『次は、』
車掌のアナウンスが、電車内に広がる。もう、いくつの駅を通り過ぎたのだろうか。過ぎ去っていくホームを数えるのは、もうとうにやめてしまっていた。
隣で目を閉じていた春香が、ぱっと目を開ける。そうして、私の肩に自分の頭がのっていることに気づくと、あわてるように、身体をまっすぐにして、私の方を向いた。
「ごめんね、寝ちゃってた?」
彼女の声には少しだけの気まずさが感じられる。いまさら、気にすることなんてないのに。私はわかりきった質問には答えずに、彼女が本当に望む答えを返す。
「大丈夫よ、眠っていて」
そうすると、彼女の顔から申し訳ないような表情が少しだけ消えて、代わりに安心したときの表情が映る。私の伝えたいことは、上手に春香に伝わったのだろうか。不安がよぎって、流れていく。
ありがとう。春香はそういうと、また私から体をそらして、彼女の前の誰も座っていない座席を見つめるようにした。あと1分もすれば、春香は目を閉じる。そうして3分も過ぎれば、また私の肩に、一人分の頭の重さがかかるだろう。私はわかっていた。
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逃げちゃおうよ、と春香は言った。
その日も、いつものような一日だったはずだ。私は耳元で流れる音楽と目の前の机においてある楽譜に、いつものように意識を向けていて。春香もいつものように、持ってきたファッション雑誌を開いていたはずだ。壁で区切られた向こうには、いつものように、小鳥が作業をしていて。小さな事務所の応接室には、いつものように二人しかいなかった。そのはず、なのに。
ふと五線譜と空気の波が作り出すものから離れて、顔を上げると、春香が私を見ていることに気がついた。いつもとはすこしだけ違う彼女の表情に、すこしだけ、心がざわつくように動いたような気がした。春香が何を考えているのか、何を私に伝えようとしているのか、まったくわからなくて、私は作業の手を止めて春香と向き合うことしかできなかった。
「千早ちゃん、明日って時間ある?」
身構えた私への春香からの言葉は、思った以上に何気ないことだった。
「ええ、別に大丈夫よ」
それは紛れもない事実だった。まだ売れていない無名アイドルのスケジュールは、レッスンとたまの地方営業ぐらいでしか埋まらない。今日はレッスンがあったけれど、明日は学校もレッスンも何もなかったから、自己練習に時間をかける予定だったけれど、春香が誘ってくれるなら断る理由なんてなかった。
私の返事を聞くと、春香はにへら、と笑った。そのあと、私に向かって何かを言おうとした、のだと思う。それがわからなかったのは、口を開きかけた春香がすぐに下を向いてしまったからだ。どうやら言うか迷っているようだった。こういう場合は、私から聞いてあげた方がいいのだろうか。わからなくて、私の「春香」という言葉は、音にならずに自分の中に消えていった。
やがて顔をあげた春香は、すこしだけ申し訳なさそうな顔をしていた。
「おでかけ、してみない?」
「おでかけ?」
オウム返しに言葉を放った私に春香は頷いた。そう、おでかけ。春香は体を私の方に向け直した。
「どっかさ、電車とか使って」
「…どこへ?」
「特に決めていないんだけど、どっか遠くに行きたいなーって」
春香は楽しそうに喋る。私を見つめるその笑みの奥に何があるのか、私には想像がつかなかった。
「逃避行だよ、逃避行」
何も言えずに固まっていた私に、春香は楽しそうに続ける。逃避行。どこへ、逃げるというのだろう。アイドルという仕事からだろうか、それとも現実からだろうか。
「私は、別にかまわないけれど。」
一秒まるまる考えて、出てきたのはそんな言葉。
私の言葉を聞くと、春香はまた、にへら、と笑った。それが、昨日のことだった。
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私が少しだけ、過去にいる間も、春香は目を閉じて眠りの世界を旅しているようだった。
春香の深い茶色の髪が、私の肩に垂れ下がっている。少しだけ大きく息を吸うと、春香の香りが、甘い甘いお菓子のような香りが、私の体に入ってくる。彼女が作るお菓子ように、春香はなぜか、いい匂いがした。バニラのような、はちみつのような、チョコレートのような、春香の匂いがした。
どうしてあんなに可愛らしい香りがするのか、春香に一度聞いてみようと思ったことがある。さすがに、どうして春香はいい香りがするの、とは聞けなかった。それな質問をすれば、まるでいつも私が春香の匂いを嗅いでいるみたいに思われてしまうかもしれないと、そう思ったから。その代わりに、使っているシャンプーを聞くことにした。
