Sayonara VoyagE

Use me like an oar and get yourself to shore

最近の投稿このサイトについて

プロジェクトセカイ

Dazzling than

「あなたはいつでも 夏休みみたいね」
言ってくれるね 俺にだって冬は来る
― SUMMER NIGHT / The Birthday

「あ、」
 終わっちゃう、と思ったときに手が揺れて落ちていくのがのが線香花火だ。だから、終わってしまうと思わないように、脳裏に浮かべることすらないように、必死で二輪車を漕ぐように前へ前へと気持ちを倒せば、線香花火は同じように先へ先へと燃え続ける。これは、白石杏が人生において手に入れた多くの真理の中の一つ。
 その真実に気がついたのはいくつのことだろうか、杏にとって定かではない。彼女の記憶には、幼い頃のベランダで母親の前で拗ねていた自分と、友人の前で得意げな顔をしていた自分しかいなくて、その中央は空白だ。気がつけば泣かなくなるように、気がつけば知っていたことの一つ。
 だから、火をつけてからその真理を思い出すまでにあっという間に落ちていった火の子を前に、どういう顔をすればいいのか、彼女は二秒、考え込むことになってしまった。アスファルトの上で転がっていく熱がまだ燃え続けている小豆沢こはねの炎の下に照らされたときに、切なく笑った相棒が口を開いて、それでようやく、落胆の二文字が頭に一つ。
「終わっちゃったね」
「終わっちゃったぁ」
 そういいながら、杏はこはねへ少しだけ近づいた。こはねは相棒の甘えを受け入れるかのように少しだけ体をずらして、二人は並んで一つの炎を見る。弾け飛ぶ火花を見つめる二人の間で、少しだけ空白が走る。杏は拗ねる子供のつもりでもう少し距離を縮めようとするけれど、彼女の瞳に目の前の瞬間しか映っていないことに気がついて、その感情を飲み込んだ。どんな感情だって、こはねに伝わらないのなら意味がない。本気でそう思っているから、潔く負けを認めて顔を上げる。
 それから二分もの間、杏の瞳は相棒と火花をせわしなく行き来していたというのに、こはねの瞳は火花に奪われ続けただけだった。言葉をかけてもどこか胡乱な彼女に、こんなことなら、花火なんてもらってくるんじゃなかった、と思う。

