Sayonara VoyagE

Use me like an oar and get yourself to shore

最近の投稿このサイトについて

「結局さ、他人の哲学を悟っちゃうのってろくなことじゃないよね」
 一瞬で迷い込んでしまった行き止まりに、中川夏紀はもう一度味わおうとしていた紅茶の香りを諦めてカップをソーサに戻していった。陶器がぶつかり合う音を頼りに彼女は目を凝らしても、目の前には十秒前と同じような笑みを浮かべた田中あすかしかいない。
「夏紀だってそういう人間でしょ」
 少しだけトゲのある言葉の真意を探る前に、もう少し耐えて目を凝らしてみると、見覚えのある壁があるということに気がつく。それがどこかということが夏紀にはわかったから、彼女はようやく取ってを持つ指先に込めた力を緩めることが出来た。試されているわけでもなく、咎められているわけでもなく、ただ耐えうる人間として選ばれただけだと。
 こういう話はおそらくあの校舎では交わされなかったはずだと、すでにおぼろげになっている二年前の記憶達を曖昧に探りながら夏紀は思う。ただ、こういう話をするための布石は、それなりに打たれていたのではないかと、そうも感じている自分がいることを夏紀は認めていた。あの可愛い後輩とも、またや彼女の隣に居続けたマドンナとも、そしてあの人の良い部長にもないある種の信頼を、あすかから貰っていたというのは事実だ。
 決して傲慢ではない彼女がそれを確信出来るのは、その信頼が美徳の上に成り立っていているわけではないとわかっているからだ。どちらかというとその信頼は、言わずとも互いの言葉選びの中で共有していた、諦観や悲観といったある種の薄暗い感性の上に寝そべっている。空白の一年間、特別の枕で眠っていると信じていた自分を今では恥じているけれど、それがすべて嘘ではないとも、夏紀は思っている。
「私、実学徒なんでそういう話はよくわからないですね」
 そういった間違いの中のある種の真実、結局今も私の多くを飲み込んでいるであろうそのひねた感情に思いを馳せながら、とりあえずで選んだ言葉は、それなりにいい切れ味だっただろう。少なくとも夏紀はそう思って、だからもう一度カップを持ち上げてその香りを楽しんだ。店の名前を覚えておこうと、夏紀は思う。希美がこういう雰囲気の店を好んでいるということは大学生になってから気づいたことだった。こういった趣味を微妙に恥ずかしく思っているであろう彼女を、こっそりと共犯者に仕立て上げることができる優越感をまだ楽しんでいたから。
 夏紀のあからさまな躱し方を、あすかは二秒程度、動かずに考えていた。彼女は飲み干していたカップを持ち上げようとしたのを諦めて、笑う。
「ほんと夏紀は可愛くないね」
 口から飛び出したのはそれなりにとんでもない言葉だったのに、その笑みにはどこか懐かしさがあった。だから夏紀は一度開いた目をもう一度伏せて、軽口を返すことが出来る。
「そういう役割は黄前ちゃんに頼んでください」
「本当にね、今日呼べばよかった」
「高校生は忙しいですから」
 あの頃のスケジュールを思い出すと、今の体力ではとても持たないだろうと夏紀は思う。その環境にまた追い込まれれば、たぶん適応してしまうとも。そういうことを思うと、それなりに得た自由とそれで失ったものの意味を、夏紀は考えてしまう。
 あの頃の自分の生活を他人事のように思い出している前で、あすかはまた話を最初に戻していく。
「でもさぁ、例えば黄前ちゃんみたいないい子はさ、行動とその理由で踏みとどまるけどさ、私達みたいな人間はその理由まで読んじゃうでしょ。どうやって育ってきたかとかさ」
 懐かしさが消えて大人に戻ってしまった彼女のレンズの奥を見つめながら、ようやく彼女がどういった話をしようとしているのか夏紀は理解した。見覚えのある壁は彼女の脳みその一部で、何度目かの招待を受けているのだと。
