私の分も作ってくれる?」
『そのつもりですよ。待ってますね』
「ありがとう、もし遅くなったら、食べちゃってていいから」
『そんな、待ちますよ』
「ありがとう、じゃあまた」
『はぁい』
耳から離して、赤くなった通話ボタンを押す。一分と四十五秒。並んだ通話履歴の番号を見ながら、電源ボタンを押す。片付けを再開しようとスマートフォンをテーブルに置くと、つかさがなんともいえない表情でこちらを見ていることに気づいた。つかさが口を開く。
「佐久間と同棲してんだっけ」
「ルームシェアね。してるよ」
「ふーん」
興味なさげな返事を流しながら、ラップトップの電源を外すために電源タップに近づいた。床に配置されたそれからケーブルを外そうとする。私が外すと同時に、つかさが声を出した。
「ま、恋人にうつつ抜かしすぎないようにな」
「は?」
つかさの言葉に思わず強く返事をする。外したケーブルを束ねることを忘れてしまった。
「今なんて言った?」
「だから恋人と仲良くやるのもいいけど、仕事もちゃんとしてくれよって」
「誰が」
「泉が」
「誰と」
「佐久間と」
「なんでそうなるの……」
呆れたような表情をしながら、ケーブルをまとめていく手を動かし始めた。またこの手の勘違いか。バッグにしまいながら、代わりにPCケースを取り出す。
「付き合ってないのか」
「ないよ。ルームシェアって言ったじゃん」
チャックを開けて、もうすでにスリープにしておいたラップトップを閉じてしまう。ケースにしまいながら、このあとの予定を考える。
「なんか電話の会話が恋人同士のそれだったけど」
「別に……。一緒に暮らしてるとなんとなく距離感が見えてこなくなるだけだよ。近いから。ただ何となくそう見えちゃってるだけ」
「ふぅん」
さっきよりも疑り深い同意の返事に微妙に苛立つ。冷静さの欠けた返事だとわかりながらも、思わず少し強い声を出してしまった。
「別にまゆと私は何もないから。ただルームシェアしてるってだけで。近いからそりゃ恋人みたいな行動はするかもしれないけど」
「誰に向かって言ってんだよ」
「つかさが変な疑いかけてくるからでしょ」
「疑いって……」
べつにそんな。つかさの言葉は聞き流した。自分の言葉を反芻していると、どこか裏切りの味が襲ってくる気がした。別になにも間違ったことをいってるわけじゃない。まゆがただ優しい女の子で、少し私に対する距離が近いだけだ。パーソナルスペースの問題。なにも間違ってない。裏切ってるとしたら、それは。
「とにかく。まゆだって困るだろうし、そういう噂広げるのやめてよね」
「いやべつに言いふらすつもりはねぇよ。別に佐久間は困らないような気がするんだけど……いや、いいや」
こんな話をしてないで、さっさと帰らないと。コートを急いで羽織ると、鞄を手に持ってスマートフォンを手に取る。
「じゃあ、また」
「おう」
画面をつけると、まゆから送られてきたメッセージがあった。どうやら夕食の写真らしい。なんだか詳細を開く気にはなれなくて、鞄の小さなポケットの中にしまい込んだ。
▲
駅の中に入ると、近くのデパートの地下に繋がっている階段の近くに、ホワイトデーの宣伝のパネルが並んでいる。いわゆる甘い物を扱っている店が集まって、ホワイトデーフェアをやっているらしかった。階段を降りていくと、色とりどりの鮮やかな店たちが立ち並んでいる。心なしかスーツ姿の背中が多いように見えた。
休日の出勤を終えて、疲れを見せながらもどこか楽しそうな表情を見せながら品定めをする彼らを横目に通り過ぎていく。父親か、あるいは夫か、あるいは恋人としての彼ら。穏やかな土曜の夕方のはずのそれが、今の自分にはなぜか息苦しかった。
洋菓子のコーナーをゆっくりと歩きながら、その実何も見えてはいなかった。可愛らしいそれらを眺めながら、頭ではぼんやりとまゆのことを考えている。
まゆと自分の関係が、どこか恋人らしいのは、正直なんとなくわかっていた。二人での空間がルームシェアした二人の空間というにはあまりにも優しかったのも気づいていた。つかさに過剰に否定してしまったのは、こころ当たりがあるがゆえの反応だ。
