七条駅の地上へとつながる階段を登ると、すでに朝日に照らされた街は一日を始めていて、鴨川は表面に日差しを反射して流れていた。昨日少しだけ降った雨のせいか、川の音はいつもよりも少しだけ早い。少し寝不足気味の頭ではそれを上手く認められなくて、どこかぼんやりとした視界で京都タワーを見つけながら歩き出す。川べりを走る人の姿を橋の上から見下ろしながら、時計の時間を調べる。約束には十分間に合いそうだけれど、麗奈はもう待っているだろうな、と思った。
京都の七月は朝だろうと夜だろうと、もうずっと夏の温度で、私は汗をかかないように気をつけながら、少しだけ足を急がせる。この頃は、というよりは卒業してからのことだけれど、麗奈との待ち合わせにはいつも私が遅れて着くようになっている。別に私が待ち合わせの時間に遅刻するようになったわけではないくて、麗奈のほうが少し早く待ち合わせに現れるようになっていて、私のほうがゆっくりと歩くようになった、言ってみればそれだけのことなのだけれど、その理由にはあまりたどり着きたくなくて、横断歩道で立ち止まった私は考えを止めるために一度目を瞑った。もう一度開いた目の前で不必要にスピードを出したタクシーが走り去って、危ないな、と思いながら、さっきまでの思考はゆっくりと消えていく。残り少しの距離だから、少しだけ歩幅を広げてバスターミナルへと急ぐ。
麗奈が指定した待ち合わせ場所はバスの乗り場の前だった。そこにどれだけ近づいても彼女の姿は道路の向こう側からは見えなかったけれど、でも大きな車体に隠れているだけで、そこにいるのだろうなとわかった。逸る気持ちを抑えて、小さな横断歩道を通って約束の場所へとたどり着く。麗奈はやっぱりそこにいて、大きなスーツケースを横に持ちながら、それに寄りかかることもなくまっすぐに立っていた。私もそれを見て少しだけ背筋を伸ばしながら、少し駆け足になって近づいて、声をかける。
「麗奈」
私の声を聴いて振り向いた麗奈は確かに頷いた。だけど、彼女といえばそれだけで、少しだけ息を上げた私にすぐにチケットを手渡すと、そのままバスの入口にしまうものだから、私といえば慌てて追いかけるしかなかった。スーツケースをしまう彼女の後ろ姿に、何か声をかけようとするけれど、何も思いつかない。こうやって立ち止まってみて初めて、私は街で蝉がずっと鳴いていたことに気づいた。バスに乗るまでの屋根とバスの間で空を見上げると、わずかな隙間から青空が広がっていた。きっとこの空が、ずっと続いているんだろう。
麗奈がアメリカに行く日だった。
旅立ちの朝には悪くないんじゃないか、と思った。
空港へと向かうバスは混雑していて、満席ではないけれど十分人が多かった。このほとんどすべてが向かう人か帰る人なのだと当たり前のことに気づく。麗奈は片側二列の窓際の席に座って、私といくつか事務的なやり取りをしたあと、寝不足なの、と告げてから、目を閉じてしまった。そうなると私は何もすることがなくて、バスが出発してからも、麗奈の横顔越しに窓の外の景色を眺めたり、窓の外の景色を背景に麗奈の横顔を眺めたりした。
薄情なのかもしれないけれど、こうやって空港へ見送ることはないのかと思っていた。六月の終わりに四人で十分遊ぶ見送り回をやったから、空港へは見送らなくていいと言ったのは麗奈だった。それ以外にも先輩と一緒に遊んだり、二人でも遊んだりして、お別れのための準備は何度でもしたから、私も一度それを信じたけれど、それでも最後の二人の予定のその帰り道に、心細かったら呼びなよ、とだけ言った。それはどちらかといえば、社交辞令というか、旅行に念のために持っていく本のようなものだと思っていたのだけれど。
そうしたら彼女は二人分のチケットを取った、とメッセージを送ってきて、私はこうして麗奈の旅路の初めだけついていくことにした。空港まで行って、飛行機に乗らないなんて変な感じだ。そういうことが趣味な人もいるとは知っているけれど、そういう感性は自分にはないから、余計に儀式のように感じる。
窓から差し込む日差しが麗奈の表情を照らして、麗奈は鬱陶しそうに顔を伏せる。彼女の髪の毛が少し乱れるのを、どうしてか整えてしまう。指先に触れる彼女の髪の毛の温度はわからなかった。バスが少し急いで右折して、私の手から彼女の髪は離れていった。まだ触っていたかったと、少しの名残惜しさを感じていると、麗奈は顔を上げて目を開いた。
「起こしちゃった?」
私は小さな声で謝ろうとする。私の目の端に入る決められた行き先を示しているディスプレイは一度も変わることがない。ただそこに光があるだけで、どうにもならないこの先のことを私に伝えている。
