sker sker
2020年4月に通販にて頒布したなかよし川ルームシェア本「sker sker」より表題作の再録。中川夏紀さんと吉川優子さんのルームシェアの始まりについてのお話です。
「だからさ、これは吉川さんにしか頼めないことなんだよ」
そう切り出されたときに思ったことは、それは嘘だろうということ。
自分にしかできないことなど一つもないのだと、そういうことに二十にもなれば誰だってわかると思っている。だからそういうことを言う人は、本当に何も考えていないか、何か裏があるかのどちらかといった印象だから、警戒心は嫌でも強まっていく。
休憩時間の十分前というのはどうにも億劫になる。昼休みの学食前、晴れ渡った空から降り注ぐ日差しは目に眩しくて、早く話を終わらせたかった。
「夏紀と親しい人、いくらでもいると思うんだけど、そうでもないの?」
そういう感情を表に出さないように気をつけながら、私は私に回ってきた問題についてできるだけ遠ざけてみた。目の前の下の名前もよく覚えていない彼女は、一歩も引こうとしなかった。
「なんていうかさ、中川さん、誰の言うこともスルーしちゃうっていうか、流しちゃうんだよね」
「別に大学生なんだから、夏紀だって自分の管理ぐらい自分でできるでしょ」
「でも中川さん、どんどんやつれてて……。サークル内でも大丈夫かって話題になるぐらいなの」
親しい付き合いでなくても、嘘を言ってるようには見えない人間の言うことをあまりないがしろにはできない。どうやら本当のことらしい。私はとりあえず間を取り持つかのようにため息をついた。
夏紀が無理をしているらしい。傍から見て、心配になるほど。
らしい、というのは、実際に見たわけではないからだ。
彼女とは、しばらく疎遠にしていた。組んだバンドは実質休止状態だったし、あいつを慕っている一つ下の後輩の女の子が私を嫌っているとかなんとかで、なんとなくここ数ヶ月は距離があった。見かけて手を振ったりはしたけれど、それだけの関係だった。
今までが近すぎたのだとも思う。最初の一ヶ月ぐらいは一緒じゃないのは珍しいねと言われたりしたけれど、今になっては夏紀の名前を出す人はいなくなった。喧嘩をしたわけでもないのに、みんなどこか私に遠慮していた。
その間に、夏紀が無理をしていたとしれば、どこか罪悪感はあるけれど。それは私のせいじゃない。そう思うけれど、私がそばにいたらそんなことにならなかったんじゃないかとも、たしかに思う。
「だからさ、中川さんのこと『怒れる』の、吉川さんぐらいなんだよ。だから、お願い」
目の前の彼女はそう言って手を合わせた。人前でそうまでされるとやりづらい。先程から学食に入る人たちがちらちらと私達の方に目をやっている。追い込まれた私は投げやりに返事をした。
「わかった、今日会って言っておく」
「ほんと?ありがとう!」
じゃあ私は次の講義があるから、と走っていく彼女に、私もあるんだけどな、と思いながら手を振る。
急に増えた役割に頭を痛ませながら、ふと思う。
夏紀と私の間には、まだ何かしらで結ばれているように見えるのだろうか。
距離を取りたかったのかと言われたら難しいけど、高校から意図的ではないにせよどこかべったりだった関係をほぐすには良い期間だと思っていたのだ。会う用事がないから会わないだけ、それだけのつもりだった。
つまり会う用事があれば会うのだ。別にそこに[[rb:躊躇 > ちゅうちょ]]はないつもりで。
「いや、それには理由があって」
「理由なんかどうでもいいわよ」
「横暴!」
そういうわけで夕方のキャンパスで夏紀を捕まえて問いただすと、何やら言い訳を始めたので一蹴した。そのぐらいの気軽さはまだ残っていたようで、どこか安心しながら笑うと、夏紀は合わせたように苦笑いを浮かべた。
夕日の色が滲むキャンパスを背中に向けて話す夏紀は、確かにどこかいつもよりやつれているようにも見えた。たまたま歩いているところを捕まえて手早く要件を伝えると、どこか気まずそうにしながら言い訳を続けている。
「ライブハウス、仕事自体はきつくないんだけど、ダラダラ遅くまでやる感じなんだよね……毎度終電ギリギリで」
いつの間にか変えていたバイトのことは途切れ途切れに舞い込んでくる世間話で聞いていたけれど、どうやら少々ブラックのようだった。顔色の理由は、労働のようだ。好きでやってることだから、という彼女の顔はどこか陰りがあるようにも見える。穿ち過ぎだろうか。こういうとき、他人になってしまった距離のことを少しだけ後悔する。
「それを無理してるって言うんじゃないの」
「いや、まあそうなんだけど。どっちかって言うとあんまり眠れないほうがね」
そう言ってから夏紀は口に手を当ててあくびを隠す。目の端に浮かんだ涙が、悪い顔色と相まってどこか不気味だ。
「バイト終わるのが遅いから?」
「それもあるし、割と帰るのに時間がかかるんだよね。一時間半ぐらいかな」
