Sayonara VoyagE

Use me like an oar and get yourself to shore

最近の投稿このサイトについて

 この冬、二人暮らしを始めた。
 親元を離れて、一人暮らしの期間が長かったものだから、どうやって二人で暮らしていくのかということに不安があったけれど、始まってしまえばなんでもない。生活というのはその場の人間に合わさるように出来ているのだと、つくづく思う。
 二十五歳で二人暮らし。順調な生活具合だ。世間一般に言うまっとうな人生、そういうものに似ている。
 いつものようにすぎるはずだった日々に、あるいはなんてことのない生活に、人と人の化学反応が起きれば、そこには記憶が生まれていく。これがそのうち思い出になったりするのだろうと思うと、どこか面映ゆくなる。同居人の存在をそばで感じながら巡っていく日々は、いつかなんでもない映画のようになっていくのかもしれない。
 大切なことを言うのを忘れていた。
 同居人の名前は、ギブソン・レスポール・スペシャル、イエローという。
 身長は62センチメートル。体重は3キログラム。出身地はアメリカ。趣味はまだわからないけど、仕事は音楽関係らしい。
 黄色人種なんて言葉が馬鹿らしくなるほど輝く肌は、普段は大人しめの黒い衣服に包まれている。私から話しかけないと何も喋らない無口。触れば律儀になにか返してくれるけど、私の伝え方が下手だと雑な返事しかよこしてくれない。気難しいのかもしれない。
 一緒に生活しているのに同じ食卓を囲まないなんてと、この前の休日の夕食は、一緒にテーブルについた。
 「いただきます」までは済ませたけれど、作ったキーマカレーを口に含んだ瞬間に耐えられなくなった。
 話しかけるようにしてみたこともある。観葉植物に話しかけるとよく育つみたいな噂と同じ要領でやれば、少しは二人暮らしらしくなると思ったのだ。
「元気?」
 当然返事はなかった。
 一緒に暮らしている人に元気かどうかは尋ねないということに気がついたので、やめた。


 冗談はさておき。
 今、私の部屋には、ギターがある。
 それなりに重い、整理しづらい物体が、一人暮らしの1LDKに存在するときのことを考えてほしい。当然急に押し掛けてきた来客に寝床なんて用意していないから、置き場所だって確保できない。悩んだ末の結論として、ギターは作業机の隣、曖昧に空いていたスペースの観葉植物を押しのけて座っている。
 本当に、本当に邪魔だ。特に掃除をしているときがひどい。休日、掃除をしているときに動かない旦那さんを前にした奥さんというのは、こういう気分なのだろうかと思う。
 でも旦那さんはホコリをかぶらないし、いくらものぐさでもどけと言ったら動くだろうし、まだマシな気がする。と、わざわざ動かして床のホコリを掃除して、ついでにケースに乗ったホコリを拭く度に思っている。
 すっかり習慣として身について、今では土曜日の朝が来ると勝手にハンディクリーナーを持ち出すこの体は、毎週こまった同居人にため息をつくことになるのである。
 これでいて、勝手に音楽の一つでも流してくれたら良かったのだけれど、残念ながらギターは勝手に鳴ったり、メロディを奏でたりしない。ただそこにあるだけで、自分を使う人が現れるまで、ただただ沈黙し続ける。
 果たして待ち人が誰なのか、その答えも分かってしまっているから、余計に気まずい。
 つまるところケースから出されることもなく、ただオブジェとして置いていかれるだけのそのギターは、部屋の片隅を彩ることもなく、ただただのっぺりとした印象と実在だけがそこに存在している。
 部屋に招く人もいないからよかったけれど、これで遊びに来る人がいたら、「ギター弾くの?」と質問されることは間違いないだろう。なにせ見逃せない程度に大きいから。そのときのことを考えて、私は勝手に冷や汗をかいているわけだ。
 彼女――もしかしたら彼かもしれないが、あまり男性と二人暮らしをしているとは考えたくないから、私はこのギターのことを女の子だと思うことにした――がやってきたのは、もう一ヶ月も前になる。
 ある朝、彼女はやってきた。正確には「運ばれてきた」のだけど。
 二日酔いが残る朝方に、インターフォンの音で起こされて。寝ぼけながら応対していると、気がつけば玄関に大きな箱が広がっていた。何も覚えがなくて開けたら、そこにはあの艷やかな鈍器が、堂々と構えていたわけである。
 これにはびっくりした。なにせ箱の中身にも覚えがないとは思わなかった。調べてみたらたしかに、自分のスマートフォンには注文履歴が残っていて、確かに購入していたらしい。全く記憶がないのだけれど。
 その前の日は会社の送別会で、職場でも親しい年の近い人たちしかいなくて。大きな仕事が終わって、一段落ついて。つまり酔うためにはもってこいの条件だったわけである。質が悪いのは、それなりに酔っていたにも関わらず、無事に家についた途端平気だと思い込んで――何なら足りないと思いこんで、貰い物のワインを開けてしまったことで。あっという間に真っ逆さま。
 気がついたら身に覚えのないギターの解説ページと、注文を知らせるブラウザの履歴が、新品そのもののギターと一緒にニヤニヤと私に笑いかけていたわけである。
 そのときすぐさまギターを家から追い出してやらなかったのは、今思えば失敗だった。合理的なその行動を取らなかったのは、私がこの同居人にどこか責任のようなものを感じていたからかもしれない。買ってしまったのは事実なわけだし。高価なものを何度も行ったり来たりさせてしまったら悪いし。もしかしたらキャンセル料とか取られるかもしれないし。
 そういった憶測と役に立たない感傷をいくつも並び立てて、調べもせずに考えるふりをしている間に、一般的な返却期間は過ぎていき、キャンセルのボタンが注文詳細から消える頃にはすっかりギターはこの部屋に馴染んでいた。日々目にするものへの慣れというのは恐ろしく、いつの間にかずっと前からそこにあるような、そんな顔をしているように私には見えている。
 酩酊した私が丁寧なことに購入していたアンプとピックは機能していて、音は鳴る。それだけは一応確認した。それ以来、一度も触っていない。やらない理由はいろいろあって、例えば防音はどうだとか、教材をどうしようかとか。いくらでも正当な理由は並べられた。それでも置きっぱなしにしてしまっているということ――つまりやらない決断をすることが、やる決断をすることと同じぐらい難しいことを思い知らされているわけで。
 一年ぶりに夏紀に出会ったのは、鳴らすこともないのにしまい込むことも出来ないそのギターを、まるで自分のように持て余していたときのことだった。


 私も二十五年生きてきたわけで、様々なものの実在を確かめる経験があった。
 嬉しくない誕生日だとか、 特別じゃないクリスマス。捨てられないCDとか、そういうものだ。大人たちが語るそういった哀愁の匂いが取れないものを子ども心に笑っていたはずの私は、いつのまにかその実在を確かめては、手触りの感触を記憶するようになってしまっていた。
 何をやっているのかよくわからない友人、なんてものが存在するということもわかったし、高校時代にあれだけ近かったはずの夏紀が、いつの間にかそういう立ち位置に落ち着いていることもあるのだとわかった。あの頃と気持ちの距離感は変わっていないはずなのに、彼女を取り巻くものだけはいつも移り変わっているから、好きだったバンドの数年ぶりの新譜に手を付けるときのような不安が、彼女を前にするとやってくる。
 その日、たまたま駅で見かけた彼女はギターケースを背負っていて、それ自体は大学生の頃から見慣れた光景だった。お土産屋の邪魔にならないような隅にいるのも彼女らしい。あの髪色も柔らかな目もあまり変わっていなくて、ただ違うのは、彼女が見たこともない女の子二人に囲まれているということだった。
 囲まれているというより、囲い込まれていると言った方が正しいかもしれないその様子は、傍から見ると微笑ましいような、そうでもないような、しかしただ対等ではないことだけはわかった。夏紀を見つめる目にはそれぞれ羨望が乗っているのがよく見えた。駅を急ぐ人たち、心なしか彼女たちを避けて通っているように見える。午後四時の京都駅に在っていい雰囲気じゃないことだけは確かだった。
 話し込んでいるからか、私に気づかない夏紀の横をなんでもないように通りながら、彼女に気づかれないぐらいの距離に立って、様子を見守ることにした。頼まれてチケットを買った大学の同期のコンサートが、休日を無駄に過ごしてしまったと思ってしまうようなものだったから、このぐらいの時間のロスはいいだろう、と思った。後ろからでは彼女の表情は見えないが、別に見えなくてもよいぐらいには、親しいと自負している。
 夏紀は渡されたCDにサインをしていて、それが彼女がやっているインディーズバンドのものなのだろうということには想像がついた。
 ロックバンドのファンたちは、一般にCDを持ち歩いているものなのだろうかと、素朴な疑問を持て余しているうちに、夏紀は一人になっていた。彼女が小さく手を振る方向に、さっきまでいた女の子二人がいるのが見える。彼女たちが夏紀の方を振り向かなくなって充分経ったところで、夏紀の肩の力が抜けていくのが見えた。わかりやすい気の緩め方を見ながら、少しだけ生まれた悪戯心のまま、彼女の背中に近づく。夏紀がマスクを付け終わるのを待ちながら、花粉症だったかどうかまでは忘れてしまったことを思い出した。
「久しぶり」
 後ろから声をかけると、力の抜けた肩が強張るのが見て取れる。俊敏な、草食動物のような動きでこちらを振り向くと、私だとわかって安心したのか、少し大きく息を吐いたのがわかった。私がわざと後ろから声をかけたことにも気がついたようで、少し苦笑を苦笑をしながら私の名前を呼ぶ。
「希美」
「お疲れ。どうしたの?」
 私が省略した主語を恐らく理解した彼女は、しかしそれには答えず、腕時計で時間を確認した。大学時代からつけているものだとわかって、私はやっと本当に目の前の彼女が夏紀なのだと安心する。確か、優子からプレゼントで貰ったもののはずだ。
「このあと時間ある?」
 ぼやけた記憶が一致していくのを確かめている私に、夏紀は少し籠もらせた声で答えた。
「あるよ?」
「じゃあお茶しない?久しぶりだし」
「いいよ」
 頷いた私に、夏紀は安心したように笑った。


