「好き、だよ」
もう太陽は失われてしまって、電灯が地面の黒を映し出している。降り注いでるはずの雨の音はここじゃ聞こえなくて、765プロシアターの中の一室、アタシと琴葉と、時計の音だけがそこにいた。
物語の中で作られた言葉は、現実の誰かに届くように放たれたわけじゃない。そんなこと、わかりきっていたはずだ。それなのに、演技のはずのその言葉を聞いただけで、どこか満たされたように思えてしまうのはどうしてなのだろう。アタシも、好き、と、必死で隠していた感情を零してしまいそうになるのはどうしてだろう。偽りの好きを都合よく受け取って、救済だと思い込んでしまいそうな愚か者は、アタシだ。
次のセリフはわかっていた。「ありがとう」「僕もだよ」それで喜劇はおしまい。あとは抱き合う二人が画面一杯に写り込んで、それで終わりだ。よくあるラブストーリー。悲しいぐらい真っ直ぐな恋愛。どこまでも琴葉の未来を描いているようだった。それがどうしようもないぐらい苦しくて、だからその「好き」を演技でも受け止めることができなくて、アタシはハッピーエンドを告げるはずの言葉を口にすることができない。呼吸もできなくて、アタシの口は中途半端に開かれたままだ。
演技の練習に付き合うと、そう言ったのはアタシだった。夜9時からの一時間のドラマ。その最終回の告白シーン。今までもどかしい関係を続けてきた女の子と男の子が、やっと想いを確かめ合って結ばれる感動的な場面だ。ドラマの主人公を演じる琴葉がうまくいかないと悩んでいて、堪らず声をかけたのはアタシなのに、仮の役割の男の子になりきることはおろか、セリフを読むことさえできていない。偽りの誰かになって、本当の自分の感情の深さに気付かされるなんて、教科書に乗っていたピエロの話のようだと思った。
「恵美?」
琴葉の怪訝そうな顔が目に入る。慌てて思考を演技に戻すけど、話しかけられた時点でもうておくれだった。もしこれが撮影現場なら、監督の怒声が飛んでいるころだろう。今回の稽古は失敗だ。二人で始めた演技練習は、さっきからちっとも上手くいっていない。
「あー…、ごめん、ボーッとしてた」
「もう…」
琴葉の怪訝そうな顔が、呆れた顔に変わる。ここで調子に乗ったようなことを言うのがいつものアタシだろうけど、正直いまはそんなこと、できそうになかった。思った以上に自分の心は揺さぶられていて、いつものふざけた「所恵美」を演じることすらできていない。
「恵美、大丈夫?」
どこか様子のおかしなアタシに気づいたのだろうか、琴葉が心配そうな顔をした。琴葉は表情がコロコロと変わるから、なにを考えているのかわかりやすい。楽しいときは楽しそうな表情、悲しいときは悲しいそうな表情、苦しいときは苦しそうな表情。だから自分では隠しているつもりでも、苦しそうな時はすぐわかる。どうしたら琴葉が笑顔でいられるのか、そればかり考えている。
「大丈夫、ごめんね」
アタシがそういうと、琴葉は安心したように小さく息を吐いた。それからまた表情を変えて、自己嫌悪にまみれた声で呟いた。
「私が恵美に無理言っちゃったから…」
苦しそうなその声を聞くと、それだけで肺が抑えられたように苦しくなって、だから笑ってもらうために必死でアタシは道化師になる。メイクには自信があったはずなのに、感情を押し隠すための言葉の重ね方ばかり上手になってしまった。
「大丈夫だって、もう本番近いんでしょ?」
「そうだけど…」
「アタシは時間あるし、友達のためだもん」
「友達」と言う度に、胸が突き刺されたように痛む。神様はなんて残酷な距離を用意したんだろうって、たまに考えたりする。これ以上ないってぐらい近いのに、それ以上はどうしても近づけない。友達と言うごとに、アタシの初恋はどんどん傷だらけになっていく。『それでもそばにいられるのなら』なんてどこにでもある失恋ソングの歌詞を思い出す。あんなもの、歌の中だけだと、ずっと思って生きてきたのに。もう今じゃ恋愛ソングは聞けなくて、アタシの音楽プレイヤーは琴葉の曲だけをループしてる。
