「それじゃあ、桃にとってこれは全然特別じゃないってことですか?」
そういって私との距離を小さくするシャミ子の手には、いやにカラフルな円錐台が握られている。私はその底面に貫かれてしまいそうな想像をしながら、促されるままに頷く。
途端に浮かんだ表情に、何も言葉にできなかった。そんな顔、させるつもりなかった。ただの昔話のつもりだったのに。
自動販売機のアイスクリームを、なんとなく買っていたときがあった。
一人になって、それでも毎日は続いていて、それでもなんとなく平気だったころのこと。通学路から少し外れた公民館の裏にある少し寂れたアイスクリームの自動販売機に、なんとなく通っていただけだ。すべての味を揃えて、新しい味が出たら買って。そういうことを続けた日々があった。特に深い意味もなかった。なんで出会ったのかも、今はよく思い出せない。
そういう夏があったというだけの話だった。気がつけば夏は終わっていて、アイスクリームには飽きて、その次の年にはその自動販売機はなくなっていた。ポイ捨ての注意喚起の張り紙が正面にはられた無味乾燥な普通の自動販売機に、なぜかひどくがっかりしたことを覚えている。
そういう、それだけの話をしていたつもりだった。なんでもない記憶を紐づけて、シャミ子が自動販売機の前でずいぶんと長い時間をかけて味を選んでいた間に、ふと思い出したことを口に出しただけのつもりだったのだけれど。
「やっぱり、特別じゃないんじゃないですか」
どうやら、お気に召さなかったらしい。私の話を聞いて、シャミ子は眉間に作ったシワを作ったままだ。
私は未だに私を指差し続けているようなアイスクリームから目をそらしながら、言い訳をする。
「それ以来は食べてないし、そういう意味では新鮮だよ」
なにに向かってしているのかもわからない言い訳を続けると、シャミ子の瞳は騙されないとでもいうかのように、私を睨みつけた。
「それって、何年前の話ですか」
「二年前、とか」
「結構最近じゃないですか!」
そうかなぁ、と思う。二年はそれなりに長い気がするんだけど、と思う。会ってからの日々が色濃くて、二年も前のことなんてもうすっかり思い出の気分なのだけれど。
シャミ子はそんなことないのかな。そう思ったら、なぜかひどく雨が冷たく感じた。
二人でちょっとした遠出を終えて、帰りの電車が最寄り駅のホームに着いたとき、街には静かに雨が降っていた。降水確率は30パーセントで、持っていくべきか持っていかないかでわかれた。シャミ子は持っていくと言って、私は持っていかなかった。
だからちょっとした人混みをこなして、先に降りていたシャミ子に「傘、入れて」と、頼もうと思ったのに。シャミ子は私を見ると、こう言った。
「アイス、食べていきましょう」
そういったときのシャミ子は、いつも以上にご機嫌だった。秘密にまつわる女の子の輝きがあった。今思えば、そこまでわかっていたのなら、黙っておけばよかったのかもしれない。上手に嘘がつけない今の私が、そんなことをできるとは思えないけれど。
「自動販売機のアイスクリームって、特別じゃないですか」
そういうIFの存在を勝手に思い浮かべながら、シャミ子の演説を聞いている。シャミ子は手に持ったアイスを振り回しながら、人のいないホームの上で私に向かって言葉を放っている。
「人によると思うけど」
「多くの人にとっては、です!」
シャミ子のいつもより少しだけ強く放たれるに、それでもどこかに、そんなことで、と思ってしまう私がいた。そういう私を見つけるたびに、私は、例えば50cmの空白だとか、部屋一つ分ぐらいの寝室の距離だとか、10年以上の月日だとかの存在を強く思い出してしまう。私とシャミ子を分ける差。同じではないということ。
「別に、一時期ハマってたってだけで」
そういう距離を埋めたくて、私は言い訳を続けるけれど、でもこれは逆効果のようだった。シャミ子はすねた小さな子のような表情のままだ。
「でも、特別感はないってことでしょう」
シャミ子はそういうと、それきり黙ってしまった。私からそっぽをむいて、一本先の列車を待つ人のように街に顔を向ける。大切そうに包装を剥がしていくその指のダンスを、私はきっと真似することができないだろう。
それでも、できるだけ丁寧に『ここから』の文字を摘むと、ゆっくりとアイスを回すように剥がしていく。いつもよりもずっと柔らかな力で切り離されていく包装紙を、破れてしまわないようにと願いながらめくり続けていく。