「じゃあ帰るのはいつも十二時半とかってこと?」
「もうちょっと遅いかも」
目の前で薄っぺらく笑いながら適当な受け答えをするこいつの平均睡眠時間は、思ったより悲惨なものらしい。ふらふらされて困るのは今は私じゃないけど、ごまかされるのも腹が立つ。目を合わせようとしない目の前の問題児を睨んでいると、怯んだかのように言葉を繋ぎだす。
「まああと、不眠症気味なのかも」
「不眠症?寝れないの?」
「んー、なんかね」
はっきりと答えようとしない夏紀に苛つく私に気づいているのかいないのか、なんでもないかのように夏紀は話を変える。
「なんか優子に無理してない?って詰められるのなんか変な感じだわ」
「はぁ?」
「吹部のときは私が心配してあげてたのになぁ」
その言葉には、本当に寂しさのようなものが詰め込まれていたように思う。苛立つ私を見て、ボロボロのハズの夏紀ばかり笑っている。自分の問題だからと静かに区切られたことが悔しかった。
「とにかく、ちゃんと休みなさいよ」
ありきたりのことを繰り返す私に、夏紀はひらひらと手を振る。
「努力するよ。もう行かなきゃ」
それじゃあ、と歩き出してしまう夏紀の背中に声をかける。
「結果を見せなさいよ!帰りが遅くなるなら、家に泊まってってもいいから」
思ったよりも大きな声で張り上げてしまったことを後悔する私に、夏紀は私の方を振り向きもせずに言った。
「考えとく、ありがとね」
最後まで適当に流されてしまったことへのわだかまりを、役目は終えたからと無理やり吹き飛ばす。ああ言ってしまったからには、一応家をキレイにしておくかと、自分の部屋への足を早めた。
逃げるようにライブハウスを出て、駅までの道のりを進む。
日に日に作り笑いが下手な人間になっている自覚がある。今日は出ていくときにため息をついてしまった。少しずつ浮いていく自覚がある。ノレていない自分がいる。
好きで始めたもののはずなのに、こうなっていく自分がいるのは堪えた。逃げ出すように街に歩き出しても、片道一時間半の帰り道が足を止めてしまう。本当に止まってしまおうか。
夜中の街は私を止めることがない。歯抜けになった看板の光は私の視界をすり抜けてぼやけていくだけだ。景色に映るものを上手に捉えられなくなっている。
そういう夜だったから、横断歩道のたびにポケットに手を突っ込む。赤信号になるまで、一番近いその光を眺める。落ち着かない子供のようなその行動をやめられない私がいる。
眺めるのは、バイト先からの連絡、サークルの連絡、そして優子のメッセージ。先週の会話から、時折見つめてしまっている。ここに『疲れた』と書き込んだら、どう返ってくるのだろうか。そういうことを考えている。
いつでも来いという言葉を額面通り受け取るほど子供ではないけれど、すべてを社交だと思えるほど大人でもない。逃げるように顔を上げても、五秒後には画面に目を戻してしまう。そういうことを繰り返していると、だんだんと自制心が揺らいでいく。あんなに何でもないように振る舞っておいて、と、自分の記憶が引き止める。
そうして私は最後から三つ目の横断歩道で、信号が赤く光る間に、ついに自制心を使い果たしてしまった。
『友達の家に泊まる』
『今から行ってもいい?』
一つ目を家族に送ってから、二つ目のメッセージを送信するまでの間、私の指は十分に送信ボタンのあたりを彷徨っていたし、信号は変わらず赤の光を雨の夜に行き渡らせていた。その時間が十分な長さを持っていたから、信号が青に他愛なく変わったとき、私の指は送信ボタンを押してしまった。免罪符のように過ぎた時間を許してしまった。聞くだけ、聞くだけと、自分の罪悪感をなだめた。
メッセージの向こう側で優子がどんな表情をしているのか、そんなことまで考える勇気はなかったから、早々にスマートフォンをポケットに入れた。信号の白線上の水たまりを避けるように大きく一歩を踏み出す。向こう側に渡り終えたときにも、まだ心臓は大きな音を立てていた。
跳ね上がる心臓をなだめるようにいつもよりも丁寧に街を眺めた。コンビニエンスストア、並んだ自動販売機、薄暗い小学校。
レンタルショップの店名を読み上げながら通り過ぎてから、返却するためのCDを持ち歩いていたことに気がついて引き返す。返却口にいつもより少しだけ丁寧に流し込んだディスクたちが鈍い音を立てて着地したのと同時に、ジーンズの中のスマートフォンが震える。
『15分待って』
少しだけ恐れながら見つめた液晶の向こうでは、優子からのメッセージが画面の中で穏やかに主張していた。了承の返事を送って、レンタルショップをぶらつくことにした。結局四枚のアルバムを新たにバッグに増やした頃には、二十分が過ぎていた。
「急に、どうしたの」
「ごめん、泊まらせて」
「いや、ごめんじゃなくて。……まあ、いいけど」