琴葉はアタシの言葉を聞くと、その目を細くして、柔らかく笑った。
「ありがとう、恵美」
その言葉を受け取っただけで、初恋の傷一つ一つに意味があったんだと思える。そう思いたかった。思い込んでいるだけかもしれない。叶わぬ恋の引き換えに、少しぐらい望んだって罪じゃないだろう。
「…うん」
静かに声を返すと、琴葉はもう一度柔らかく笑った。もう何十回と繰り返したこのやりとりに、歪んだ感情が少しでも綺麗になることを願った。
*
琴葉にドラマのオファーが来たのはまだ公園の木の葉が紅くなる前のことで、もう今じゃ、そこでは風が桜をちらし始めていた。
琴葉のドラマでの初めての主役は、恋する女の子だった。シンプルなラブストーリー。ある日教会で出会った二人の男女が、紆余曲折ありながらも、最後は結ばれるハッピーエンド。話の構成をシンプルにして、琴葉の演技力の可能性に懸けたこの作品の撮影は、琴葉の努力もあって順調に進んでいた。初めこのドラマのオファーが来た時、受けるかどうか随分と悩んだと言っていた。自分の演技力でやりきれるかどうか、不安だと琴葉はアタシに笑ってみせた。琴葉が参加を決めてから、もう3日も経ったころだった。零れ落ちそうになった「どうして相談してくれなかったの」の言葉を、飲み込むことができたのは、そういう琴葉の横顔が決意に満ちていたからだ。
琴葉はこぼしかけたアタシの言葉を理解して、小さくごめんねと言った。シアターでの帰り道だった。誰もいない少し広めの夜の歩道を、二人で並んで歩いていた。アタシは自転車を押しながら、琴葉の右側を進む。シアターの最寄り駅までの10分で、話せることなんて多くない。だからいつも喋りきれなくて、電車に乗った琴葉と話をするために、自転車を漕ぎ始めるのは駅から随分と離れた時になってからだった。その日もいつもと同じように、二人での話は駅で途切れて、おやすみを送り合うまで、琴葉との会話は続くはずだったのだ。
駅まであと二分もしないところで、琴葉が急に立ち止まって真剣に見つめてきたから、アタシは小さく唾を飲んだ。その日の琴葉がいつになく静かだったことに、気づいたのは向き合った後だった。
「あのね、私」
そうやって琴葉は話始めた。ドラマに出ること、主役であること、それで成功すればもしかしたら役者としての道が開かれるかもしれないということ。そうしてその道を歩いて行くことを決めたと。
『今までずっと恵美にも、みんなにも助けてもらったでしょう?そろそろ、自分一人で進まなきゃいけないなって、そう思ったの』と、そういった琴葉は、もう一人で歩み始めるための準備をはじめていた。
シアターは楽しい。いつでも新しい挑戦があって、みんなと一緒に挑めるライブがあって、仲良く笑い合える居場所があって、こんなに楽しいところ、他にアタシは知らない。でも、いつまでもアタシたちはここにいられるわけじゃない。それを琴葉はわかっていて、この暖かい今から飛び立つ日を迎えるために、少しずつ動きはじめたようだった。たくさんの思い出を整理しながら、一人で進むための、また新たな道に進むための準備をはじめていた。
ドラマについて、琴葉の決断について、アタシはゆっくりと頷くだけだった。ただ一言だけ、「応援してる」と伝えると、琴葉は嬉しそうに「ありがとう」と言った。その日のメッセージは送れなかくて、自転車に乗っていると、涙は横に流れると知った。
今回のドラマの主役を引き受けたのは、新たな道を進むための第一歩なんだと、琴葉はそう言った。だから一人で決めたのだ。そうやって少しずつ確かに歩み始めた琴葉の隣で、アタシはどうしたらいいのだろうか。
琴葉が好きだ。真剣な横顔も、まっすぐな姿勢も、拗ねた時の顔も、ふにゃりと笑う笑顔も、好きだ。好きだ。こうやって胸を苦しめているこの感情の名前は、きっと「恋」なのだと思う。 たとえ歪んでいたとしても、普通じゃなかったとしても、琴葉に恋をしてるんだ。今だって、台本を読む時、耳に髪の毛をかきあげるその姿に、アタシは囚われている。
