気づくと、もう一分も立ち尽くしていた。開いたままの扉を伝える冷蔵庫のアラームに佐久間まゆは我に返った。慌てて淡くオレンジに光るそれの中から中段の大皿だけ取り出すと、静かに白い扉を閉める。一人しかいないキッチンに閉じるがやけに大きく響いて、なんとなく少しだけ、寂しいと思った。
時計の針がどちらも真上を指していても、冷蔵庫からくる冷気が心地よく感じられない季節になったのだ。そんなことに気づきながら、まゆはキッチンのコンロとシンクの中央にそっと大皿をおいた。昼食の準備も始まっていないキッチンは、ひどく平和に満ちている。目覚めたときには一人だったから、掃除も洗濯も何もかも終わらせてしまっていた。少しだけいつもより軽い洗濯物達になんとなく寂しくなってしまったのはまゆだけの秘密。洗い物も一人分ではあっという間に拭き終わってしまうから、水切りかごも広々としていて、そうすると静かな部屋の中、まゆには悩むことしか選択肢が残されていないのだ。
泉とまゆが二人で暮らす部屋に、泉はもう三日も帰っていなかった。これだけ言うと、まるで二人が喧嘩してしまったかのようだとまゆは思う。実際、昨日のテレビバラエティ収録で一緒だった渋谷凛にその話をしたら、心配した表情で「大丈夫?私から泉叱っておこうか?」と慰められかけた。叱っておこうか、の言葉がなんだかおかしくて、慌ててまゆは理由を説明した。凛もお姉さんなところがあるのだと思いながら。
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佐久間まゆと大石泉のルームシェア――ほとんど同棲だよね、と北条加蓮にからかわれてもまゆは否定しなくなっている。真意はさておき――が始まってから、もう六ヶ月近くが経っていた。生活は順調だった。泉の徹夜癖はあまり治っていない。怒るたびに反省した表情を見せるのに、どうしてここまで治ってくれないのだろうとまゆは不思議に思っている。ただ、怒ったあとの「寝かせつけ」で、同じベットで眠った泉が普段よりも甘えるように近づいてくるのがなんだか可愛くて、少しの喜びを享受しているまゆもあまり強く言えないのが現実だった。「柔らかな共犯関係」の言葉が、泉を起こす十分前のまゆの頭にはいつも浮かんでくる。
まゆのアイドル生活と大学生活は順調だった。まゆが通う女子大のキャンパスにいる他の多くの女の子達に比べたら、まゆだって十分忙しい毎日を過ごしていたけれど、アイドルとプログラマと情報工学徒を同時にこなす泉に比べれば、まゆは余裕のある毎日を送っていると思っている。だからホワイトボードに書いてある家事担当が泉の日であっても、家にいる時間が長いまゆがやってしまうことが多かった。遅くに帰ってきて家事が終わっているのを見るたびに申し訳なさそうにする泉は、代わりにといってはなんだけど、とよくまゆにプレゼントを買っていた。それはケーキだったり、本であったり、欲しがっていた食器であったりしたけれど、まゆが本当に嬉しいのはそのどれでもなく泉の思いやりだということを、それだけあれば十分だということを、まだ泉は理解していない。近くても伝わらないこともあるのだと、まゆは半分諦めている。
泉の帰宅時間は遅くなりがちだった。何となくおやすみなさいは言いたくて、まゆは泉を待つのだけれど、健康体なまゆはそのまま寝てしまうことが多かった。朝には気づくと自分の部屋のベッドに寝かされていて、果たしてどのようにダイニングから自室のベッドへ移動しているのか、まゆはなんとなく聞けないでいる。まゆが待っていると遅くなったことを謝りながらもどこか嬉しそうにしてくれる泉を見ると、次の日もまゆは本を読みながら、台本を暗記しながら、編み物をしながら泉の帰りを待ってしまうのだった。マフラーは今年の冬が始まる前には出来上がりそうで、水色とピンクの二本は冬になればきっと並んだりすることもあるだろう。並んでつけることができれば、それは幸せだろうとまゆは思っている。