 そもそもこの火薬たちを杏が手に入れたのは、最近というには遠い出来事だ。五月に慌てて駆け込んできた夏に振り回されて、気丈な態度にも不調を隠せない杏に、客の一人から差し出されたのが始まりだった。疲れた彼女を適当にねぎらった彼は、子供が独り立ちして複雑、という、子供にするには十分に複雑な話を杏に聞かせたあとに、その御礼として洒落た店内には似合わない厳かな絵柄に包まれたそれを渡してきたのだった。大人と子どもの間では、ちょうど見落としがちなそれを改めて見つめる彼女に、『夏みたいで思い出した』と彼はいった。上等そうな線香花火は四人でやるには物足りなさそうで、それならまた幾つか目の二人の秘密を作ろうと、こはねを誘うことにした。
 二人の秘密にするならば、それなりに特別なところで燃やすべきだろう。杏はそう考えたし、それが自然なことだとも思った。だから、彼女の記憶の片隅にずっと残り続けていた花火たちが、こはねの前に現れたのはごく最近のことで、正確に言えば五分も前だ。
 誘われた小規模のフェスイベントの前泊、としてホテルを選んだときに、そこが海の目の前であることが理由の一つであったことは杏だけが知っていることで。街灯の多い浜辺でも、花火は負けずに光るだろうと、杏は無意識に花火の特別さを信じていたのだけれど、終わってしまうという花火の特別さには、終わるその瞬間まで気づかなかったのだ。
 杏だってパフォーマーだ。だから、寂しいだけで終わるつもりはなかった。それなりの準備はしてきたし、太陽のない潮風の中にもこはねの笑みを作ることができると信じていたけれど、自分が寂しくなることには気づいていなかった。
 だから、迂闊な自分を窘める自分を抑えながら、彼女は浜辺でこはねの可愛らしいビーチサンダルに乗った足の指を見つめている。可愛らしいペディキュアを塗ってあげたのは自分だというのに、おそろいになるように仕掛けた自分の指先を照らすものは何もなくなってしまった。
 まだ夏の盛りというには速いこの季節では、夜の海の冷たさがまだ体に伝わってしまう。ビーチに出て潮風に吹かれたとき、最初に思ったことは『こはねが風邪を引いてしまうかもしれない』だったのだけれど、今のこはねとはいえば、杏の目には輝きそのもののようで、拗ねる自分は心配したことを損したかのような口ぶりで頭の中を横切っていく。去っていたはずの彼女がもう一度自分の脳内に戻って来ることがわかったとき、杏はこはねを見つめるのを諦めて、揃って花火を見つめることにした。
 それから、永遠にも近い時間が流れて、それから、こはねの花火も落ちた。こはねは「あ」、とだけ言って、それから笑った。
「終わっちゃった」
「終わっちゃったね」
 きれいだったね。こはねはそう言いながら、用意したペットボトルに花火を入れた。杏はとっくに死んでいた自分の花火を思い出して、指先を奪っていたそれを同じようにペッドボトルに入れた。ほんの十秒前まで線香花火の光を邪魔するばかりであった街灯も、今ではただのしるしのように街の中に息を潜めている。ここは夜で、今は終わりなのだと思い出した二人の中で、炎に奪われていた言葉を先に取り出すことができたのはこはねだった。
「花火が杏ちゃんから出てきたの、なんかすごく似合ってた」
 彼女はそういって、何度目かのありがとね、を告げた。その言葉は確かに杏の胸に届いたけれど、それでも貫くことはなく彼女の足元へと落ちていった。うん、そう、そんなことないよ、楽しんでくれてよかった、正しい言葉たちは杏の口から出ていくことにおびえて、彼女の喉元でかすれていく。
「どうして?」
 代わりに飛び出していったのは、純粋とは言い難い問いかけだ。その言葉たちの純度を確かめることができるのは杏だけで、だから嘘をついたときに似た傷が、杏の唇を痛めつける。潮風が染みるかのように目を細めて、杏は痛みから目をそむける。
 こはねはその言葉に首をかしげて、それから自分の感情を探るように少しだけうつむいた。聡明さがゆっくりと彼女の中で顔を上げるのが、その瞳の中に映る。背中で波をたてる海とは違う、穏やかで決して怖くはない海が、彼女の瞳の中にはあって、その冷たい温度の中で、彼女が積み上げた思考と感性がゆっくりと浮かぶ。
「杏ちゃんが夏みたいだから、かな」
「私が?」
 そう聞き返しながら、しかし杏はその答えを噛み砕いていた。あの顔見知りの言う「夏みたい」が、脳内で反響した。
「なんか、暖かくて、情熱的で。四人の中でも、一番夏みたい」
 そういうこはねは梅雨を超えても春の日差しを捉えたままのように柔らかな温度を抱えたままで、杏はいつでもその温度の側に近づきたいのだけれど、火花によって作られた距離はどうにもならない。歯がゆさだけが上手に二人を繋いでいる気すら、杏はしている。
「そっかぁ。あんまり考えたことなかったけど。たしかに、私達の中では私が一番夏っぽいかも」
「うん。杏ちゃん、太陽みたいだもん」
 そういって微笑むこはねの純粋さに少し気圧されて、杏の心は少しだけ怯んでしまったけれど、体は気がつけば勝手に言葉を作り上げていた。二つの距離を図るかのように、音は真実に近いところで笑う。
「じゃあこはねは春だね!」
 そう告げた杏にこはねは、小さく息をこぼして笑った。少しだけ温度の乗ったその頬を隠さずにいてくれたことに、杏はこはねと来たここまでの距離のことを思い出す。
「東雲くんは秋?」
「冬弥はやっぱ冬だよね。となるとやっぱり、私が夏か」
 次の花火を取り出して、軽快な言葉を選びながら。
 でもね、と、杏は相棒にだけ聞こえない声を選んで話す。