「自意識過剰だってわかってるんだけどね」
 そういいながら鬱陶しそうにマスクを外す夏紀は、至って健康体だった。花粉症じゃないという私のおぼろげの記憶はまちがっていなくて、つまりそれは変装のためのものだった。
「大変だね」
「ありがたいことなんだけどね」
 そう言いながら力を抜いて椅子に寄りかかる彼女は、この至近距離で見ても、あまり変わったところを見つけられなかった。いつかの冬の彼女と同じように、夏紀はその髪の毛を下ろしていた。あのときからずっと変わっていないような気がして、すこし怖くなる。いつの間にかあの頃に取り残されてしまったような、そんな気がして、慌てて違うところを探す。彼女の目の前に置かれた紅茶とミルクレープを見出して、なんとか安心した。
「よくあるの?」
 私の質問に、夏紀は苦笑いで答える。
「メジャーデビューもしてないバンドで、そんなによくあったら大変だよ」
「そうなの?」
「三ヶ月に一回もないはずなんだけど、ここのところ連続してて」
 そういう彼女が嬉しく思っているのは、職場の人間曰く「鈍い」らしい私でもわかってしまう。友人の素直じゃない幸福をどう扱ってやろうかと考えていると、目線に意図が乗ってしまったらしい。夏紀は私から視線をそらして、取り繕うように紅茶を口にした。
「熱っ」
 その様子に、からかう言葉を投げかけられるほどみっともなくはなかった。高校の頃よりずっと自覚的になった意地悪さを、私は急いでしまいこむと、ありきたりな言葉を選ぶ。
「じゃあバンド、続けてるんだ」
「お陰様で」
「なにそれ」
 笑いながら、ひどく安心した。夏紀の席のとなりに立てかけられたギターケースは、生きているような、そんな感じがする。同じようにケースに入っているはずなのに、私の家で黙ったままのあいつとは、あまりにも違う。
「久しぶりだね」
「一年ぶりぐらいだっけ」
「もうそんなになるのか。前、いつ会ったっけ」
「なんだっけなぁ」
 夏紀が考え始めた隙を見て、頼んだカフェラテを口にする。てっきり甘いものだと思っていた舌が、苦味に驚いたのを隠しながら、自分の記憶を取り戻そうと躍起になる。
「前、みぞれが帰ってきた時じゃなかったっけ?」
 喫茶店のロゴの入ったカップをテーブルに戻しながら、夏紀の奥にいる家族のパスタを見つめる。スマートフォンのカレンダーを確認するのはなぜだかズルい気がして、私は記憶の景色から季節を当てる。
「去年の1月だよ」
 言葉にして引っ張り出すと、曖昧にぼやけていたはずの記憶が引きずり出された。
「思い出した。雪降ってて、優子が帽子被ってた」
「なんでそんな細かいとこ覚えてるの?」
「どうでもいいことってよく覚えてるじゃん」
 夏紀の疑問を解決したふりをして、哀愁に浸るふりに勤しむ。優子の帽子を覚えているのは、彼女の趣味から微妙にずれているような気がしたそれを大切に被っていたから、きっと夏紀からの贈り物なのだろうなと思ったからだ。
「もうそんなになるのかぁ」
「今年は私が都合つかなかったからね。そういえば、誕生日おめでとう」
 急にふられた言葉に、夏紀の好ましい部分が変わっていないことに気がついて、思わず笑みがこぼれた。誕生日はもう一週間前で、つまり今年ももう終わりだった。自分の部屋で一人で迎えたそれよりも、ずっと嬉しい気がした。
「ありがとう。もう二十五ですよ」
「私もですけど」
 口を抑えて互いに笑い合う。特別じゃない誕生日も、祝われれば嬉しいもので、何気ない拾い物をした気持ちだった。目を細めて笑っていた夏紀は、ふと気がついたように私に向き直った。
「今日夜空いてる?ご飯奢るよ。大したことじゃなくて悪いけど」
「えっ、いやいいよ。ご飯は行きたいけど、夏紀の誕生日私何もしてないし。普通に食べに行こ」
「まあまあ、じゃあ来年覚えててなんかしてくれればいいよ。こういうのはタイミングだし」
 そうやって笑う夏紀は、本当になんでもないように人に与えるのが得意だ。一生敵わないんだろうな、なんて考えながら、それでも引き下がるわけにはいかない。私の曖昧なプライドもあるし、何よりなんか、悪いし。
「でも」
「ご飯以外でもいいんだけど、私ができることってギターぐらいしかないし」
 そういいながら、夏紀は隣にあるギターケースを引き寄せた。その手に、あることを思いつく。
「じゃあさ、夏紀に頼みたいことがあるんだけど」
「ん、なに?」
 少しだけ息を大きく吸い込んで、思いつきを口にする。
「ギターを、教えてほしいんだけど」
「ギターを?」
「うん」
 その言葉に、急にまわりの席のざわめきが耳を埋めた。間違えたかな、と思う。あわてて取り繕う。
「無理にとは言わないし、お金とかも払うから」
「いや、そういうのはいいんだけど」
 私の急なお願いに、夏紀は取り残されないようにとカップを掴んだ。言葉足らずだったと反省する私が続きを投げるまえに、夏紀は言葉を返してくる。前提なんだけど、と、そういう彼女に、私はついにかくべき恥をかくことになると身構えた。
「希美、ギター、持ってたっけ?」
「この前、買っちゃって」
「買っちゃって?」
 夏紀の眉間の皺は深くなるばかりだった。一緒に生活していると、こんなところも似てくるのかと思う。今はここにいない友人の眉間を曖昧に思い出しながら、足りない言葉に足しあわせる言葉を選びだす。
「まあ、衝動買いみたいな感じで」
「ギターを?」
「ギターを」
 私が情けなく懺悔を――もっと情けないのはこれが正確には嘘だということなのだけれど――すると、夏紀はひとまず納得したのか、命綱のようににぎりしめていたカップから手をはなした。宙で散らばったままの手は、行き場をなくしたようにふらふらと動く。
「なんか、希美はそういうことしないと思ってたわ」
「そういうことって?」
「衝動買いみたいなこと。堅実だし」
 夏紀はそういうと、やっと落ち着いたかのように背もたれに体を預けなおした。安心した彼女の向こう側で、私は思ってもいない友人からの評価に固まる。
「え、私ってそういう風にみえる?」
「実際そんなにしたことないでしょ」
「まあ、そうだけど」
 確かに、あまり経験のないものだった。アルコールのもたらした失敗を衝動買いに含めていいのかはわからないけれど、今まで自分の意図しないものが自分の手によって自分の部屋に運び込まれることはなかった。
 そういう意味でも、私はあのギターを持て余していたのかもしれない。ふとしたことで気がついた真実に私は驚きながら、曖昧に部屋の記憶を辿っていく。社会に出てから与えられることの多くなった「堅実」という評価を今まで心の中で笑い飛ばしていたけれど、こういうところなのか。ちっとも嬉しくない根拠に驚く。
 一度考え始めると、それは解け始めたクロスワードパズルのように過去の記憶とあてはまっていく。私が埋めることの出来ない十字に苦戦している間に、夏紀はとっくに問題から離れて、いつものあの優しい表情に戻っていた。
「教えるぐらいなら、全然構わないよ」
 拠り所のようなその笑顔に、私は慌てて縋る。答えのない問に想いを馳せるには、この二人掛けはあまりにも狭すぎた。
「ありがと。買ったはいいけど、どう練習すればいいのかとかわからなくて」
「まあそういうもんだよねぇ」
 こういうところで、ふと柔らかくなった言葉の選び方を実感するのだ。それはきっと過ぎた年月と、それだけではない何かが掛け合わさって生まれたもので。そういった取り留めのない言葉を与えられるだけで、私の思考は迷路から現実へ、過去から今へと戻ってくる。
 スマートフォンを取り出して予定を確認していたらしい夏紀から、幾つかの日付を上げられる。
「その日、みぞれと優子遊びに行くらしいんだよね」
「そうなの?」
「そう、で、夜ご飯一緒にどうかって言われてるから、土曜の午後練習して、そっから夜ご飯っていうのは?」
 みぞれがそろそろ日本に戻ってくるとは聞いていたけど、その予定は初耳だった。そういえば、年末年始はいつもそうだということを思い出す。いつの間にか彼女の帰国が、クリスマスやバレンタインのようになんでもない行事のようになるかと思うと、ふと恐ろしくなった。
「大丈夫」
「オッケー。じゃあ決まりね」


 ギタリストの指先は、本当に硬いんだろうか。
 スタジオの鍵をまわしつづける夏紀の指が目線の先に見え隠れすると、ふとそんな話を思い出す。ペンだこが出来たことを話す友人のことも。
 私の肩の先にぶらさがったなんでもない手を目にやっても、そこに年季のようなものは浮かんでこない。どうやら、私はそういうものに縁がないらしい。生きてきて、なんとなくわかったその事実は、少しだけ私の心を冷やしていくことがある。だからどうなるわけでもないのだけれど。
 夏紀の予約した三人用のスタジオは、その店の中でも一番に奥まった場所にあった。慣れた様子で鍵を受け取った夏紀のあとを、ただ私は追いかけて歩いている。カルガモの親子のような可愛げはそこにはない。この前ふと見つけて、ぼんやりと眺めて可愛がっていたあの子どもも、こんな風にどこか心細くて、だからこそ必死に親の跡を追いかけていたんだろうか。なんとなく気恥ずかしくて、うつむきそうになる。
 それでも、知らない場所でなんでもない顔をできるほど年をとったわけでも傲慢になったわけでもなかった。駅前で待ち合わせたときにはそれなりに流暢に動いていたはずのこの口も、狭いドアの並ぶ廊下じゃ上手く動いてくれない。聞きたいことは浮かんでくるけれど、どれも言葉にする前に喉元で消えていって、この口からあらわれるのはみっともない欠伸のなり損ないだけだ。
「大丈夫?」
 黙り込んだ私に夏紀が振り向くと、すでに目的の扉の目の前ににたどり着いていた。鍵をあける前の一瞬に、心配そうな目が映る。なんでもないよ、と笑ったつもりで口角を上げた。夏紀が安心したようにドアに向き直ったのを見て、笑えてるんだとわかった。少し安心した。


「そういや、ギター何買ったの?」
「ギブソンレスポールのスペシャル」
 いつ来るかと待ち構えていた質問に、用意した答えを返した。準備していたことがわかるぐらい滑らかに飛び出したその言葉に、なんだか一人でおかしくなってしまう。
 私の答えに、夏紀は機材をいじる手を止めて固まった。ケーブルを持ったままの彼女の姿が出来の悪いコメディ映画のようでおかしくなりながら、黒いケースを剥がして夏紀の方に向けると、黄色のガワはいつものように無遠慮に光った。
「イエロー、ほらこれ」
「えっ……、いい値段したでしょ。これ。二十万超えたはず」
「もうちょっとしたかな」
「大丈夫なの?衝動買いだったんでしょう?」
「衝動買いっていうか、うん、まあそうね」
 私の部屋にギターがやってきた真相を、夏紀の前ではまだ口にしていない。どうしようもなさを露呈する気になれなかったのもあるけれど、酷くギターに対して失礼なことをしている自覚を抱えたまま笑っていられるほど鈍感ではいられなかったから。結局嘘をついているから、どうすることもできないのだけど。一度かばった傷跡はいつまでも痛み続けるものだ。
 曖昧にわらったままの私に、夏紀は気遣うように口を開く。
「あんまこういう話するの良くないけど、結構ダメージじゃない?」
「ダメージっていうのは?」
「お財布とか、口座に」
「あー、それね。冬のボーナスが飛びました」
 大げさに顔を引きつらせる夏紀に、懐かしいふざけあいを思い出しておかしくなる。あのころはもっと気軽に砕けていたものだ。
「時計買い換えるつもりだったんだけど、全部パー」
 茶化した用に口に出した言葉は、ひどく薄っぺらいものに見えているだろう。欲しかったブランドの腕時計のシルバーを思い出していると、夏紀にアンプのケーブルを渡された。
「じゃあ、時計分ぐらいは楽しめないとね」
 そういう夏紀が浮かべる笑みは、優しさだけで構成されていて。私は思わずため息をつく。
「夏紀が友達で本当に良かったわ」
「急にどうしたの」
 心から発した言葉は、予想通りおかしく笑ってもらえた。
 夏紀がなれた手付きで準備をするのを眺めながら、昨日覚えたコードを復習する。自分用に書いたメモを膝に広げても、少し場所が悪い。試行錯誤する私の前に、夏紀が譜面台を置いた。
「練習してきたの?」
「ちょっとね」
 まさか、昨日有給を取って家で練習したとは言えない。消化日数の不足を理由にして、一週間前にいきなり取った休暇に文句をつける人間はいなかった。よい労働環境で助かる。自分で上手に居場所を見つけたんだろうと言われれば、否定はしないけれど。
 有給の半分ぐらいを整理で消化したあと、観念してケースから取り出したギターは、なんとなく誇らしげな顔をしているように見えた。届いたばかりのときのあのいやらしい――そして自信に満ちた月の色が戻ってきたような気がしたのは、金曜の午前中の太陽に照らされていたからだけではないだろう。
 ただのオブジェだと思っていたとしても、それが美しい音を弾き出すのは、いくら取り繕っても喜びが溢れてしまう。結局夜遅くまで触り続けた代償は、さっきから実は噛み殺しているあくびとなって現れている。
「どのぐらい?」
「別に全然大したことないよ。ちょっと、コード覚えたぐらいだし」
 幾つか覚えたコードを指の形で抑えて見せると、夏紀は膝の上に載せたルーズリーフを覗き込んだ。適当に引っ張り出したその用紙は、思ったより自分の文字で埋まっていて、どこか恥ずかしくなる。ルーズリーフなんてなんで買ったのかすら思い出せないというのに、ペンを走らせだすと練習の仕方は思い出せて、懐かしいおもちゃに出会った子どものように熱心になってしまった。
「夏紀の前であんまりにも情けないとこ見せたくないしさ」
 誤魔化すようにメモを裏返すと、そこには何も書かれていなかった。そこまでの情熱ではなかったことにどこか安心して、もう一度自分の字を読み返しそうと元に戻している間に、夏紀は機材の方に向き合っていた。
「そんなこと、気にしなくてよかったのに」
 そういう夏紀はケーブルの調子を確認しているようで、何回か刺し直している。セットアップは終わったようで、自分のギターを抱えた。彼女の指が動くと、昨日私も覚えたコードがスタジオの中に響く。
「おお」
「なにそれ」
 その真剣な目に思わず手を叩いた私に、夏紀はどこか恥ずかしそうに笑った。
「いやぁ、様になるなぁって」
「お褒めいただき光栄でございます。私がギター弾いてるところみたことあるでしょ」
「それとは違うじゃん。好きなアーティストのドキュメンタリーとかでさ、スタジオで弾いてるのもカッコいいじゃん」
「なにそれ、ファンなの?」
「そりゃもちろん。ファン2号でございます」
「そこは1号じゃないんだ」
 薄く笑う彼女の笑みは、高校生のときから変わっていない。懐かしいそれに私も笑みを合わせながら、数の理由は飲み込んだ。
「おふざけはこの辺にするよ」
「はぁい」
 夏紀の言葉に、やる気のない高校生のような返事をして、二人でまた笑う。いつの間にか、緊張は指先から溶けていた。


