アルコールに初めて触れたのは、小学生のころの理科の実験だった。
まだ引っ込み思案で今と同じぐらい臆病だったあのころの自分は、算数と理科が得意だった。星を見るのもそうだけど、身の回りのものたちや、ものたちに名前がつくのが楽しかった。苦手なのは社会だった。漢字がかけなくて点数を引かれていくのは今でも同じだ。
少しだけいつもより大きな教室の一番前で、先生がみんなを集めて実験を見せる。いつも後ろのほうに流されてしまっていた私を、好きなんでしょと前のほうに引っ張ってくれた子は、今でもたまにメールをくれる。実験机を挟んで赤ら顔の先生がニコニコしながら今日の実験の内容をしゃべっていたのを覚えている。なんの実験だったのか、そこははっきりとは覚えていない。案外記憶とはそういうものだと知ったのは、あれから随分と経った今のことだ。
「これはね」機材を机の上に出しながら先生が口にした言葉が流れだす。
「ああきみ、危ないからもうちょっと下がって。これは、アルコールランプっていうんですよ」
試験管を試験管立てに入れ終わった先生が、大きな両の手で指し示しながら言った。後ろのほうの男子が、なんか変な形と笑う声がした。なにが起きるのか全然わからない実験よりも、外でドッチボールをしたり、鬼ごっこをしたりするほうが楽しいと思っていた子たちは、きっと自分の中の面白さを探していたのだろう。隣の学級委員の女の子が顰め面をしていたのがなんだか面白かったことを覚えている。
「この下に入っているのがアルコールです」
先生はそんな声を無視するでも受け止めるでもなく、自然と話を続ける。すこしだけ先生がそれを揺らすと、アルコールでできた液面がふらふらと揺れた。こぼれてしまわないかと身構えたのは無駄になって、先生はすぐにその手を止める。
「で、こうやって火をつけると」
先生がマッチを取り出すと、みんななんとなく前に体を乗り出した。あぶないですよ、と声をかけて、みんながもとの姿勢に戻ったのを確認した先生が、なれた手つきでマッチで火をおこすと、アルコールランプに素早く点火した。
小さな火が、確かな炎が目の前にあった。少しだけ揺らめいているそれは、今まで見たことがない赤色と青色が混ざり合ってできていた。
実は、そこからあとのことは、あまりよく覚えていない。
ただ、みんなが大きな音に歓声をあげるなか、火をゆらゆらと灯すランプにばかり目を奪われていた。
▼△▼△▼
「ばーか」
そんなアルコールも、人の前ではただの酩酊状態を作り出すためのものでしかないと、そんなことを考えていた。今日に限っては自分が悪かったような気もするが、そんなことは言っていられない。もうなれた鍵を開けたら、出迎えた言葉がコレだ。声の主は頬を不自然に赤らめながら、クッションを抱きかかえている。二人で選んで買ったそれは、もとの綺麗な四角からずいぶんとひしゃげてしまっていた。
新田美波の21の誕生日に、アナスタシアが一緒にいられないのは運が悪かったとしかいえなかった。3日続きのロケ。寮につくのは十時過ぎ。まだ学生であるアナスタシアが夏季休暇に入ったのを利用して行われたそれは、みごとに二人での誕生日の可能性を潰してしまった。
「お仕事なんだから、仕方ないよ。頑張ってね」
そういいながら笑う美波が、みんなが思っているほど「いい子」じゃないというのをアナスタシアは知っていて、だからこそ出発前に予め寮長に外泊届けを提出していて ―― 受け取った彼女が少し苦笑いしながら「まるで忠犬ね」と静かに言ったことにたいして反論することはできなかった ―― 、少しだけ疲れた体を無視して寮に着くなり自分の部屋に荷物も置かず、なれたルートをたどりだしていた。その行動は報われたとも言えるし、報われていないとも言える。ロビーで部屋番号を押したとき、「アーニャです」の言葉に自動ドアが開く音だけが聞こえたときから、なんとなく面倒な予感はしていた。
ドアを開けたアナスタシアを待ち受けていたのは、ソファに頬を預けたアルコールにとっぷりと浸かった美波の姿だった。彼女の前にはいつのまにや用意されて使われてしまった酒瓶と缶が丁寧に並べられている。酔っていてもそういったところだけはいつもと変わらないのだと半ば現実逃避気味に考えながら、アナスタシアは届くかもわからない声をだす。
「ただいま、美波」
どこか冷たさを含んだ声になってしまったことを後悔しながら、自分の荷物をダイニングテーブルの上に置くと、美波の方に向かう。どのぐらいのペースで飲んだのだろうか。わからなくて、想像する最悪の自体よりはマシであることを願った。近づいてくる足音に気づいた美波は顔を上げると、その目にアナスタシアを捉えてとろんと笑う。
