2リットルのペットボトルに直接口を当てて得られるものは、自分が愚かになったという確証だけだ。こんなことを二十も後半になってわかるなんてどうかしている。生ぬるい水の塊をこれ以上落とさないようにと力を込めれば、普段使わない力が入る腕に痛みが走る。
もう二度とやる必要はない。Tシャツに軽くかかった水を鬱陶しく思いながらわかる。暑い部屋で脳まで溶けてしまったのだろうか。数秒前の自分を馬鹿にしながら、私は薄暗い部屋の窓を開けた。差し込むはずの西日も遮られたこの部屋で、私は観念したようにもう一度床に座り込んだ。適切に割り振られた仕事をこなさないのは怠慢だ。床に溢れていないことに安心しながら、もう一度ペットボトルのキャップを塞いだ。
実家に戻ったのももう数週間と前のことになる。同棲をやめて実家に戻った私を、母はなんとも言えない顔で見た。それは本当に一瞬のことで、事情は特に聞かずに私の部屋を開けてくれた。
今度のやつばかりはまともな恋愛というやつにそれなりに近い気がしたのだけど、気がつくと崩壊してしまった。それはまあ大した問題ではないのだけど、今度は部屋まで失ってしまった。実家に泣きついた私に対して特に言葉を選ばなかった父に対して、母は私に適切な課題を渡すようになった。
負担ではない。トレーニングでもない。ただなにかを渡すことで私の立ち位置を確かめるかのように、母は色々なことを伝えた。家の裏の掃除、冷蔵庫の整理と掃除、家電の説明書の整理。
今日は避難用具の交換だった。危うく賞味期限の切れかかった薄味の保存食を昼食にしながら、予め買っていた換えに詰め替えるだけの作業。寝室のクーラーは効きが悪く、額に汗が浮かびだしているのを感じながら、拭うのも面倒でそのままにしている。こぼれた汗が畳に落ちて、こぼした水と混ざる。畳の下で水と汗が溶け合うことはあるのだろうかと想像する。
この炎天下の中を完全防備で外出した母親の方が、今の私よりもずっと若々しいかもしれない。億劫な夏の記憶が心を責め立てて、体を動かす前に億劫になってしまった私を見て、母が伝えたのが今日の仕事だった。母は私が動けなくなっていくのを心配しているのかもしれない。動かしていないだけだ、と言い切りたい自分は、二キログラムもまともに持てなかった今さっきの事実に黙り込んでいる。年をとる。確かなことのはずなのに、その過程はいつでも思い出せない。
「海にでも行きたいな」
思っていないことを口にすると、その白々しさに笑えた。最後に海に行ったのはいつだろうと思い返す。前の恋人とはそういうことはしなかった。堅実な付き合いだったつもりだった。そこから余裕をなくしていって壊れていったことは別れる前からわかっていたが、しかし気づいたときには余裕を差し込む隙間などないのだった。少しずつ圧縮されて意味のなくなる暮らしを、2DKの部屋から見ていた。七月に別れ話をするのはやめたほうがいい。別れるために暑い中外に出なくてはならないからだ、という話をすると、彼は最後に笑って出ていった。陽炎が遠くで揺れる方へ歩いていく彼の姿を、生い茂った木々の隙間から見送った。
壊れてしまった彼の激情に強い衝撃をうけなかったのは、脆くなっていくときにすでに、見切りをつけていたからかもしれない。石を投げる気にもならなかった。
あの頃、部屋の観賞植物の葉が初めて一枚枯れた頃に、私はみぞれのことを思い出していた。彼の隙間のない感情への覚えを探していたのだった。張り詰めた感情がやがて脆くなっていくのに、みぞれの感情はまだ美しく保ったままだった。
今でもみぞれの感情は美しいままらしい。
らしい。それだけだ。私は自分への感情を冷静に見れるほど優れた人間じゃないから、あの感情がどんなふうに光っていたのかをこの瞳がわかることはなかった。今でもふとしたときに、彼女の行動を耳にする。そういうとき、私はあの海のことを思い出した。あの日、夕日の前で立ち尽くす彼女を見て、私が彼女を置き去りにしたのだと思っていた。
そうではないと気づけたのは彼女を引き戻してからだった。大きく広がっていた彼女の世界に吐き出されたのは私の方だった。昔落としたサンダルは、その時もう完全に失われてしまった。彼女の海がまた深くなり、私は泳げなくなった。
ふと、息ができているかもわからなくなって、濡れた体を見落とした。
少し透けたシャツの向こうに心臓が見えたような気がした。
恋に落とすつもりなどなかったのだ。
胸を押さえて、無邪気な自分を殺しながらそう思う。
そういうものではないとはわかっている。どこまでもまっすぐに飛び続ける理想の弾丸のような、ひどく残酷なものであることを知っている。焦がれた相手に向かって飛び出したはずのその熱が、自分の胸に向かって放たれていたことを、痛みと共に知る。そういう経験はあった。一度目の恋はそうだった。
それでも、みぞれのその恋は、きっとどこか間違っているのだと、そう言ってやりたかった。
愛をささやくための方法を知っておきながら、慣れ合うように感情を弄り合うことしかできなくなった自分から、なんの言葉も持たないくせに、まっすぐな感情を続けているみぞれへと、そんなのは間違っていると、その先にはなにもないと、そう言いたかったのかもしれない。
これは妬みではない。世界の真実だ。
あれほどまっすぐに進むものに、到着点など与えられるはずがないから。
でも、と思う。もうあの想いとすれ違うこともないだろう。こういう小さな痛みはいくつでもあって、そのどれもがやがて人生の終わりへと流されていく。終わりを目の前にした人には、海岸線の果てで待つ彼らのことを見つけられるのだろうか?そんなはずはない。そういう時間が人生にあるなどと思えるほど気楽ではない。
それでも、なお、伝えられるのであれば。
あれば?
西日が差し込んで目をくらませる。目を瞑った一瞬の間に、言葉は影を消していた。ため息をついて整理を再開する。
声のかわりに、舌で唇を舐めた。なんてことのない生ぬるい水が、ひどく喉を乾かしていた。