「いろいろあると思うけど、やっぱ楽器はいいよ」
 グラスの氷を鳴らしながらそう言う夏紀は、曖昧に閉じられかけた瞼のせいでどこか不安定に見える。高校生の頃は、そういえばこんな夜遅くまで話したりはしなかった。歳を取る前、あれほど特別なように見えた時間は、箱を開けてみればあくまであっけないことに気がつく。
 私の練習として選んだはず今日のスタジオは、気がつけば夏紀の演奏会場になっていた。半分ぐらいはねだり続けた私が悪い。大学生のころよりもずっと演奏も声も良くなっていた彼女の歌は心地よくて、つい夢中になってしまった。私の好きなバンドの曲をなんでもないように弾く夏紀に、一生敵わないななんて思いながら。
 スタジオから追い出されるように飛びてて、逃げ込んだように入った待ち合わせの居酒屋には、まだ二人は訪れてなかった。向かい合って座って適当に注文を繰り返している間に、気がついたら夏紀の頬は少年のように紅く染まっていた。
 幾ら昔に比べて周りをただ眺めているだけのことが多くなった私でも、これはただ眺めているわけにはいかなかった。彼女は普段はそこまで飲まないけれど、酔うとたいていちょっとしたやらかしをして、そして寝る。そこまでの数はないけれど確かに記憶されているトラブルを思い出すと、流石に飲んでばかりではいられない。
 取り替えようにもウィスキーのロックを頼む彼女の目は流石に騙せない。酔いが深まっていく彼女の様子にこの寒い季節に冷や汗をかきそうになっている私の様子には気づかずに、夏紀はぽつりぽつりと語りだした。
「こんなに曲がりなりにも真剣にやるなんて、思ってなかったけどさ」
 そうやって浮かべる笑いには、普段の軽やかな表情には見当たらない卑屈があった。彼女には、一体どんな罪が乗っているんだろう。きっと私が数えないようなものまで、数えてしまっているのだろう。
「ユーフォも、卒業してしばらく吹かなかったけど。バンド始めてからたまに触ったりしてるし、レコーディングに使ったりもするし」
 ギターケースを置いたそばで管楽器の話をされると、心の底を撫でられたような居心地の悪さがあった。思い出しかけた感情を見なかったふりをしてしまい込む。
「そうなんだ」
 窮屈になった感情を無視して、曖昧な相槌を打つ。そんなに酔いやすくもないはずの夏紀の顔が、居酒屋の暗い照明でも赤くなっているのがわかる。ペースが明らかに早かった。間違いに気がついてそう思っても、今更アルコールを抜いたりはできない。
「まあ一、二曲だけどね」
 笑いながら言うと、彼女はようやくウィスキーの氷を転がすのをやめて、口に含んだ。ほんの少しの間だけ傾けると、酔ってるな、とつぶやくのが見えた。グラスを置く動きも、どこか不安定だ。
「まあ教本一杯あるし、今いろんな動画あがってるし、趣味で始めるにはいい楽器だと思うよ、ギターは」
「確かに、動画本当にいっぱいあった」
 なんとなくで開いた検索結果に、思わず面食らったのを思い出す。選択肢が多いことは幸せとは限らない、なんてありふれた言葉の意味を、似たようなサムネイルの並びを前にして思い知った気がしたことを思い出す。
「どれ見ればいいかわかんなくなるよね」
「ホントね。夏紀のオススメとかある?」
「あるよ。あとで送るわ」
「ありがと」
 これは多分覚えていないだろうなぁと思いながら、苦笑は表に出さないように隠した。机の上に置いたグラスを握ったままの手で、バランスをとっているようにも見える。
「まあでも、本当にギターはいいよ」
 グラグラと意識が持っていかれそうになっているのを必死で耐えている夏紀は、彼女にしてはひどく言葉の端が丸い。ここで今更グラスを変えたところで、どうなるわけでもないだろう。ここまで無防備な夏紀は珍しくて、「寝ていいよ」の言葉はもったいなくてかけられない。
 姿勢を保つための気力はついに切れたようで、グラスを握った手の力が緩まると同時に、彼女の背中が個室の壁にぶつかった。背筋に力を入れることを諦めた彼女は、表情筋すら維持する力がないかのように、疲れの見える無表情で宙に目をやった。
「ごめん、酔ったっぽい」
 聡い彼女がやっと認めたことに安堵しつつ、目の前に小さなコップの水を差し出す。あっという間に飲み干されたそれだけでは焼け石に水だった。この場合は酔っぱらいに水か。
 くだらないことを浮かべている私を置いて、夏紀は夢の世界に今にも飛び込んでいきそうだった。寝かせておこうか。そう思った私に、夏紀はまだ心残りがあるかのように、口を開く。
「でも、本当にギターはいいよ」
「酔ってるね……」
「本当に。ギターは好きなように鳴ってくれるし、噛み付いてこないし」
「あら、好きなように鳴らないし噛み付くしで悪かったわね」
 聞き慣れたその声に、夏紀の目が今日一番大きく見開かれていくのがわかった。恐る恐る横を向く彼女の動きは、そういう表現の映画のようだ。
 珍しい無表情の優子と、その顔と夏紀の青ざめた顔に目線を心配そうに行ったり来たりさせているみぞれは、テーブルの横に立ち並んでいた。いつからいたのだろうか、全く気が付かなかったことに申し訳なくなりながら、しかしそんなことに謝っている場合ではない。
 ついさっきまで無意識の世界に誘われていたとは思えない夏紀の様子にいたたまれなくなりながら、直視することも出来なくて、スマートフォンを確認する。通知が届いていたのは今から五分前で、少し奥まったこの座席をよく見つけられたなとか、返事をしてあげればよかったかなとか、どうにもならないことを思いながら、とにかく目の前の修羅場を目に入れたくなくて泳がしていると、まだ不安そうなみぞれと目が合った。
「みぞれ、久しぶりだね」
 前にいる優子のただならぬ雰囲気を心配そうに眺めていたみぞれは、それでも私の声に柔らかく笑ってくれた。
「希美」
 彼女の笑みは、「花が咲いたようだ」という表現がよく似合う。それも向日葵みたいな花じゃなくて、もっと小さな柔らかい花だ。現実逃避に花の色を選びながら、席を空ける準備をする。
「こっち座りなよ」
 置いておいた荷物をどけて、自分の左隣を叩くと、みぞれは何事もなかったかのように夏紀を詰めさせている優子をチラリと見やってから、私の隣に腰掛けた。
「いや、別に他意があるわけじゃ、なくてですね」
「言い訳なら家で聞かせてもらうから」
 眼の前でやられている不穏な会話につい苦笑いを零しながら、みぞれにメニューを渡した。髪を耳にかける素振りが、大人らしく感じられるようになったな、と思う。なんとなく悔しくて、みぞれとの距離を詰めた。彼女の肩が震えたのを見て、なんとなく優越感に浸る。
「みぞれ、何頼むの?」
「梅酒、にする」
 ノンアルコールドリンクのすぐ上にあるそれを指差したのを確認した。向こう側では完全に夏紀が黙り込んでいて、勝敗が決まったようだった。同じようにドリンクのコーナーを覗いている優子に声をかける。
「優子は?どれにする?」
「そうねえ、じゃあ私も梅酒にしようかしら」
「じゃあ店員さん呼んじゃおうか」
 そのまま呼び出した店員に、適当に酒とつまみと水を頼む。去っていく後ろ姿を見ながら、一人青ざめた女性が無視されている卓の様子は滑稽に見えるだろうなと思う。
「今日はどこ行ってたの」
「これ」
 私の質問に荷物整理をしていた優子が見せてきたのは、美術館の特別展のパンフレットだった。そろそろ期間終了になるその展示は、海外の宗教画特集だったらしい。私は詳しくないから、わからないけど。
「へー」
 私の適当な口ぶりに、みぞれが口を開く。
「凄い人だった」
「ね。待つことになるとは思わなかったわ」
「お疲れ様」
 適当に一言二言交わしていると、ドリンクの追加が運ばれてくる。小さめのグラスに入った水を、さっきから目を瞑って黙っている夏紀の前に置く。
「夏紀、ほらこれ飲みなさいよ」
 優子の言葉に目を開ける様子は、まさに「恐る恐る」という表現が合う。手に取ろうとしない夏紀の様子に痺れを切らしそうになる優子に、夏紀が何か呟いた。居酒屋の喧騒で、聞き取れはしない。
「なによ」
「ごめん」
 ひどくプライベートな場面を見せられている気がして、人様の部屋に上がり込んで同居人との言い争いを見ているような、そんな申し訳のなさが募る。というかそれそのものなんだけれど。
「ごめんって……ああ、別に怒ってないわよ」
 こういうときに、彼女は母親みたいな声を出すんだなと思った。母親よりもう少し柔らかいかもしれないけれど。
 こういう声の掛け方をする関係を私は知らなくて、それはつまり変わっていることを示していた。高校時代から少しずつ変わっていくのを眺めていたけれど、決定的なものを見せられてしまうと、少しだけ、寂しくなる。
「ほんと?」
「ほんと。早く水飲んで寝てなさいよ。出るときになったら起こしてあげるから」
「うん……」
 それだけ言うと、夏紀は水を飲み干して、テーブルに突っ伏した。すぐに深い呼吸音が聞こえてきて、限界だったのだろう。
「こいつ、ここ二ヶ月ぐらい会社が忙しくて、それでもバンドもやってたから睡眠時間削ってたのよ」
 それはわかっていた。なんとなく気がついていたのに、見て見ぬ振りをしてしまった。浮かれきった自分の姿に後味の悪さを感じて、相槌を打つことも忘れる。
「それでやっとここ最近開放されて、休めばいいのに、今度はバンドの方力入れ始めて。アルコールで糸が切れたんでしょうね」
 グラスを両手で持ちながら、呆れたように横目で黙ったままの髪を見る彼女の声は、どこかそれでも優しかった。伝わったのだろうか、みぞれも来たときの怯えは見えなかった。
「希美が止めてても無駄だったから、謝ったりする必要ないわよ」
 適切に刺された釘に、言葉にしようとしていたものは消えた。代わりにとりあえず口角をあげておく私に、優子はなんでもないかのように問いかけてきた。
「そういえば、夏紀のギター聞いたのよね?」
「うん、まあね」
「上手かった?」
「素人だからよくわからないけど、うまいなと思ったよ」
「そう」
 それならいいんだけど、と、明らかにそれではよくなさそうに呟いた彼女の言葉を、私はどう解釈していいのかわからなかった。曖昧に打ち切られた会話も、宙に放り投げられた彼女の目線も、私にはどうすることも出来なくて。
「そういえばみぞれは、いつまでこっちにいるの?」
 考え込み始めた優子から目線をそらして、みぞれに問いかける。さっきからぼんやりと私達の会話を聞いていたみぞれは、私の視線に慌てる。ぐらついたカップを支えながら、少しは慣れればいいのに、なんて思う。
「え?」
「いつまでこっちにいるのかなって」
 アルコールのせいか、少しだけ回りづらい舌をもう一度動かす。私のなんでもない問いかけにも、みぞれは十分に悩む。
「1月の、9日まではいる」
「結構長いね、どっかで遊び行こうよ」
 何気ない私の提案に、みぞれは目を輝かせた。こういうところは、本当に変わっていない。アルコールで曖昧に溶けた脳が、そういうところを見つけて、安心しているのがわかった。卑怯だな、と思った。


