# ハーフサイズ・スリーパー
夜がやってきて、部屋の中を埋め尽くしていた。時計が一秒一秒を変わりげのない機械音で伝えている。
この部屋にあるのは、机、クローゼット、椅子、そしてベッドだけだ。照明の消えた部屋の中、摂氏36.7度が二つ横たわっている。
熱源の持ち主の一人である横山奈緒は、できるだけ静かに丸めた足を伸ばそうとしていた。丸めた体より、伸ばした体のほうが狭いベッドのスペースをすこしでも大きく使うことが出来るからだ。暖かさが溢れかえった毛布をいつものように剥ぐことがないように気をつけながら、ゆっくりと曲げた膝を可動域のなかで動かしていく。
その行動は間違ってはいなかった。ただ、それはもう一人が深い眠りについていたとしたら、だ。奈緒が足を伸ばし始めたとほぼ同時に、隣で目を閉じていた佐竹美奈子が目を静かに開けて、首だけを動かして奈緒の方に向けた。すこしだけいつもより細く開けられた目は、すこしだけいつもより潤っていて、彼女が眠りにつきかけていたと、奈緒にはわかった。申し訳ないことをしてしたが、起こしてしまったことは変わらない。すこしずつ大きく目を開けていく美奈子に、奈緒は静かに落とした声をかける。
「ごめん、起こしてしもた?」
そう言う奈緒の顔を、まだ少しだけ眠気の残る美奈子の顔がとらえている。まだ明日になったばかりの部屋で、外の道路からの音がすこしだけ空気を揺らす。美奈子は一度目を閉じて、もう一度開けたときにはもう眠気がほとんど見えることのない表情を浮かべていた。
「ううん、大丈夫」
そういうと美奈子は体ごと奈緒の方を向いた。まだ伸びきっていなかった奈緒の足と美奈子の足がぶつかって、痛みはないのにどちらも「ごめん」と言葉をこぼした。落とした言葉のタイミングが重なっていたことがおかしくて、何故か少しだけ気恥ずかしい。二人が言葉をなくしている間に、二人とも体を伸ばしきっていた。彼女と彼女の間には、人一人分のスペースが、二つの熱源から少しだけ暖められて、でもどこか冷たく空いている。
横になった二人の距離は、いつもより少しだけ狭い。頑なに体の下敷きになっている左腕を開放すれば、相手にすぐに届くことをしっていても、奈緒は体を動かすことはしなかった。かわりに静かにため息を落とす。
「こんなことなら、も一つ布団買っておけばよかったなぁ」
そう言った彼女がいるこの部屋は、彼女の部屋で、寮の一室だ。一人分の生活スペースとして十分であっても、もう一人同じ部屋で眠る人間がいるようには考えられていない。予備の寝具なんてものはありはしなくて、奈緒は「何かと役に立つ」と購入を進めてきた母親のアドバイスをそのままにしておいたことを後悔する。
「私が無理言っちゃったから、ごめんね」
「いや、そういうんじゃなくてな」
美奈子がこぼした言葉にあわてて言葉を返す。言葉の受け渡しがすこしだけ上手くいかないのは、この毛布の中の温度のせいかもしれない。定期ライブのあと、もう終電がなくなっていて、困っている美奈子を泊めてあげるといったのは奈緒の方だ。二人で一緒のベッドに寝ることが、どういうことかちゃんとわかっていなかったから気軽に返事をしてしまったのかもしれない。でも、二人で一緒のベッドの使うということがどういうことか - こういうことだと - わかっていたとしても、奈緒はきっと美奈子を部屋に誘ってあげていただろう。二人の距離はそれぐらいだった。
ベッドに眠り人はまだいない。かわりにそこにいるのは、眠りにつくことを待つ二人の女の子だ。彼女たちの体温で、すこしずつ上がって行く毛布の中の気温が、逃げ場をなくしていつまでもこもっている。夜はもう部屋を黒く染めたはずだったのに、二人の目に映る景色はすこしずつ明るさを帯びてくる。穏やかな夜に包まれるには、いつもと違うことが多すぎたせいだろう。
美奈子は眠りにつくことを先延ばしにすることにした。眠るには二人分の熱源を持った毛布は暑すぎる。ずっと隠していた右腕を体の重みから解放すると、ゆっくりと毛布を剥いだ。
「熱い、ね」
そう言いながら、彼女は体を起こす。冷たい空気を上半身に浴びる。閉じこもっていた熱はあっというまにいなくなった。それが気持ちよさそうだったから、奈緒も同じ様に毛布を上半身からどけて、体を起こす。二人に重なっていた重みが上半身ぶんだけ消えて、ちっとも変わっていないはずなのに、二人の距離も普段のそれと変わらなくなったように思えた。
「もう毛布の季節でもないんかなぁ」
