夏が死ぬ前に海に行こう。
そういった彼女の頬は赤く染まっていた。たやすく踏み越えられた倫理を置き去りにして、アルコールに身を委ねて頬を緩ませていた。
青春をなぞれるぐらい青春のそばにいた頃の話。
誰もいない列車の車輪に、微睡みを溶かされきるまでの話。
恋を殺すなら熱いままで。八月の終わりまで逃げ切った感情を許していた。炎で少しも冷たくなかった。遥か彼方水平線のずっとずっと向こうまで、暖めることができるはずだった。夜の海の青鈍さえも見透かして、遠く遠くに攫われたソング・サンダルも見つけられると信じていた。
膝の上に跳ねた水に驚いたとき、私はこの海で泳げないのだとようやくわかった。それが音になって海に落ちたとき、希美はそんなわけないさと笑った。
あの海岸線が本当なのか、今も指先が迷っている。掠れた記憶の中で半袖の希美は確かに笑っている。現実ではあった。リアリティはない。曖昧な彼女の表情を思い出すと、いつも世界が壊れていく。思い出せることだけで紡ぎ合わせた記憶では、大切な何かを見落としている。
ありとあらゆる世界の壁を、希美は軽やかに飛び越えてしまう。私がそう言うと、希美は赤らんだ頬をもう少し染めて、「十九《じゅうく》でお酒を飲むの、そんなにたいしたことじゃないよ」と笑っていた。
希美のそのどうにもならない選択の情けなさがわかっても、特別は失われなかったときの話。まだ季節さえ巡りきっていないのに、いつの間にか希美と私の間に、世界一個分の幅があると気づき始めた夏のことだ。
失恋をしたと彼女は言った。誰もいない八月の列車を大きく切り取るように差し込む規則的な西日を横目に、丁寧に彩られた彼女の初恋を聞いた。短い命だと思った。夏に生まれて、夏に死ぬ、本当の生き物のようにあまりにも。二千日をとうに超えた私の恋よりずっと小さな短い儚いその恋は、あまりに美しく輝いただろう。いずれ忘れてしまうほどに。
少しずつ覚めていく体を窓ガラスに預けながら、彼女の声は静かに温度を上げていて、紡がれる初恋は終わりへと近づいていった。語られる恋人の顔も思い浮かばないまま、私はただ最後の別れの言葉をなぞっていた。「さようなら」と、そう告げられる甘さに溺れてしまいそうだった。私に訪れることのない、その言葉に。
「今思えば、好きの練習だったのかもしれない」
列車がトンネルに潜り込むために、息を止めた瞬間を狙って、自分の映る車窓を見つめて彼女はそう言った。その言葉の意味を希美自身が理解する前に、不躾なアナウンスが私達の思考を奪った。
終点はいつでも勝手にやってきて、私達の言葉や気持ちを奪っては、私達を街に放り出してしまう。そうして奪われた言葉達は、ずっと帰ってくることはない。きっと彼らは、乗客から奪った言葉を燃やして走っているのだ。
それでも、奪われなかった最後の言葉だけで、私は何が本当のことなのか、はっきりと理解することができた。
恋のための恋。私はその恋に焦がれることを抑えられなかった。ゆっくりと自分の意思で自分と世界を切り離し始めた希美の、その最初の一歩を踏み出させたその恋を、羨望の色で染めずに見つめることは出来なかった。それはきっと消えることはない。湖の向こう側で手を振る人たちのように、希美の心の中でいつまでも映り続ける。湖を走り出した船は、いつか向こう岸にたどり着く。
私の心は海だ。その遠い水平線の先の先の先の地上、見つからない人の代わりに、広く深く穏やかな海中のどこかから、今までとこれからの希美が今でも私に向けて波を送っている。
見つけることはできない。恋と呼ぶにはあまりにも深い。私は海を泳げない。
あの夏に、裸足で走る彼女を追いかけながら、初めて世界と自分の違いを知った。私と海はどこまでも近づけるけど、私の海は泳げない。果てのない航海の果て、この海こそが恋で、希美で、私だったのだと、そうわかってしまうとわかったから。
