――びくびく」
――がくがく」
――ぞくぞく」
――どくどく、は」
「それは血じゃない?」
「ひゅー、どろどろ」
「それは、怪談だね」
「同じでしょ?」
「ちょっと、違う気がするな」
言葉の先を求めるように、めぐるは灯織の目を見つめる。灯織はその視線に吸い込まれるように、少しだけ急ぎ足で心を通り過ぎようとする言葉に追いやられて口を開く。それに気づいて、めぐるはゆっくりと目線を外す。答えを求めようとした自分を恥じるかのように少しだけはにかむ。
「一緒に考えなくちゃだね」
その言葉が冷たい廊下に響くと、灯織にはそれがより難しいことのように思えた。一緒に。どのように?丁寧に進めれば進めるほど、私達の言葉は最後には祈りになってしまう。普段ならなんてことない顔をして受け入れいているそんな事実が、この暗い横幅1mの道ではひどく受け入れがたいものになる。
「そうだね」
それでも、灯織が頷いてみせるのは、祈りのためではない。
■
整えられた暮らしの中で、廊下に放置されたマグカップとトレーが、部屋の異変を知らせている。日当たりのよい角部屋でも、廊下にはうまく日差しが入らない。朝が、あの鬱陶しいオレンジの面影も残さないことで、夜の恐ろしさを知る人もいたのだろうか。もう人類は克服したはずのその恐怖は、しかしうたた寝を繰り返しているだけで、いつでも簡単に目を覚ます。
リビングへとまっすぐに続く道。その真っ直ぐさが、今は厳かにすら映る。息をひそめるように、二人は壁に背をもたれて座っている。そばの扉は閉ざされたままだ。リビングへと続く扉は開け放たれていて、光はそこにあるのだけれど。
熱を出した真乃の部屋を片付けたあとに、部屋を出ためぐるが座り込んでから、二人はそこから動かないでいる。すこし冷たい廊下の床は不快なものではないけれど、心のうちのやるせない感情とは矛盾する。温度を慣らすように隣にこしかけた灯織に、めぐるは口を開いた。
「こわい夢、見てないといいな」
体温計を持つのはめぐるの仕事だった。無機質に書かれた数値にも感情は乗る。幾度見ても変わることのないそれを少しだけ持て余しながら、二人は目を閉じた真乃のことを思い出している。
「そうだね」
一緒に暮らしていて、分け合えないもののことを考える。熱、言葉、恐怖。いつもはできるだけ幸福に目を向けているから、こういうときは冷たい地面にも触れておきたくなったのだ。
人と一緒に暮らしていく。その困難は誰もが抱えるものだから、灯織は三人でルームシェアを始める前に丁寧に話し合うことを望み、二人はそれに同意した。楽しくて難しくて美しい時間だったけれど、今思うと、それは生活の奥までは届かなかった。ふとした瞬間に見える困難や寂しさに、どうやって向き合えばいいのか、いつでもみんな途方にくれてしまう。それは上手に進めない道を歩くようなものだ。
そういうとき、いくらでも立ち止まっていいと、そう三人は決めている。
頷くように灯織の肩にもたれながら、めぐるは目を閉じて思い出している。
「熱出すときに見る夢って、なんか見た目も音も怖いよね」
「音?」
考えたことがなかった、と、灯織は思いながら、しかし自分の夢を思い出していくうちに、めぐるの言葉の意味を理解していく。
幼い頃の夢では、見えている恐怖の後ろに、確かに何かがあったことを思い出す。三人で挑戦したホラー映画のことを思い出す。恐怖の後ろにはいつも音があった。耳を塞ぐ二人のことを思い出して少しだけ笑いそうになる。
「確かに、あれは音なのかもね」
「音楽っていうより、なんか鳴ってるなって感じがする」
「楽器とかじゃないよね。あれはなんだろう」
記憶を頼りに答えを探しても、夢のことは上手に思い出せない。その代わり、あるのは怖がっていた自分のことばかりだ。そういう自分の感情から、上手に言葉を探し続けるのは、生きていく上で何度でも必要になるけれど、何度だって難しい。
「怖い音だったな。どぅーん、どぅーん、みたいな」
めぐるの言葉に、灯織は思考から浮き上がる。言葉の迷路を歩くとき、いつも助けてくれるのも言葉だ。浮き上がった言葉を捉えながら、それを道標のように歩き出す。
「どぅーん?」
「そういう音が、鳴ってた気がする」
そこから、二人の言葉探しは始まっている。
■
『うつしちゃうから』
真乃はそういって、二人を部屋から遠ざけた。それは間違っていないから、悲しむ必要はない。
悲しいのは、そばにいれないことではなくて、一緒にいられないことだった。扉一枚のなんてことのない距離で、同じ部屋の中でも「私たち」は一緒にいられなくなる。どれだけ遠く離れていても、一緒にいられることだってあるのに、どれだけに近くにいても、一緒にいられないことがある。
だから、光を探している。悪夢の森も抜けられるような光。
それは柔らかくはないかもしれない。
それは暖かくはないかもしれない。
それでも、そういうものを届けられるように、二人は言葉を探し続けている。
■
――ばくばく」
――どきどき」
――ぐるぐる」
――ひゅーひゅー」
■
夜を克服したように、人はいつか夢も克服するのだろう。
それまでは、こわい夢を寝かし続けるしかないのだった。
言葉を探して、夢を寝かしつける。例え浅い眠りだろうと、少しずつ、少しずつ休息を与える。親が子どもを寝かしつけるように、私たちが安心して眠りにつけるように。その道は果てしない。夜を克服するためにかけた時間より、遥かに長い時間がかかるだろう。
それでも、探し続けていたい。
熱をはかる。体をあたためる。声をかける。
それ以外にもできることはあるはず。そう信じて、言葉を探し続けている。
■
――だんだん」
「だんだん?」
繰り返された言葉に頷きながら、灯織は幼い頃のことを思い出している。おばけのきのこに追いかけられる夢。大きくなったり小さくなったりするそれを、言葉にしてみると、少しずつ大きくなっていくそれに、だんだんと飲み込まれってしまうのではないかと泣きそうになって、夢からさめても一人深呼吸を繰り返していたことを思い出すのだ。
「怖い夢って、追いかけられてるような気がする」
「ちょっと、わかるかも」
「あれって、足音みたいだなって。どんどん、だんだん」
逃げるように歩き回っても、どこにも行くことのできなかった私達。こわい夢はいろんな恐怖を連れて追いかけてきた。だんだん、だんだん。
その足音が、いつか迎えに行く私たちのものになるように。できることがあるのかはわからないけれど。こわい夢を乗り越えられるように。
「迎えに行ってあげたいね」
「うん」
そういいながら、二人はゆっくりと立ち上がった。起こさないようにゆっくりと、安心させるように音を立てて、光の方へと歩き出す。目を覚まして部屋を出たとき、安心して光の方へ向かえるように。やさしい部屋は続いていく。