琴葉への好きを自覚してから、もうずいぶんと経ったというのに、いつまでもアタシはその感情に雁字搦めにされて、動けなくなっていた。自分の道を見つけ出すための、その一歩を踏み出すことで、琴葉の隣にいられなくなることを恐れていた。自分の感情が弾けて、琴葉を傷つけてしまわないかと恐れていた。そうやって、どうしようもない、自分の想いに向き合うことすらできない臆病者であり続けてでも、琴葉の隣にいられることを望んでいた。たとえこの感情が一生伝わることがなくても、いつか将来、琴葉が誰かに恋をしても、ドラマのように誰かと結ばれたとしても。今この瞬間琴葉の友達になれるなら、力になってあげられるのなら、それだけで十分幸せなんだと思っていた。伝わらない感情に泣く夜より、笑っていられる朝のほうが大切だと思えた。どうしようもない恋だって、自分でもわかっていた。それでもいいって、本当にそう思っていた。
だけど、琴葉はもう歩きだそうとしていた。新たな可能性の道に、進みだそうとしていた。その道で、アタシが隣に立つことはきっとない。そうわかってしまった。アイドルになったばかりの琴葉とは違う。今の琴葉なら、きっと一人で歩み出せる。自分の感情や責任に押しつぶされて逃げ出してしまう弱さはもうない。一人と独りの違いがわかっている琴葉なら、思い出を胸に新たな道を歩き出すことだって出来るだろう。アタシがそっと背中を押したり、『大丈夫だよ』と言ってあげられなくても、時に残酷な世界と、向き合っていけるのだろう。
進み始めた琴葉の横で、アタシもこの恋を思い出にする時間が来たんだとわかった。この青春のどうしようもない感情を、アタシが大人になった時に、綺麗じゃなくてもいいから、過去に出来るための準備をするときが来たんだ。
だから、琴葉が新たな道を歩み始めたように、アタシも変わらなくちゃいけないんだ。
*
「琴葉、それって」
「ふふ、どうかしら」
そう言って琴葉が笑って、その声がいつまでも耳の奥で響いている。変えようとした自分の感情は、全然変わってなんかいなかった。
その日は、朝から冬の憂鬱な雨が降り続いていた。シアターの入り口の傘立てに、色とりどりの傘が立ちすくんでいたように見えた。差してきた黒の水玉模様を折りたたんで、水色の琴葉の傘の隣においた。あのシンプルな柄を見るのは、ずいぶんと久しぶりだったような気がして、どこか気分が弾んでいた。どうしているのだろうか。憂鬱だった雨の音は、静かなBGMに変わって、どこか寂しげな匂いはいつのまにかわからなくなっていた。どこにいるのだろうか、そう思いながらいつもの団欒室のドアを開けた。「おはようございます」の声は、部屋の先にいる無人の風景にしぼんでしまった。ソファーにも、給湯室にも誰もいないようで、普段見えるはずの左側の大きな窓は仕切られて見えなくなっていた。まだ誰もいない部屋にそっと入ると、閉まるドアが大きく響いた。そのまま座ろうとしたアタシを、誰かの声が呼んだ。
「恵美?」
「琴葉?どこにいるの」
その声を聞いたとき、すぐに琴葉の声だってわかった。見慣れない仕切りの向こう側からその声は聞こえてきて、どうして隠れているのだろうかと訝しげながらそちらの方を覗いた。
そこには琴葉がいた。純白に包まれて、目を閉じて立っていた。ウェディングドレス姿の琴葉が、確かにそこにいた。声が出なかった。美しいと、そう思った。半透明なベールの向こうで、明るめの髪が輝いていた。いつもより大きく空いた首周りに輝くネックレスよりも気品高くそこに立っていた。体に纏った衣装に負けないほど、琴葉は綺麗だった。
声が出なくて、息が止まった。目を開いて見つめることしかできないアタシに気づいたのか、琴葉が目を開けた。
「驚いた?」
そう言って、少し口角を上げた琴葉にアタシは何も言えなかった。この場面での正しい言葉が見つからなくて、やっと口を出てきたのは賛辞ではなく疑問だった。