永遠のように十秒をかけて無事に剥がれきったことに安堵しながら、包装用紙についたアイスクリームが手につかないようにと端を持つ私の手を見つめていたシャミ子が口を開いた。
「別に、勝手に期待しただけですから」
彼女の手にはチョコミントの水色が孤独に揺れていた。私から外れたままの瞳が、悲しみと怒りとも取れない感情を載せて閉じられていくのが、なんだか少しだけやるせなかった。
それから私もシャミ子も、しばらくの間黙っていた。二人で揃って丁寧に包装用紙を畳んだり捨てたりした。むきだしのアイスクリームを手に持ったままでは、どうしても慎重になるしかない。そういう言い訳をして、私達は言葉を選ばずに包装用紙を順番に捨てた。自動販売機横のゴミ箱は少しだけ溢れそうになっていた。
そうして誰もいなくなったホームで、私たちは空いたベンチに腰掛けた。座ってしまうともう他にできることはなくて、チョコレートを一口齧るとしつこい甘さが口の中に広がった。
懐かしさとくどさに目を細めていると、25センチ隣の彼女が口を開いた。
「昔、電車から降りて雨が降ってるかどうかで、お母さんとゲームをしたことがあったんです」
それだけいうと、息継ぎのようにシャミ子はアイスクリームを齧る。シャミ子の一口は小さい。ほんの少しだけ齧られた先が、私の三日月と比べるとあまりにも大きかった。
「私が降っているって言って、お母さんが降っていないって言って。買ったから、アイスクリームを買ってもらったんです」
「だから、今日も?」
私の問に、シャミ子は小さく頷くと、また一口小さくアイスクリームをかじった。私もおんなじように、彼女と同じ一口を目指した。少しだけ大きくなってしまったけれど、おんなじ形のかけらができて、私はなんだか嬉しかった。
かけらの形を見つめている私に、桃は私の方を見て微笑んだ。いつもよりも少しだけ小さめの笑顔で。
「だけど、そんなの、桃が知ってるわけないですよね。変なこといってごめんなさい」
ようやくあった目が、またすぐに外れてしまって、私はそのことのほうがなんだかずっと悲しかった。私達のあらゆる距離よりも、今この瞬間に合わない瞳のほうが、ずっと切ない気がした。
「別に、謝ることじゃない、と思う」
それでも歯切れの悪さを隠せなかったのは、私が彼女と同じぐらい、特別を一緒に共有したかったからかもしれない。電車から降りた雨の特別を、そのまま受け取っていられたら、もっと笑っていられたのかもしれない。そう思うとなんとなく、全部を笑って終わらせる気にはならなかった。
この空白を埋めるようにと、私はできることを探すけれど、なにもみつかりそうにはない。タイムリミットのように少しずつ小さくなっていくアイスクリームは、もうすぐ円がすべてなくなってしまいそうだった。
せめて、すべてがなくなってしまう前に。少しの勇気と一緒に、隣の彼女の方に自分のアイスクリームを指し出した。
首をかしげた彼女の前で、恥ずかしさをこらえるように言葉を選ぶ。
「一口どうぞ」
少しだけ、ぶっきらぼうになってしまったことは許してほしかった。なれないことをするものじゃないと思いながらも、いただきますを言う彼女が食べ終わるのを待って、もうちょっと勇気の必要なお願いを口にする。
「そっちも、一口ちょうだい」
私がそういうと、シャミ子の手が一度止まった。不思議なものを見るかのような目線にじっと頬が熱くなりながら、やると決めたことは続けなければいけない。まだ首をかしげたままのシャミ子は、私の温度が上がっていることに気がついているのだろうか。
「はい、どうぞ」
差し出されたアイスクリームを、一口かじった。さっきまで同じ形だったかけらは、もうバラバラになっている。
口にチョコミントの爽やかさが広がっていった。普段は食べないけれど、食べてみると意外といけるものだと思う。シャミ子が食べているから、という理由は、見なかったことにして。
「ありがと」
食べ終わった私のことを未だに見つめているシャミ子に、目線を合わせられる程の勇気は流石にない。ギリギリ見える線路の片方を見つめながら、なるべく意識しないように、私は言う。
「アイスクリームの交換は、したことないから。本当に特別」
それだけいうと、また頬の熱が上がる。シャミ子は少しだけ固まって、それから笑顔を広げた。やっぱり恥ずかしくて、ごまかすように大きく口を開いて頬張ったチョコレートは、まだまだ甘すぎた。