諦めたように最後の言葉を付け足して、大きく扉を開いた優子は、寝間着の上に薄いパーカーを羽織っている。今から眠るつもりだったのだろうかと、罪悪感を煮詰めながら扉をくぐる間も、優子のあまり感情のない色の表情が私を見つめていた。閉じられた扉の中で窮屈そうに靴を脱いでいく私の前で、優子は持て余すように視線を一周させたあと、口を開いた。
「バイト?」
「うん」
会話のための会話のようだ。ここまでぎこちないやり取りが互いの間でできたのかなんて思う。[[rb:立場 > ロール]]があった頃のほうが気楽だった。そう思っても、あの校舎での距離感は返ってこない。精一杯使われたはずの玄関の横幅でも、沈黙を癒やすには心許ない。
どうにかして脱ぎ終えたスニーカーをいやに丁寧に並べていると、気まずさにすら飽きたように優子はため息をついた。
「晩ごはんは?」
「んー、大丈夫」
「食べたかどうかを聞いてるつもりなんだけど」
気まずさが消えても、不機嫌な彼女の態度は変わらなかった。呆れの混じった言葉の棘を笑って受け流しながす。
「軽くつまんだし、お酒飲んでるから」
手を振ってなるべく軽薄に見えるようにしてみたのだけれど、それでも優子の瞳の中の厳しさは変わらなかった。その色に射抜かれて、自分の表情が固まるのがわかる。不自然に固まった私の方を見て、優子はもう一度ため息をつくと、呆れたように部屋の中に入っていってしまった。
「お風呂沸かし直すから、入っちゃって。その間に布団の用意しておくから」
慌てて追いかけた私を見ずに、優子は洗い物の続きをしながら言葉を出した。
「あ、うん」
私の返事を聞き流しながら、優子は水道の方を向いている。伝えなければいけない言葉を探しながら怒られた子どもが母親を見つめるように優子を見ていると、外れない視線に気がついた彼女がこちらを向いた。
「どうしたの」
その声が、優しくてよかったと思う。そうでなかったら、私は言うべきことを本当になくしていただろう。失われなかった言葉は恥ずかしくてごまかしてしまいそうになるのを抑えて、そっと口を開く。
「ありがとう」
一度息を飲み込んでから、ようやく言いたかったことを伝えることができて、安心する。
私の言葉に、優子はようやく笑ってくれた。
「どういたしまして」
少しだけ呆れが含まれたその言葉に、ようやく安心できた。
リビングに用意された毛布に包まれながら、ソファベッドの上で眠気が訪れるのを待っている。持て余しているからちょうどよいと貸してくれたソファベッドは、一人で寝るには少し狭いけれど、その代わりなぜか寂しくない。
ここのところは終電で帰るのが当たり前になっていたから、十二時前に横になっているのなんて久しぶりだった。まるで修学旅行の夜のようで、どこか緊張してしまう。視界に入るものすべてが優子のものなのもあるかもしれない。柔らかなはずの色合いも暗闇の中では形しかわからない。それでもその輪郭すらどこか柔らかくて安心する。
重力を思い出すかのように体は重くなっていく。この小さな体のどこにあったのかと思うほどの疲労が溢れ出す。少しずつ動かしづらくなっていく体に逆らうように、頭ではいろいろなことを思い出していく。
一緒に眠ったのは、合宿の夜だけだったか。扉のむこう側で眠っている優子の姿を想像した。彼女はどのように目をつむるのだっけ。思い出せなくなる中で、体は少しずつ暖かくなっていく。
閉じられた彼女の瞳を、想像しながら眠りについた。彼女の姿はあれ程見ているはずなのに、ずっと思い出せない。ぼんやりと思い出す彼女の表情は怒りばかりで、笑ってほしいと思った。
よく眠るようになったのは、その日からだったと記憶している。
翌朝、起きるとソファベッドに大きな物体が転がっていた。
驚いて覗いてみると、夏紀だった。薄い毛布の端を掴みながら、静かに寝息を立てている。昨夜のことが思い出されて、寝起きの頭が情報で溢れてしまいそうになるから、考えるのを諦めて身支度を済ませる。
水道の音にも、包丁の音にも、荷物の音にも、夏紀は目を覚まさなかった。パンの焼ける匂いに少しだけ体を動かしても、そのまますぐ眠りについてしまった。
私は転がったままの夏紀を眺めながら食事をした。顔を洗っているときには感じていたはずのその物体への強烈な違和感は少しずつ薄まって、目の前でたまに動く夏紀は段々と背景と混じっていった。
結局講義に間に合うギリギリの時間まで視界の端に入れ続けたその毛布から、夏紀が出てくることはなかった。仕方なく私は身支度を済ませると、夏紀の体を揺らした。放っておくわけにはいかないだろう。
「ちょっと」
声をかけると覚醒したかのように目を開いても、その焦点があっていない。かなり寝ぼけているらしい。講義開始のタイムリミットを気にして焦りだす私の心をかき乱すかのように夏紀が口を開く。
「だ、だれ?」
「私よ」
この不孝者め。苛立ちと少しの怒りをそのまま声に出すと、流石に焦ったのか、夏紀の瞼は二ミリ程度開く。
「え、あ、優子か」
