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プロポーズ

僕のこと引き受けてくれよずっと

― プロポーズ / the pillows

なくした指輪の顛末。『Sprout』シリーズの後日談です。

「だからこの部屋の中にはあるはずなんだよ」
 どこか悲哀の混じった夏紀のすがるような声に、九月の快晴の午後を窓越しに見つめながら私は少しずつ苦笑を隠せなくなっていく。午後の日差しはまだ鋭く、部屋を切り取るように射し込んでは私の足元を温めている。慣れない他人の家で少しだけ浮ついていた裸足の私は、見慣れた太陽と、目の前の彼女のあまりのどうしようもなさに、すっかりと落ち着きを取り戻してしまった。
 冷房を強めに効かせてあるというのに、汗を垂らして床に這いつくばる彼女の姿を見ていたら、気づいたら私の口から言葉が飛び出していた。
「あのさ、帰っていい?」
「え?」
 私の声のトーンに、夏紀は迷子のように狼狽えて言葉をつまらせた。その姿に少しの罪悪感が生まれるけれど、どうにもならないことはどうにもならないということも知っている。

 指輪をつけた知り合いばかりになってからというものの、友人の家に気軽にあそびにいくなんてめったにないことだから、少しは期待していたというのが本当のところだ。扉を開けたのが夏紀一人だった時点で少し嫌な予感はした。持ってきたアイスクリームはもう冷凍庫にしまったけれど、三人分買ったフレーバーも勿体ないように感じて、いまさら少しすねてしまう。夏紀とはいえばお土産にほとんど嬉しそうな顔もせずに、すぐに本題へと入りだしたのだから。
「指輪を探してほしいの」
 それから三十分、私は座ることもできずに夏紀の部屋の中で立ち尽くしている。
 夏紀と優子が一緒に住む家に遊びに行くのは、これが初めてだった。もうすっかりと二人が一緒に生きていることは知っているつもりだったけれど、改めてそれを目の前にされると少しだけ圧倒されている自分がいる。少し毒々しいバンドTシャツを着る夏紀の耳元には、赤のメッシュが見え隠れしていて、変わっているようにも、変わっていないようにも見えた。
『京都に来るなら、遊びに来たら?』
 夏紀の誘いはいつもメッセージのやり取りの中で生まれるから、珍しく直接的な誘いがあったことに嬉しくなっていたのは確かだ。自分の期待を裏切られて怒っているだけの自分に気づいて恥ずかしくなりながらも、それでも自分は悪くないと思ってしまうのはそれほどおかしなことだろうか。
「助けてくれないの?」
 そういう夏紀は本当に情けのない声色で私を見上げた。親友というのは、ここまでどうしようもなれるものだっただろうかと思う。十五で仲良くなった頃には捨て去っていたように思っていた子どものような表情を、どこからか拾い直してきた十年以上の付き合いの友人に、ため息をつくのをやめられない。別に、喜ばしいことだとは思っている。それはそれとして、馬鹿らしいと思ってしまう私がいる。
「優子に正直に話せばよかったじゃん」
「頼めるわけ無いでしょ!こんなこと!」
 悲痛な叫びに苛立ちよりも先に笑いが来てしまう。私には頼めるの、と返そうとして、まあ私あての指輪じゃないからな、と思った。
 ことの発端といえば、すべて夏紀が悪いのだけど。