聞いてみると、春香はその日、嬉しそうに「明日持って行くよ」の言葉をくれた。次の日、春香は楽しそうに、私の家まで普段使っているというそれを持ってきてくれた。千早ちゃんがそういうことに興味を持ってくれて嬉しいよ、これからも気になったらどんどん聞いてね!という彼女らしい、優しい言葉を添えて。すこしの罪悪感を胸に、少しだけ私には可愛らしすぎるそれを使ってみても、春香の香りはしなかった。
私たちがいるこの車両は、私たちしかいなくて、電車の走る音が響いて、とても静かすぎた。
音楽が聞きたいと、ポケットの中身を探ろうとして、春香の手をずっと握っていることに気がついた。多分、電車に乗った時から。春香は私の手をよく握る。二人でしゃべっているとき、二人で歩いているとき、二人でいるとき、春香は私の手をよく握った。はじめて春香の手が、私の手に触れたとき、私はすこし驚いて、固まってしまった。動かなくなった私をみて、ごめんね、嫌だった?と春香は心配そうに聞いてきた。私の心はなんて答えればいいのかわからないというのに、口は答えを急ごしらえして、「いいえ」という文字が音になって私から飛び出していた。春香は私の言葉を聞くとすこし安心したような顔をして、それを見てようやく私の頭は、自分の答えを見つけ出した。
「嫌じゃないわ」、と答えたとき、春香はさっきよりさらに深く安心したような表情になる。本当に、わかりやすい。「ただ」と私がいうと、すぐにまた不安そうな表情を浮かべて、「慣れていなかっただけ」というと、すこしだけおかしいように笑ったのを、ぼんやりと心の何処かで覚えている。「じゃあ、これから手を握るときは、ちゃんと聞くね?」という彼女の答えを聞いて、握るのはやめないのね、とすこしおかしく思ったのは、ずいぶんとずいぶんと前のことだった。
思い出をたどっていたら、なぜだか自分の手が気になりはじめた。私は手に汗をかくほうじゃないけれど、大丈夫かしら。冷たくないかしら。いろんな心配が、頭のなかを通りすぎては、私ののどにたまっていくような気がした。すこしずつ重なっていく不安にせかされるように、そっと手を離そうとすると、春香の手に力がこもった。
突然のことにドキッとして、春香の方を見ると、まだ彼女は夢のなかのようにいるようだった。可愛らしい寝息を立てて、少しだけ口を開けて、静かに眠りについている。彼女の手が私を離すまいと感じられたのは、どうやら、偶然の産物だったらしい。もしかしたら、春香がそういう夢を見ていたのかもしれない。私には、その夢を見ることはできなかったし、手も、離せなかった。
することもなく、前の座席の窓に映る私と見つめ合う。周りに誰もいないこの車両は、理解するのをやめて、ただ習慣の奴隷として働き続ける人のように私たちを線路に沿って確実に運んでいく。終点まで、あとどれくらいの時間があるのだろうか。春香と私の逃避行のようなこの旅に、目的地は設定されていなかったけれど、今私がいるこの電車にはちゃんと、たどり着くべき場所がある。それがなぜだかとても、今の私には羨ましく思えた。私たちが乗っているこの大きな鉄の塊には、行く先が、使命が、存在理由があって。私たちは、どうなんだろう、今の私たちは、どこへ、なんのために。
夏の午後の湿気のように絡みつく思考から頭を引き剥がすように、私は窓に映る私の向こうに目を向ける。見たことのない景色が、私の偽物の奥に広がっている。いつも仕事や買い物に出かけるときに使う電車で、見える景色とは違うということはわかりきっていた。それが一体、どうしたというのだろう、と思った。遠くに見える大きな公園も、近くに現れる民家の屋根も、通りすぎてしまっては、全部同じものだと、そう感じる自分がいた。結局私にとっては、通過するときに見えた、いままで見たものとは違うものでしか、ないのだから。それでも、ふとどこまでも深く深く落ちてしまいそうな心から逃れるために、私は必死で窓の外の景色に特別を探す。春香の映る向こうに見える、小さな小学校を、一瞬で通り過ぎていって、暗いトンネルに入ってしまった電車をすこしだけ恨みながら、私は観念して目を閉じた。
思ったより短いトンネルだったようだ。窓の外から差し込むように感じる光に、おそるおそる、まぶたを開けてみる。ほんの一瞬だけ、異常なほどの白さが見えて、私はもう一度だけ目を細める。もう一度目を開くころには、眩しさは消え去って、私は外の景色を目にすることが出来た。蒼い広い海が、途方もなく広がっていた。どれだけ電車が進んでも、流れて消えることのない海の大きさに、すこしだけよくわからない感動を抱きながら、私は春香と、ただただ流れていく。