バレンタインのチョコレート。私の分だけは、少しだけ特別だとまゆは言っていた。それは本当に私に贈られるべきものだったのだろうか。他にもっと特別な人がいたのなら、こんなにもホワイトデーのお返しで悩まなくてよかったのかもしれない。しかし、なかった。浅ましいことをしたのを悔やんでいるのは事実だけれど、でも、本当になかったのだ。あの日、まゆが眠りについたあとに、なぜか気になって冷蔵庫を確認したとき、どれも同じような包装しかなかったのだ。泉ちゃんのだけ、というのは本当だった。
友人同士のチョコレートのやりとりを、本当は重く受け止める必要なんてないのはわかっている。なだの自意識過剰だと言われたら、そのとおりだと頷くしかない。でも、こうしてホワイトデー商品を買うたくさんの男たちを見ていると、どうしても考えてしまうのだ。「あのチョコレートを受け取るべきだったのは、本当は誰だったのか」と。
洋菓子コーナーを抜けて、和菓子店が周りに並びはじめた。これではいけないと思いながら、ふらふらともとの道へ戻る。あの特別なチョコレートを、本当にもらうべき人について考えている。
まゆは、とても可愛い女の子だ。きっといつか、優しい恋人ができて、その人に特別な贈り物をするのだろう。そんなことを、ずっとぼんやりと考えてきた。
二月十四日その日から、顔のないまゆの未来の恋人の場所を奪ってしまっているような気がしていた。見えない未来に罪を覚えるのは、愚かなことだとわかっていても。二人でのルームシェアが、まゆが『本当の』恋人と出会うのを妨げているんじゃないか。そんなふうに思えてしまって、私はまゆのためにもできるだけ早くあの部屋を出るべきなんじゃないか。そう思えてくる。
でも、二人での生活をやめて、その先に一体何が待っているのかを考えようとすると、泉の将来像は音も立てずにブラックアウトしてしまうのだ。捨てるにはあまりにも長すぎたし、価値がないと切り捨てるにはあまりにも濃すぎた。
バレンタインにチョコレートをもらって、ホワイトデーにお菓子を返す。それだけ。普通のこと。何か問題があるとするなら、それはどこかに特別を感じてしまう自分だ。
結局、何も買わなかった。買えなかった。
△
自宅最寄り駅のホームは、あまりにもいつも通りだった。人混みの中地下鉄のエレベーターを上り、改札を出る。見慣れた景色の中で、足取りはひどく重かった。
結局家を出たときと何ら変わらない格好で帰路につく。まゆに帰ると伝えた時間より随分と遅いものになってしまっていた。定期券のはいったスマートフォンケースを開いて、画面をつける。まゆから送られてきた夕食の画像がまだ光っている。返事を送らないといけない。そう頭では思いつつも、どうにも指が動かない。諦めて、スマートフォンカバーを閉じた。
タスクが重なって整理もできない。ため息をつきたいけど、足は勝手に動いていく。地上に出るためのエスカレーターに乗ると、反対側ではコートを濡らした人が降っていった。出口から雨の音はしない。疑問を抱えつつエスカレーターを降りると、空は白い何かで染められていた。雪だ。
三月に雪が東京で降るなんて、ずいぶんと珍しいことだ。白いそれらは交通人の頭から木の枝まで無秩序に降り掛かっている。雨から雪に変わったようで、地面はもとの色のまま濡れていた。なかなか最悪のコンディションだ。今度こそ大きなため息をつく。今日は見放されてる気がした。神様なんて信じたことないけど。
折り畳み傘は小さくて、だから少しだけ濡れてしまう。ちょっとでも濡れてしまうと、まゆは過剰に心配する。あんまりそれが嬉しくない。だから、ちょっとでも雨が振りそうなときは大きめの傘を持っていくようにしていたのだけど。
三月の雪の中を歩くと、ひどく不安定な気持ちになる。鮮やかな春がそこまでやってきていたはずなのに、世界の芯はまだ凍ったままだと思い知らされる。思い出したように揺れる季節に翻弄されながら、確かにやってくる春を待つことしかできないのだ。