 付き合って十年の記念に優子にプレゼントしようと持っていた指輪を、どうやら夏紀は部屋の中でなくしてしまったらしい。
 そんなことあるの?と聞く私に、どこまでも情けなさそうに夏紀は言った。
「大事にしまっておいたらなくなっちゃった……」
 その悲惨さに、悲しい気持ちと同じくらい、どこか笑ってしまいそうになる。子供がアイスクリームを大事に取っておこうとして溶かしてしまうかのような言葉だった。昔パーキングエリアで泣いていたどこかの家の子どものことを思い出している。
 でも、指輪は甘くないし、ましてや溶けてなくなったりはしない。溶けたアイスの匂いを思い出しながら、嗅覚を働かせてもどうにもならないことはわかっている。
「そこにおいてたの?」
「置いてた。ちょうど見られない場所に置いて隠してたんだけど」
 そういって彼女が指差すのは、扉の開かれたクローゼットの中央、かわいらしいクッキー缶の一部分で、確かにリングケースが一つ入るぐらいの空白があった。そのクッキー缶はクローゼットのカラーボックスの中の奥の本の後ろに置かれていて、つまり簡潔に言えば隠されていたということだ。
「最近見たら、なくなっていた、と」
「そう」
 蓋を少しあければ気づいてしまうような場所だけど、周りの缶ケースの一番下においてあって、確かにカモフラージュされていた。確かに、ここからなくなることは普通ないだろう。なくなる可能性があるとすれば、と当たりをつける私をよそに、夏紀の中にはうなだれるか必死になるかの二択しかないようで、今はまたありそうもない、というか、先程探したばかりの机の上をひっくり返している。
 彼女を落ち着かせるのが私の役目だなと思って、とりあえずの可能性を口にする。
「ちなみに、買い直すとかは」
「特別にデザインしてもらったものだから、もう買えない」
 友人価格でね、と言いながら、実際にその額面を聞いたらクラクラした。それってほとんどプロポーズじゃん、とは言わないでおいた。落ち着かせるつもりだった自分の背中にも冷や汗が流れる。
「こんな奥まったところに隠す必要なかったでしょ、引き出しの奥とかで良かったんじゃない?」
「うっかり優子が開けたらどうするの」
 思わず言葉に棘が出た私に傷ついた様子もなく、夏紀はまるで空想の地図を真剣に書き込む子どもかのように怒る。傷つけたわけじゃないことに安心する。クローゼットの前で不用意に近づけた肩の距離はそのままにしておく。
「どうするのって、知らないけど」
「希美が薄情だ……」
 夏紀はまたうなだれたように肩を落とす。それを笑いながら、安い友情の証に夏紀の背中を叩く。
「元気出しなよ」
「軽薄だ……」
 触れた肩の感触は懐かしいのかもわからない。大げさに見える夏紀の背中を擦って、こんなことは初めてかもしれない、と気づく。子どもたちが元気に駆け抜ける声がうっすらと聞こえる部屋で、私たちはどうしようもない宝物探しを続ける。


「どこに行っちゃったんだろう」
 この一時間半の間に、夏紀のその言葉を何度聞いたのだろうか。夏紀の机の下。ベッドの下。見られて不味くなさそうなところはだいたい私も一緒になってみたけれど、お目当てのものは見つからなかった。若干答えに想像がついている私とは違って、夏紀の方とはいえば何度も同じところを探し始めたり、自分のポケットを何度も叩いたりして、見ているこちらは不安になるばかりだった。幾度となくかけた「そこはもう見たよ」の数だけ、西日は少しずつ濃くなっていく。
 焦っているのであろう、ということはわかった。自分には想像のつかない焦燥を抱えている人を前にして、できることはそこまで多くない。助けきれないことへの不甲斐なさと同時に、どうにもならない冷たさも同じぐらい抱えている。
「早くしないと」
 夏紀は何度目かのその言葉を繰り返しては、壁にかかる時計に目をやる。はじめに告げられた優子の帰宅予定時間はもう十五分ほどそばに迫っていて、夏紀の顔がまた一つ焦りを抱える。彼女の足音が少し大きくなって部屋に鳴ると、壁に飾られたレコードが少し傾いたように見えた。
「一旦片付けたら?」
 私の忠告は伝わらず、夏紀は慌ただしく移動した。私と一度動かしたレコードボックスをもう一度動かそうとして、重さに負けた棚はゆっくりと傾く。