「どう、したの」
そういったアタシに琴葉は何も言わずに、隣のテーブルに置いてあった台本を手に取った。それが琴葉のドラマのものだってアタシが気づいた時に、パラパラとめくってお目当てのページを見つけたらしい琴葉はページを開いてアタシに渡してきた。ページ数が大きくて、物語の終わりだとわかった。多くは読めなくても、目につく単語からシーンが浮かぶ。「教会」「ウェディングドレス」「指輪」そして「結婚式」。結ばれた二人が向かえる大切なイベント。
アタシが台本から顔をあげると、琴葉はもう一度笑った。まるで花が咲いたように見えた。
「どう、似合う?」
そう言ってくるりと回った。少し広がったスカートがとても綺麗で、心臓が押さえつけられたように傷んだ。きっとくる未来を想像して勝手に傷つくなんて、馬鹿みたいだと心がどこかで笑っていた。それは自分の声のはずなのに、ずいぶんと遠くで聞こえた気がした。そんなもの聞こえないふりをして、アタシはただ琴葉のウェディングドレス姿を見つめていた。答えるのに時間がかかったのは、わからなかったからじゃない。
「似合ってるよ」
その言葉を聞いて微笑んだ琴葉が、目の奥に焼き付いて、いつまでも消えてくれない。
*
今のアタシは、台本と向き合う琴葉を見つめることしかできない。恋をする少女を演じる琴葉も、このドラマのような恋をする日がくるのだろうか。誰かの胸に抱かれて、幸せになる日が来るのだろうか。自分の感情に苦しんで、夜毎涙を流したり、幸せな未来を思って、朝を迎えられるような、そんな恋をする日がくるのだろうか。その恋が、琴葉を幸せにしてあげることを願っている。
琴葉の本当の「好き」がちゃんと届いて、琴葉が幸せになれる日が来るのをずっとずっと願っている。それは琴葉を好きになってしまった私が、琴葉にしてあげることのできるたった一つのことだった。幸せになってほしい。琴葉に好きな人ができて、その人といつまでも幸せな家庭を築いてほしい。そう思っている。
琴葉が恋をして幸せになれたのなら、この恋を諦めたアタシにも意味があると思えた。アタシじゃ導くことができない幸せな琴葉の未来を、アタシが諦めることで琴葉に与えることができるのだから。好きな気持ちはこの胸を焦がすほど熱く燃えているけど、幸せを願う想いはずっとずっと強い。今こうして琴葉が悩む演技も、いつか琴葉の望むところに連れて行ってくれる大切なものになるだろうと、そう思えた。
でも、一度だけでいいから、偽物でいいから、琴葉の好きが欲しかった。琴葉に「好き」と言われたかった。青春の恋心を全て諦めるご褒美に、そのぐらい欲しがったって、神様は許してくれるだろう。
琴葉からもらった偽物の好きを、私は大事にしまって、いつかこの恋を本当に終わらせることができた時、そっとそれを思い出にしたいんだ。その日がいつになるのかはわからない。一年後かもしれないし、三年後かもしれないし、琴葉の結婚式の日かもしれない。でもいつだっていい、きっと思い出に出来る日がやってくる。アタシはその日を、今も待ち続けている。
そう思っていたはずなのに、琴葉の演技の「好き」を受け止めると、演技だとわかっていても、苦しくて何もわからなくなってしまう。
今度のドラマは、琴葉が選んだ道だから、アタシは完成を待つだけにしようと決めていた。それなのに、シアターの団欒室で悩んでいた琴葉の練習相手になると言ってしまったのはきっと間違いなんだろうと思う。どうしてかはわからない。ウェディングドレスを着た琴葉の姿があまりにも自分の想像する幸せな未来の琴葉と重なって、怖くなってしまったのかもしれない。いつかその未来がくることを祈っているというのに、その未来予想図を見ただけで強く強く心が叫んでいる。なんて弱いんだろうと思った。馬鹿なんだろうかと思った。琴葉の「いつか」を願っているのに、それが本当にいつかやってくることに怯えている。偽物の好きで満たされるわけじゃないのに、浅はかなアタシはそれでもほしいと思ってしまった。