こんな季節でも、あの場所さえあれば良かったのだと気づいた。まゆと暮らすあの場所は、そういう意味があったのだ。
帰り道の途中の交差点にたどりつくと、赤信号の向こう側に、季節外れのはずのイルミネーションが見えた。小さなケーキ屋だ。白と緑のLEDが交互に点滅する様は、昨日もあったはずなのに、今日だけひどくよく馴染んでいた。信号が青に変わる。向こう側にたどり着くと、透明なビニールに覆われた掲示に、ホワイトデーの文字が踊っていた。
店はまだ営業中のようで、丁寧に明るく光る照明がガラスの向こうで笑っていた。ふらふらと足が進んで、気がついたらドアを開けていた。ベルがなる。小さな勧誘の声に、迎えられているようで安心した。店の中を見渡す。店内スペースの一部を使った喫茶コーナーは、時間のせいかもう誰もいなかった。
二人で暮らし始めたとき、よくここに来ていたことを思い出す。まゆに初めてケーキを買っていったのもここだった。最近はあんまり足を運べていなかったけど、同じ雰囲気で安心した。優しい味。そんな評価をしていた気がする。ショーケースの中には残り少なくなったケーキが並んでいた。
ぼんやりとショーケースを眺める私の方に、先程までレジ側にいた女性店員がやってきた。閉店間際で手持ち無沙汰なのだろうか。
「いらっしゃいませ。ホワイトデーの贈り物ですか?」
私の心を見透かしたような言葉に、一瞬ひどく動揺した。店先の掲示を思い出して納得する。
「はい、そんな、感じです」
少し歯切れの悪い返事をすると、少し首をかしげられた。少し足りなかった分の言葉を追加していく。
「友達にバレンタインをもらったんですけど、私は上げられなくて。だから、今日返そうかなって」
自分で言っていて少し傷ついた。間違ったことは言ってないと気を取り直す。店の奥では少しずつ閉店の準備が始まっているようで、なんだか間の悪い時間に来てしまったと思う。私の対応をしている彼女も、本当は早く注文を決めて帰ってほしいのかもしれない。でも、そんな空気は感じさせられなかった。
「じゃあ、今日買っていって明日渡すような感じですか?」
「いえ、一緒に住んでる子で」
「なるほど、ルームシェアですか?」
「まあ、はい、そんな感じです」
だんだんと首をしめられている気分になってきた。こっそりと自嘲する私には気づかずに、彼女はショーケースの右端を指した。
「それじゃあ、こちらのケーキとかどうでしょうか」
そこには、ホワイトチョコレートのコーディングがされたケーキがちょうど2ピースだけあった。値札に書いてある説明を読むに、ホワイトデー限定のケーキのようだ。シンプルな白の生地に、可愛らしく乗せられた正方形のチョコレートがアクセントになっているようだ。
「チョコレートケーキですか?」
「はい。一緒に暮らしていらっしゃるなら、顔を合わせて食べられるものの方がいいと思いまして」
なるほど。声には出さずに納得する。コーヒー豆はまだ切れてなかったはずだ。まゆに紅茶を淹れてもらうのもいいだろう。
「じゃあ、それを二つ」
「はい、かしこまりました」
笑みと共に彼女はショーケースの奥に回った。さきほどまでカフェ側の片付けをしていた店員がやってきて、レジを打つを準備をしていた。店内をもう一度見渡すと、カフェ側はいつのまにかすっかり片付いていた。もう閉店まで間もないからだろう。今度まゆとここにお茶をのみに来ようか。ぼんやりと考えていると、準備を終えたらしい店員が声をかけてきた。
「メッセージカードはどうしましょうか?」
「えっ」
思わずすこし大きな声を出してしまった。店員が怯んだのを見て、少し反省しながらもう一度聞き直す。
「メッセージカード、ですか?」
「はい、ホワイトデーということで」
「なるほど……」
さっきから納得してばかりだ。店員が見せてきたはがきより一回り小さいぐらいのメッセージカードには、可愛らしいしろくまの絵が描かれている。果たしてこれだけの大きさを使い切れるのだろうか。私の文字でいっぱいになっているそれを、想像することはできなかった。