私が見ているそのディスプレイに気づいたのか、麗奈もそのディスプレイを一緒に見る。関西国際空港。ただありつづけているだけのその光を、その瞬間は私と麗奈だけが見つめていた。信号が青になって、強くなったエンジンの音の後ろで、麗奈が口を開いた。
「久美子は」
「うん?」
変わることのない行き先を見続けるのをやめて、私がその言葉の続きを聞こうとしても、麗奈はその続きを話すことはしないで、窓の向こうの景色に目をそらした。鈍い音を立ててバスは走り続けている。少しずつ町中を抜けて、海沿いの都市に街が変わっていったのは私にもわかる。バスはゆっくりと目的地に近づいていく。飛行機の出発の時間は、ゆっくりと近づいている。
いつ訪れようと、空港という建物は見上げるほどに天井が高くて、その分周りの人の数よりずっと孤独だと思う。それは誰かと近くを歩けばより、強く感じるもののような気がするし、見送る立場ならなおさらだ。この寂しさはうまく人と共有できないから、孤独がどこか縁取られて、天井からスポットライトを浴びせられているような気持ちになる。孤独が孤独と近づいて、これから進む舞台の登場人物にされているかのような。
「久美子は」
スーツケースの車輪が地面と無遠慮な音を立てて、麗奈の声を隠そうとしていたから、私は危ないからと少しだけ空けていた距離を詰めて、その声を聞こうとした。
「どうしたの?」
孤独を隠すかのように私は返事をかける。これはさっきの言葉の続きなのだろうなとわかった。麗奈といえば私の声を聞いて少し歩くスピードを落として、前を向いたまま言った。
「泣いてくれないの?」
麗奈の言葉は、いくらここが旅立ちの場所だからといってあまりに急いだ言葉で、その途端に、私はここが舞台ではないことに安心して、彼女のそんな可愛らしい言葉に笑いだしてしまった。吹き出してしまった瞬間に、間違えた、と思ったけれど、安心したことで上手くごまかせなくなって、笑いを止めるまでの間に、麗奈の顔は驚いて、曇って、そして怒りに変わった。そうして怒ったまま、私に謝る隙を与えずに、ハイヒールを高く鳴らして背を背けると、足音を高くして歩き出そうとした。いくつかの足音が聞こえても、私は何を言えばいいかわかってるから焦らない。
「後悔するよ」
私がそう後ろ姿に声をかけるだけで、麗奈は立ち止まった。こういうときに、どれだけ素直になって、どれだけ甘えられるようになっても、学んだことをすべて失うことは難しいのかな、と思う。だから本当の子どものように笑ったり怒ったりすることは難しくなって、それが悲しくて私たちは時折、子どものように振る舞うのだと思う。ふとした瞬間に立ち止まってしまうと、窓ガラスに反射するブレスレットもなりたい自分になるためのもので、飛行機にも一人で乗る麗奈はもう思春期も過ぎようとしている。
美しい彼女が立ち止まる奥のガラスの向こうで、小さく映る飛行機が一つ、飛び立っていく。あの飛行機たちが飛び去っていくたびに、確かに別れの時間は近づいていく。エンジンの音も聞こえないのに、あの大きな翼が確かにカウントダウンになっているなんて、信じられないような気がする。これが泣けない理由の一つ。
振り向いた麗奈がほとんど泣きそうで、それどころじゃないのが一つ。
「ごめんって。麗奈が可愛くて」
「そんなこと聞いてない」
麗奈はそばにあった空いているベンチに座ると、キャリーケースを盾のように自分の前に構えて、持ちての隙間から私を睨んだ。美人の怒った顔は迫力があるけれど、麗奈の場合は見慣れていてどこか可愛らしい。そういう私の態度も含めて見透かされて、麗奈の眉間にはもっと力が入っていく。
「この薄情者」
「そんなことないよ、ここまで見送りに来てるのに」
「寂しがってる私を笑いに来たんでしょ」
「そんなわけないよ」
私の言葉は自分でもどこか軽くて、麗奈の心を納得させることは難しそうだった。その代わり、スーツケースに乗っかっている麗奈の手に自分の手を重ねる。お別れのための特別な温度が用意されているわけではない平熱の体温に、私は隠していたはずの寂しさを思い出しそうになる。それを紛らわすように少しだけ彼女の手を触る指に力を込める。自分の気持ちを誰かの慰めに変えるための力。綺麗な指先を何度かなぞると、麗奈の表情の力は抜けていったけれど、その分さっき思い出した寂しさが残ってしまったのか、彼女らしくなくうつむいた。
「すぐ忘れちゃうんでしょ。私のことなんか、久美子は。それで彼氏でも作って連絡もくれなくなる」
ほとんど泣きそうな声で麗奈は言う。孤独ではないはずのロビーで、その声はひどく孤独に映る。一つ空席を挟んで座っている誰かも、私の後ろでお母さんの手を繋いでいる子どもも、聞こえているはずのその声を丁寧にフロアに落として、麗奈の言葉を孤独にしている。こういう瞬間は生きているといくつかあるけれど、留学前の国際線のロビーでその孤独を手渡されることが、一体どれだけの痛みを心臓に残していくのだろうか。