彼女はどうにか口を開いたらしいけれど、その声にいつもの軽さはどこにもない。寝起きの相手に怒るのも大人気ないかと思うけれど、ここで感情を隠せるほど大人でもない私は、そのままぶっきらぼうに言葉を続ける。
「私、そろそろ出るんだけど」
「ん、うん?」
夏紀は意味のない呻きを続けるだけだ。また瞼が落ちかけている。寝れないと笑っていたのは何だったのかというぐらい、貪欲に眠りを貪ろうとしている。
これは、寝かせとくしかない。私は諦めてスペアキーを使うことにした。家の小物入れの奥を探って、しまっておいた鍵を取り出す。他人に渡していいものかを考えながら、夏紀は他人でもないかもしれないと思う。
結局悩んでいたのは数秒で、預ける方に自然と体が動いていた。結局信頼するしかない場所にいた人間のことを、疑うのは難しい。裏切られたときのことを想像できない。
「昼休みの間に返してきて」
そう言って机の上に鍵を置くと、思いの他大きな音がして、また寝かけていた夏紀は体を震わせる。
「うん、うん、わかっ、た」
空返事のまま、また夏紀は毛布をかぶり直した。どう考えても、わかっていない。仕方ないけど。
ため息を付きながら私は部屋を出た。自分の部屋を夏紀に任せることに、不思議とためらいはなかった。なぜだろうと思っていても、エレベーターがやってくる頃には忘れてしまっていた。
結局目覚めたのは十一時を少し回るぐらいの時間だった。眠りすぎて、体はまだ起きたことを理解していないらしい。それでもどうにか転がるように起きると、優子の部屋のどこにも優子は見当たらなかった。
とりあえずで顔を洗うと、スマートフォンを確認する。優子からのメッセージがロック画面の中央で私を叱っている。とりあえずそれに起きた報告をして、彼女に言われたとおりに机の上を確認する。
『スペアキーを使うこと 昼休みに返すこと』
ぶっきらぼうなメッセージと共に、机の上に置かれたそのままの鍵が見えた。叩き起こしても良かっただろうに、放っておいてくれたのだろうか。彼女らしい文字の奥の優しさに、短いメッセージを何度も読み返してしまう。
友人とは言えども、部屋の留守を任せるのは気が引けることだろう。それでも起こさずにいてくれたことを、私は優子の優しさだと思う。
「優しいね、優子は本当に」
そうつぶやいて、メッセージをそっと折りたたむと財布にしまった。二枚目の手紙も、大事にしまっておきたかった。
簡単に身支度を済ませて、スペアキーと昨日の荷物を持って優子の部屋を抜ける。玄関から見渡すと、端々の家具の丸みや色に改めて優子の部屋なのだと思う。昨日の夜感じた柔らかさを改めてなぞりながら、そっと扉を開ける。
隣人らしき人に軽く会釈をしながら、スペアキーを使って人の家の扉を閉めるのは、強烈な違和感があった。心配性になったように三度目の確認をして扉の前を離れたときには、昼休みまでギリギリの時間になっていた。慌てて歩幅を広げながら、エレベーターの前で優子に到着の旨のメッセージを送った。
私が大学にたどり着くころには、優子は昼食を取り終わったようだった。指定された教室に入ると、奥の席で優子は笑っていた。私とさっきすれ違ったばかりの出ていく友人に手を降っていたらしい彼女は、私の顔を見ると顔をしかめて、その手を降ろしてしまった。
「傷つくなぁ」
「よく言うわ」
半分ぐらいは本心の言葉で遊びながら、優子の隣に座る。座ってみれば一席の距離感はなんともなくて、昨日緊張していたのは何だったのだろうか。話し声で溢れた講義室の中で上手にやれそうな自分に安心した。
「これ」
キーケースからスペアキーを取り出して、優子の手がそれを掴む。ありがとうを言う間もなく、優子の元へと帰っていく。その様子をぼんやりと見つめているだけの私に、優子は整理している荷物から目を離さないまま、口を開いた。
「よく寝てたわね」
そう言われても、眠っている自分のことを、私は知らない。体の怠さだけが私には残っている。目を閉じた自分も上手に想像することができない。ただ、優子が言うのならそうなのだろう。
「起こしてくれてもよかったのに」
なんとなくそう言うと、目の前で大きなため息がつかれる。顔を上げた優子が鋭く細められた目で私を射抜く。
「起こしたわよ」
「知らないんだけど」
「あんたが、起きなかったの」
記憶のとおりに誠実に返すと、優子の語調がどんどんと強くなっていく。久しくやっていなかった小競り合いが楽しくて、ついつい甘えてしまう。
「起きるまで起こしてよ」
「いやよ、お母さんじゃないんだから」
「えー、ママー」
「ママじゃない」
私が笑うと、優子はまったく、とまた息を吐いた。しばらく暗黙の了解で取っていた距離を近づけてみると、思った以上に心地よくて嬉しくなる自分がいる。誰といるよりときよりも、気が楽だ。
「今夜もバイト?」
「うん、まあ」