「ここでサラサラって書いていただいても構いませんし、お家に持って帰っていただいて書いていただいても構いませんし」
向こう側の店員は人当たりのいい笑みを浮かべながら、小さなボールペンを差し出した。
▲
『おかえりなさい、今開けますね』
オートロックの通話が切れて、ロビーの扉が空いた。
扉を抜けて、掲示便を横目に通り過ぎていく。
結局メッセージカードは書かなかった。空白のままのそれは、ケーキの箱を包む袋の中に入れられている。
エレベーターに乗って三階のボタンを押す。雪は帰りの間にまた少し強くなっていた。ケーキを最優先で守った犠牲で、うっすらと積もっていた雪を何度も払う。まゆに心配されてしまうから。
エレベーターが目的の階にたどり着いても、まだ消えていない雪を払いきるのは諦めてしまった。
部屋の前にたどり着いて、インターフォンを押す。ケーキの箱を隠さなければと思っても、もう時間が足りない。小さく箱を前に持ち直すと、玄関の鍵が開く音がした。
「おかえりなさい!」
「ただいま」
「お疲れ様です……あら、雪?」
笑顔を浮かべていたまゆが、肩の雪に気づくと驚いた顔をした。今日は一日家にいると言っていたから、気づかなかったのだろう。予想通りの表情を浮かべる彼女に、自分のせいではないはずなのにどこか申し訳ない気持ちになった。
あらあら、と小さい声でいいながら、肩の雪を払おうとするまゆに「大丈夫」と告げる。とりあえず暖かい室内に入りたかったから、まゆをゆっくりと下がらせて部屋の中に入りきると、ドアを閉めて鍵をかけた。
未だ心配そうな顔をする彼女にどこか笑ってしまいそうになる。やっぱり、この立ち回りが一番落ち着くのだ。さっきまでひどく冷えていたはずの体は温度を取り戻している。崩れてしまいそうな表情を保ちながら、すでに小さくたたんでいた折りたたみを広げ直す。乾かすために玄関に広げた。
「そんなに長いこと降ってるわけじゃないと思うよ」
「そうですか……でも泉ちゃん、濡れちゃって」
タオル持ってきますね。そのまま応対用のサンダルを脱いで家に戻ろうとするまゆに何故か焦る。慌てて後ろをむいたまゆの肩を掴んで引き止めた。振り返って首をかしげた彼女に、不格好なままケーキの箱を差し出す。
「これ」
なんなんだったっけ。口にしようして、急に言葉が出なくなる。箱を受け取ったまゆは、掴んだ白い取っ手をちらりと見た。言葉が出ないままの私の代わりに、まゆが話をすすめる。
「あら、貰い物ですか?」
「いや、自分で買ってきた、あのね」
「あら、ありがとうございます。これって日持ちしますか?」
「いや、多分しないと思う、ケーキだし、あのね」
「じゃあ食後にいただきましょう。紅茶いれますね」
勝手に話が進んでいく。どうしようかと戸惑っているうちに、まゆはもう廊下を進んでダイニングへ出ようとしていた。
「先によく手を洗ってくださいね」
「あっ、はい」
このモードに入った。
△
「泉ちゃん、このポストカードは?」
まゆはそう言いながら、しろくまのメッセージカードを差し出した。
結局言い出せずに、食後になってしまった。ちなみに今日の夕飯は肉じゃかだった。皿洗いの当番をこなしていくうちに、まゆが紅茶の準備をしてくれていたらしい。私がキッチンを吹いて手を綺麗にしたところに、まゆがそれを見せてくれた。
そんな目的もあったなと思いだした。というかそれが今日の本題だったはずだ。すっかり忘れていた。まゆとキッチンで向きあいながら、どこか他人事のように思い出す。メッセージカードを受け取りながら答えた。
「あー、これはね、メッセージカードだよ」
「メッセージカード?なんのですか?」
「ホワイトデーの」
「えっ」
まゆの方を見ると、ひどく驚いた顔をしていた。なんだか面白くなって、そのまま何事もないようにすすめる。
「ケーキ、ホワイトデーだから」
「えっ」
「バレンタインデーのお返し」
