Sayonara VoyagE

Use me like an oar and get yourself to shore

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 気づいたときにはもう手遅れなのだ。そんなことを思いながら、白く光り始めた窓の外を目の端に写す。時刻は午前五時五十五分。どうしようもなく朝になっていた。まだ夜だと言い張ることすら怠った人間には、眠りの時間はやってこない。今からベッドに潜り込んだとしたら、きっと太陽が私たちの真上を通り過ぎても目を覚ますことはできないだろう。よって今日の睡眠は無し。合理的な判断。なんて、ふざけている場合じゃない。
 泉はもう何も再生していなかったヘッドフォンを外すと、静かにノートパソコンの蓋を閉じた。ブルーライトがなくなった途端にやってきた眠気を振り払って、スマートフォンの電源をつける。一時間後に設定されたアラームを解除した。これでもうねむれない。ノートパソコンの充電ケーブルをコンセントから抜きながら、まぶたが重くなるのを感じる。新聞配達のバイクが走り抜けていったようだ。泉が寝ようと寝まいと、休日の朝ははじまっている。走り去っていく駆動音を耳にしながら、ぼんやりとコードを巻く。どうやらバイクは役目を終えたようで、部屋の中にまた静けさが訪れた。ノートパソコンをケースにしまって、小さくまとめたコードを近くに乱雑に置いた。そうしている間にも、やわらかで暖かいベッドが泉を誘惑する。座ったらもう負けなのだ。一瞬で夢の世界に持っていかれた過去のことを思い出して、泉は一瞬だけ苦笑いを浮かべた。
 今からどうしようか。常温になったブラックの缶コーヒーを飲み干してから、空になった缶をふらふらと揺らして考える。とりあえずこれを捨てに行こう。ついでに動作チェックもしてしまおう。スマートフォンをポケットにいれて、タブレットと缶を持つと、少しだけ散らかった部屋を片付けながら、静かに扉に向かう。拾ったメモ用紙をいつ書いたのか思い出せなくて、思ったより重症だと知りながら部屋のドアを開けようとした。手がぶつかる。少しだけ大きな音が鳴った。静寂に包まれた部屋の中ではそれがやけに大きく響いて、少し驚く。心臓が少し早くなったのを感じながら、泉はある事態を想像して恐れる。どの音も聞き漏らさないようにと静かに動きながら、廊下の向こうに耳を傾ける。恐る恐る、ドアを引く。
 泉の目線の向こうにある部屋から物音は聞こえなくて、安心して小さくため息をつく。起こさずにすんでよかった。


 佐久間まゆと大石泉のルームシェア ―― 事実上の同棲ではないかという指摘を泉は断固として認めていない ―― が始まってから二ヶ月が経過しようとしていた。泉が大学生になったときにまゆの提案で始めたものだった。普段の二人を見ているとどこか忘れてしまいがちだが、まゆは泉よりも年上だ。泉が迷っているときにまゆはそっと手を差し伸べることもできるし、まゆの気配りに泉は日々感謝している。あまり口にはしないけれど。
 泉が大学に進学しながらアイドルを続けるかどうかの選択は、長い期間泉を悩ませたが、結局「保留」の答えを出してた。アイドル活動は順調だった。ただ、家から大学への通学時間、アイドル活動、制作活動、勉強時間、事務所の寮の年齢制限などから言っても、一人で生活をする選択を迫られていた。そんな時だった。もう一足先に一人暮らしを始めていたまゆが、泉にルームシェアを持ちかけたのは。
 まゆの言い分はこうだった。自分の部屋はアクセスがいい。泉の進学予定の大学と、事務所、どちらも三十分以内で行ける。家事は分担すればいい。少し広い部屋を借りたから、泉とまゆそれぞれの部屋を作っても十分に生活できる。泉は最初は驚いたが、次第にまゆの提案の魅力に抗えなくなっていた。トドメの一撃はこれだ。「泉ちゃんと暮らしたほうが、毎日が楽しいんじゃないかって」
 そんな流れで同棲、ではなくルームシェアを決めたものだから、泉が初めて部屋に入ったときにはもう泉の部屋が出来上がっていた。まゆが一人暮らしを始めてから何度か上がったことはあったが、まさかそこで自分が暮らしていくとは思いもしなかったものだから、前は何も置かれていなかった部屋に泉のベッドがおいてあるのを見て、どこかこそばゆいきもちになったのを泉は覚えている。荷解きを終えて、二人で作ったオムライスを食べて、一緒にテレビを見て、もう夜も深くなるころに部屋に入る前に二人でいった「おやすみなさい」に温かい気持ちが生まれたのを、今でも思い出せる。
 概ねルームシェアは順調だった。まゆも泉も互いを尊重して、なんていうとこそばゆいけれど、信頼していた。大きな喧嘩もトラブルもなく平和に日々が過ぎていく。二人で生活していく中で少しずつルールを決めて、必要なものを買い足していった。リビングにある二人で買ったホワイトボードには今週の当番表が書かれていて、今日は泉が朝食を作る日になっていたはずだ。ソファ前の机においてあるタブレットは泉の手によって着々と便利になっていて、まゆが新しい機能に気づくたびに新鮮に驚いてくれるものだから、泉は今日も寝ることができなかった。もしかしたらまゆが毎回自分のことを思って驚いたふりをしているんじゃないかという疑念には泉は目を瞑ることにしている。驚いているまゆは可愛いし。そんなこと、一度も言ったことないけど。
 