 微妙な信頼の意味をどこか苦々しく思いながら、その一方で夏紀はその信頼にどこか承認を満たされていることに気がついている。相手のある種の弱点を、触ることを許されているほどの信頼。こういう承認は、膨れ上がりがちで面倒だ。自意識に最大限の注意を払いながら、夏紀は言葉を選ぶ。
「まあ、そうでしょうね」
「難儀だねぇ」
 自分から投げて来たボールにしては、他人事のように適当な返しをするあすかに、夏紀は微妙に苛ついた。どこまでも扱いづらい人だ。
「まあ私はそれを利用したりはしないんで」
 癖のある人物の前に、少し心を落ち着けようとティーカップに口をつけたというのに、もう陶器の中身は空になっていた。その事実が夏紀の温度を少しだけ上げて、だから彼女にしては棘のある言葉が飛び出してしまう.気がついたときにはもう遅く。目の前の表情は意地悪く笑いを作っている.
「私はってなに?」
「いえ、なんでも?」
「ふーん」
 あすかの返事が思ったより重く鼓膜に響いて、ミステイクだったかもしれないと夏紀は思う。それでも今さら戻せない言葉を夏紀は撤回したりはしない。そもそも撤回をしたら、裏にあった言葉の意図があったと言っているのと同じだ。そんなミスをするわけにはいかなかった。
 悪人だと思っているわけではない.当然夏紀はそのぐらいの分別はついた.けれど、それなりに意地悪だろうなとも彼女は思う。自分の選んだ言葉がどう響くかぐらいは、常に計算しているだろうし。他人がどういう哲学を持っているかぐらいは、当然その計算には含まれているだろう。
 一方で、夏紀は思う。彼女のそういう態度を、ある程度当たり前に受け入れてくれる人間も、今の彼女の周りにはいるのだろうと。自分達が作ってあげられなかった彼女の居場所の形を思うと、夏紀は少しだけ言葉選びに後悔する。
「本当に?」
「本当ですよ。……少なくとも、意識的には」
 少しだけ自身を恥じながら言葉を付け足すと、夏紀はもどかしさを誤魔化すかのようにティーポットを傾けた。そんな言い訳には興味も示さずに、あすかの口がもう一度開く。
「優子ちゃんにも?」
 選ばれたその言葉に、夏紀は今度こそ固まった。あふれる前で傾けるのをやめた無意識のおかげで惨事にこそならないけれど、彼女のティーカップは今にも崩壊寸前のダムのようで、それは夏紀の心情にピッタリだった。どうにか心を落ち着けて可愛らしい花がらのマットに器を戻してく彼女に、あすかは愉快そうに笑った。
「その表情が見れて、夏紀呼んだ意味があったわ」
「性格悪い……」
 夏紀の口から思わずこぼれた言葉に、あすかは今度こそ声をあげて笑った。その笑みを睨みながら落ち着こうと紅茶を口に運ぶ夏紀も、表面ギリギリの紅茶が指の震えで波を作っているのを見ると諦めざるを得ない。一口だけ口に含んだあと、諦めたようにため息をついた夏紀に、まだあすかは小さく笑っている。
「まさか、これ言うために呼んだんですか?」
「違う違う、普通に可愛い後輩とお話がしたかっただけ」
「よく言うわ」
 思わず飛び出した飾り気のない言葉に。もう一度あすかは笑う。その表情にもう一度溜息をつきながら、ここまで笑う彼女が見られただけでも許してしまう自分に気がついた。結局長い時間をかけて絆されていたのだろうと気がつく自分と、それでも怒れない自分に溜息をつく。
 あすかが笑い終えると、テーブルの上は十分な思い出話の色が乗っていた。案外、この人も懐かしい話がしたかっただけなのかもしれない。また付き合ってあげようと思いながら、夏紀は口を開いた。
「まあでも」
「ん?」
 あすかの隙をつくように、夏紀は笑った。やられっぱなしは癪だから、一回ぐらい反撃しておきたい。
「優子は私が何かしたぐらいじゃ、私に絆されたりしませんよ」
 それだけ言い切ると、夏紀は紅茶を呷った。とても華やかとはいえないその動作に、どこか確信が見え隠れするのをみて、あすかは溜息をつく。
「最後の最後で当てられるとは思ってなかったわ」
「悪い後輩なんで」
 大げさに肩を竦めるあすかに、夏紀は勝ち誇ったように笑った。もうすぐ秋になる街の中で、そのテーブルだけはまだ暖かかった。


作者HP / 感想フォーム / お問い合わせ(メール)