この旅、と言っていいのかわからない二人の逃避行のような何かを、始める前のことを思い出す。どの電車にしようか、普段は乗らなくて、遠く遠くに行くのがいいよね。そう言いながら事務所にあった地図を勝手に広げて、私を見る春香を思い出す。あまり乗ったことがなくて、ずっと遠くまで向かう電車。数は多くなかった。それでも何個か出てきた案から楽しそうに一つを選ぼうとする春香を、私はただ見つめていた。私が春香を見ていることに気づくと、春香は楽しそうに紙に書いた路線のリストを見せてきた。
「どれがいいと思う、千早ちゃん?」
と私に問うけれど、事務所に置いてある見慣れた付箋に書いてある路線は、見慣れないものばかりで、そのリストのなかに私に見覚えがあるのは1つ、2つといったところで、どこに行く電車なのかも、まったく想像が付かなかったから、すぐに答えることはできなかった。なんて返事をすればいいのか、ぐるぐると一秒間も考えた結論に出てきた苦し紛れの言葉は、「わからないから、春香が決めて」だった。私のなんとも情けない返事を言葉通りに受け取ってくれた春香は、手を顎に当てて、考えるポーズを取った。どうやら真剣に悩んでいるようで、すこしだけ悪いことをしている気持ちになりながら、それでもどこかほっとしている自分がなんだか嫌だと思った。醜い自己嫌悪に私が悩まされている間に、春香は行く先をとてもたのしそうに、悩んでいた。どこがいいかな、この電車も面白そうだし、でもうーん、と悩む彼女はとても楽しそうで、旅の理由なんて、気にしていないように見えた。紙と睨めっこして、紙を頭の上にあげてすかして、新たな選択肢が浮かび上がってくるでもあるまいに、嬉しそうに、それこそ立ちあがってスキップをして、いつものように転んでしまうんじゃないかと思ってしまうほど。私がぼんやりと彼女を見ていると、その視線に気付いた春香はもう一度こちらを見て、それから何か閃いたように、パッと表情を変化させた。これほどわかりやすく自分の感情を表情で伝える人を、私は他にしらない。、春香の表情はよく変わる。嬉しいとき、悲しいとき、おなかがすいたとき、つかれているとき、眠いとき、その時その時の感情をそのまま写したように春香の表情は私の固まりがちなそれとは違って、変幻自在、一瞬で変わっていく。なのに。
「海が見える、この電車にしようよ」
春香は楽しげにリストの一番上の、聞いたこともない路線を指さして楽しそうに笑う。彼女の胸の奥にあるものを見ることは、やっぱりできなかった。
春香を起こすかどうか、すこしだけ迷って、結局肩を軽く叩くだけにした。これで起こしたことにはなるし、起きなくて、もしどうして起こしてくれなかったのとすねられたら、『起こそうとしたけれど、起きなかったのよ』という言い訳をすることができる。そんなことを考えてしまう自分の浅ましさに、すこし自嘲気味に海でほとんど見えない窓に映る私をみて笑っていると、その隣にいる春香が、すこしだけ、目を開けた。寝起きの子どものような、「ぅ、ん」という声が春香の口からこぼれた。幸か不幸か、どうやら起きてしまったらしい。
「千早ちゃ、どうかした?」
そういう春香はとても幼い幼い顔をしていて、すこしおかしくなってしまう。小さく顔に出そうになった笑いを隠すように、私は前を向いて、ガラスに映る私と春香をそっと指差す。春香は、私が示す方を、まだぼんやりとした、半分夢の世界の顔のまま向いて、その奥に映るものが何かと知ると、その目を大きく開いた。
「海だ、千早ちゃん、海だよ!」そういう春香は本当に楽しそうで、さっきまで見ていた夢のことなんてもう忘れてしまっているのだろう。私が知らなくて、春香だけが知っていることがまたひとつ、少なくなった。春香はとてもとてもたのしそうに、窓の外の奥にある水平線を眺めている。私と春香の他に、誰も見ていないはずなのに、なぜかその春香のこどもらしさが恥ずかしくて、照れ隠しに返した私の「知っているわ」の言葉は、春香の耳には多分届いていない。
言葉はなかった。私は、静かに、でも楽しそうに海を眺める春香を見ている。春香は彼女の瞳に映っている海の表面のように、様々に表情を変えていく。終点まで、あとどれくらいだろうか。ガタガタと、大きな音をたてて進む列車は、私たちを乗せて、どこまでも行ってくれそうだった。
「春香」
私が呼ぶと、春香はこちらを振り向いた。
「どこまでいくの?」
聞くと、春香はすこしだけ驚いたような顔をしたあと、目を閉じて微笑んだ。春香が何を考えているのか、私にはわからなかったけれど、ただ、春香の言葉をまった。どうせ長い旅だ。答えが出るか、終りが来るか。
『次は、』