今夜も同じようにバイトがあったけど、不思議と憂鬱ではなかった。シフトが連続して続く火曜から水曜は、眠気に襲われているばかりで過ぎ去ってしまうのだけど。今日は講義も集中して聞けそうだ。前の分の復習から始めなければいけないけれど。
「じゃあ、今日も来なさいよ」
睡眠のありがたさを噛み締めている私に、優子は何でもないように言った。いとも容易く告げられる救いに、手を伸ばしていいのか戸惑う。
「いいの?」
聞いたことのない気弱な声に、自分で驚いてしまう。そんな私に気づかないように、優子はなんでもないように言った。
「来る前に連絡だけして。できれば早めに」
「じゃあ」
お言葉に甘えて。私がそう言うと、優子は満足そうに頷いた。私はといえば、あの冷たい心地よい毛布のことを考えていた。
夏紀はそれから私の部屋でよく眠った。
私は持て余していたソファベッドを貸していただけたけれど、夏紀は毎度丁寧にありがとうを言った。その妙に大人しい態度は今まで見たことがなかったから、なんとなく気分が良かった。
私の部屋にいる間、シャワーや僅かな食事の時間を除けば、夏紀はほとんどの時間を眠って過ごしていた。
彼女は本当によく眠った。短い時間でもよく眠った。私が眠るまでの間に机に突っ伏して寝息を立てていたこともあった。まるで何かの病かのようで、心配になるほどだった。
「そんなに寝てて大丈夫なの?」
無理やり三時のコーヒータイムを作り出して、確認をするぐらいには。
土曜日の午後らしい怠惰な時間だった。金曜日の夜にやってきた彼女は、休日をいいことにそのまま正午ギリギリまで眠り続けたかと思うと、用意してあげた昼食を食べたあとにもうつらうつらとしていた。
「なんか優子の部屋で寝ると、寝た感じがしないんだよね」
コーヒーの香りの前に流石に目を覚ましたらしい夏紀は、思い出したように茶菓子を取り出した。お礼とのことらしい。バターの香りが良いクッキーをつまみながら、夏紀の話を聞いている。
「それって、浅いってこと」
「そうじゃなくて。なんか、寝たこと自体が嘘みたいな、いくらでも寝れちゃうみたいな」
私は理解できない感覚をどうにか理解しようと努めながら、私の脳は眠り姫のように目を閉じ続ける夏紀を描いていた。丸まったまま眠り続ける夏紀との生活が、頭の中に浮かんでいた。そこでは小さく身じろぐするだけの夏紀がソファベッドを二十四時間専有していて、私はソファベッドの横の地べたに座ってテレビを見ている。いつ目覚めるかわからない夏紀の様子を時折確認しながら、この部屋で暮らしていく。
あまりにも歪な光景を、どうにか頭から追いだす。部屋の扉を開けてしまったのは私だ。もう追い出す気もないのも私だ。
今こうして一緒に飲んでいるコーヒーだって、夏紀の口の中でどんな味がするかは夏紀にしかわからない。
「まあ、顔色はいいけど」
それに、今の夏紀の調子がいいことも事実だ。久しぶりにギターを教えあったときの音と声でわかる。この部屋で健康を取り戻しているのなら、それを邪魔する理由はない。
「まあ何かあったら言いなさいよ」
結局このぐらいしか、言うことはない。
「うん、ありがとう」
夏紀はそういうと、コーヒーを飲み干した。
自分の部屋が自問自答の場になってしまったのは、いつからだろうか。机にむりやり向かいながら、まんじりともせず夜がきて、目を開けたまま朝がくる。その繰り返しだ。気絶するように眠る瞬間はあるにせよ、それだけで。
週末だからと自分の部屋に帰ってみても、このあり様ではどうすることもできない。平日が始まって転がり込んだ優子の部屋で、どうにか眠ることが出来た。火曜日の朝四時に目を覚まして、深夜のキッチンのミネラルウォーターで喉の乾きを癒やしている。
優子の部屋でも、常に眠りが深いわけじゃない。起きた優子の出した物音に目を覚ますこともある。ただ、眠っていてることが苦ではない。それだけだ。
どうしてなのだろうかと想いながら、またソファベッドに戻る。夏が少しずつその色を見せていても、まだまだ夜は寒い。私は薄い毛布を体に巻きつけながら、ゆったりとその背もたれによりかかる。
今こうやって体を預けたソファベッドは生活の香りがして、十分優しく冷たい。無理がないというのは、それだけで偉大なことだと思う。
この部屋で目を閉じて思い浮ぶことは少ない。それだけで、ずっと楽に眠れる。バンドもやるせなさも楽器も何もかも曖昧になって、悩む前に消えてしまう。
体を倒してもう一眠りをすることにした。いつもは考え事ばかりで埋まっているこの頭の中も、優子の部屋ではシンプルになる。単純な頭の中で、優子の瞼が閉じる瞬間を想像する。想像の中でもどうしても彼女の瞳は開いたままで、眠りにつく私を見つめていた。
一ヶ月もすると、夏紀が私の部屋にいるのは当たり前になってきた。彼女もだいぶ本調子に戻ったようで、教本を取り出して静かにギターの練習をしていることもある。
