130cm
十一月の雨は冷たい。朝の曇り空は裏切ったりせずに、誠実に雨を降らせていた。わかっていたから、傘はちゃんと持ち歩いていた。いつもならグラウンドを埋める運動部の声がないだけで、学校はあまりにも黙り込んでしまう。校舎を支配するその静けさが、少しだけ苦手だったし、好きだった。
今でもたまに部活に顔を見せると、当時のように黄色い声をあげて話をする後輩達と混じって笑う。今日も指導と言いながら、その実四分の一は話をしていたような気もする。あの頃をそのまま持ってきたような光景に、まるであの季節がずっと続いてるように思えても、それでもあの頃とはなにか違う。それがわかるぐらいには、大人になってしまった。だから後輩達と別れて教室を出て一人になると、なんだか無性に寂しくなってしまう。その寂しさは自分にはどうしようもないものだということもわかっていて。それでも、寂しさを埋められる場所を探すように、学校中を歩いてしまったり、玄関までわざと遠回りしてしまったりする。
そうしていつもより五分近くかけて辿り着いた昇降口に、みぞれは立っていた。
表情は見えなかったから、何を考えているのかとか、そういうことはわからなかった。表情を見ても、わかるとは限らないのだけど。手に持った灰色の傘がひどく大きく見えて、視界の内でぐらついている。
みぞれとは、しばらく一緒に帰ってもいなかった。みぞれには音大の試験のための勉強があっていつも遅くまで残っていたから、私の受験勉強的にも待っているわけにもいかなくて。いざ受験が終わってみると、どんな顔をして待っていればいいのかわからなくて。何故だか、声をかけそびれていた。そもそも、待っている必要なんてきっとないのだけど。
だからみぞれの姿を見るのは久しぶりだった。あの頃はあれだけ顔を合わせていたというのに、繋ぎ止めるものがないとあっという間に離れていってしまう。それは中学生のときだって、今よりずっと幼い小学生のときだってわかっていたはずだ。なのにみぞれの姿だけは、それだけは、なんとなく探してしまうのは、なぜなのだろう。
不安定そうなその背中が実はずっとしっかりしていることは、自分が一番良く知っている。それでも。不安にならないわけはなくて。
「みぞれ」
足音が響かないように近づいて、声をかける。緊張する意味もないのに、少しだけ声が裏返ってしまう。下手になりようがないと思っていたのにと自嘲する間もなく、みぞれはこちらを向いた。
「希美」
久しぶりに呼ばれたその声に勝手に満足する。難しい話じゃない。踏み出してしまえば、それだけのことで。
「帰り?」
今度は自然に声が出たことに安堵しながら、みぞれの方を覗き込む。まだ雨は降り続いていて、みぞれは雨粒が当たらないギリギリのところに立っていた。まだ濡れていないコンクリートに安心する。ほら、別に焦る必要なんてなかった。
「うん。練習、早く終わって。教室、使うみたいだったから」
「そっか」
「うん」
こういう話をするたびに、胸に生まれる痛みをどうすればいいのか未だによくわかっていない。きっと時間がかかる。そういうことだけはわかる。曖昧な相槌だけを打った私に、みぞれはもう一度雨を見つめ始めた。
向こう側に見える坂では、緩やかな水の流れが生まれている。ここからは見えないけれど、それはきっと正門まで流れ着いて、誰もが飛び超えていく水たまりができる。
雨は強まる様子もないけれど、弱まる気配もない。多分今日はずっとこのままだろう。止みそうにない雨に、黙り込んでおくつもりだった口を開いてしまったのは、誰のせいでもない。
「どうして、雨なんか見てるの?」
言葉にすると、随分と棘があるような気がした。もしくは幼い子どものような。選べなかった言葉に、少しだけ恥ずかしくなる。
みぞれがこちらを向くと、あの赤い瞳が自分の目を捉えているのがわかる。少しだけそらしたくなりながら、その瞳に映った自分を見続けると、みぞれはまたゆっくりと目をそらして、同じように前を向いた。
「思い出すから」
「何を?」
「雨の日に、希美が駆け寄ってくれたこと」
△▼△
その日は雨が降っていたから、少しだけ早く家を出ていた。いつもより一本だけ早い電車に乗って、それでも校門にたどり着いたのはいつもと同じ時間で。
少しだけ濡れた靴下に顔をしかめながら、いつものように角を曲がると、そこにはいつものようにみぞれが立っていた。
そのときみぞれは確か透明なビニール傘を持っていて、急ごしらえのように見えるそれは楽器とみぞれの体を守るにはあまりにも小さくて、つまりみぞれは雨から守られていなかった。彼女の鞄は色が濃くなっていたし、靴は明らかに濡れていた。何より私から見える線の細さがあまりにも儚いような気がして、気づけば駆け出していた。
