Sayonara VoyagE

Use me like an oar and get yourself to shore

最近の投稿このサイトについて

 暖簾に書かれた字を見上げる二人の頭上には、少しずつ大きくなっていく雪が落ちている。
「情緒がないですねぇ」
「そうですね」
 鴨、日本酒。それだけ書かれた青色の布がはためく奥には、すりガラス腰にいくらかの人影が見える。少なくとも人はいる。それだけはわかった。
「もうちょっと駅前の方とか行ってみますか?」
「いや、ここにします」
 少し引き気味になったプロデューサーに逆らうかのように、琴葉の足は一歩分の距離を前に勧めた。曖昧な笑みを浮かべながら、プロデューサーは今にも下がろうとしていた体を向き直した。
「田中さんがそういうなら、ここにしましょう」
 扉を開くと、店のなかの暖かい空気がやってきて、二人は吸い込まれるように店の中に入っていく。その暖房の温度と照明の色を見て、傘を持たずにまた店を探すなんて愚かなことを考えていた三十秒前の自分たちを信じられなくなった。
 案内された席について、お品書きを覗く。今日最後の食事を決めるための意識は、さっきから冷たくなった手を暖めてくれるお手拭きに持ってかれっぱなしだった。
「どうしますか」
「プロデューサーに、おまかせしてもいいですか」
 しばらく泳がせた目を閉じると、驚くほど快適になった。体を椅子に思い切りあずけると、どこか懐かしい感じのする背もたれが受け止めてくれる。力の抜けていく肩を見て、プロデューサーは笑う。
「お疲れですか」
「疲れたというわけではないんですが」
「ですが?」
「寒くて」
 それでも根気よく傾け続けられていたお品書きは、その言葉を聞いてやっとプロデューサーに向き直る。主人の字なのだろうか、達筆に筆で書かれたそれを嬉しそうに眺めている。
「寒いと、大変ですよね」
「雪が降るなんて、知りませんでした」
 プロデューサーが、店員を呼び止めた。
「鴨の燻製と、鉄板焼き、季節の野菜の天ぷら、とりあえず以上で」
 メニューを閉じる音に、琴葉が目を開けた。
「私、鴨食べたことないんですよ」
「なるほど、なかなか食べる機会がない食べ物ですからね」
「鯨とかも、食べたことないんですよね」
「食べようとしないと、なかなか食べられないものですからね」
「プロデューサーが子どものころは、給食で鯨が出たって本当ですか?」
「私のころは、流石になかったですね。私より少し年上の人達なら、あるかもしれないですが」
「なるほど」
 言葉少なに夕食を待つ二人のテーブルに、燻製が運ばれてくる。
「わさび、つけるんですか」
「そう、みたいですね」
 箸を持って固まった彼女は、それでもその言葉を聞き逃さなかった。
「プロデューサー、お詳しいのではないのですか」
「食べようと思わないと、なかなか食べられないものですからね」
 そういって箸も持たずに笑っている彼の表情を見て、彼女はおそるおそる、といった感じで、箸を伸ばす。
 今日いちばんていねいにわさびを盛り付けると、目を閉じて口に含んだ。その目はとたんに開かれて、彼女は行儀よく飲み込むと、口に手を当てた。
「美味しい」
「もうちょっと頼みましょうか」
「はい」


作者HP / 感想フォーム / お問い合わせ(メール)