「危ない、」
 私の言葉が届く前に、一人で無理に動かそうとした棚が揺れる。慌てて駆け寄って倒れるのを阻止したけれど、その上においていたファイルボックスの傾きまでは抑えることができなかった。
「いった」
 それは夏紀の頭に結構な音を立ててぶつかったあと、それだけでは飽きたらないと言うように部屋中に散らばっていく。私も見たことのあるようなアーティストと曲の名前が書かれた楽譜が転がっていく。
「大丈夫?」
 夏紀に聞くと、彼女は軽く頭を抑えながら小さく頷いた。彼女の様子から目をそらさないようにしながら、遠くに転がってしまったファイルボックスを拾って、近くにあるファイルから拾い集めていく。
 部屋の床を白く汚した楽譜たちを拾っていると、夏紀といっしょにバンドをやっていたころに練習していたギターのコード進行を見つけた。二人で初めてスタジオに入ったときに、夏紀に弾いてもらった曲だ。思い出か感傷か区別のつかない心のままに、声だけが先に飛び出していく。
「これ」
 床に座り込んだ夏紀がこちらを向く。手に持った楽譜を見ても、彼女は微笑むことはない。少しだけ外れた期待に対して、浮き上がってくるのは不安。
 そういうつもりで見せたわけではなかったのだけれど。そういう言い訳はできなくなった。結果が全てではないけれど、過程だけで逃れられる時代が終わってしまったことも、十分に知っている。
「もう弾けなくなっちゃったな」
 夏紀はそういうと笑った。また少しだけ時間が進んで、西日はまた少しずつ部屋に溶け出して、座り込んだ彼女の背中をなぞっている。思わず目を細めてしまったのは、何も言えないからだけじゃない。
 目線をあわせるように座り込むと、夏紀はそれだけで少し冷静になったようだ。私はその様子に少しだけ安心しながら、床の滑らかさを確かめるかのように手をすべらせる。夏紀がいつも暮らしている場所。優子と二人で生活している家。でもきっと夏紀だけの場所。六畳あるかないかの正方形の部屋。空調で冷えた温度を確かめていると、夏紀は少し息を吐き出す。
「もう、自己嫌悪がすごいわ」
 そういう夏紀の顔は少しだけ穏やかになっている。どうにもならない自分を一段飲み込んだときの顔だ。鏡でよく見る顔。洗面台でよく見るその顔にかけられる言葉を探している間に、夏紀は俯いてしまった。彼女は私の鏡ではないから、私が笑ってみせても意味はない。
「いつかにちゃんと決めたことだってうまくやれない自分が情けないよ」
 弱みを一度見せたのがきっかけになったのか、明かりに溶けていく夏紀の表情はあのころ見逃していたもので、きっとすぐにいつもの表情に戻ってしまうのだろう。そういうところが夏紀の好ましさにつながっているとわかっていても、居心地の悪さには耐えられない。
 どこまでいっても大切なものを抱えきることはできない。詩にしても、言葉にしても、手の日からこぼれ落ちるものを掴み切ることはできない。日々の隙間で失くしていくものをふと振り返ると、何も大事にできていないことを突きつけられているようで、情けなくて、悲しくなる。
 誰もが感じるであろうふとした瞬間の小さな悲劇が、友人の上にのしかかっていることが、棘のように刺さって顔をしかめる。
 床に散らばった思い出を眺める。手つかずの写真に焼かれた思い出が、またいつものように笑っている。私には踏み込めない人生の一角を前にして、それでも私が言えることはある。
 少しだけ息を吸い込んで、吐き出した。
 こんなこと鏡に向かって言えやしないから、私は立ち上がって、口を開く。
「うまくやれないから、ちゃんと決めておくんでしょ」
 いつでも帰ってこれるように。約束というのはそういうものだ。
 夏紀がゆっくりと顔を上げる。その目は濡れているようにも見えるけど、それが乾くまでの時間を待ってあげる。私が見つめると、夏紀の目は少し瞬いた後に、前髪で隠されて見えなくなった。
「うん……。」
 心細そうな彼女の声。
 それから、もう一人の主役に問いかける。
「ねえ、優子」
 部屋の入口に、隠れていた優子は、ゆっくりと部屋へと足を踏み入れた。
 こんなバツの悪そうな彼女の顔は初めて見るな、と思った。