海に私が拒絶されても、希美は変わらずに美しかった。希美の砂浜でのダンスは、世界で一番キレイだと思った。枯れかけた蛍光灯の下で裸足のまま、少年のように足を揺らして海岸線に向かって笑うあなたを見ていた。あの夏の中で、あなたといえば踊り続けるだけで、追いかけるだけで精一杯だった。
そうして出来上がった言葉も、うたた寝の間にもう二度と訪れることのない街に落としてしまった。
だから、この話は終わり。
あれから幾度となく夏が過ぎて、少しずつ世界と私は離れて行った。他人との境界を発見するたびに、遅い遅い思春期を過ごしているようだった。世界と私の距離は今でも少しずつ大きくなっていく。切り離された小舟のように広がっていくその距離を眺めていても、不思議と怖くなかった。思えばあの箱庭に囲まれているときだって、私は一人だったのだから。仕切られているか、離れているか、それだけの違いだ。
生活はそれなりだった。手についた職で日々を繋げるためだけに鳴らしているような音でも、それなりに愛せるとわかった。上手に笑えるようにもなった。その感情は本当ではないかもしれないけど、それでもきっと嘘ではなかった。
私の想いの中心が、上手に言葉になるに連れて、愛して許せる世界の外側が広がる。いつかは世界が広がって、この真ん中の想いだって小さく小さくなってしまうかもしれない。それはそれで、美しい物語のようだ。そう思える自分がいる。上手にそれを許しながら、生きていけるような気がしている。
それでも、海には行けなかった。波打ち際を眺めているだけで、世界のすべてを見てしまうようで、怖かった。その世界に溺れてしまいたいと思ってしまいそうだった。私の中心の感情は、今でもまだ確かに燃え続けている。その炎が、暖かい距離を超えて、私を包んでしまったら。もうあの頃とは違う、確かにある希美との距離で、私は燃え尽きてしまうのだろう。
そんな私のおそれなんか知らないで、私を海に連れ出したのは希美だった。もうポニーテールもやめて、落ち着きのある女性を目指すんだと揃えていた服を脱ぎさって、大きめのTシャツとジーンズととびきり可愛らしい白のサンダルを履いて現れた。それでも下ろされたままの髪はどこか不思議で、それだけ魔法のようだった。
「きれい」
待ち合わせた駅のホームで零した言葉はあまりにも小さくて、私の心には届きもしなかった。それでも希美は笑ってくれた。
今度の海に理由はなかった。三回目の失恋記念と笑いながら私に電話をかけてきた彼女の声には、悲しみの色はなかった。穏やかにはならない人生を受け入れたかのように笑っていた。約束の一週間後も、待ち合わせ一分後の到着も、あの頃のままのようだった。
あの街から、あの海岸線にたどりつくまで、おだやかな恋だけが歌っていた。なぜだか彼女との距離が近づくたびに、炎はゆるやかになっていく。これだけ歪な世界でも、自然な要素で作られていることがわかったときのような、波の一点一点が見えきるような、そういうリズムで世界が静かになっていく。
あのころの願いのように、彼女の肩に頭を乗せてみると、驚くほど安らかに眠れた。車窓から差し込んでいたはずの太陽が息を切らしたことにすら、気づかないほどに。
街へと戻るの列車のことなんて放り投げて、駅の改札を抜けた。季節はずれの夜の海に飲み込まれないように逃げる賢い子どもたちとすれ違いながら、愚かな私たちは足音を立てて砂浜へ向かう。誰よりも誇らしい気分だった。希美になんども追いついて、追い越して、追い抜かれた。息を上げながら、最後の横断歩道を走り抜けたとき、太陽は最後のひとかけらを残すばかりだ。
誰もが踏み荒らした砂浜に飛び込んで、新たな足跡を作っていく。ずっとずっと向こう側、海の底から、空の上から、誰かが叫んだ声だって聞こえなかった。誰よりも自由な私たちは夜の海にさえ奪われないと、そう信じた愚かな二人は海岸を走り続ける。
波の一歩手前で足を止めた。あの夏と同じはずなのに、あの夏よりずっと笑っていた。大人になってから、ずっと上手に笑えるようになった。たどり着いた目的地を前に、まだまだ走りだせそうだった。ここからあの海岸線まで歩いていけるって、そう思えた。