「それじゃあ、気をつけて」
 優子と、それから一応夏紀の背中に投げかけた言葉が、彼女たちに届いたのかはわからない。まさにダウナーといったような様子の夏紀はとても今を把握出来ていないし、優子はそんな夏紀の腕を引っ張るので精一杯だ。
 まるで敗北したボクサーのように――いや、ボクシングなんて見ないけれど――引きずって歩く夏紀は、後ろから見ると普段の爽やかさのかけらもない。あのファンの子たちが見たら、びっくりするんだろうな。そんなことを想いながら、駅の前でみぞれと二人、夏紀と優子の行く末を案じている。
 その背中が見えなくなるのは意外と早くて、消えてしまったらもう帰るしかない。隣で同じように、心配そうに眺めていたみぞれと目があう。
「帰ろっか」
「うん」
 高校時代とは違って、一人暮らしをし始めた私と、たまの帰郷のときは実家で過ごすみぞれは、最寄り駅が同じ路線だ。彼女が海外で暮らして始めてから、こうやって会う度に何度か一緒に同じ列車に乗るけれど、ひどく不自然な感じがする。改札を抜けた先で振り返ると、みぞれが同じように改札をくぐっているのが見えるのが、あの頃から全然想像出来なくて、馴染まない。
 少しむず痒くなるような感触を抑え込んで、みぞれが横に立つのを待つ。並んで歩くふりくらいなら簡単にできるようになったのだと気付かされると、もうエスカレーターに乗せられていた。
「なんか、アルコールってもっと陽気になるもんだと思ってたよね」
 寒空のホームに立つ私のつぶやきを、みぞれは赤い頬で見上げた。みぞれはひとなみに飲む。ひとなみに酔って、ひとなみに赤くなる。私にないものを持っているからって、ぜんぶがぜんぶ、基準から外れてるわけじゃない。そんなことわかっているのに、なんとなく違和感があって。熱くなった体がこちらを向いているのを感じながら、もうすぐくる列車を待つ人のように前を向き続けた。
「忘れたいこととか、全部忘れられるんだと思ってた」
 飛び出す言葉は軽薄で、口が軽くなっていることがわかる。それでも後悔できないから、黙っている方がよいんだとわかった。塞いだ私のかわりに口を開きかけたみぞれの邪魔をするように、急行電車はホームへと滑り込む。
 開いた扉からは待ち遠しかったはずの暖かい空気が、不快に顔に飛び込んできた。背負い直したギターケースに気を遣いながら、一際明るい車内に乗り込んでいく。空いてる端の座席を一つだけ見つけて、みぞれをとりあえず座らせた。開いた目線の高さに何故か安心している間に、電車はホームを離れていた。
 肩に背負ったギターを下ろして、座席横に立て掛けた。毎朝職場へと私を運ぶこの列車は、ラッシュとは違って人で埋め尽くされてはいない。だから、みぞれの後ろ姿が映る窓には当然私も入り込んでいて、いつもは見えない自分の姿に妙な気分になる。酔いはまだ抜けていないようだ。
「みぞれはさぁ」
 口を開くと言葉が勝手に飛び出していた。降り掛かった言葉にみぞれが顔を上げる。
「オーボエ以外の楽器、やったことある?」
 私の問いかけに、彼女は首を振った。
「そうだよね」
 それはそうだ。プロの奏者が他の楽器に手を出してる暇なんてないんだろう。いろんな楽器を扱える人もいるわけだけど。その辺の話がどうなっているのかは、私にはわからない。プロではないし。
 どうやっても違う世界の人と話すのは、取材をしているような感触が抜けきらない。私達の他の共通点ってなんだろう。毎度手探りになって、別れたあとに思い出す。
「ギター、楽しい?」
 何故か話題を探そうとしている私を、引き戻すのはいつも彼女の問いかけだ。
 どう答えるべきか、わからなかった。何を選ぶのが一番正しいのか、見つけるのにはそれなりに慣れているはずなのに、そういう思考回路は全く動かなくて、だからありのままの言葉が飛び出す。
「楽しい、よ」
 それは本心からの言葉だった。本当に楽しかった。それを認めてしまうということが、何故か恥ずかしくなるほど。
 つまりこのまま何事もなく過ぎていくはずの人生に現れたギターに、ひどく魅了されてしまったということだ。認めたくなかった退屈な自分をさらけ出しているようで。年齢のせいか生活のせいか、頭にふと過る自問自答が、ギターの前ではすっかり消え失せていることに気が付かないわけにはいかなかった。
(まあでも、このまま死ぬまでこのままなのかなとか、みぞれは考えなさそうだな)
 そう思うと、ずるいなと思った。
「楽しかった。新鮮だし」
 私の答えに、みぞれは言葉を口に出さなかった。ただ、笑顔ではない表情で、私のことを見つめている。どこか裏切られたかのように見えた。どこか寂しそうにも見えた。そのどちらも、見ないふりをして、酔ったフリをして、言葉を続ける。
「ギターって奥深いね」
 そんな大学生みたいな感想を並べて、目の前のみぞれから目を外した。彼女がどんな表情になっているのかは想像がついた。それでも、目に入れなければ痛みはなかった。
「面白い音なるしさぁ」
 確かめたくなくて言葉を繋げる。この悪癖がいつまでも治らない自分に辟易しながら、結局逃げるために言葉を選び続けている。そうやって中途半端に取り出した言葉たちの中に、本当に言いたいことは見えなくなってしまうって、わかっているはずなのに。
「夏紀の演奏が本当に上手くてさ、今日なんか」
「フルートは」
 遮られた言葉に思わず黙ってしまったのは、それが痛い言葉だったからなのか、言葉の切実さを感じ取ったからなのか。目を合わせてしまう。耳を塞ぎたくても、無気力につり革にぶら下がった手は離す事ができない。
「フルートは、続けてるの?」
 みぞれの声は、どこか張り詰めていて、ざわついた電車内でも通った。隣の座席の男性が、こちらを盗み見ているのがわかる。ひどく晒し者にされているような、そんな気分になった。
 やめるわけないよ、まあそれなりにね、みぞれには関係ないでしょ。なんて言ってやろうか。
「やめたって言ったら、どうする?」
 頭の中を回り続ける中から選んだ言葉に、すぐに後悔した。みぞれの痛みを、見てしまったから。
 なぜ人のことなのに、そこまで泣きそうな目ができるんだろうか。子供がお気に入りのぬいぐるみを取られたみたいな、そういう純粋さと、どこかに混じった大人みたいな諦めの色が混じり合って心に刺さる。
「冗談だよ」
 言い繕っても、彼女から衝撃の色は消えない。そんなにショックだったのだろうか。私に裏切られたことなんて、いくらでもあるだろうに。
「前からやってたサークルがさ、解散になっちゃって」
「解散」
「そう。だから、ちょっと吹く機会がなくなってるだけ」
 それだけ。それだけだった。だからみぞれが悲しむことはないし、気に病んだり必要もないんだよ。そう言おうとした。言えるわけがないと気がついたのは、みぞれの表情に張り付いた悲しみが、そんな簡単な言葉で取れるわけじゃないとわかったからだ。
「大丈夫だから」
 結局言葉にできたのは、そんな頼りない、どこを向いてるのかすらわからないような言葉だった。みぞれは私の言葉にゆっくりと頷いて、それだけだった。
 逃げ出したくなる私をおいて、電車は駅へと流れ込んだ。みぞれが降りる駅だった。
「みぞれ、駅だよ」
「うん」
 目を逸らすように声を上げると、みぞれは小さく頷いた。何を話せばいいのかわからないような、その目は私を傷つけていった。降りていく後ろ姿に声を掛ける事もできずに、私はただ彼女を見送った。
 そういえば結局遊ぶ約束をし忘れた。動き出した電車の中で、空席に座る気にもならないまま思い出す。ギターは何も知らないような顔で、座席の横で横たわってる。さっきまであったことなんて何も知りませんよって、言ってるみたいだった。
 このまま置いていってやろうか。そう思った。


 あのまま、置いていってやろうと思ったのは本当だ。
 だけれど、結局私はギターケースを背負ってしまった。それはあの金額を思い出してのことかもしれないし、単純に楽しかった時間をなくしたくなかったからかもしれない。理由はいつでもわからない。確かなのは、私の部屋に今でもギターは立ち続けているということだ。
 ギターの練習は、一人でもするようになった。単純に新鮮だったから。新しい演奏技術を身につけられるのが、嬉しいから。ピックを持つたびに抱きしめられたように痛む心臓のとおりに弾く手を止めてしまったら、負けてしまうような気がしたから。
 仕方のない私に素知らぬ顔をして、ギターは日々いい音を響かせるようになる。どれだけセンチメンタルな気分になったって、お前はいい音がなればそれだけで満足してしまう人間なんだって笑われているような気がして、どこか腹が立つ。
 しかしそんな情けない私に比べて、ギターは夏紀から見ても上手になっているらしい。一月に一度が二度に、三度にと増えていく度に、夏紀は感心と指導のレベルを上げていった。
「どんどん良くなるね」
 そうやって私を褒める彼女はどこまでも爽やかで、ギターに情けなく映る自分の顔とこの表情が、高校時代は共に並んでいたのかと考えると不思議な気持ちになる。
「そうかなぁ」
 休憩にペッドボトルを携えながら、曖昧な答えを返す。夏紀がお世辞で褒めているわけではないとはわかっていながらも、どこか信じきれていない自分がいる。コンクールに出るわけでもないのに。信じる必要すらないものだって、夏紀の口から飛び出せば信じてしまいたくなる。
「夏紀には全然勝てる気しないんだけど」
「そりゃ私が何年やってると思ってるの」
 夏紀は苦笑いを浮かべていた。よく考えれば失礼な発言だと反省しながらも、どうやればああやって様になる演奏が出来るのか全然わからない。
 私の場合、いつまでもギターに持たされているような、そんな感覚が抜けきらないのだ。どこまでも無理をしているような、そんな気持ちになる。二人で演奏しているときは夏紀の様になる様子になんとなく恥ずかしくなるし、家で練習しているときはふと写った自分の決まらない姿に手をおろしかけてしまう。楽器の練習がこんなにも難しいものだとは知らなかった。それでもどうにか続けないと、本当に情けないだけになってしまうのだけど。
「半年かそこらで抜かれたら私何やってたって話でしょ」
 そういう難しさも全部隠したような顔をして夏紀は笑う。そういうところまで含めて、私はため息をつきたくなる。
「確かに、そうかもしれないけど」
「仮にもロックバンドのリーダーなわけで」
「えっ」
 何気なく笑った夏紀の言葉に思わずピックを取り落とす。初めて聞いた情報だ。慌てて拾い直しながら、いつもどおりの笑みを浮かべた彼女から目線を外せない。
「夏紀、リーダーやってたの?」
 自分の記憶を辿ってみても、そういう記憶はない。そもそも夏紀がリーダーなんて意外だった。そういう器じゃないとかじゃなく、彼女がやりたがるようには思えなかった。私の中の彼女は、そういうところから一歩身を引いて笑っているような、そんなイメージだ。
 私の感情が見えていたのか、夏紀は照れくさそうに笑った。
「やらされてるんだけどね」
 そういった彼女が頬にやった手を眺めながら、夏紀を選んだその人の、人を見る目に少し感謝したくなった。