 冬にだって夜にだって太陽はある。冷たい雲のむこうにも光はある。
(私が太陽だとしたら、あなたは夜でも私を思ってくれる?)
(月のあかりが眩しくても、私の不在を選んでくれる?)
 そう思ってしまうのは、あまりにも駆け足で夏がやってきては、二人のあいだを切り裂いてしまったからかもしれない。翻った薄いコートの裾のうらに隠れていた憧憬と焦燥。歌声のように感情すらもハーモニーを奏でるのは、相棒だからだろう、と、杏は気づいている。それに、きっとこはねも気づいている、だろうということも。
 互いの幸福に同調するのも、感情が反転して重なるのも、どちらも同じだけ美しい世界がときおり憎くなる。遠ざかれば遠ざかるだけの美しさがあることに、薄く張った感性が波を立てるように笑っている。苦しくならないように無意識に、手に持った点火棒のスイッチを入れれば、炎は杏をたしなめるように青くなった。
「危ないよ」
 そう言うこはねに謝って火を消して、「まだあるの」、そう言って、杏は少し大きめのバッグから買い足した花火たちを取り出した。目の前に差し出されて、こはねの表情を照らした花火たちに少しだけ嫉妬する。杏が時間の隙間を見つけて手に入れたそれらがなければ、あまりにも寂しいままで終わってしまうこの海を、杏は許すことができなかったかもしれない。とびきり明るく光りそうなものを差し出して、杏は夜に立ち向かう。
 眩しく激しい花火を前にこはねの目が逸れた瞬間を狙って、杏は一気に寂しさを吐き出した。ため息で消えたかのような人工の炎のことは忘れて、杏はこはねの炎をもらう。大きな音を立てる花火たちに、二人の唇は閉じられていく。
 杏が器用に二本目の花火を取り出してこはねに差し出すとき、ようやくこはねは閉じたままの口に気がついた。口を開けば、自然な疑問が溢れていく。
「どうして線香花火からやったの?」
 こはねがそう言うと、杏はなんでもないように目をそむけた。
「だって、寂しいじゃん」
 それはあまりに自然に杏の口から飛び立っていったから、こはねは捕まえそこねてしまった。だから、こはねはもうすっかりとつめたくなってしまった海岸線の中に浮かぶ暖かなその言葉の飛跡だけを見て、ああ、また、と思った。
「そっか」
 例えばそれは海の奥底に隠れているものではなく、光を反射する波なのだけれど、こはねはすぐにその形を見失ってしまう。失われたそれが音となって消えるまで、こはねはその感情に気づく事ができない。すべての波ができる前に、言葉を見つけてあげられればいいのだけれど、と、こはねは信じることがある。そういう感情も知らずに、光はまだ踊り続けて、波の形を少しだけわからなくしてしまった。
 上手に花火を二人で継ぎ足している間にも、夜は少しずつ深くなって、海は少しずつ広くなった。飛び出した先のホテルがあれほどまでに光っているというのに、眩しさは感じられなかった。季節はずれの花火は、世界を二人きりにはしてくれない。
「終わっちゃったね」
 最後に杏の花火が途切れたときに、また口を開いたのはこはねだった。杏はその言葉で初めて、目の前の炎が終わっていることに気づいた。杏が花火を手放すと、死骸がまた一つ悲しい音を立てて増えた。弔うかのように潮風はまた吹いて、今手にしたばかりの景色のいくつかは吹き消されてしまった。
 少しだけの沈黙のあと、帰ろうか、と微笑むこはねを前に、杏はとっておきを取り出す。
「まだあるんだ」
 そういって杏が取り出したのは、つい前に使い切った明るい色の花火セットとは違った穏やかな色合いの花火たちだった。高価そうなそれに少しだけ怯んだこはねに、杏は満足そうにわらってみせる。
「線香花火なんだけどね」
 受け取ったものと違うそれに気づいて、杏がそれを手にとったのは偶然だった。なんとなくで手にしたものを、鍵にするのは慣れている。どう使えば、望むままになるか。それを理解した杏にとって、夜の海すら怖くない。
「すぼ手、っていうんだって」
 そう言いながら、自分の前に杏はこはねをかがませた。ゆるめた膝で彼女の目を見れば、上手につけられた角度が彼女の瞳を持ち上げているのが見える。その角度に満足しながら、杏は目の前のとっておきを二人の瞳の間に置く。
「あげながら火をつけるの」
 見ててね。杏はそう言いながら、その角度を保ったままにゆっくりと火をつけた。線香花火はゆっくりと熱を持ち始めて、見慣れた爆発をおこした。それなのに、どこか違うのは、それぞれにとって一番眩しい光が、それぞれの奥に映っているからかもしれない。いくつもの永遠が終わったあとの海岸で光る線香花火は、強く強くその続きを魅せたいと願うかのように、激しく燃えていく。
「きれい、」
 こはねがそこで言葉をなくしたのは、切なく激しく光る火薬の奥で、一瞬よりつよくつよく光る杏の瞳ずっとが笑っていたから。
 一瞬に目を奪われてもいい。だけれど、今は、今はまだ、続くことを選んでほしい。杏はそう思っている。だから、花火に嫉妬してまで魔法をかけることを選んだ。その気持ちをようやく理解したこはねの心臓が、少し波を立てた。
 永遠の魔法がないのなら、何度でも。二人はそれをわかっている。寂しくなるつもりじゃなかったから、小さな魔法しか選べないけれど。一瞬のきらめきの奥に隠れても、どこまでも眩しいその光があるから、まだ、まだ続いていくのだ。
「覚えておいてね」
 杏はそう言った。
「忘れたりしないよ」
 こはねはそう言って、笑った。
 太陽のない海辺で、二人は笑いあった。無数の光達が散って行くのを、二つの光だけが見つめていた。


作者HP / 感想フォーム / お問い合わせ(メール)