だから、一歩前を行く彼女に、差し伸べられた手を取ってしまった。
「踊ってみようよ」
私の手を引いて、希美は波へと足を踏み入れた。動き出してしまった足の裏が、私を世界に巻き込む。いつか無くした彼女のソング・サンダルが、今にも打ち上げられて月明かりに煌めきそうなほど、あの夜と同じ海なのに、足首を染める温度だけが違う。
大人になった私達は、夜の海の秘密だって、簡単に暴いてしまう。踏み入れてしまえば何でもないこの水温に、あの夏の私は何を見たのだろうか。太陽の遺言で苦しめられた爪先が和らいでいるのを感じながら、私は答えを探していた。
そうしてそれは、目の前にあることを知る。
「みぞれ!」
いつの間にか私の手を離して、ついに地上からも自由になった希美が、大きく手を広げて笑っていた。あのミュールも見えないほど足を海に取られながら、何一つ抱えることなどないかのように笑っている。
遠い蛍光灯の光だけで映し出されたその輪郭が、変わり続けたあなたを縁取っていた。たしかに落ちる影が青く染まって、水平線まで続いていく。この海にあなたの届かないところなんてないように。
見つめる私に目を細めた笑みに、全ての世界が繋がっていく。
声を出すことができなかった。
どこまでも恋をしているとわかった。微笑み一つだけで、私の炎はまた燃え盛る。愚かさも美しさも意味をなくして、育てられた感情だけが息をしていた。息もできないほど胸に溢れた感情に、どんな言葉も溶けてしまう。
私はこんなに燃えているのに、海はどこまでも冷たかった。世界は私ではなくて、だから、海は燃えたりしなかった。
九月は境界線で、夏の魔法は終わってしまっていたのだ。熱に魘され誰もが狂う八月の海なら、私の炎だって受け入れてくれたかもしれないのに。
あの理科室を想う。世界から守ってくれたあの理科室。ビーカーとプリントと時折舞い込む優しさで作られた穏やかな理科室には、あの頃たしかに魔法があった。
想いを伝えるための魔法が掛かったあの部屋で、訪れた希美に伝えたい気持ちが、確かに伝えられたはずだった。それでも、魔法は一瞬だ。今では、あのとき伝えきれなかった言葉ばかりが私を作り上げている。
あの夏を、想う。最後の魔法になるはずだった、あの夏のことを。箱庭から放り出され、他人とつながることで、世界との距離が生まれることに気づかない愚かな私の握りしめていていた拳に、誰かがそっと差し込んでくれた青春のチケット。
あまりにも強く握りしめていたから、刷られた文字すら見えなくなったそれで、世界から出ることを許してくれた最後の季節。その魔法は確かにあったのに、その終わりもしらないで、私は彼女を追いかけるだけだった。
もう魔法はかからない。あの箱庭もあの季節もない私に、唱えられる呪文はない。ただ流れていく時を見つめているだけで、見つけられるようになった世界と私を見つめているだけで、全ては流れさってしまう。
気持ちが溢れるほどあった。痛みが張り裂けるほどあった。
伝えたいと思っていた。あなたの美しさを。私の感じていた気持ちを。
もっと上手に伝えられるはずだった。あなたの正しさを。あなたの素晴らしさを。あなたを好きだったことを。
今ならわかるその全てが、今ではもう伝えられない。この感情の温度は、過去のすべてを燃やしつくしてしまう。伝えようとすれば溶けてしまう言葉たちに、初めて理解する。これが、切なさだと。
それでも、伝えたかった。
あなたが。
あなたを。
あなただけを、私は。
「希美、」
そこで声は掠れて、掌は重力に飲み込まれた。全てを笑うように九月の波だけが騒ぐ。冷えた夜の風が全てを現実へと引き戻した。
それでもあなたは声に気づいて、小さく笑みを浮かべてくれた。
「どうしたの」
そう言って微笑むあなたが、好きだ。月の明かりだけが眩しい空の先、あなたのずっと向こう側で、水平線が歪んでいく。
夏はもう終わりだった。