 その目を見る機会は、案外あっという間に来たのだけど。
 その日もいつものようにスタジオに勝手に入って、遅れてくるという夏紀を待ちながら様にならないギターを構えていた。
 あれだけ迷宮のように立ちはだかっていたスタジオも、慣れてしまえば帰り道のように目を瞑ってでも歩けるようになる。慣れというものは恐ろしい。そうやって調子にのって目を閉じて演奏に集中していたから、扉が開いたことにも気がつかなかった。だから、ワンフレーズを弾き終えて目を開いた途端、知らない顔が眼の前に広がっていたのに気がついて、思わず仰け反った。晒された私の醜態を見て、目の前の顔はニッコリと笑った。どこか憎めない、いい笑顔だった。腹立つ。
「そこまで驚かなくてもいいじゃない」
 そう言って笑ったその人は、散々存在を聞かされてきた夏紀のバンドメンバーだったわけである。サキと名乗った彼女は、ベーシストとのことだった。
「初心者って聞いてたけど、随分うまいのねえ」
 そう笑うサキさんの耳には、銀のリングピアスが光っていた。絵に描いたミュージシャンだ。恐らく三つほど年上なのだろう。高校生の時はあれだけ大きく見えていた年の差は、いつのまに数十分の会話で抜け出せるようなものになっている。
 彼女はその笑みと言葉で、あっという間に私のパーソナルスペースに潜り込んできた。嫌な感じはしないその仕草と言葉に、私はあっという間に気を許していった。
「じゃあここ数ヶ月夏紀が一緒に練習してたっていうのは希美ちゃんだったのね」
「話、聞いてたんですか?」
「はしゃいだ子どもみたいに嬉しそうに喋ってたわよ」
 何気なく伝えられた友人の様子に、なんとなく恥ずかしさを覚えた。もうすっかり大人になったはずの友人の幼い一面というのは、回り回って自分を晒しているような気分になる。どう返せばいいのかわからなくて笑っている私から視線を外して、彼女はベースに目線を落とした。
「なんだかんだ今のバンドも前のバンドもギターは夏紀一人だからねぇ。一緒の楽器ができる人がいるのは、嬉しいんじゃない?」
 適当に膝に載せたベースをいじるその手に目を奪われながら、頭では彼女のことを考えている。ギターを弾きはじめたときの彼女は、一人だったんだろうか。
「前のバンド、っていうのは?」
 私の質問にサキさんは手を止めると、顔を上げて私を見た。
「今あの子は私ともう一人とバンドやってるんだけど。夏紀が大学時代に組んでたバンド、知ってる?」
「知ってます」
 学祭にも見に行った。ステージの中央で歌うボーカルの髪色が毎年変わっていたことをよく覚えている。不思議なことに、毎度よく似合っていた。私もみぞれも、結局その隣で黙ってギターを弾いていた夏紀ばかり見ていたけれど。
「あのバンドね、解散したの」
「えっ」
 話によれば、サキさんはサポートベースだったらしい。しかし去年の十一月に解散したのだという。
 かなり揉めたらしく、ボーカルの男性と夏紀の掴み合いまで発展していたらしい。ラストライブではあの夏紀がギターを投げ捨てたと聞いて、想像ができなかった。
 十一月って、私と会うすぐ前じゃないか。そんな素振りすら見せなかった彼女と、気にすることすらできなかった自分にショックを受ける。そんな私をおいて、サキさんは感慨深そうにベースを指でなぞっている。
「夏紀が本当に抜け殻みたいになっててねえ」
 あの夏紀が死んだ魚の目をしているようなところは、あんまり想像できなかった。退屈そうな顔も怒っている顔も呆れている顔も見たけれど、抜け殻みたいな彼女なんて、想像ができない。私には、彼女は見せもしないだろう。そういう夏紀を、きっと優子ですら知らないような夏紀を、この眼の前の人は見てきたのか。そう思うと、なんとなく背筋が伸びた。
「どうやって、立ち直ったんですか?」
 私が会ったときには、あくまで普通の夏紀だった。あのとき彼女がどういう気持ちでサインを書いていたのか、うまく想像できない。
「あれは立ち直っていうか、まあ生活できるようになっただけじゃないかしら」
 生活ができる。曖昧な定義のその言葉が指すものが何なのか、この歳になればなんとなくわかる。それは食事であったり、洗濯であったり、たまにあう友人に笑うことだったりができることだろう。
「どうして、生活ができるようになったんですか?」
「歌でも作れば?って言ったのよ」
「歌?」
 意外な言葉が飛び出してきて、思わずオウム返しをする私に、目の前の彼女はベースを抱きかかえたまま懐かしさを思い出すように私を見た。
「ちょうどその頃夏紀は作詞作曲やっててね。そんな抜け殻みたいになるなら、その感情を曲にでもすればって言ったの。結局音楽続けるにしろ続けないにしろ、そういうのが必要でしょって」
 そう言った彼女は、急に笑みを浮かべた。
「それで、夏紀がどんな曲持ってきたと思う?」
「え、恨み節、みたいな?」
 恨み節はロックじゃないか。そう気がついた私の答えなんて気にしてなかったかのように、サキさんは楽しそうに答えを教えてくれた。
「失恋曲だったの」
「ええ……」
「情けない感じの男性目線の失恋の歌でね。それが本当に情けない、未練がましい歌詞でね。それが良くてねぇ!メロディも完璧で」
 そうやって嬉しそうに喋る彼女のにこやかな様子に、冷たいなぁと思った私と、優しいなぁと思った私がいた。
 それでいいのかもしれないとも思った。このぐらいの付き合いじゃなければ、見えないものがあるのかもしれない。
「それでこの子にロックやめさせるのはもったいないなって思っちゃって、誘ったってわけ」
「なるほど」
「今の話、私がしたっていうのは内緒ね」
「はい」
「じゃあお利口な希美ちゃんには、もう一個夏紀の秘密を教えちゃうわ」
 そういって彼女は、手元で触っていたスマートフォンの画面を私に見せた。そこに広がっているものに私が目を見開いている間に、スタジオの扉が開く。
「失礼しますー」
 小さな部屋の中での「時の人」は、私達の方に目をやると、意外そうな顔をした。話すべきことはあるはずなのに、画面の中に映るものと夏紀を見比べることしかできない。
 ギターケースを隅に立て掛けた夏紀は、さっきから顔を上げたり戻したりする私に不思議そうな目線をやりながら、会話に滑りこんだ。
「紹介してましたっけ」
「さっき仲良くなったのよ」
「へぇ」
「夏紀のこと話してた」
 面白がるサキさんの声に、夏紀は不安そうな声をあげる。ニヤついた笑顔を前に、夏紀の表情はどこか険しいものになった。
「なんの話、してたんですか?」
「夏紀、髪赤に染めてたの?」
 話を遮って質問を投げると、彼女の目が一瞬見開かれて、そうして私の問いに答えることはせず、代わりに咎めるような目を私の隣に向けた。こういう表情をする彼女は、久しぶりに見た気がする。
「見せたんですか」
「希美ちゃんも知っておくべきだと思ってね。友人の昔の話っていうのは貴重なのよ」
「楽しんでるだけでしょ」
「そうとも言うわね」
 コロコロと愉快そうに笑うサキさんに、夏紀は溜息をついた。二人のやりとりを聞きながら、私はもう一度スマートフォンの画面に目を落とす。赤く伸びた前髪と写真の雰囲気で、普段の彼女の気さくさはそこには全く残っていないが、たしかに夏紀だ。見間違いではない。「ビジュアル系」っぽいとは思うけれど、こうしてホームページの一部を埋めている分には違和感はない。
 顔を上げると、呆れたような、困ったような、それでいて少し照れたような様子で夏紀は前髪をいじっている。説明を求めて夏紀の目をじっと見つめると、彼女は珍しくたじろいたあと、目をつぶってため息をついた。
「それ、昔の写真で。染めたの、もう三年前とかだから」
 彼女の声がいつもより少しだけ刺々しくなっているのには気がついていても、それ以上の疑問に口を閉じる事ができない。最近はずっとこんな調子だ。知りたがりの小学生に戻ったようだとも思う。
「三年前って、大学四年じゃん。私染めてるところ見たことないよ?」
「そりゃそうよ、三日間の儚い命の赤髪だったんだから」
 サキさんが口を挟んだ。写真フォルダを眺める彼女の爪の薄いネイルが光る。さっきからどこか愉快そうにふくらませたままの声は、狭いスタジオでも存在感を放つ。引っ張られるように、声のする方向を向く。
「どういうことですか?」
 幼い子どものような私の質問をそのまま投げ渡すように、サキさんは夏紀の方に目線を移す。
「どういうことだって、聞かれてるわよ」
「もう、勝手にしてください」
 拗ねた子どものような夏紀の姿に、なんだか新鮮な気持ちになった。それを表情に出したら本当に怒らせてしまいそうだから、あくまで子供のような顔をしておくのを忘れずに。
「じゃああることないこと話しちゃおうかしら」
「わかりました話します話しますから」
 こんなにも遊ばれている彼女の姿を見るのは初めてのはずなのに、どこか懐かしい感じがするのはなぜだろうか。ため息をついた彼女の姿に、取り返しがつかないことがないように、慌ててフォローを入れる。
「別に無理に話さなくていいよ?」
 いまさらだったろうか。私の言葉に夏紀はすこしだけ目をひらくと、また苦笑いを浮かべた。さっきよりなんだか、やわらかな笑いだった。
「いや、別に全然大した話じゃないんだよ。しょうもなさ過ぎて、恥ずかしいだけ」
 そう言いながら夏紀は椅子を引っ張ってきて腰掛けた。長くなりそうだ。広いスタジオの中で、真ん中で小さな三角形を描いている姿は、なんだか滑稽だろうなとふと思う。
「笑わないでね?」
 夏紀のその問いかけに、私は真剣に頷いたけど、さっきからおかしそうにしていたサキさんはついに吹き出した。
「ちょっと」
 咎めた夏紀に、サキさんは手をひらひらと振った。
「努力するわ」
 誰が聞いても信憑性の欠片もないその言葉に、夏紀はまたため息をついた。今日何回目だろうか。数え直すまもなく、夏紀は話し始めた。
「昔バンドやってたとき、みんなでアー写を撮ろうってことになってね。アー写って、アーティスト写真の略なんだけど、わかるよね」
 私が頷くと、夏紀は話を続ける。
「それで、メンバー全員での写真は撮ったんだけど、一人一人の写真もせっかくだから撮ろうってことになって。その時悪ふざけで、普段と違う感じで撮ろうってなったの。それで、普通に撮ってもらおうとしたら、その時のリーダーが、赤く染めた夏紀の髪見てみたいーって言い出して、それで」
 何気なく出された噂の人物の名前に、思わず固まる。夏紀の表情には苦しさも柔らかさも浮かんでいるようには見えなかった。もう過去のことなのか、それとも私が知らないと思っているのか。
 固まった私を助けるつもりだったのか、それともただの気まぐれか。投げやりな感じのするまま、サキさんは口を開いた。
「まあわかるわ。似合いそうだものね」
「確かに」
 さっきの写真だって、雰囲気の問題はあっても、決して似合っていないわけではなかった。夏紀の髪を自由に染められるなら、私も赤を選ぶかもしれない。
「そうかなぁ」
「あんただってちょっとはそう思ってたんでしょうが。そうじゃなきゃ染めてこないでしょ」
 夏紀の曖昧な反論は、サキさんの言葉でぺしゃんこになった。言い返す言葉も見当たらなかったらしく、俯いた夏紀の代わりに話し始めた、サキさんの声に含まれる笑いはどんどん大きくなっていく。
「それで本当に染めてきて、似合ってるってみんなで褒められたんだけど。次の日、すっごい暗い顔でスタジオに来たんだって」
「え?なんでですか」
「彼女に怒られたって」
「え?優子に?」
 驚きのあまり名前を反射的に口に出していた。しまったとサキさんを見ると、驚いている様子はなかった。
「あら、知ってるの?」
「あ、はい」
 意外な反応に飲み込めずにいると、夏紀が補足を入れる。
「優子と私と希美は高校同じなんですよ」
「なるほどねー」
「ごめん、驚いて名前出しちゃった」
「大丈夫、サキさんは知ってるから」
 夏紀はなんでもないことかのように手のひらをひらひらと振った。その力の抜けた動きを眺めながら、私はようやく夏紀が大人になって――バンドマンになって、積み上げてきた物の大きさを理解した。それは彼女自身が染み込んでいて、ちょっとやそっとでは壊れはしないのだろう。
 私はどうなんだろうか。曖昧に思いを巡らす私の向こう側で、サキさんはまたあの軽やかな声を出す。
「本当にすごい落ち込みようだったらしいのよ。私も実際に見たわけじゃないけど。でもバンドの約束だから写真を撮るまではって言って染め直そうとしなかったらしくて」
 難儀よね、と言いながら、その実面白がっているようにしか見えない。
「ほら、この子基本真面目でしょう?」
「わかります」
「ええ……」
 思わず少しだけ前のめりになりながら答えると、隣の夏紀は首を傾げている。ほらね、と言わんばかりの表情を浮かべたサキさんは、しかしそれを口にはしないまま言葉を続けた。
「だから赤髪だから家に帰れないっていってスタジオで徹夜して行って。そのまま写真撮ったからあんなにダウナーな感じなのよね」
「なるほど……」
「よく見ると目も虚ろよね」
 拡大した画像を眺めながら、頷く。本人の前で言うのも悪いが、これは健全な人間の表情じゃない。ロックバンドは大体こうでしょと言われたら、頷いてしまう自分もいるけれど。
「その話を聞いててねえ。今のバンド組むときに、夏紀にデータまだ残ってるって聞いたら送ってきてくれたから、そのままホームページに貼っちゃったわ」
「ほんと酷い人ですよ」
 彼女はそう言いながら笑っていた。これが信頼ってやつなんだろうか。バンドのイメージの方向性も、彼女の肖像権もよくわからないけれど、こういうやりとりができる人が夏紀にいるということは、それは良いことだということだけはわかった。
 今は至って健康的な夏紀と目を合わせる。聞いていない事の顛末があった。
「それで、優子には許してもらえたの?」
「わかんない」
 深刻な話を、夏紀は何でもないことのように話す。見逃しそうになるその言葉は、見逃すには流石に重かった。
「どういうこと?」
「染め直して謝ろうとしたら『別に謝ることじゃないでしょ』って言われて、そのまま」
「じゃあ怒ってないんじゃないの?」
「うーん、どうなんだろ。でも一ヶ月ぐらい、髪の毛をめっちゃ見られて気がする」
 深刻そうな夏紀の表情を前に、サキさんは今度こそ愉快そうに笑い声を上げた。それは嫌な感じのするものじゃなく、もっと慈しみのある笑いだった。そこに邪気がないことはわかるから、夏紀の口からため息は出ない。
「夏紀もなんだかんだこういうところは子どもっぽいわよねぇ」
「そりゃサキさんから見たら、私なんてほとんど子どもでしょう」
「そんなことないわよ。殆どの部分で私よりずっと大人よ。まあでもそうねえ、惚れた弱みってやつじゃないかしら」
 彼女が何を言わんとしているのか、私だけはなんとなく理解することができた。まだ納得の行かない表情をした夏紀を見て、サキさんがため息をつく。
「ほんと、気がついたら馬に蹴られてるんだからたまったもんじゃないわね」
「それ、わかります」
 深々とつくそのため息に、少しだけ共感してしまった私がいた。思わず返した私の言葉に、夏紀が味方を失ったかのように戸惑う。
「ちょっと」
「やっぱ、どこでもそんな感じなのね」
 私を責める目線をよこす夏紀を適当に受け流していると、サキさんは関係ないように笑った。その微笑みがあって、夏紀はいい人生を歩んでいるのだな、と思った。