自分の部屋に練習をしている人がいるのは結構刺激になるらしく、私も一緒に練習したりした。単純だなと思いつつも、一人で練習するよりも効率がよい気がしている。夏紀が聞く曲と私が聞く曲はやっぱり違うから、新たなことを覚えるときにはちょうどよい。
一緒のバンドも、再開できればいいのだけど。練習の間に私がそう言うと、夏紀は苦笑いをした。
「難しいかもね」
結局今でも、大学での接触は少なめだ。夏紀はサークルでも引っ張りだこだし、もう一つのバンドは結構忙しいようだし。そもそも学部が違うから、そこまで会うこともない。こうして部屋で話している時間が、一番長くなっていく。
「やりたいけど、まあこうやって一緒に出来てるだけでも」
そう言いながらも、夏紀は手グセで勝手に自分の好きな曲を弾いてしまう。合わせる気がないのだろうか、それとも本当に一緒に目の前で弾きあってるだけで楽しいのだろうか。どちらかはわからないけど、どこか苛つくのは事実だ。
だから、サビ前から黙って入ってツインギターを再現する。一緒に演奏するというのは、こういうことだろう。
「弾けるの?」
先週彼が置いていった耳コピ譜面とCDで、私もこっそり練習していた。驚かせるつもりでやったことなのに、素直に嬉しそうに笑う彼女に、毒気を抜かれる。
「気に入ったの?また他のアルバムも持ってくるわ」
そう言って笑う夏紀にあまり言い返す気にもならない。気がつけば作業机の上に積まれていくCDを、律儀に聞いている私も悪い。
目を閉じて口ずさむ夏紀に合わせてギターを触りながら、確かにこれだけでも、悪くはないのかもしれないと思う。簡単な自分に笑いながら、笑顔の夏紀に合わせてギターを鳴らす。
あれからずっと探しているけど、瞳が閉じる瞬間を探すのは、案外難しい。
「洗面所のあいてるところ、借りてもいい?」
そう問いかけながら、鏡の奥に映りこむ優子を見ている。当然だけど、彼女の目は開いたままだ。まばたきの瞬間は見つけた途端に過去になって、私の記憶には目を開いた優子の姿しかない。
洗面所の入り口から覗き込む優子の、後ろで一つに結んだ短めのポニーテールが揺れるのを見るのは私だけなのだろう。そういうものはこの部屋の中にいくらだって見つけられる。もとより彼女のことをすべて知ってるとは思ってない。見つけたいものでもない。
「どこよ」
「この一番下の段」
それでも、思ったよりはわかっていたのだな、と思う。鏡の奥の顔も、鏡裏収納の二段目も、なんとなく想像の範囲で息をしている。私の指差した空間は小綺麗に整えられていて、そこにも驚きはない。
「ああ、そこね。いいわよ」
「ありがとう」
簡単な化粧品と生活用品を置くと、隙間は埋まって自然な顔をしている。どこまでも生活はなだらかに見えて、連続した時間の中でしかない。
一瞬を切り取る方法を考えながら、ゆっくりと鏡を閉じて、洗面所をあとにする。テーブルでは優子がコーヒーを飲みつつ、私の貸した教本を眺めていた。
「この本いいわね」
「いいよね。知り合いから教えてもらった」
優子の正面に座りながら、彼女の唇から静かに音が響くのを見ている。コーヒーを飲み干して、彼女が楽器を持ち出す。私がしたように教本をなぞっている彼女の瞳は閉じることがない。練習なのだから当たり前だけれど、優子は本番でも目を閉じない。いつでもはっきりと開いて歌う。疎遠になっている間に忘れていたけれど、いつでも彼女の視線はまっすぐだ。私といえばステージの上でも、どこか目をそらしてばかりなのに。どうやれば彼女は瞳を閉じてくれるのだろうか。
「見られてると、やりづらいんだけど」
そう言われて、初めて見つめていたことに気がつく。眠ってばかりだったこの部屋では、いつもどこかぼんやりしてしまう。
「ごめん」
私はそう言って、無理矢理視線を落とす。辻褄を合わせるようにスマートフォンをポケットから取り出して見つめるふりをしながら、結局練習を終えるまで彼女の方に気を取られてばかりいた。優子の瞼を下ろさせる方法を、どうにか探しながら。
迎い入れるためには、鍵を開くだけでいい。扉は向こうが開けてくれる。
そういう関係は、明らかに気楽だと思う。
「鞄、そこに置いて」
夏紀が来る前に家の掃除をして、入り口そばのキッチンワゴンから寂しく飾られていた花瓶をどけ、スペースを作っておいた。これからは所在なく適当に置かれている夏紀のかばんを気にせずに済む。ギターケースは、どうにも出来ないけれど。
私の言葉に生返事をうちながら、その割にしっかりと私の言ったことを守る夏紀を家に上げるのは気が楽だ。扱いに困ることがない。高校のころのように喧嘩する理由もないこの部屋では、苛立つことも殆どない。
録画の音楽番組を再開しながら、バンド練習のスケジュールを設定する。私がカレンダーと曖昧に見つめ合ってる間に、夏紀は身支度を終えてラフな格好に着替え終えていた。いつも持ってくるミネラルウォーターを飲みながら、唸っている私の下にある手帳を覗きこんでくる。