悩んでいる琴葉を見るのはもう何度目なのだろうか。そのたびにアタシなりに手を差し伸べてきたつもりだ。どうしたの、と軽く聞く。黙り込んでしまったら見つめてみる。そうして想いを聞き出して、少しでも抱えているものを軽くしてあげたいと願っていた。ずっとやってきたことだ。
琴葉はアタシの目を見て、少しそらして、ぽつりと話し始めた。
「どうしても、納得できないの」
話し始めた琴葉を見つめた。昔は悩みを抱えていても話そうとしてくれなくて、なんとかして聞き出そうと躍起になったこともあった。そうこうしているうちに琴葉のいろいろな姿に触れて、そうして好きになったのかもしれない。そんなことを思い返しているうちに、ぽつりぽつりと話し始める。
「最終回にね、私の演じる女の子が、告白するシーンがあるの。結婚式の前のシーンなんだけど。」
結婚式という言葉に思った以上に動揺しながらも、アタシは琴葉の言葉を待った。ウェディングドレスのスカートが、一瞬だけ脳内に蘇る。
「そこで…」
そう言うと琴葉は口を閉じた。言葉を濁らせたのは抱え込ませたくないからなのだろうか。
「演技がうまくいかない?」
代わりにアタシが言葉を続けると、琴葉は小さく頷いた。そのままうつむいて、端正な顔を歪めている。他にも抱え込んでいるものがある。アタシにはそうわかったけれど、無理やり引き出すことはできないから、待つしかない。少しだけ沈黙が支配した部屋が、やけに広く感じられた。待つつもりだったのに、琴葉がなにで苦しんでいるのかわからなくて、なにもできない不甲斐なさが背中を勝手に押してきた。
「手伝うよ」
「え?」
琴葉が顔を上げた。疲労が表情に現れていて、なんでもっと早く声をかけられなかったのかと後悔する。突発な行動だけど、間違ってるとは思えなかった。
「手伝わせて、お願いだから」
今回のドラマは、琴葉を新しい世界へと導くものになるのだろう。力になってあげたいと、そう思った。琴葉の力になって、新しい世界へ導いてあげることができるなら、アタシの恋を思い出にするご褒美には十分すぎるじゃないか。
アタシの言葉を聞いて、琴葉がゆっくりと微笑んだ。それだけで十分救われた気がした。
「ありがとう」
もう何度目かわからないその言葉を、何度だって噛みしめた。
そうして始めたこの練習は、いい成果を出しているとは言い難かった。渡された台本から相手役を掴んで、理想的な恋人・恋愛相手で、琴葉がこんな恋をするのかと想像して、そして勝手に傷ついた。もう幾度となく感じて、いつかは消えるはずの胸の痛みは無視して、台詞は覚えたはずなのに言葉がうまく出せなくて、手伝うと言ったはずなのに役に立てているのかすらわからなかった。ずっと練習した疲れが出たのか、琴葉は目を閉じて椅子にもたれかかっている。「大丈夫?」と声をかけるのも間違っているような気がして、アタシは琴葉の前に座って琴葉のカチューシャを眺めている。
偽物の好きを望むことすら許されなかったんだろうか。考える。アタシの我儘で浅はかな願いの罰が、一度も上手く行かない練習として現れたんだろうか。そうしてアタシは愚かな欲望によって、琴葉の新たな道すら塞いでしまうのだろうか。恋心を捨てきれなかった罪には、重すぎる罰だと思う。でも、このままじゃそうなってしまうかもしれない。アタシ自身が最も望まなかったアタシになってしまう。それが怖くて、動かずにはいられない。うまくピエロにすらなれないくせに。
「琴葉」
そっと声をかけると、琴葉は薄く目を開けた。目を閉じていただけらしい。起こしてしまったわけじゃないと安堵する。
「もう少しだけ、練習してみない?」
アタシの提案に琴葉は小さく頷いて、そっと体を起こすと、立ち上がって目を見開いた。
*
「ダメ…」
琴葉はそういうと、椅子に倒れるように座り込んで目を閉じた。
練習の成果はでない。『好き、だよ』のセリフ。最後の告白。感情が綺麗に乗せられていないのは、琴葉もアタシにもわかる。どれだけ丁寧に演じても、どこかズレた声が演技の邪魔をして、最後まで演じる頃にはボロボロになってしまう。何度も琴葉の「好き」を受け止めて、アタシも限界が近かった。
