灯台の上で暮らそうと思っていたんだ。
そう言おうとして、伝わらないからやめた。
「落書きだよ」
そう言って笑って、彼女の前に手を差し出せば、アオイはふうん、と一つ息を落として、それから一枚のルーズリーフを手渡した。
少しだけ前に思っていたこと。今でも心の隅に飾っていある絵。薄暗い部屋の隅だから光る類の夢。
こうやってアオイに引っ張り出されて、蛍光灯の光を浴びれば、すぐになんてことのないつまらないものだってわかる。
戦術のメモと一緒に並べたそれを、私は折りたたんで、それでおしまい。
戦術書の貸し借りをするのも当たり前になってきて、少しずつアオイが部屋で背筋を伸ばすようになった。私に比べるとまだ幼い容姿の彼女がそうして体を丸めていると、どうにもチャンピオンとは思えないその様に笑ってしまいそうになったのはまだ記憶に残っている。
彼女とは元からボール一つぐらいの距離があるけど、どこか遠慮するように背中を縮めるのは好きじゃなかったから、アオイの歩幅が広がることは嬉しかった。静かで、どこか遠慮のない彼女の態度を気に入っていた。
でも、それは見える世界が広がるということでもあると、彼女が一番上の棚を覗いたときに気がついた。
「あ、」
「これ何?」
何にでも興味を持つのはアオイの美徳だけれど、少しだけ彼女は他人のプライベートに入りすぎる。そういう瞬間をいくつかみていてひやりとしていたのに、どこか止めるのも惜しくて見逃していたことが裏目に出た。口に出して止めようとしたときには、彼女はすでにそれを手に取っていた。なんでもない一枚のメモに彼女が目をとめたのは、そこに書かれているのが文字ではなくて、拙い私のスケッチだからだろう。
「灯台?」
そういって私に差し出したその一枚を、私は思い出していく。覚えているよりもずっと書き込まれたその塔は、どこか歪な形をしていて、想像の中で書いたことがわかる。
切実に書き込まれた矢印と丸と少しの文字は、幼い頃の落書きよりもずっと独りよがりだ。
「落書きだよ」
あの頃のことを、忘れたわけじゃない。今でもなくしたわけじゃないけど、でも、大したことではなくなってしまった。そういった類の感傷。
これを話したとして、彼女にどう答えてもらいたいんだろうか?笑ってもらいたいわけじゃなかった。
灯台の上で暮らそうと思っていた。
そう思い始めたのは、カラフジムのバッチを取ったあとのことだったと思う。
ジム制覇の途中で見つけるたびに、灯台に登った。息を切らしながら登った先の景色は、どれもきれいだった。晴れた日の灯台からの大地は、きらめきがまぶされたかのように映る。まるでパルデア中にある可能性のかけらが微笑みかけているかのようだった。決して手の届くことのないその輝きを見るのが好きだった。いつまでも眺めていられた。
少しずつ飢えていく私にも、灯台はいつでもやさしかった。
どこにしようかは悩んだけど、コサジの灯台が一番いい、と思った。
あそこからなら大きなキャンパスも見えるし、海も見える。
静かで何もない街だけど、私はあの灯台が好きだった。
あの誰もいない研究所で眠る。太陽が昇れば、灯台に登って暮らす。夜になって灯台を降りて眠る。また朝になって、食料と水を持って上がる。バトル練習は難しいけど、全くできないわけじゃないだろう。
ポケモンセンターだって遠くない。お家にだってすぐに帰れる。何も問題がない。
そう思っていた。
そういうことを書いたメモを、捨てられていなかった頃のわたしがいたことを思い出した。
灯台の上で暮らしていれば、全て美しいままで、愛せる気がしていたんだ。
二つの目で収まることのない広大な大地や、いつまでも続く水平線の何処かに、私を満たしてくれるものがあると、ずっと信じていられる気がしていたんだ。
それは戦いの中で、ありとあらゆるものを暴いて、その果てを見つけては見切りをつけるばかりのあの頃より、ずっといい世界との向き合い方だと思っていたんだ。そう思っていた。
世界がきらめいたままならそれで。可能性だけを見つめて暮らしたかった。幼い感性だ。幼稚で、切実な、今だから見つめられる類の感傷を、私は手のひらで握り潰した。もしも、そんなことをしていたら、あんなに近くにあった可能性を、私のライバルを、見失っていたかもしれない。それはもしかしたら、失うことより恐ろしいかもしれない。
ちゃんと見つけることのできた宝物は、私の物思いに気づくこともなく、戦術のメモを読みふけっては、戦術を新たに組み直しているようだ。その真剣な横顔から、新たな可能性が生まれていくことを今ではもう知っている。
「アオイ!」
「うわっ」
思わず確かめるように抱きつけば、アオイは少しだけバランスを崩した。これだけ小さい体が、私の宝物の一つ。私を打ち倒して、世界の広さを教えてくれたもの。私のちっぽけさを教えてくれたもの。
「どうしたの?」
振り向いた額に感情のままキスを落とすと、アオイの目が見開かれて、その肌は少し染まる。もう、と笑う彼女に私も笑みを返しながら、少しだけ間違えたかもしれないと思った。私の中にある、感謝とほんの少しの悔しさ。どうやって伝えたものか分からなくて、少しだけ抱きしめる腕に力がこもる。
「なんでもないよ」
そう言葉にすると、伝わろうとしていた言葉たちはその輪郭を失って、私の中に溶けていく。思い出せるのは、確信に近いフレーズだけ。それでいいんだろう。
目を閉じて、私は思い浮かべる。美しく光る灯台のことを。まだ遠くで美しく光る灯台に、心の中で手を振った。
そして目を開けて、今目の前にある宝物を確かめた。