 静かに部屋の戸を閉めると、泉はリビングに向かう。カーテンの隙間から少しだけ刺した日の光によって淡く照らされたリビングは静寂に包まれていた。リビングに入る前に、廊下に置かれたゴミ箱に空き缶を捨てる。そっと開いたドアの向こう側は空調を動かすこともなく快適に保たれていて、まゆが眠りについたあとならこちらで作業をするのもありだ、などと今日の反省を一つも活かしていないことを考えながらキッチンの前のカウンター、写真とカレンダーと小物と思い出が並ぶそこにぽっかりと空いた空間にタブレットをそっと置く。電源をつけて、音量は小さめに設定する。ポケットに入れたスマートフォンをそっと取りだして、メッセージアプリを起動。テキストメッセージを送信しようとキーボードに指を近づけて、何を入力するか一瞬だけ迷う。結局「ありがとう」とだけ入力されたそれが何故か気恥ずかしくてそっと送信ボタンを押す。タブレット側が光って、音声でメッセージ内容を伝える。よかった、ちゃんとできていた。そんなに難しいものじゃないはずなのに、やたら時間をかけてしまった。普段の努力の怠りを何処かで反省しながら、そっとスマートフォンをスリープにする。これならリビングで家事をするまゆが連絡に気づき遅れることもあまりない、はず。まゆが家事中に私の音楽を流していることによる弊害は、考えないことにした。
 再びやってきた眠気とだるさを引き払うように、キッチンに移動して冷蔵庫の扉を開ける。冷たい空気が顔にあたって、少しだけ目が冴える。食パンはあったはず。卵と牛乳もあるようだし、フレンチトーストでも作ろうか。泉はまゆの作ってくれたフレンチトーストが好きだった。少し手間だけど、朝を持て余したものの特権だ。

 朝食に取り掛かる前に、シャワーを浴びようと思った。まゆに徹夜がバレてしまう。まゆは泉のほとんどのことに不干渉だが、睡眠時間を削ろうとする癖にだけは不寛容だった。「眠らなければなんとかなる」はまゆの前だけでは禁句だ。泉が追い詰められているときは何もいわずにコーヒーを入れてくれるまゆだが、ただの気まぐれで起きていたことを知ると、いつも優しい彼女の珍しい怒った表情を浮かべて「泉ちゃん」と怒り出し、最後には眉を曲げて「泉ちゃんの体が心配です」と悲しそうに言うものだから、泉の徹夜開発の頻度は減っていた。まゆにはいつも笑ってほしいと思う泉にとってその諌めは恐ろしいほどの効果があり、幼馴染二人は滅多なことでその手を止めない泉が最近健康的な ―― もちろん、「比較的」だ ―― 生活をしている原因を知って笑った。「クール」「知的」等の評価を受けることの多い泉の健康の秘訣が、一つ歳上のお姉さんの注意だなんて、これ程面白いこともなかなかないらしく、亜子とさくらには会うごとに「今月は何回怒られた?」と聞かれるたびに、話してしまったことを後悔する。
 泉はゆっくりと冷蔵庫の扉を占めると、リビングを出てシャワーを浴びるために部屋に戻ろうとした。した、というのは、扉を開けた先で眠っていたはずのまゆが自分の部屋の扉から部屋を覗いていたからだ。部屋の扉は閉めたはずなのに、と思った泉は部屋を見て失敗に気づく。電気を消し忘れていた。多分目を覚ましたまゆが、白い人口光が扉の隙間から漏れていたことに気づいたのだろう。まゆは部屋を眩しそうに見回って泉がいないことを確信したらしく、そっと部屋の扉を閉めたあと、ふと振り向いてリビングの扉のガラスから突っ立っている泉の姿を確認した。すこしホッとしたように笑いながらこちらに歩いてくるまゆの姿を見て、泉は負けを確信した。何と勝負していたわけではないけれど。そっと扉を開けて、廊下に出る。泉の前に立ったまゆは泉の顔を見るとすぐに訝しげに目を細めた。バレてる。泉はいたずらが見つかった子どものように、まゆからの説教を待つしかなかった。