そんなことはない、という事実と、そんなことはないと、信じられることは別だ。
「忘れないよ」
忘れることなんてできないよ。私はそう言おうとしたけれど、やめた。伝えることができないから。麗奈は私を作り変えたけど、私は麗奈を作り変えたわけじゃない。だから、麗奈にとってどれだけ私が大事な一つだとしても、それは麗奈の外側だから。麗奈は私じゃないから、私が私のように生きていくだけで、麗奈のことを思い出せるように、麗奈は麗奈のように生きていくだけで、私を思い出せるようにはなっていない。
その対称性は、時に私に信じられないぐらいの寂しい気持ちを運んでくることがあるけれど、でもそれはただの寂しさだった。だから不安はない。私の心を傷つけたりはしない。心が傷むのは傷ついたからじゃない。そういうかたちになっているからだ。そっと胸に手をやる。今私が持っている荷物は、小さなトートバック一つ分で、麗奈の荷物の何十分の一だ。通り過ぎていく旅に慣れていそうなバックパッカーよりも、ビジネスマンよりも少ない荷物でここに来たことは、そのまま麗奈との距離なのだとわかっても。
「信じられない」
きっと彼女のなかにある最大限の子供らしさを使って、麗奈はわがままをいう。彼女のスニーカーの靴紐はきれいに結ばれていて、私のようにどこか崩れたりはしない。チグハグな麗奈を見つめながら、お別れするのは一緒だとしても、旅立つのは私が良かったのかも知れないな、と思った。私は泣いて、寂しくなると思うけど、麗奈が今感じている孤独に傷つけられることはないだろうから。痛みは少ないほうがいい。旅立ちの前ならなおのこと。それでも麗奈は耐えられなくて、私一人を空港に呼んだ。そのせいで傷ついているというのに、私にあげられる痛み止めはない。
こういうとき、何度も、私と麗奈は同じ人間ではないのだと思う。私の中にある見えない一番眩しい星は、確かに麗奈だというのに、麗奈はその光を感じることもできない。ただ信じるしかない彼女のために、あんなふうに報いることはできるのだろうか。結局それは私の話で、麗奈に分かってもらうことはできないのだけれど。それでも、もしかしたら、伝えることができるのかもしれない。
でももうここにはお別れしかなくて、あれだけ強く生きた麗奈にとってもさびしいことしかなくて、証明してみせることは難しい。そもそも、証明の機会なんて何度も訪れるものじゃない。だから、私はただいつもの言葉と、平熱でできることで、麗奈に伝え続けることしかできない。
「手紙、書いてあげるから」
スーツケースから手を離さない麗奈をゆっくりと抱きしめて、立ち上がらせる。思い出したようにいろんな言葉の喧騒が聞こえてきて、私たちの孤独の表面が撫でられていく。どれくらい強く抱きしめたら、痛みを上書きできるのだろうか。悲しみを忘れるぐらい強く抱きしめることは出来るのだろうか。腕に力をこめる。
精一杯抱きしめていたら、麗奈は痛い、と、今日初めて笑った。少し細められた目の横に涙が光るのを見て、初めて泣きそうになって、私はもう一度強く抱きしめた。
麗奈の飛行機が見えなくなるまで見送っていたから、もう帰り道につく頃には正午を回っていた。体は都合よく寝不足を感じて重くなるけれど、ここからまた家に帰って課題をやらないといけない。
そんなことをしてくれるわけはないのだけれど、麗奈が帰りの分のバスまで取っておいてくれたらよかったのに、と思った。まばらな車内で発車を待ちながら、そんな無責任なことを考えていた。それから、帰りの分のバスまで取れていたら、麗奈は泣いていないだろうな、と思った。
お別れの準備はいくつあっても足りることはない。駅のホームで佇む列車では、空の色を見ることは見えないけれど、晴れていたらいいな、と思った。お別れ自体が寂しくて、後悔や名残惜しさはあとからやってくるだけで、だから行きのチケットを買って後悔を減らすことはできても、一人分の帰りのチケットを買って、お別れを認めることはできないのだとわかる。晴れていたらいいな、と思った。
泣いてあげたらよかったのかな、と思った。でも、泣いてはあげられなかった。涙の私の顔で飛びだってほしくはなかった。
これから何度だって会うことはあるだろう。これから何度だって会いにいけるだろう。だけど、私が麗奈を忘れないと、麗奈にわかってもらうことは難しい。麗奈が私を忘れるまで、私が何度も忘れないと伝えてあげれば、麗奈は安心してくれるのだろうか。
そんなわけはないなと気付く。出発のアナウンスがホームに響く。ドアが閉まり、電車が走り出す。ゆっくりと変わる窓の向こうから、太陽の光が少し暗かった車内を照らす。眩しさに目を細めながら、麗奈の行く道もずっと晴れていればいいのに、と思った。