「えっ」
まゆの驚き方におかしくなってしまった。口を押さえながら小さく笑いをこぼすと、まゆはなぜか少し顔を赤くした。思わず調子に乗る。
「忘れてると思ってたでしょ」
「ええ、というか、まゆも忘れてました……」
今度こそ思いっきり笑う。まゆは今度こそ真っ赤になって、力の篭ってない手で私の背中を叩いた。笑いながら、反省の念のない謝罪をする。
「渡すときに言おうと思ってたんだけど、まゆが家にさっさと入ってっちゃうから」
「だってあれは泉ちゃんが濡れてたから、風邪引かないようにって……」
「わかってるわかってる。ごめんね」
笑ったまま謝ると、まゆはもう、と頬を膨らませる。あからさまな怒ったふりもこの九ヶ月で見慣れたものになった。
ケーキに免じて許してあげます、と言ってまゆは怒ったふりをやめた。中に入ったお湯を流して、さっきまで夕食が並んでいたテーブルの方にカップを運びに行く。二人分のカップも、一体何回口をつけたことだろう。
やっぱり私はまゆに与えられてばかりだと、そう思う。
「ありがとね」
私がそういうと、テーブルにカップを置き終えたまゆがこちらを向いた。メッセージカードをカウンターの上に乗せながら、言葉を続ける。
「いろいろ、バレンタインデーとか、クリスマスとか、ハロウィンとか。まゆからもらってばっかりだ」
ぽつりぽつり、と零して、確かめていく。私の何処か独りよがりの言葉にも、まゆはちゃんと返事をしてくれる。
「そんなことないですよ。私だって泉ちゃんから、いろんなものを貰ってます」
そういうまゆは優しく笑った。
こういうところが好きなんだ。
二人で暮らした先の関係が恋人のようになるのは、きっとそれが一番心地いいからなのだろう。まゆと『誰か』の幸せな生活を、想像できなくたっていいと思えた。きっと、自分一人の暮らしを考える必要なんてない。
二人がわかりあえているのなら。そこに言葉さえあれば。
そのために、伝えなければいけないことがある。
「さっきのメッセージカードさ」
喋りかけると、キッチンに戻っていたまゆはティーポットを触る手を止めて、こちらを見る。私はケーキの白い箱を開けながら言葉を続けた。
「本当はいろいろ、書きたいことがあったんだ」
戸棚を開くと、二枚分の小さな丸皿を取り出す。まゆが買ってきたものだ。この辺の趣味も染められたものだ。一緒に暮らし始めたばかりの頃は、見分けもつかなかったのに。
「でも、伝えたいこととか、わかんなくなっちゃって」
まゆはずっと黙って私の方を見つめている。まゆが冷蔵庫から取り出していたケーキの箱を開いて、二つのケーキを取り出した。
「今なら、書ける気がするんだ。待ってもらっていい?」
小さなメッセージカードに、伝えたいことは収まるのだろうか。きっと収まらないだろうなと思う。そういうものだ。
向き直ると、まゆはいつもと同じように笑った。
「待ってますね」
それだけ言うと、まゆはまた紅茶に取り掛かった。茶葉を淹れたティーポットに沸騰したお湯を注ぐ。
その様子を横目に、二つのケーキを持っていく。カウンターの上に乗せられたメッセージカードが目に入る。テーブルに皿を置いてから、メッセージカードを手に取る。
今みると、あまりにも小さい気がしてきた。伝えたいことが、このカードの中に収まっているのが想像できない。
「これ、書ききれるかなぁ」
私の言葉を聞いて、ティーポットを持ってこちらにやってきたまゆが少しだけ意地悪な笑みを浮かべた。
「あら、そんなにたくさんまゆに伝えたいことがあるんですかぁ?」
どこか小悪魔なまゆも魅力的だ。そんなことを考えながら、私は正面突破を試みる。
「あるよ、いっぱいある」
私がそう答えると、少しだけまゆが驚いて、頬を赤くした。それは初めて見る感情だった。もしかしたら、今まで見たことないまゆが、これからも見れるかもしれない。
頬が赤いままのまゆは、花が咲くように笑った。
「それは、眠れないですねぇ」
応えるように、私も笑う。
「コーヒー、淹れてあげるよ」