「泉ちゃん」
「はい」

 身長はまゆのほうが小さいのに、こういうときだけは逆転したように見えるのはなぜだろうなんて考えながら、泉はまゆの言葉を待った。

「今日は何時間寝ましたか?」
「0です」
「ちゃんと眠りましょうって、まゆと約束しましたよね?」
「……はい」
 いつもはまゆをお世話しているなんて言われることもある泉だが、こういうときはとにかく弱かった。目の前のまゆは怒ったような表情をしているが、まだ少し寝ぼけている部分もあるのだろう、いつも以上に声がふわふわしている。そんなまゆを怒らせてしまうなんて、と泉の中の罪悪感は膨らむ一方だ。そんな後悔が顔に出ていたのか、まゆは呆れたようにため息をついた。

「もう反省しているみたいだから、今日はこれ以上怒りません」
「まゆ、ほんとごめん」
「そのかわり、ちゃんと今からでも寝てもらいますから」
「え?」

 言葉の意味を理解できずに戸惑う泉の手を無理やり掴むと、まゆは廊下を歩き出した。てっきり寝かせられるだけかと考えていた泉は、まゆが自分の部屋の扉を開け始めたのをみて焦りだす。「えっ」「自分の部屋で寝られるから」「大丈夫だから」なんて焦りだす泉の声を無視して、まゆは泉を自分の部屋に半ば強引に招き入れた。淡いピンクで揃えられたまゆの部屋を見ながら、同じマンションの一室でもここまで装飾が変わるものなのかと逃避するようにかんがえる。そのまま柔らかいまゆのベッドに座らされて、まゆがその前に立つ。泉は見つめるまゆの視線の意思を理解しながらも、最後の抵抗を試みる。

「寝るなら、自分の部屋で寝るから」
「そういって泉ちゃん、この前ベッドの上でパソコンいじってましたよね」
「っあれは、まだ終わってなかったからで」
「今日はもう全部終わっているんですね?」
「……」
「泉ちゃんは、ちゃんと見張ってないと眠ってくれるかわからないんですよ」
「……そんなこと、ないよ?」
「ちょっと可愛く言ってもダメです」

 どうやらこういったことに関しては、泉はまゆの信頼を得られていないらしい。今までの行動を顧みれば当たり前のことだけれど、泉はひどく追いつめられた。部屋に入っていた時でさえ、まゆの匂いに実はすこし狼狽えているのに、ベッドに座ったときからはさらに落ち着かない。

「……今日は私が朝食担当でしょ」
「そうですね」
「だから、起きてないとまゆの朝食がなくなっちゃう」
「自分で作れますよぉ。それに、」

 そうじゃなくて、フレンチトーストが。よくわからなくなった言い訳が頭のなかを巡っている泉をおいて、まゆは泉の部屋の電気を消していった。扉を閉める音を聞きながら、もうきっとなくなった逃げ出す手段を考える。回らない頭を回しているような錯覚を味わって混乱する泉のそばにまゆが戻ると、まゆは泉の隣に座った。そのまま泉の手を握る。

「まゆも一緒にねればいいでしょう」
「……へ?」
「ほら」

 そういうとまゆは手を握ったまま、いそいそとベッドに登った。そのままお気に入りらしい枕の半分に頭を乗せて、ゆったりと横になり、まだ呆然とする泉の方を見る。「ほら」と手を引かれ促された泉は、もう半ば諦め気味にまゆの横に寝そべった。そのまままゆの方を向くと、やっと笑みを浮かべたまゆが泉の瞳に映った。シングルサイズのベッドに二人分の広さはなくて、それを埋め合わせるように近い距離ももう気にならなくなった。暖かい薄い毛布とまゆの体温が去ったはずの眠気を連れてくる。

「これで、まゆの分の朝ごはんもいらなくなりましたね」
「……」
「今日はお昼食べたら、一緒に買い物に行きましょう」
「……うん」

 泉の声に満足したのは、まゆは穏やかな笑みを浮かべて目を閉じた。泉もそれに流されるように目を閉じる。昼ごはんはまゆ一緒に作ろう。フレンチトーストがいいなと思いながら、泉は静かに眠りについた。


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