「バンド練?」
「サークルの方。後輩集めて技術継承会、やるんだって」
「へー、めんどくさそう」
「アンタも出るのよ。連絡、確認してないの?」
「見てないわ。私も返信するやつかな」
夏紀がポケットからスマートフォンを取り出す。蓋を閉じたペットボトルを落ち着かないように揺らしながら、指先を動かしているのがわかる。
「充電する?」
私の提案に、夏紀は素直に頷いた。
「したい」
「私のやつ、抜いていいわよ」
そう言いながらソファベッドのそばに構えるローテーブルを指すと、夏紀は「ありがとー」と抜けた言葉を出しながらテーブルに移動する。その背中に気楽なものだと思いながらスケジュール管理に戻る。
どうやっても空いてしまう穴を上手に埋めながらパズルのように日程を組み合わせていると、随分とのめり込んでしまったようだった。ようやく決まった日程を打ち込もうとテーブルの上のスマートフォンに手を伸ばすと、夏紀の視線とぶつかる。まっすぐにぶつけられていたらしい目線に思わず怯む。
「どうしたの?」
驚きを隠しながら声をかけると、夏紀はようやく気がついたかのように表情を崩した。
「ごめん、ぼうっとしてた」
「びっくりさせないで」
私がそう言うと、夏紀は口だけで謝りながら手元のスマートフォンに目線を戻す。
「見れないなぁって思っただけ」
「見てたじゃない」
「そうね」
どこか噛み合わない会話を繰り広げながら、お互いのことを続けていく。視線を机の上に戻して予定の再確認をしつつ、まだ視線が残り続けているような感覚を覚える。集中しなければと頭を振って手帳に向き合う私の耳に、夏紀の声が届く。
「優子」
そう問いかけられて、顔を上げた。目の前の夏紀は私のスマートフォンを差し出している。
「ありがと」
そう言って、受け取る。そのまま習慣的に画面をつけて、何もないことを確認する。もう一度電源を落として机の上に置いて、そこでようやく、夏紀と私の距離がなくなりかけていると気づいた。
キスをしたかったのではない。瞳を閉じた優子を見たかっただけだ。だから目は開いていた。驚いた優子は瞼をおろしてくれなくて、見たいものは目には映らなかった。
思いつきの行動は失敗に終わった。そっと唇を離すと、優子の表情が見えた。これほど近距離でも、彼女の色はなんとなくわかる。見たことのない彼女もやっぱり連続の上だ。
「慣れてるね」
想像よりもずっとずっと静かな眼の前の彼女に、思わず軽口が飛び出す。最悪、張り手でも飛び出すかと思ったのだけれど。思ったよりも普段通りにやれていることに安心した。
「慣れて、ないわよ」
アイスクリームを落とした子供のように呆然と座っていた優子は、私の言葉にようやく口を開いた。絞り出すかのように言葉を選ぶ彼女は珍しくて、なんとなく気分がいい。
「そうなの?」
「する相手なんていなかったわよ」
「意外」
この部屋にこれほど長い時間いるのは私だけなのかと、どこか浮かれる自分がいる。能天気に喜んでいる私の前で、優子は力尽きるように前傾だった姿勢を崩しソファに倒れた。抜けきったように見える力をどこから取り戻して、呻きながらむりやり体を起こした。その頬はきれいに染まっている。
「いや……、何?」
「なんだろうね」
「アンタね」
適当な言葉を返すと、流石に癇に障ったらしい。声を荒げる優子に、慌てて弁明をする。
「目を閉じた優子って見たことないなって思って、それで」
「だからってキス、する?普通」
「許されると思った」
「あのねぇ」
まっとうな正論に笑ってごまかしているだけの私に、何も通じないと諦めたかのように優子はため息をついた。結局許してくれたのだから、私の予想は間違っていない気がする。
「私が寝てるときに寝室に見に来るとか、そういうのでいいでしょ」
「起きない?」
「私眠り深いほうだから、大丈夫よ」
「そうなの?」
「知らなかったの?って、まあ知らないことぐらいあるわよね」
優子はそう言うと、またため息をついた。昔は私が優子にあきれてばかりいたような気がするのに、気がつけばひっくり返ってしまった。この部屋の中では、知らない自分ばかりいる気がする。
「私もあんたがあんなことしてくるなんて知らなかったわ」
「知ってたら、どうしたの?」
そっと唇を指先でなぞる優子に興味本位で聞くと、優子は初めて見る表情をした。まっすぐな彼女らしくない、どこか立ち止まったような目をしていた。
「どうしたんでしょうね、私は」
その瞳がとても綺麗で、思わずもう一度問いかける。
「もう一回していい?」
「調子に乗るなバカ」
最初からこうすればよかったのだと、ベッドの端でそっと優子を見つめながら考えている。思ったよりも静かに開いた扉は優子の眠りを妨げることなく私に道を開いてくれた。息を潜めて歩いていたのがもう嘘のように、今一定のリズムを取る彼女の呼吸を聞いている。