「あ」
「え?」
 スタジオの階段を上がったところで、優子に会う。彼女は九月にしては随分と厚着をしていて、何故かそれがとても優子らしいな、と思った。薄い黒のパーカーには見覚えがあって、蹴られていると気がつく。口には出さない。
「なんで希美?……ああ」
「そういうことです」
 一人で解決したらしい優子に、なんの意味もない返事をする。なんとなく肩からズレている気がして、ギターケースを背負い直す。私の背中にあるそれに向けられた目線は、興味を失ったようにすぐ外れた。
「練習?」
「うん、今終わったとこ」
「夏紀は?」
「スタジオの人と話があるみたい。来月の予約のことらしくて」
「ふぅん」
 会話はそこで途切れた。互いにちらりと入口に目をやる。夏紀を奥にしまい込んだままの扉は、まだ開くことはないだろう。止まってしまうと、そこから言葉を選ぶことは急に難しくなってしまう。
 高校生の私は、優子と一対一で話すとき、ひどく狭い部屋の中にいるような、そんな気分になることがあった。優子に非はないのだけれど。
 だから、彼女の前では言葉を探してしまうくせが抜けない。今も、選ぶための言葉を探している。
「そういえばさ」
「なに?」
 なんでもないことを話すふりをしながら、優子の方を注意深く見る。見逃すことはないと思っていても、注視するクセはそのままだ。先生の顔色を伺う子供と、あんまり変わりがないだろう。
「なんで夏紀が髪の毛赤くしたとき怒ったの?」
 踏み込んだ瞬間、優子の大きな目がさらに大きく開かれることはなかった。ただ規則的な瞬きが一度だけ止まっただけだった。
「誰から聞いたの?……ああ、夏紀のバンドの人ね」
 優子の口ぶりは本当になんでもないことを話すようで、きっと本当に何でもないのだろう。もうちょっと踏み込んでも良さそうだ。
「今日あの写真見せてもらって」
「ふぅん」
 興味なさげに呟いた彼女は、ふと周りを見渡すと、まるで内緒話をするかのように声のトーンを落とした。
「……ねえ、あの写真、どう思う?」
「どう……って。カッコいいと思うよ?ちょっと不健康な感じもするけど」
 質問の意味を探り当てるように答える。優子はその答え自体には触れることなく、眉間に皺を寄せた。
「あの写真で夏紀のファン増えたのよね」
「へぇ」
「女の子の」
 思わず息を飲む。首を振って優子の表情を見ると、思ったよりなんともない顔をしていた。不躾に眺めた私のほうを見て、彼女の口が尖る。
「何よ」
「いや、なんでも」
「言っておくけど、別にファンに嫉妬してるとかそういうわけじゃないから」
「そう、だろうね」
 あまり優子が嫉妬に燃えているところは想像出来ない。そんなことでイライラするぐらいなら、自分から奪いに行くだろう。そういう良いわかりやすさは、彼女が歳をとった今でも変わっているようには見えなかった。
「そのファンの女の子がさ、みんな揃って言うわけ。『ダウナーな感じがかっこいい』って。何よダウナーって。陰気臭いと何が違うのよ」
「そこまで言わなくても」
 優子の勢いに苦笑してしまう。だってそうでしょう、優子は続けながら不満を吐き出していく。
「あいつのギターが上手いのは私だってわかるし、歌も声もいいと思うのよ。贔屓目に見ちゃってるのかもしれないけど」
 恥ずかしいのか、少し早口になる彼女は、それでも誤魔化したりはしない。こういうところは、どこまでも強いなと思う。羨ましかったのかもしれない。
 愚痴の場には似つかないその感情を、私がどうにか誤魔化しているけれど、優子はそんな私のことも知らずに言葉を続ける。
「それなのにダウナーだとか、ダークだとか言って。見た目しか見てないようなファンの子に、私が恨まれるのよ?酷くない?」
「あー」
 過去に何かあったのだろうか。なんとなく想像できるやりとりに、口元を少し歪めてしまう。二人は二人で、きっと色々面倒にあってきたのだろう。
「だから、あいつの赤髪はあんま好きじゃない。そもそももうちょっと黒に近い赤じゃなくて、地毛に近い赤のほうが似合うのよ」
「それはそう思う」
「そうでしょう?」
 言いたいことを言いきったのか、眉間に込められていた力が抜けていくのがわかった。それと同時に、彼女の目が遠くを見た。
 部長を経て、彼女は生まれ持ったものであろう苛烈さと、育んできた聡明さを、上手に使えるようになったように思えた。だからこそ、そういう聡明さが現れてくる瞬間に立ち会うと、私が得たものを考えてしまう。
「まあこれって、全部後付けなんだけど。今ならわかるのよね。なんで怒ったのか」
 優子は階段の手すりに体を持たれると、懐かしいように口を開いた。
「結局、不安だったのよね。夏紀が新しくバンド始めて、自分の知らないところでどんどん大人になっていくような感じがしてて。自分と夏紀がどうして一緒にいるのか、理由もないって思ってたし。その不安がその時爆発しちゃったってだけ」
 優子のこういうところが、本当に強いなと思う。まっすぐで、信じることができて、それでいて振り返ることができる。どうして私の周りには、できた人間ばかりいるんだろうか。少しだけ憂鬱になってしまうほど、でもそれが誇らしかった。
 階段の奥を覗き込む彼女の目は、風のない湖のような色をしている。向こうにいる恋人を見つめるそれは、若さゆえの熱さも不安ゆえのゆらぎもなく、ただ今を見つめている。長い間に培った関係というのは、ここまで強固なものになるのか。その積み重ねまでの距離を、私が理解できる日は来るのだろうか。少なくとも、今の私には出来ない。
「時間が経つと、自分が何に傷ついてたのかとか、何に怒っていたのかとか、ふとした瞬間にわかるようになるのよね」
「……そうだね」
 それでも、優子の言うことは痛いほどわかってしまう。言葉にされていくうちに、わかってしまった。だから、噛みしめるように、もう一度言葉を落とす。
「そう、だね。わかるようになるね」
 私の言葉に優子が視線を向けないうちに、ライブハウスのドアが開いた。中に挨拶を済ませた夏紀が振り向く。キャップを被った彼女は、こちらを見上げると少しだけ歩くペースを上げた。
「待っててくれたんだ。何の話してたの?」
 いつもの笑みを浮かべる夏紀に、優子はニコリともせずに言う。
「あんたの話してた」
「えっ」
 助けを求めるように私に目を向けた夏紀に、私は乾いた笑いを浮かべる。残念だけれど、助けてあげられることはなにもない。
「今日、家に帰ったら話があるから」
 優子はそれだけ言うと、帰り道を歩き出した。わかりやすい照れ隠しに笑ってしまいそうになる私の前で、夏紀はその後ろ姿を呆然と見つめている。優子が10メートルは離れたところで、振り向いた彼女は、少し泣きそうになっていた。
「何の話、してたの……?」
「別に、悪い話じゃないと思うよ……」


 子どもの頃の告白は、いつだって怖いものだった。
 母親にお気に入りのおもちゃを壊してしまったことを話したときのこと。
 友達の約束を破ってしまったときのこと。
 いつの間にか忘れていたその感覚は、大人になるにつれて思い出してしまった。
 だから少し声が震えたのは、仕方のないことだ。
「曲?」
「作って、みたいんだけど」
 スタジオの空気はいつでもどこか淀んでいる。だから大きく息を吸っても意味がなくて、この場所ではいつも言葉がどこか崩れているような、そんな嫌な感じがする。
 夏紀は困惑をそのまま顔に載せたような目で、私を見つめている。少しの沈黙のあと、夏紀は私から目をそらすと、そのままつぶやいた。
「作れば、いいんじゃない?」
「そんな言い方しないでよ」
「ごめんごめん」
 曖昧に笑う夏紀に泣きつくと、彼女の表情はすぐまっとうなものに戻った。見捨てられてなかったようで安心する。
「なに、セッションとかで作りたいの?」
「いや、そういうんじゃないんだけど」
 どこかレールから外れたような会話を続けてしまうのは、どこか恥ずかしくてまっすぐ走れないから。だから自分から進む方向を変えないと、いつまでも目的地にはたどり着けない。わかっているけど、ずいぶんと気持ちを入れなきゃ出来ないことだってある。
 無理矢理籠もった空気を吸い込んで、私は口を開いた。
「夏紀が作った曲、聞いたの」
 どこか暴くような私の言葉に、夏紀は驚いた顔はしなかった。大人になって見慣れた歪んだ口元に、やっぱり悪いことをしたんじゃないかって思ってしまう。
「誰からもらったの?」
「上がってたやつ、聞いた」
 それは偶然と見つけたというには、少し気持ちが入りすぎていた。教えてもらっていたバンド名を検索ボックスに入れて、検索結果を3ページもめくった先に見つけたもの。タイムカプセルを勝手に開けてしまうような、そういう無粋さを咎める気持ちを押し殺して、再生ボタンを押した。
「ああ、サンクラか」
 さっきまで困惑の色だけだった彼女の表情に、いたずらっぽい子供の顔が混じる。
「あれね、私が上げたやつじゃないんだ」
「えっ、そうなの」
「勝手にバンドメンバーがリミックスして録音して上げてた」
「いいの、それ」
「まあ、ギリギリ……」
 明かされる衝撃の事実に私が戸惑う間に、夏紀は手に持っていたギターを立てかけて私の方をじっと見た。
「あれ聞いて、作りたくなったわけ?」
「作りたくなったわけです」
 正直な告白に、夏紀はため息をついて下を向いた。部活で頭を悩ませていたときの彼女もこういう感じだったなと思う。自分がこういう顔をさせることになるなんて、あの頃は全く考えてもいなかったけれど。
「勝手に聞いてごめんね?」
「別にそれはいいよ」
 ひらひらと舞う人差し指の指輪が、小さな光を含んで私を刺している。自分自身が暴かれる一瞬前の恐怖が、小さな火花のように背中で荒れては消えていく。
 彼女の憂いの表情は、いつだって最後には諦めだとか愛だとか、そういった現実の感情に落ちてくる。そういうところが好きだった。許されている感じが。
 ただ今日の行く先は、少しさみしげだった。
「別に、曲作って歌詞つけても、何がどうなるわけじゃないよ」
「それは」
 わかっているけれど。
 わかっているつもりだけれど。
 音にならなかった私の言葉を、夏紀はいつも丁寧に拾い上げる。どこか冷静だった感情が和らいでいくのがわかる。
「意地悪なこと言ったね」
 ごめんね。そういって彼女は笑った。


 思いついたフレーズは書き留めてあった。唸りながら模索していって、やっとなんとなくそれらしい長さになる。
 何が正解なのか検討もつかない。ベースの入れ方はさっぱりわからないし。
 とにかく探るしかない。勉強にと、好きな曲を大きな音で鳴らしてみると、聞けていなかったことがわかる。
 手を止めて聞き直して、どうにも好きになれなくてやり直し。その繰り返し。


「カバー楽曲って、どうやって選ぶの?」
 ホワイトボードに書かれた楽曲候補には、知っているものから知らないものまで転がっている。秘密に大切に作られたプレイリストの中身を覗いているようだった。
 聞くところによると、次のライブの予定が決まり始めているらしい。知らない世界の話を全部覗き込んでみるほど子どもではなくなってしまったから、よくわかっていないけれど。
 私の素人丸出しの質問にも、夏紀は丁寧に答える。
「結局さ、今歌っても仕方ない歌っていうのがあるんだよね」
 夏紀がいたずらに動かしていた指を止めると、狭い部屋の中に声だけが響く。弾き出された心地の良い音がなくなると、それだけでひどく特別なシーンのように見えた。
「仕方ない?」
「んーっとね」
 オウム返しのように返事をすると、夏紀は宙を見つめながら言葉を選ぶ。手に持ったピックは弦をかすめることなく、ただゆっくりと往復するだけだ。答えを待ちながら、彼女のコードを読み取る。D、A、G、D、G、D、A、D。
「時代が合わないっていうか。当時は面白くても、今じゃありふれてるとか。ルーツっぽい曲ならいいんだけど、そうじゃないとちょっとね。なんて言えばいいかなぁ」
 彼女の手が止まって、口元に移っていく。考えこんだ彼女の顔は絵になるなと改めて感じながら、私は黒板に答えが書かれるのを待つ生徒のように、ギターの縁を指で叩く。
「ちょっと誤解されるかもしれないけど」
 そう前置いて、夏紀は答えを書き始めた。
「その時は意味があっても、時間がたつと薄れちゃったり。いつの間にか歌ってた感情なんてなくなっちゃったり。もちろん音楽はいつ聞いてもいいんだけど、ライブで選ぶってなるとその辺ちゃんと選ばないと。お客さんも耳肥えてること多いからさ」
 そう言いながら楽しそうな表情を浮かべてギターを見つめる彼女が、突然ひどく大人びて見えた。それは彼女の髪の色も、彼女の持つギターのブランドも、この部屋の照明も関係ないということが、なぜかはっきりとわかった。
「大変だね」
 それをなんとなく認めたくなくて、素直な言葉の代わりに飛び出した言葉はひどく投げやりに聞こえた。
 私の言葉に、彼女は顔を上げた。そこにはもう大人びた表情は映ってなくて、私の良く知る中川夏紀がいた。
「大変だよ」
 そう言って、彼女はあの見慣れた柔らかな笑みを浮かべた。
「でも、楽しいよ」
「そっか」
 その表情になんとなく悔しくなって、だから思わず口を開けてしまう。
「私も、歌ってもらいたいなぁ」
「え?」
 濁した言葉は何も伝えない。そうわかっていてもそれを選んでしまうのは、自分の治らなかった癖だ。
 言葉にするにはずいぶん勇気がいる。それとなく、緊張しないように見せかけて。
「夏紀に、私の書いた曲」
 私の言葉に、夏紀はただ目を開いた。してやったりと、思ってしまった。
「じゃあ、早く持ってきてくれなきゃね」
「はぁい」