「みぞれ!」
声を出すと、柔らかな線が少しだけかたちを持つように動いた。うつむいていたみぞれが顔を上げるのが目の端に映る。
「希美、」
そばによると、思ったよりずっと彼女の体は細かった。なんで待ってるの。思わずそう怒りそうになりながら、彼女の手から荷物を奪う。驚いた表情を確かめもせずに、玄関口まで手を引いて歩いた。
屋根の下に入って濡れないことがわかってから、すぐさまみぞれの被害具合を確認した。靴下、スカート、上着。思ったよりは濡れていなかったそれらに安心しながら、自分の傘を閉じる。驚いたままのみぞれに彼女の鞄を押し付けるように渡しながら、ため息をつく。
「先入っててくれればよかったのに」
すこし呆れたような声が出る。みぞれはちょっとうつむいて、本当に小さくごめんなさい、とこぼした。なんだかそれを見てると、責める気にもなれなくて。とりあえず、もう一度ため息をこぼした。六月の、もう暖かい雨の日のことだった。
△▼△
「覚えてるんだ」
そういう私も、覚えていたわけだけど。私がつぶやくと、みぞれは雨から視線を外した。その紅が、私を捕まえて。
「希美がしてくれたことだから」
彼女の言葉に、目線を外さないように少し必死になる。どんな言葉を選べばいいのかは、まだわかってない。ただ、まっすぐでありたかった。
みぞれの姿を探してしまうのだって、そういうことだ。ただ、同じぐらい真っ直ぐでありたいだけ。それだけ。
「そっか」
「そう」
かろうじてこぼせた言葉は、正解でも間違いでもなかった。みぞれはそんな私の言葉に満足したかのように目を伏せた。もう雨を見つめなくても、思い出せるようになったのかも知れない。瞼を下ろしたみぞれが、一体何を見ているのか。私にはわかることはないだろう。
だから、それを追い求めるのはやめて。
「帰ろう?」
そう言うと、みぞれは目を開いて頷いた。その姿に、どこか安心する。雨はまだ止みそうにない。ため息を飲み込んで、傘を開いた。紺色の傘を指すと、自分がすっぽりと収まってしまって、なんだか安心する。子供のようだとも思う。
ふと隣を見ると、みぞれはまだその手に持った傘を下に向けたままだった。取っ手の木目を親指でなぞりながら、私の傘を穴が空くように見つめた。私はなんとなく、傘が丈夫かどうか確認したくなってしまった。
「みぞれ?」
「希美の傘、大きい」
そういうと、みぞれは傘をまた見つめた。確かに、言われてみれば大きな傘だった。自分がすっぽり入るのだから当たり前か。
「そうだね」
私の答えでは満足できなかったようで、首を傾げた彼女はいう。
「どうして?」
「どうしてって……」
どうしてだろう。朝のことを思い出す。雨が降ると知っていたから、家の傘立てからとって来ただけだ。たまたま目に映ったのを選んだだけ、それだけ。
「別に、理由なんてないよ」
そういうと、みぞれは笑った。
「嘘」
それはあまりにも優しい音色だったから、言葉と感情でチグハグだった。混乱する私から目を外して、みぞれはまた雨を見つめる。
「希美、嘘つくの下手になった」
「そう?」
時々、みぞれはこういう声を出す。みぞれの聡明さが固められたような声だった。ふわりとした空気も何もかもを捌いていくような声だった。そういう声で、みぞれは喋った。だからきっと、私は嘘を付くのが下手になったのだろう。
「希美が嘘つくのが下手で、嬉しい」
「そっか」
「うん」
みぞれの話は終わったようだ。みぞれは満足したように、私の傘から視線を外した。私と同じように傘を開こうとする彼女に、やられっぱなしじゃ面白くなくて。ふと思いついて、彼女の傘を掴んだ。
驚いたみぞれの瞳を、今度は私が捉える。逃さないようにと見つめたそれは、やっぱりきれいなルビーで。
「相合い傘して帰ろ?」
そういうと、みぞれの目が更に大きく開いて、瞳の奥にいる私がさらにハッキリと見えた。なんだかおかしくなりながら、手の力が緩んだタイミングでみぞれの傘を奪って、ちょっと歩き出す。
少し玄関から離れると、傘の端が濡れ始めた。まだ戸惑ってばかりのみぞれの方を見る。屋根は途切れないようにしながら、少しだけ意地悪く言う。
「早く来ないと、先行っちゃうよー」
そういうと、みぞれは慌てて私の方へ駆け出した。それだけで、今日は満足だった。私の隣に入ったみぞれが、濡れないようにと傾けなくても、大きめの傘が全部包んでくれる。それだけでよかった。
大きめの傘を持ってきてよかった。私とみぞれが少しだけ離れていても、ちゃんと全部包んでくれるから。
「どっか寄ってこうよ」
「うん」
歩幅を合わせて歩き始める。雨はまだ止みそうにもなくて。一緒に水たまりを飛び越えられればいいなって、そう思った。