昼間の不機嫌な表情もあかく染まった頬もなかったかのように、彼女は目を閉じて眠り続けている。壁一枚越しにいつでも答えがあったのだと思うと、自分の行動の無用な大胆さにあきれてしまう。
十分記憶に焼き付けて、私は彼女の部屋から抜ける。私のためのソファベッドはいつもと同じように横たわっていて、ここでブランケットをかぶることで私はようやく安心する。
体を倒してまどろみに身を任せながら、暖かくなっていく体に心地よさを感じる。自分の部屋では、どうやっても剥がしてしまう毛布も、ここではちょうどよい薄さだ。
この部屋でだけ、私は立ち止まることができる。
走り続けていたのだと、ようやく気がついた。あまりにも長い長い距離を走り続けてきたから、走っていることすら忘れていた。あの頃からずっと憧れに向かって走り続けていた。何度も形を変えて増え続けていく憧れに向かって。
長い距離を走り続けて重ねられ続けた熱が、立ち止まったときに私をどう焼き尽くすのか、考えることもできなかった。全国大会への切符をつかめずに終わったあの季節に立ち止まった瞬間から、私の中でらしくもなく大きくなり続けた熱は私を緩やかに灰にしていた。それは春が来てもそうで、このままでは消えてなくなってしまいそうだった。だから、私はまた走り出した。走ることを選んだ。燃え尽きて消えてしまうのが怖かったから。
そうして走り続けて、いつでも隣にいた優子がいなくなって、初めて怖くなった。今立ち止まったら、一体どうなるのか——考えることすらできなかった。だから逃げるように追い込んで、結局この部屋で静かに眠らされている。
優子には気付かされてばっかりだ、と改めて思う。小さなブランケットの中で辿り着いた答えにも、私は優子の色を見出さずにはいられなかった。
ようやく手にした答えに安心して目を閉じる。記憶の中の眠る優子の姿は、少しずつ薄くなって曖昧になっていく。これから何度も何度も焼き付けて、思い出すことも必要ないほどになるべきかもしれない。
「結局よく眠れなかったのって、掛け布団のせいだったってわけ?」
「うん、その可能性が高そう」
土曜日の朝だというのに、珍しく朝早く起きた夏紀に真実を伝えられる。力のぬける真実に、呆れて物も言えない。夏紀は私の眉間の皺をほぐしながら、ごめんごめんと形だけの謝罪をする。
「私、思ってたより暑がりっぽいね」
「春先にブランケット一枚でよく寝れるなと思ってたけど、そういうことね……」
その場で適当に見繕ったものが、良い結果を残すとは、よくわからないこともあるものだ。大きめのため息をついて、夏紀の指から私の額を離す。
「まあいいわ、コーヒーにしましょ」
今更謝られたってどうしようもないし、悪いことでもない。ただ、拍子抜けしただけだ。自分の心配を返してほしい、あとできればファーストキスも、と思いながらコーヒー粉の缶を開けると、空洞が私を見つめていた。替えの豆を探して、面倒な事実を思い出す。
「あー」
「どうしたの?」
そう問いかける夏紀に、私は梱包されたコーヒー粉を見せる。
「酸味が強いの、買っちゃって」
好みではない種類の豆を、そのままにしていたことを思い出した。店員が注文を聞き間違えたときに、くれたものだ。あの場で断ればよかったと思いながらどうしようかと思案している私に、夏紀は冷蔵庫から牛乳を取り出す。
「ミルク、温めて入れればいいよ」
てきぱきと動き始める夏紀に、それでいいかと私もコーヒーを入れる。物音だけが響くキッチンはいつでも気持ちがいい。夏紀が程よい温度に温めた牛乳を二つのマグに注いで、それっぽいカフェオレを作る。
「どうぞ」
「ありがと」
一言礼をいって、カップを傾け始めた夏紀はふと気がついたようにカップの絵柄を見つめている。
「新しいカップ買ったんだ」
いつ気がつくかと思ったけれど、こういうところはやはりよく見ているらしい。このまま気づかなかったからどうしようと想像していたけれど、杞憂だったようだ。
「うん、あんたにって思って」
そう私が言うと、夏紀は顔を上げた。驚きと戸惑いの入り混じった顔に、こういう顔も見慣れたと思う自分がいることに気がつく。生活というのは恐ろしい。
「今年の誕生日プレゼントってことにしておいて」
「ありがとう」
夏紀はそう言うと目を伏せてコーヒーに口をつけた。もう少し嬉しそうな反応をするものかと思ったのに、どこか迷っているような表情を浮かべていた。
「いいのかな」
曖昧なその迷いに、私が首をかしげる。窮屈そうにマグカップに目線を落としながら、戸惑いを口にした。
「優子の部屋に、私のものを置いておくのってどうなんだろうって」
それらしく振る舞う夏紀に、思わず小さな笑いがこぼれた。なんて今更な悩みだろう。この部屋を見渡せば、もう二人の跡しか見えない。夏紀に踏まれていない床なんてどこにもないのだ。
わからないなら、教えてあげるべきだろう。突然笑い始めた私に首を傾げる夏紀に、わたしはいった。
「この部屋、もうあんただらけよ」