 ページをめくった先に見つけた、再生ボタンを押したときのことを思い出す。
 それは思っていたよりずっと情けなくて、ずっと悲しくて、それでいて好きだった。
 あの歌声で、歌ってくれたら。そう思った。


「作った、んだけど」
 なんて言って差し出せばいいのかわからなくて、拗ねた子どものような言葉選びになってしまう。頼りなく響いた声はそれでも届いたみたいで、一足先にレッスンルームに入っていた夏紀が顔を上げた。
「曲?」
「うん」
「おめでとう」
 少し恥ずかしくて、手を後ろで組む私に、夏紀は椅子を差し出した。
「歌ってみてよ」
 作ってみた曲は、4分に満たないぐらいの長さだった。思った以上に同じようなフレーズが続いていて、聞かせているうちに不安になる。取ってつけたような仮歌も、それらしく跳ねてはくれない。
 滑稽な芸のような演奏を終えると、まだ時計は文字から文字へと移動していなくて驚いてしまった。行き場のない失敗の気持ちを抱えた私の向かい側で、夏紀が驚いた顔をしている。
「いいじゃん」
「そう、かな」
 意外そうな、それでいて嬉しそうな夏紀の表情に、私は信じないわけにはいかなくなる。どこか乗せられているような感触を覚えながら、私は喜ばずにもいられなかった。
「ちょっとフレーズ直したほうがいいけど、いい感じだよ」
「本当に?私弾いてる間にどんどん自信なくなってたんだけど」
「まあ、最初から自信作が作れてれば誰も苦労してないから。希美は耳が肥えてるんでしょ」
 そう言って夏紀は、私の手書きの譜面を見ては、いくつかのフレーズを変えていった。
「これで、どうかな」
 そう言って渡された楽譜には夏紀の書き込みがあって、高校のときの譜面を思い出す。あの頃もいろんな書き込みがあって、そういうもので見えなくなってしまった楽譜が、私は好きだった。
 若干のノスタルジーと共に弾き直してみると、違和感のあるフレーズが綺麗に収まって、さっきまで響いていたはずの情けなさは消えていた。魔法のようなその文字たちを、思わずじっと眺めてしまう。
「凄い」
「直すのは簡単だからさ」
 私の感動が端的に言葉になって伝わると、夏紀は頬を掻きながら顔を赤らめた。そういえば彼女は、感動を言葉にされると弱いのだった。こういった年齢になると、尊敬とかそういった感情は、つい伝えそびれてしまう。だから思い出したときに、ちゃんと言わないといけない。
「そんなことない、すごい」
 燥ぐ子どものように繰り返すと、夏紀は愉快そうに小さく笑いをこぼした。
「今のちょっと、昔のみぞれに似てた」
「そうかなぁ」
 そうかもしれない。曖昧な記憶と共に思い浮かべる彼女の顔は、すぐにこの前あったばかりの彼女と重なってぶれて、思い出せなくなってしまう。
 もう一年近く会っていないという事実を思い出す私の顔を、夏紀が覗き込んだ。
「歌詞、どうする?」
「歌詞、か」
「流石に仮歌のまま披露はできないからさ」
 先延ばしにしていた宿題を見つかったような、そういう後ろめたさをほんの少しだけ覚えながら、夏紀に直してもらったフレーズを弾き直した。やっぱり自分の書いたものより、ずっとかっこよくて、なんだか悔しかった。
「書いて、みたいな」
「いいと思うよ」
 全部お見通しみたいに、夏紀は笑った。
「じゃあ、また練習の時までに。書いてきてくれたら、またセッションするからさ」
「宿題みたいだ」
「大人になったら宿題はないって思ってたのにって、誰か言ってたなぁ」
 大切な締切を覚えた私に、夏紀はそうだ、ともう一つ思いつきを話す。
「サポート、やってみない?」
「サポート?」
 夏紀はまるで少年のように、新しい遊びを見つけた少女のように笑っている。とんでもないことに背中を押されている感じがする。
「サポートギター。うちのバンド今3ピースだけど、どうしても表現しきれないところがあるからさ」
 やっぱり。的中した予感とともに目を開ければ、崖の前まで追い詰められている。
「いや、私まだ初心者なんだけど」
「曲作ってれば十分だよ」
「本当に?」
「希美なら大丈夫だって」
 いたずらばかりの子供のように、楽しそうに囲い込む彼女を思わず睨む。
「信頼してるんだよ?」
「そういう問題なの?」
「私は希美と一緒に演奏したいなぁ、一緒に演奏してくれたら、希美の書いた曲歌おうかなぁ」
「夏紀、そういうこと言うタイプだったっけ……」
 私の諦めた声に、夏紀は大声出して笑いながら、自分の鞄からスコアを取り出した。
「考えてみてよ、ね?」
 あの頃からまた少なくなった楽曲候補の束を渡された。また宿題が増えたことが、なぜか嬉しかった。


 夏紀に渡されたスコアと、作詞ノートの上の白紙を行ったりきたりしている。
 思い浮かぶのは誰かの言葉ばっかりで、曖昧に思い出しては消し去って、もう数ページ無駄にしてしまった。
 ちっとも進まない言葉たちを笑うかのように、スコアはだんだんと手に馴染んでいく。もう渡されたスコアが、だいたい弾けるようになってしまった。現実逃避の練習から手を離して、練習をする準備をする。
 歌詞。言葉。伝えたいことなんてあるんだろうかと思ってしまう。多分私の胸の内側を、手術みたいに取り出してしまえれば、その中には私のいろんな気持ちが横たわっているんだろう。見たいものから見たくないものまで。忘れたいものから忘れられないものまで。
 昔みた漫画のように、自分の手で心臓を交換できたら簡単なのに。
 積み重なったスコア集を戯れに手で図ると、それなりの高さになっていた。ホワイトボードにはこれよりもたくさんの曲が並べてあって、夏紀のミュージックプレイヤーにはそれ以上の楽曲が並んでいるはずだ。
 そういう世界の中で、私が覗き込めるのは、ほんの一欠片だけなのだろう。彼女と私では、そういうものに対する積み重ねのようなものが、違いすぎた。
 本当にそのまま言ってしまえば、羨ましかった。今までの積み重ねを無視してそんなことを言うのはおこがましいとわかっていても、そう思わずにはいられなかった。なんでもないよと笑いながら、そのうちにすべて包み込めるような彼女のことが。
 羨ましかった。優子のあの強い眼差しが。どこまでもまっすぐで正しくて、あのころは憧れなんて言葉で言い表わせないぐらい近くにあったはずのその優しさが。
 羨ましかった。みぞれのあの演奏が。
 羨ましかったんだろう。
 思い出してみると、ただそれだけのことのはずなんだ。
 真っ白なページをもう一度見つめ直す。今なら何かが書けそうな気がして、ピックをもう一度持ち直した。


「書けたよ」
 どうして私の言葉は、こんなふうに子供みたいに響いてしまうんだろう。理由を探してみても、自分が子供っぽいからなんじゃないか以外、検討がつかない。
「お疲れ」
 差し出したメモを受け取らずに、夏紀は笑顔だけ私に向けた。
「弾いてみてよ」
「私が?」
「そう」
 立ち上がろうとしない彼女は、笑顔のまま私を見つめている。勘弁してよと思いながら、私はギターを構えた。
「あれ、素直にやるんだ」
「どうせ何言っても弾かせるでしょ」
「せっかくだし、聞いてみたいなって。私歌詞カードは最初見ないタイプだからさ」
「そういう問題なの?」
 どこまでもにこやかな彼女に反抗心すら削がれながら、私はピックを構える。書いたときの感情を思い出したり、ぼやけさせたりしながら。声を出す。届いたり、届かなかったりしながら。
 歌い終えると、夏紀は笑った。とても深くて、それでいてどこまでも明るい笑みだった。
「いいね」
「夏紀、それしか言わないじゃん」
 受け流してほしかった子供っぽい逃げ方は、夏紀に丁寧に拾われた。
「本当にいいと思ってるよ。この曲が聞けるなら、来世でまた希美にギター教えてもいいぐらい」
「どのぐらいよ」
 壮大なようで小さな世界の話に、苦笑してしまう。夏紀の目が至って真剣なのは見逃して。
「いいよ、これ次のライブで弾こう」
「やったぁ」
 夏紀に褒めてもらって認めてもらえた安堵感が胸いっぱいに広がって、思わず大きく息をつく。良かった。私の態度が大げさに見えたのか、夏紀はまた笑った。
「そんなに弾いてほしかったの」
「そのためにスコアだって仕上げてきたんだから」
 私が胸を張ると、夏紀は考えもしなかったかのように驚いた顔をしていた。
「あれ、全部やってきたの?」
「やったよ、もう大変だったよ」
「いや、ごめんごめん」
 夏紀の形ばかりの謝罪に、思わずまた愚痴が重なってしまう。今ぐらい、ちょっと喋ってもいいだろう。
「フルートの発表会も近いからそっちも練習しないといけなくてさぁ」
 二つの楽器を練習するのは、やっぱりどこか無理があった。プロだったら怒られているレベルの出来になっているかもしれない。発表会のためにまた練習しないと。
 今夜の予定を立てていると、夏紀は何故かあっけに取られたような顔をしていた。
「フルート、まだやってたんだ」
「あー、前のサークルで一緒にやってた人に誘われた場所でね。言ってなかったっけ」
「聞いてなかった、けど」
 一緒になるとギターとロックバンドの話ばっかりで、日常の話をするのを忘れていた。近況報告を怠った自分を反省する。それでも、それが楽しかったのだから仕方がない。
 小さな反省会をしている私の前で、夏紀は初めて見るような表情をしていた。
「こんな、言い方良くないけど」
「うん?」
「フルート、やめたり、休んだりしてるんだと思ってた」
「あー、一ヶ月ぐらい、次のサークルが見つからないときはあんま練習もしてなかったよ。でも今は、ちゃんと練習してる」
 私の言葉を夏紀の表情に浮かんでいるのがなんの感情なのか、私には理解できない。ただ、なんとなく、私が数えられない罪を数え上げているのかもしれないと思った。
 あの頃にちょうどみぞれに会ったのか。タイミングの悪さに呆れる。みぞれにきっと謝れない自分にため息をつきたくなるのを我慢していると、夏紀はようやく長い時間をかけて、言葉を選んだ。
「やめたくなって、ギターやってるんだと思った」
 そういう夏紀は、寂しさを思い出すような顔をしていた。苦しそうだった。もしかして、ずっとそういう思いをさせていたんだろうか。想像を及ばせることの出来ない悲しみに、かけるべき言葉は見つからない。
「今更やめられないよ」
 結局現れたのは、飾りのない言葉になった。やめられそうにない。それが私にとってのフルートだということに、自分ではそれなりに昔から気がついていた。だから、本当にやめる可能性があるなんてこと、想像もしてなかった。
 でも、言葉に出さなければ、それは伝わらないのだ。夏紀になんていって伝えればいいのか、数秒間の迷いの末に、それはシンプルな数文字になってくる。
「好きだもん、フルート」
 結局そこに落ちてくるんだろう。
 選べる限りの言葉を選び切ると、夏紀は苦しみをその表情から取り除いた。私が選んだ言葉を、多分もう一度噛み締めているのだろう。
 言葉を待つ私の前で、彼女はゆっくりと自分のポニーテールに手を伸ばす。
「私、高校生のときからポニーテールにしてたでしょ」
「うん」
 脈絡の見えない話を前に昔の記憶をたどると、曖昧にそうだったかもしれないという合意が自分の中で形成されていく。頷いたあとに思い出した自分のちょっとした卑怯さを受け入れながら、眼の前の彼女を見つめていると、彼女はまたあの柔らかな笑みを浮かべた。
「あれね、希美の真似だったんだ」
「ウソ」
「ほんとだよ。憧れてて、真似してみたの」
 明かされた衝撃の事実に、空いた口が塞がらない。一体何を言えばいいのかもわからない私の前で、夏紀は相も変わらず嬉しそうに笑っている。
「なんで、急に、そんなこと」
「憧れてて、良かったなぁって思って」
 そういって夏紀は目を細めた。