どうしてなんだろうか。琴葉が今まで、その役になりきれないことなんてあっただろうか。本当は何かもっと大きなものを抱え込んでいるんじゃないかと不安になる。アタシは琴葉の表層しか、わかってあげられてないんじゃないか。自己嫌悪にひたってたせいで、アタシの演技もところどころおかしくなっていた。
テーブルの上に置いておいたペットボトルを乱雑に手にとって、ふたを開けて思いきり傾ける。喉の乾きは潤っても、心臓の痛みは消えてくれない。
琴葉はアタシがミネラルウォーターを飲むのをぼうっと眺めている。だいぶ疲れているようだ。今日はもうこれが限界だろう。これ以上の無理な練習で、体を壊してしまっては意味がない。
琴葉、もう帰ろう。そう声をかけようとした。琴葉を見ると、アタシの方を向いていた。その目が随分と険しいものだったから、どうかしてしまっただろうかと一瞬考えこむ。そうしてすぐに、琴葉が見ているのがアタシの後ろにあると気づいた。なにがあるのだろうと振り返る。無機質な時計が、夜十一時を指していた。
もうこんな時間なんだ。どこか他人事のようにそう感じているアタシのそばで、琴葉の不安げな表情は変わらない。どうしたんだろうか。まだ琴葉の家に帰る電車はある時間のはずだ。不安になって声をかける前に、琴葉が口を開いた。
「恵美、帰りどうするの?」
「え?どうするって、なにが」
琴葉が真剣さを声に乗せて言う。なんでそんなに心配なんだろうか。シアターには自転車できているのだから、そんな心配をする必要はないはず。確かに夜はもう深くなっていたとしても、普段からこのぐらいの時間に帰ることはよくあるはずだ。琴葉の家への終電だって、まだまだ、それこそ短針一周分ぐらいは余裕のはずだ。
「今日は雨なのよ?」
「あ…」
静かな部屋で過ごしてしていたせいですっかり忘れていたことを思い出す。雨。そうだった。今日はアタシはシアターに自転車では来ていない。傘をたたんだ記憶が蘇ってきて、なんで思い出せなかったのだろうと後悔する。部屋の中じゃその気配がわからなくても、今日は強い、強い雨が振りつけていた。
「どうするの、でもこの時間だと今から急いでシアターに出ても、終電には間に合わないかもしれないじゃない…」
そう言いながら、琴葉は心配そうにアタシの目をみた。この目が苦手だ。琴葉を傷つけているようで、胸がチクリと傷んでしまうから、追求からは逃れられないと知りながらも、躱すことを試みる。
「まあ、大丈夫だよ!」
なるべく明るい声。大きく元気づけるような言葉。琴葉がそんなものじゃ納得しないとは知っていても、いつもやってしまうことだ。
「大丈夫って、そんな、電車がなくなったらどうするの」
「え、それは、歩いて変えるとか」
その場しのぎの答え。自分でもおかしいことに気づいていても、ごまかす癖はなくせない。
「そんな、危ないでしょう!」
「にゃは、そうかも…」
たしなめるような声を出してから、琴葉はまた苦しそうな表情を見せた。新たな道に進む手前で、また自己嫌悪に飲み込まれている。自分自身に苦しむ琴葉は、アタシと似ている数少ないもので、アタシが嫌いなものだった。琴葉には、ごめんねじゃなくて、ありがとうって言って欲しかった。
「私が無理言っちゃったから…」
やっぱり。琴葉から零れた弱音は、自己嫌悪で汚れていた。幾度となく聞いてきた声色。もう近頃じゃ、聞くことなんてなかったもの。
「そんなこと、言わないで」
だから、琴葉のごめんねがありがとうに変わるように、ゆっくりと言葉をつなぐ。苦しんでいる琴葉が、どうすれば救われるのかわからないから、少し考えて、自分の思いを伝えることにした。
「琴葉の力になれて、アタシは幸せだよ。だから、無理言っただなんて思わないで。友達でしょう?」