そんな泉は三日前から彼女の実家に戻ってしまっていた。大学の学祭で休みになっているこの期間を利用して、誘われていた研究プロジェクトのサンプル実装を終えてしまうのだと、そんなようなことを言っていた気がする。泉がまゆの住む部屋にやってきたときに持ち込んだものはそんなに多くなかった。可愛くピンクを基調に彩られたまゆの部屋とは違って、シンプルに揃えられた泉の部屋にあるノートパソコン二台(オーエスが違う、とか説明された)の他にも、泉は自分用のパソコンを持っているようで、スマートフォンですら泉に教わらなければ知らない機能がたくさんあるようなまゆには、そんなにたくさん持っていて何が嬉しいのか全くわからなかった。性能がいいとか、映像が綺麗だとか、いろいろあるのかもしれない。泉と仲良くなってばかりの頃、もっと泉のことを知りたいとプログラミングを教わって、「Hello world」だけ表示させたことはあったけど、あれが一体どうやったら普段使っているような時計アプリであるとか、メッセージアプリになるのだか全く想像がつかない。便利なアプリをいつの間にやらキッチンに置かれた共用タブレットに追加している泉は、そんなまゆからしたらどこか魔法使いのようでもあった。でも、その魔法の裏に隠された泉の努力をしっているから、まゆは泉を魔法使いとは言わない。
そんなまゆの知らない世界ばかり生きている泉の今回のお仕事は、泉が通う大学で募集されていたバイトらしい。ノートPCの性能(正確にはアルファベット三文字の何か)では足りないので、実家においてあるパソコンを使うのだと言っていた。そう言われてしまえばまゆは頷くしかない。それよりも、その事実を伝えられたのが前日の夜だったことがすこし許せなくて、あんまりちゃんと見送ってあげなかったことを少しだけ後悔している。
★
時計の長針が右に四分の一だけ回っている。とりあえず昼食の準備をしようとダイニングテーブルに移動させられた大皿の上には、三日前には食べられているはずだったパンプキンパイが寂しく丸く乗っている。作られてしまったことそのものが間違いだったかと思ってしまうぐらい、食べられない冷えたそれはあまりにも悲しかった。そのパンプキンパイが作られたのは十月三十日の午後三時のことで、まゆはこの時泉と十月三十一日を過ごせると信じきっていたものだから、十時愛梨からコツを教えてもらって少しだけいつもより気持ちを込めて作られたそれは大きめだったし、一人で食べるには身体には大きすぎて、心には寂しすぎた。ハロウィンといえばみんなが思い出すあの顔も、パイの上でとても上手く作れていて、なんだかそれが自分をあざ笑っているようにまゆには思えた。ねえねえ、どうしたんだい、もしかしてあの子があんなイベントのこと覚えているとでも思ったのかい。自分で作り出した声が、自分の痛いところをついてくる。
昼食のメニューも決まらないまま、まゆはただダイニングテーブル近くの椅子に座って、これからのパンプキンパイの行方について考えている。単純におやつとして一人で消化してしまうのはあまりにも悲しかったし、あくまでプレゼントするつもりで――一緒に食べることが出来たら幸せだろうと思っていたのは事実だったけど――いたものを食べてしまうのはこれ以上ないくらい虚しいことだった。
結局自分が何に腹を立てているのかということを、まゆはとっくにわかっている。泉が悪いのだ。泉に原因があるわけではないけれど、やっぱり泉が悪いんだと思う。まゆが大事にしたいと思うイベントだとか、そういったことに対して、泉はあまりにも無頓着すぎた。七夕は完全に忘れられたし、夏休みに花火に行きたいという話をそれとなくしたときだって泉の顔に浮かんだのは「いいよ」でも「いや」でもなく「なぜ」だった。本当にひどいと思う。結局購入した小さめの笹も、二人で使うにはちょっと多かった線香花火も使われることはなくクローゼットにしまわれている。今回もなんとなくそうなるんじゃないかと思っていなかったと言えば嘘になるけれど、それでもただ「トリック・オア・トリート」と言って、二人で一緒にお菓子をたべるハロウィンぐらいは一緒に楽しめると思っていた。かぼちゃ料理のメニューもチェックしたし、――これは冬至ではないかと料理中に思ってしまったことは秘密だ――、可愛い雑貨だって買った。泉が帰って来る時間を聞き出して、それまでに飾り付けしようと思っていたというのに、まゆが出迎えた泉がまっさきに言ったことが「明日から三日間いないから」だとしたら、それはすこしぐらい怒ってもいいだろうとまゆは思っている。
特別なことがほしいんじゃなくて、せっかく一緒に暮らしているのだから、少しはイベントを一緒に楽しんでくれたっていいじゃないですか、というのはまゆの主張だった。一緒に暮らしてるだけだし、と言われたらそこまでだったけれど、それでもまゆは泉と七夕の飾りを一緒に楽しみたかったし、花火をすこし小さめのベランダで二人で並んでやりたいなと思っている。正月はどちらも実家に帰ってしまうかもしれないけど、クリスマスケーキは一緒に食べたかった。ハロウィンだって二人で楽しめればそれでよかったと思う。