 優子のポケットから取り出された指輪を、夏紀は呆然とした目で見つめている。そんなことだろうな、と思っていた私の顔と、気まずそうな顔をした優子の顔を何度も見ている。数秒間の無言のあと、夏紀は顔を手で覆った。
「恥ずかしい……」
 優子とはいえば反省と苛立ちの混ざった表情で夏紀を見ている。ここまでくれば二人で解決できそうなものだとどこか思いながら、私は部屋の外の気温を思い出して、部屋を出ずに二人を眺めている。
「こんな情けないところ見られたくなかった」
「いつでもこんなんよ、あんたは」
 優子はそういうと夏紀の肩を小突いた。ずっと優しくなっていた彼女の指先に少し感動する。もう窓の向こうの隙間から見える空はエンディングのように夕暮れになっていて、このままもう今日は終わりでもいいかもしれないなんて思いながら、私が言っておかなければならない言葉が口の奥から飛び出していく。
「なんで優子は指輪持ってたの?」
 穏やかだった雰囲気は霧散して、夏紀が思い出したように顔を上げる。優子はこちらを少し睨んだ。余計なことを、とでも言いたげな彼女の瞳に映る私の顔には、きっと苦笑いが浮かんでいるだろう。
「それは、まあ、夏紀の浮気を疑って」
「違うでしょ」
 こんなこと言いたくないけれど。沈黙の降りた部屋の中で冷房の音だけが大きくなっていく。こういう瞬間は青春の間に何度もあったけれど、今のほうが少しいたたまれない。たどり着くべき場所を知っている大人にとって、沈黙はただの幕間でしかない。
「そうね」
 こういうとき、優子がすぐにどうしようもない舞台を降りられるのは、変わったところなのかもしれない。観念したかのような、しかし、過剰に傷ついているわけでもない、彼女らしい彼女の声に、もう大丈夫そうだ、と思う。
「昨日、夏紀の部屋の掃除してたときにたまたま見ちゃって。それで、どうしようって思ってたら、夏紀が帰ってきちゃって」
「慌てて戻したつもりが、戻し忘れたの?」
 夏紀が顔を上げて問いかけると、優子は頷いた。
「ポケットに一旦入れちゃって、あんたを迎えたあとに気づいて。そっから、戻すタイミングがなくて、今日になっちゃった」
 夏紀はといえば、疑われたわけではないと知って安心しているような、どこか感情を持て余しているような困惑が目の端に浮かんでいる。
「自分宛てだったってのはわかってたんでしょ?」
 優子に問いかけると、バツの悪い顔をしたままの彼女が口を開く。意地の悪いことを聞いてしまったと思った。別にこんな補助線を引かなくたって、二人なら適切な場所にたどり着けるとわかっているのに。子供の頃の癖を思い出したかのようだ。
「いや、戻せばよかったんだけど。どういう顔で受け取ればいいのかわかんなくなって。今日になって。夏紀が、すぐに気づくって思わなくて」
 事故のようなものだ。動くようなものじゃないし、家の鍵なんかじゃないんだから、夏紀が動かした記憶がないのであれば持っているのは優子しかいない。最初に思いついたけど、黙っていた可能性だった。
 そこまで驚きはしない私に比べて、夏紀とはいえばしばらくまだ上手く飲み込めていないかのように黙り込んでいる。
「ごめんなさい」
 優子は静かに頭を下げた。言い訳を重ねることもできる場面だと思うけど、こういうときに頭を下げる優子を見て、こういう素直なところがあるのが彼女だということを思い出した。高校生のあの頃との連続性を確かめるかのように、部屋の壁に貼られた写真たちの中で、四人の集合写真を太陽が通り過ぎようとしている。
 立ち上がったままぼんやりと部屋を見渡している私と、うつむいたままの優子。夏紀は私達の方を何度か見て、そうして今日初めて、緊張を解いた。
「もうサプライズはやめる。向いてないわ」
 夏紀はそういうと立ち上がった。吹っ切れたように少し伸びをしてから、優子に笑いかける。
「ここまで決まらないと、もう運命だね」
 そういうと、手に持ったリングケースをもう一度開いては眺める。その視線は柔らかく、優子の罪悪感はようやく和らいだように見えた。安心して小さく息を吐こうとした私を、夏紀の声が止める。
「優子」
 その声は優子に向けられていた。いつもの優しさはそのまま、少しだけ真っ直ぐな彼女の瞳に、優子が動揺するのが見えた。
 珍しいものを見たという気持ちに浸ることもなく、私は反射的に声を上げる。
「いや、私がいないとこでやって!」
 私の叫びに、二人は我に返ったように固まった。少しして、照れたように笑う夏紀と、恥じるように顔を背ける優子。人の浮気現場を目撃するよりもたちの悪い動悸が襲ってくる。こんなところでなんて、たまったものじゃない。
「じゃあ、来週のどっかで渡すね」
 夏紀はそういうと、彼女の机の上においた。オーディオミキサーの間に上質なリングケースが置かれると、案外と机の中に馴染んでいく。最初からここにおいておけばよかったのではないかと思うぐらいに。
「いや、曜日決めなさいよ」
 優子は顔を手で仰ぎながら呆れたように、しかし夏紀の一挙一動を見つめている。本当に呆れた顔をしている私に気付かずに、夏紀は人差し指を口に当てる。様になっている内緒のポーズ。
「それはお楽しみに。いつ渡しても、受け取ってくれるんでしょう?」
 不敵な笑みを浮かべる夏紀に、優子が口を開いては閉じていく。もう少しずつ紫に染まっていく夜空の中で、赤く染まる頬は綺麗に浮かんでいる。口から零れそうになるため息を数度飲み込もうとした挙げ句、結局吐き出してしまう。
「今日のご飯、夏紀のおごりね」
 予約の時間はもう近い。急がないと店に迷惑をかけてしまう。荷物を持って部屋の扉を開くと、まだほんの少しだけ日差しがリビングに差し込んでいた。二人が慌てて立ち上がるのを聞きながら、夏紀と優子の部屋を改めて眺める。緩やかに緑を放つ観葉植物が、暮らしの続きを物語っている。
「いや、いいけど、私?」
「まあ、アンタが八割悪いわよ」
 廊下を抜けて玄関の扉を開けると、夏の空気が飛び込んできた。靴を履くために下を向く。一つだけ丁寧に揃えられた自分の靴と、バラけた二人の靴が少し遠くて、それでも、今は一つの場所にある。こういう瞬間がまた訪れるようにと願いながら、すべての光を取り込むように大きく扉を開けた。


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