それは確かに、どうしようもないアタシの気持ちの一つだった。汚れた感情に苦しんで、恋を思い出にすることすらできないアタシが、それでも確かにずっと抱え続けていたものだった。琴葉の友達でよかったと思っている。どうしても近づけない距離があったとしても、琴葉の友達でいれてよかった。たとえ眠れない夜を過ごしたとしても、友達というくくりのせいでいつまでも思い出にすることができなかったとしても、琴葉の友達でいれたこと、これからもそうあれることは、なによりも幸福だと思うのだ。
アタシの想いを伝えきれたかな。伝わって、いるといいな。そう願って、琴葉を見つめる。その瞬間、アタシの時間が止まった。
琴葉が、泣いている。
泣いている。なにが起きているのかわからなくて、目の前の琴葉を見つめているけど、琴葉の頬を透明な何かがたしかに伝っていて、それは目から溢れでた涙だ。
「どう、して」
琴葉の言葉とアタシの想いが重なる。どうして、泣いてるの。なにが、いけなかったの。琴葉は涙を流したままだ。琴葉の声に、どこか、いつもと違う感情が混じっているような気がした。なにをすればいいのかわからなくて、アタシは琴葉の言葉を待つことしかできない。あれほど琴葉の力になりたいと望んだはずなのに、泣いている琴葉を前にどうすることもできなかった。
「どうして恵美は、そんなにやさしくしてくれるの?」
泣きながら琴葉はそういった。声が涙で濡れていた。琴葉のこんな声、初めて聞いた。
「諦め、られないじゃない」
琴葉の涙が頬を伝って、落ちていく。綺麗だと思った。そうして、そこにある感情が何かわかった。
「好き、なの…」
それはアタシとおんなじものだった。苛まれて、苦しんで、捨てようとして、見なかった振りをして、それでもなくせないものだった。過去にもできなくて、思い出にしようとして、それでも確かに胸の奥にあったものだ。同じ感情を抱えていたって、馬鹿なアタシにもやっとわかった。さっきまで受け取っいたたくさんの偽物の「好き」とは違う、確かな感情だった。
琴葉は流している涙を隠すように、手で顔を覆ってしまった。それでも嗚咽は隠しきれなくて、指と指の隙間から溢れだした泣き声がアタシの鼓膜を震わせる。
伝えなきゃ。
二人とも同じモノを抱えていて、それなのにずっとわかっていなかった。こんなに近くにいたのに、たくさんの時を過ごしたのに、言葉にして、やっと向き合っていた感情の存在を知った。たった二文字でも、その言葉がどういう意味を持つのか、アタシには痛いほどわかる。だって一緒だったから。
琴葉の顔を覆ってしまった手を掴むと、琴葉が首を小さく横に降った。それでも伝えなきゃいけないから、琴葉が目をつぶっていたってやめるわけにはいかない。
「琴葉」
呼びかける。琴葉がやっと涙を流しながら、すこし目を開けてアタシを見てくれた。伝えなきゃ。この想いを。
虚栄も皮肉も常識も諦めも、全部全部心から剥がれ落ちてしまえば、あとにはシンプルな二文字しか残らない。
「好き」
掠れた声はもう零れ落ちてしまっていて、それでも必死に届けたくて、想いばかりが先走って、言葉の代わりに涙が流れる。好きだった。好きなのだ。諦めたふりをして、満足したふりをして、必死で自分を騙しても、心はずっと恋をしていた。苦しんで苦しんで、出てきた言葉はきっと答えだ。
「琴葉とおんなじ、『好き』だよ」
琴葉はアタシの言葉を聞くと、もう涙で一杯の目をまた濡らした。小さく泣き声をあげる。綺麗だと思った。視界がぼやけて、アタシも同じように泣いていた。二人とも同じだった。同じように恋心を抱えて、同じようにかくして、同じように苦しんでいた。でも今は違う。一つでも分かり合えたなら、そこからきっとつながっていける。
もっとわかりあいたくて、琴葉を強く抱きしめた。涙で肩が濡れても構わなかった。琴葉はまだ泣いていて、アタシもまだ泣いている。ドラマのエンディングみたいに綺麗じゃない。カッコもつかない。それでもよかった。どこまでも歪だとしても。
二人の泣き声と好きだけが、部屋を埋め尽くしていた。