「あれ、アーニャちゃんだぁ」
そういうと美波は手を伸ばしてアナスタシアにふれようとするが、酔った体がうまくバランスを取ろうとしてくれないのか、いつもならひどくまっすぐな芯がへにゃりと曲がって、慌ててアナスタシアが手をのばす。力の抜けた美波の手を握って、そっとバランスをとってあげると、彼女は溶けきった顔をさらに溶かしていった。座った美波の前で、アナスタシアはすこし膝を曲げて視線を合わせた。出会ったばかりのころの二人の身長は、すこしだけ変わってしまっていた。
「はい、あなたのアーニャですよ」
そうアナスタシアが美波の耳元で囁くと、酔った美波の口から小さく笑い声があふれる。ふふ、ふふ、と目を細めながら笑う彼女を見て、アナスタシアも楽しくなって笑う。手に握りしめる力を強めたり弱めたりして、なにが面白いのか楽しそうに口角を上げる美波をアナスタシアも嬉しそうに眺めた。そこまでは平穏な日常だった。
「美波」
すこしだけ改まった声で囁かれたそれに、美波は不思議そうな表情を作って顔を上げた。
「誕生日、おめでとう」
それは今日彼女に届ける三回目のおめでとうだった。一つ目はテキストで、二つ目は電話で。次の日からの撮影を考えて早めに切り上げられたそれは、それでも彼女におめでとうを伝えるのに十分な時間があった。そうしてこれが三つ目。
だが、それを聞いた美波はさっきまで浮かべていた笑みを消して、アナスタシアの手を離した。何事かと驚いたような顔をしたアナスタシアを置いてけぼりにして、美波は近くにあるクッションをたぐりよせて、そうして口を開いた。
「ばーか」
アナスタシアの困ったような顔が好きだと、そう言われたことがある。昔のことだ。彼女はお酒を飲むといつもアナスタシアの可愛いところを言う。好きなところはいくらでも言ってくれるのに、可愛いところはめったに言ってくれない彼女のせいで、ひどく焼き付いてしまうことがある。
今その人は、『可愛い』困惑したアナスタシアがそこにいるのにも関わらず、抱きしめたクッションに視線を下ろすことに夢中になってる。
「楽しみだったんだもん」
まだつかみそこねているアナスタシアを置いてけぼりにして、新田美波はぽつりぽつりとこぼす。
「楽しみだったんだよ?アーニャちゃんとふたりきりの誕生日、なにしようかなって、なにしてくれるのかなって、ずっと楽しみにしてたのに」
「アー、イズヴィニーチェ、ごめん、なさい」
謝るアナスタシアには目もくれないで新田美波はこぼす。これが絡み酒というのだろうか、なんてアナスタシアは思考をそらしてみたりする。
「それなのに、仕事が入っちゃうのは仕方ないのに、期待してたのは私なのに、すっごい悲しそうな顔して、ねえ聞いてる?」
すこしだけ目をそらしていていたことに気づいた美波は、アナスタシアの頬を両の手で包んで無理やり自分の方に向かせた。
「次の日の撮影があるから無理しなくてもいいのに、十二時ぴったりに電話かけてくれたり、メールしてくれたり、それだけで十分なのに、撮影帰りでそのまま来てくれるなんて、本当に」
美波から笑顔が開いた。それはそれはいつ見たよりも幸せそうな笑顔で、アナスタシアはドキリとしてしまう。当てられた手のひらが急に冷たくなった気がした。
「アーニャちゃんのばーか、ばーか。きらい。うそ、すき、だいすき」
もうアルコールによって限界が来ていたらしい美波は、それだけいうとひどく崩れかけて、アナスタシアの手が慌てて支えた。そのままにすることはできなくて、ゆったりと彼女の体をソファに横にした。本当はベッドに連れて行くべきだとわかっていたけど、アナスタシアにもクールダウンの時間が必要だった。ゆらゆらとゆらめく彼女の感情の炎に当てられて、ずいぶんと熱くなってしまっていたようだ。あの頃見たアルコールランプの炎が上書きされていく感覚に、アナスタシアはため息をついた。燃えた恋の炎は、きっといつまでも消えることはないのだ。
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「ぜーったい……、アーニャちゃんの……、誕生日は、私が……祝うんだから……」
ベッドでもう眠りにつく美波の口から、ささやかの秘密があふれた。クスクスと笑って、アナスタシアが電気を消した。夜が続き出す。私の夢にあなたが出てきますようにと、そう祈って、目をつむった。