そう言いながら奈緒は毛布の縁を指で挟んで、すこしだけなぞるように動かした。まだ冬は眠っていないが、もう春は動き出している、そんな日の夜だった。どこまでも曖昧な季節だから、二人は上手く眠れなかったのかもしれない。まだ春がめざめていなければ、冬の寒さが二人を暖かさに導いてくれただろうし、もし冬が眠っていたら、もう少しだけ薄い掛け布団が、夜のすこしの残酷さから彼女たちを守るだけで二人は眠りにつけたはずだ。どこまでも曖昧な季節だった。どこまでも曖昧ない季節だから、どこまでも曖昧に目覚めてしまっているのだ。
閉め切られた部屋で、空気は確かに回っている。二人の熱はあっというまに空気の中に溶け込んで、まるで最初からそんなものなかったかのように部屋は夜の温度をしている。曖昧な季節の夜の温度。美奈子が口を開く。
「明日は、ふたりともお休みだよね」
「その、はず」
「よかった」
言葉がこぼれては、静かに部屋のなかに落ちて、消えていく。言葉は必要ないはずだった、この短い眠れない夜を過ごすためには。ただ、二人の間に感じられる小さな壁を、二人の声が越えられるか、確かめているだけだった。夜も黒も、見えないものを映し出していく。誰と誰にでもあるはずの壁が、夜はなぜだかこわい。奈緒が静かに細く、息を吐いた。美奈子はそれをただ見つめている。言葉はない。沈黙が二人の耳元で鳴り響いている。耳を塞ぎたくなるような沈黙だと、奈緒は思った。苦しいから、聞きたくないから、声を出す。この沈黙がうるさいのは、自分のなかで確かに音をならしているものが、閉じこもっているからだ。
「今日のライブ、すごかったな」
まだその余韻に飲み込まれているような語り方だった。出演はしていないはずの、今日のライブのことを、なぜだか怖いぐらいに思い出せる。裏方の作業から抜けだして客席の端の方から見たその熱気を、噛みしめるように口にする。
「なんだか、みんなほんまに凄くて」
言葉が繰り返されるのは、それを確かめているからだ。脳内で蘇っていくライブの映像が、彼女に言葉を作らせる。最高のライブ。端的にいえばそうだった。そこで輝く側になれなかったことが、たとえ回数が決めたとしても、奈緒の悔しさを生んだ。口から出る言葉はすこしだけ震えている。夜じゃなければわからなかっただろう、不安も、恐怖も、目も慣れてきたはずの暗闇は、朧気に、でも確かに映しだす。きっと明日になれば、またいつものように仕事があって、きっと次のライブでは、7時間前に見た輝き以上のものを、自分で作り出すことが出来るのだろう。きっと彼女たちは、いつまでも進んでいける。でもその一歩を踏み出す前には、すこしだけ苦しみが彼女達を襲う。こんな夜には、悔しさが彼女たちに襲いかかるのだ。
「なんて、私らしくないな」
喋りすぎてしまったと思ったのだろう。外していた仮面はすぐに付けられてしまって、彼女が演じたい「横山奈緒」の顔がそこにはあった。仮面の付け方が歪なことは、彼女もわかっている。それを黙って聞いていた美奈子も、十分わかっている。だけど彼女は、何もいわない。また沈黙が響いている。
「寝よ寝よ、おやすみな!」
いつもより少しだけ大きな声で挨拶をして、奈緒は自分の体をベッドに倒しこんだ。無理矢理目を閉じても、眠りがやってくる気配は全く無い。それでも、目を瞑るしかない。そうやってひたすら耐えて、夜が自然と自分を包んでくれるのを待つしかない。いつもよりすこしだけ、苦しい夜には。
目を瞑り続ける。黒が目に移り続けて、沈黙が耳に響く。それを耐えていると、ふと隠しこむのを忘れていた左手に、暖かくて柔らかい、何かが触れる。目を開ける。
「え、」
「こうした方が、眠りやすいかなって」
そう言った美奈子は、奈緒の手を握りしめていた。強くはないけれど、確かに感じられるその感覚が、自分のなかにある暗い何かをすこしずつ夜に溶かしていくような気がして、奈緒はまた違う感情で胸が苦しくなる。二人の間にあるはずの壁は、繋いだ手と手で乗り越えることが出来て、握りしめられている手からかすかに感じる脈拍は、沈黙を柔らかく壊していく。そんな、気がした。
夜はもうやってきていて、部屋を埋め尽くしている。時計が一秒一秒を変わりげのない機械音で伝えているこの場所に、摂氏36.7度の二人は、一つに繋がれている。二人の間にあったはずの、どこか冷たかった空間は、二人の手で確かに暖かくなっている。足がぶつかる心配をするのは、もうやめた。
奈緒が空いている片手で、折り返した毛布を引っ張った。中途半端にかかったそれでも、今夜は十分だった。
「おやすみ」「おやすみ」
どちらともなく呟いた声は夜に消えて、二人は静かに目を閉じる。夜が二人を包みこんで、半分このベッドの上で、少女は二人一つになって、静かに夜に包まれていった。