ただ、これを毎日忙しく過ごす泉に求めるのは身勝手なのかもしれない。泉はそういうことを、どうでもいいと思っているのだろう。泉が自分のことをないがしろにしているだとか、鬱陶しく思っているとかではないというのは、普段の生活でわかっていることだけれど。忙しくて、ただ忘れがちなだけなのだ。まゆはそう結論づけると、もう一度ため息をついた。二人は一緒に暮らしているけれど、別に趣味だとか生活スタイルだとか一緒にするわけじゃない。無理矢理自分を納得させると、まゆはため息をついてとりあえず椅子から立ち上がった。この大皿の上のお菓子の処遇は昼ごはんのあとに考えよう。そう決めると昼ごはんの準備を始めることにした。その時だ。部屋のチャイムがなったのは。
すこしだけ高く響く電子音にあわててモニターを見ると、インターフォンには泉がいた。インターフォンの右端で、解錠の音がする。廊下の方からも同じように音が聞こえて、慌てて玄関に向かう。
玄関につくと、鍵を外し終えた泉がチェーンにひっかかって諦めてドアを締め直していたところだった。慌てて玄関にあるサンダルを履いて、チェーンを外す。こちら側からドアを開けると、すこしだけ気まずそうにした泉がたっている。
「おかえりなさい、泉ちゃん」
まゆはこの瞬間がいつも好きだった。泉がきれいな顔をすこし柔らかくして、優しく返事を返してくれる。
「ただいま、まゆ」
そういうと玄関に入って、部屋に上がったまゆの代わりに泉は静かに鍵を閉めた。荷物を玄関において、靴を脱ぎながら喋りだす。
「いないのかな、と思ったんだけど」
「今日は大学もお仕事もおやすみですから」
泉の代わりに荷物を持とうとすると、「大丈夫」と遮られる。立ち上がって荷物を持った泉とまゆは一緒にリビングに向かう。
「お昼は?もう食べちゃった?」
「まだですよぉ。今から作るつもりです。泉ちゃんの分も作れます」
「そっか。よかった。食べてこようかなとも思っただけど」
そのあとに続く言葉をまゆは聞き逃してしまった。正確には、聞く余裕がなかった。泉が片手で開けたドアの向こう側に、パンプキンパイが置かれたままであることを思い出したからだ。別に後ろめたいことをしているわけではないのに、一瞬どきりとする。どう説明したら。慌てる。さっきまでは怒っていたぐらいなのに、今ではどう説明すればいいかわからなくなってしまった。
泉は机の上にある大皿を見ると、「そうだ」と一言だけ言って、机に荷物を置いた。ひどく慌てるまゆをおいて、自分のカバンから何かを探している。
どこかいたずらを見つかった幼い子どものような感覚に陥りながら、まゆは泉を眺めている。お目当てのものはすぐに見つかったようで、それを取り出した泉はこちらを向いた。
「はい、これ」
「え?」
「遅くなったけど、ハッピーハローウィン」
そう言いながらまゆに向ける手には、小さな緑色の包装用紙の箱が握られていた。そっと受け取ると、泉は上着を脱ぎながらかたまったまゆに説明を始める。
「家に向かう途中で気づいたんだよね、そういえば今日ハロウィンだったなーって。だからちょっと遅くなっちゃったけど、やらないよりはいいかなって思って、今日買ってきた。小さなチョコレートの詰め合わせみたいな奴なんだけど……好きじゃなかった?」
黙ったままのまゆに気付いたのか、泉は最後に心配そうに問いかけてくる。まゆは泉の問いかけにはっと顔を上げると、まゆはあわてて返事をした。
「いえ、とっても嬉しいです」
そういうとまゆは自然と笑みを作っていた。そんなまゆをみてすこし安心そうにした泉は、バッグの荷物を整理しつつ前を見る。
「七夕も花火も私のせいでできなかったでしょ?ハロウィンぐらいはやりたいなっていうのは十月のはじめ思ってたんだけど、忙しくてすっかり忘れてて……まゆが喜んでくれたら嬉しいよ」
そういうと泉は「部屋戻るね」と一言だけ残して、そっとリビングのドアを開けていった。残されたまゆは静かに胸元にクッキーケースを抱きしめた。戻ってきたら、一緒に昼ごはんのパスタを作ろう。そうして昼ごはんをすませたら、作ったパンプキンパイと貰ったクッキーを一緒に食べるのだ。紅茶もいれなくちゃと思いながら、まゆは静かに泉が戻ってくるのを待った。すこし遅れたハロウィンがやってくる。きっと来年はトリック・オア・トリートだって言えるだろうと、まゆは思っている。