 ライブの前日、スタジオであった彼女は、夏紀は髪の毛を赤く染めていた。あの写真じゃなくて、もっと彼女に似合う優しい赤だった。ポニーテールを赤く揺らしながら、彼女は笑ってこういった。
「希美よりは、似合ってない気がするよね、ポニーテル」
 そういってくるりと踊ってみせた彼女は、なんでもない街の路上で、誰よりもきれいに輝いていた。


 機材の確認から戻ってきたら、夏紀の頬が赤くなっていた。飲んでる。本番前なのに。
「本番前に飲まなくていつ飲むのよ」
「そういうものなんですか?」
「いや、そういうものじゃないと思う」
 夏紀はグラスを持って体を起こすと、思いっきりよろめいていた。だめだこれは。本人もそう気がついていたのか、慌ててペットボトルを取り出すと飲み干していた。
「ウィスキー、相変わらず弱いわねぇ」
「向いてないのかも、しれません」
「どう考えたって向いてないわよ」
 そう言って呆れた笑いを浮かべながら、サキさんは彼女の肩を掴んだ。大きな支えと一緒にあるはずなのに、夏紀の体はまだ安定を求めるかのように揺れていた。どれだけ弱いのか。自分の眼の前でウィスキーを飲んだ彼女の顛末を思い出して、心配になる。
 狭い楽屋の空気は控えめに言って悪い。所狭しと置かれた機材の中でおぼつかない足を動かしている彼女を見ていると、いつか大きな怪我をするんじゃないかと心配になる。
「外で酔い冷まして来なさいよ」
 まだ開演までは時間がある。十一月の空気は冷たく、緩んだ頭を冷やすにはちょうどよい。
 しかし、サキさんの至極まっとうなアドバイスを、夏紀は青い顔で受け止めた。
「嫌」
「どうしてよ」
「今外に出たら、優子と鉢合わせるかも」
「知るか」
 サキさんから、珍しく怒りの声が飛んだ。まあ気持ちはわかった。
 追い出されて――より正確には蹴飛ばされていく彼女の背中に手を合わせる。気の毒に。お酒の失敗は本人の失敗だけれど、夏紀の場合、どこか同情してしまうようなものが多い。
「なんでウィスキーにこだわるんですか?」
「まあ、梅酒だと決まらないわよねぇ」
「ワインだとちょっと場違いな感じしますしね」
「そういうこと」
 前に見た映画で、ロックシンガーがずっとウィスキーのグラスを傾けていたのを思い出した。ああいう感じなんだろうか。
「いや、どういうことなんですか」
 危うく流されそうになった私に、サキさんは夏紀の飲みかけのグラスを差し出した。
「飲んでみれば?」
「え、いや」
「夏紀にはこれ以上飲ませるわけにはいかないし、飲んじゃってよ」
「残飯処理ですか」
「残酒処理ね、どちらかというと」
 眼の前で揺らされる琥珀色の液体が、不気味に私を誘っている。これはなんの色なのか。そもそもウィスキーって何でできてるんだ。わからないことはいっぱいあった。
「もしかしてウィスキー、飲んだことない?」
「ハイボールは、あります」
「ないかぁ」
 私の言うことを無視して、サキさんはグラスを私に握らせた。この人は距離を掴むのがうまい。逃げ場がなくなったことに気が付きながら、私は諦めてグラスを口元に持っていく。
「どうやって飲むのがいいんですか」
「グイッと行っちゃいなよ」
「グイッと、ですか」


「絶対ああやって飲むもんじゃないでしょ」
「それが驚くことに、ああやって飲むものなんだよ」
 喉がまだ痛む。噎せるような感覚はもう過ぎ去ったものの、違和感が残り続けている。出番はもうそろそろだというのに、やたら酔いの広がる感覚に、楽屋の席を立つことができない。
 うちひがれた私の横で、どうやら酔いを冷ましてきたらしい夏紀が戻ってきた。頷いた私に、夏紀は可哀想に、という目を向けた。そもそも夏紀が弱くなければ私の喉は焼け付かずにすんだのだけど、と思う。恨んだところでどうなるものでもないけど。
「二人は?」
「なんか外に出ていった。知り合いがいるらしくて」
 熱冷ましとばかりに飲んだミネラルウォーターのペットボトルが空になったのを恨めしそうに見ていると、夏紀は正面の椅子に腰掛けた。うつむいた私に視線をあわせるように背中を丸めた彼女の目に、さっきまでのおぼつかない足元の影は映っていない。
「みぞれ、来てたよ」
「うん、知ってる」
 真剣な表情で言われたそれに、そっけない言葉で返してしまう。申し訳ないけれど、わかっていたことには驚けない。
「私が、来てって言ったから」
 夏紀のライブに出ることを、みぞれには伝えていた。サポートギターでの出演を、無理して伝えることなんてないかなって思ったけれど、フェアじゃない気がしたから。いつものやりとりに何気ないように送ったメッセージに、みぞれはすぐに返事を返した。「帰国して、行く」
 どこか申し訳ない気持ちとともに、喜びがあることを認めずにはいられなかった。私の作った曲はセットリストの最後から一つ前に用意されていて、夏紀が歌ってくれることが決まっている。望んでいた機会は何気なく訪れて、私の小さな願いは叶いそうなのだ。
 今日の昼に帰国したらしい彼女の姿を、私はまだ見ていない。慌てて迎えに行って、なんて言えばいいのかわからなかった。その代わり、優子に連絡を入れておいた。
 何か言いたげなのが文字だけでもわかる優子からの返信に、いつも悪いことをしているという気持ちは抜けなかったけど。思い出と今がぶれて曖昧になる前に、彼女の姿を見ておきたいのも確かだけれど、それは歌ってからでいい。
「そっか」
 夏紀はそれだけいうと、伸びをするように体を後ろに投げ出した。彼女が背中を預けた壁には、誰だかもわからないアーティストの笑顔が彼女の肩に並んでいる。そのポスターの薄れた色から目をそらすように、彼女は目を閉じた。
「それならいいんだ」
 狭い静かな箱の中では、小さな音もよく響く。開場の間際のざわめきがドアの隙間から運ばれてきて、夏紀の瞼をそっと持ち上げた。目を開けた彼女が戯れに手を伸ばした先では、昔の彼女が眩しそうに目を細めている。
「このライブハウスもね、付き合い長いんだ」
 ポスターの背景には見覚えのあるステージが並んでいた。今より少しだけ幼い彼女の表情を、夏紀は懐かしそうになぞる。
「ここで希美と演奏できて、良かったよ」
 手を伸ばすのをやめた夏紀の目が、私を貫くように向けられていた。
「まだ始まってもないのに」
「こんなこと、もうあると思ってなかったからさ」
 言い切ったように、彼女は小さな丸椅子から立ち上がった。時計を見ると、もう開演の時間だ。
「行きますか」
「うん」


 ライブハウスに初めてきたのは、大学生のとき、夏紀のサークルのイベントだった。
 寂しい場所だと思った。
 こんな狭い場所にいるのに、みんなちょっとずつ違う方向を向いている。
 ステージに立った今でも、その空気から逃れることはできていない。ステージに立つと全部が見えてしまう。談笑を続けている人、タバコの火に見とれている人、手元のスマートフォンを光らせている人。これが吹奏楽部の発表だったら、非難殺到もいいところだろう。今までの感触が抜けきっていない私からすると、どうしても変な感じがする。
 でも、本当はそんなもので、良いのかもしれない。
「早い時間からありがとうございます」
 夏紀の上からは、柔らかな光が差し込んでいる。彼女の声がフロアに響くと、散り散りになっていた目線がステージに向いた。怯みそうになるのを堪えて夏紀の声の続きを待つ間に、壁際の椅子から立ち上がった女の子が見えた。みぞれだ。
 白いハイネックのワンピースを着た彼女は、不安そうな目をして形だけ用意された椅子の前に立っている。中学生のころの彼女も、あんな表情をよくしていた。何か足りないものを探すような、そんな顔を。
 タバコと汗とアルコールの混じった匂いが、彼女にはあまりにも似合わなくて、笑ってしまいそうになる。ステージの上で耐えるように夏紀の方に目を逸すと、彼女の視線が一瞬私をなでて、すぐに正面へと映っていった。
 みぞれの横には優子が場馴れしたように立っている。これなら心配ないだろう。そっと胸を撫で下ろして、夏紀の合図を待っているけど、目の端ではみぞれが映るように構えている。
「じゃあ、一曲目、カバーで」
 そういってドラムが始まって、ライトが落とされた。
 ただでさえ薄暗い箱から、ステージのライトが消えるとはっきりと捉えることしかできない。無作為に照らすステージライトは、視界の助けにはならない。諦めて、演奏に集中する。
 夏紀の声が空気を揺らす。コーラスに集中しながら、こうやって並んで歌っている自分がいることに、イマイチ現実感がない。
 疾走感のある一曲目が終わると、夏紀のギターソロで二曲目が始まる。イントロで歓声が上がっていて、このセットリストは成功みたいだ。夏紀が選んだものなのに、楽しそうに揺れる人たちの前で、私までうれしくなってしまった。さっきよりわかりやすく甘くなった夏紀の声に、小さく黄色い悲鳴を上げた女の子二人組が見える。
 あの子達は、いつだかに駅で見かけたファンの子たちだった。昔からつながっているものがあるのかと思うと、少し安心する。夏紀が抜け殻になってしまったと聞いたとき、彼女が何もかもを捨て去ってしまったんじゃないかと思っていた。でも夏紀が望むにしろ望まないにしろ、断絶されることなく音楽が続いているということが、ひどく嬉しかった。
 三曲目を夢午後地で通り過ぎて、四曲目はしっかりと。喉に焼きついた痛みが微かに残っているのを騙しながら、コーラスをこなす。汗が首筋を流れて気持ち悪い。スモークか熱気かが、自分の体にまとわりついて、うまく動けていない気がしている。
 前半戦をこなすと、思ったより息が上がっていることに気がついた。夏紀が喉を潤している間に、息を整える。
 また小さく夏紀にあたったスポットライトを頼りに、みぞれの姿を探す。一瞬見えなくなって焦ったけれど、あの白いワンピースはそこにいた。休憩時間を使って小さな椅子で休んでいるようだった。隣にいたはずの優子の姿が見えない。それだけで、急に心配になる。
 胸を抑えているみぞれのことを見ているだけで、気がついたら夏紀のトークは終わっていた。大きな拍手とともにステージに引き戻されて、慌ててピックを持ち直す。ベースイントロが響きだしても、みぞれはまだ立ち上がらなかった。
 暗いアレンジに合わせて、照明は青く開く。速弾きに気を取られて、フロアに目をやる余裕はなかった。夏紀の声が低く響くのを耳で確かめながら、早く終わってほしいなんて、そんなことを思ってしまう。
 ベースの余韻が消えて、拍手が響く。スポットライトが私の背中を照らす。演出を決めたのは私だ。ちゃんと正しければ、あのライトがみぞれを照らすはずなんだ。
 焦りと期待で見つめた先に、みぞれはいなかった。
 一瞬にして体が冷えていくのがわかった。背中に流れる汗が急に冷たくなっていく。慌てて目を凝らすと、扉から出ていく白い影が見えた。きっとみぞれだ。それ以外にはいない。
 無秩序に照らしはじめたライトとともに、勝手に演奏が始まる。イントロ、Aメロ、Bメロ、サビ。練習したフレーズを繰り返しても、みぞれは戻ってこない。
 私のギターソロが始まった。すべての照明が落ちて、私だけを正面から光が指している。眩しくて、よく見えなかった。ただ必死に覚えた通りに指を動かして、終わらせた先では、また最初と同じように光がさすはず。それだけを信じて。
 そうして待つと、フレーズが終わって。
 スポットライトが当たる。その先に立っていたはずのみぞれはいない。光は虚しく壁を照らして、大きく空いたライブハウスの最後列を浮き立たせた。
 ラストサビ前、すべての楽器が鳴り止んで、夏紀のボーカルだけがライブハウスを揺らしている。コーラスのために口を開きながら思う。
 一体何が、伝えたかったんだっけ?


 ギターの片付けをサキさんに頼み込んで、楽屋控室から飛び出した。まだ余韻の残ったスタンドでは、観客達が思うがままに浸ったり忘れたりしていて、まっすぐ歩くことも難しい。扉の前で大きな声で何かを喋っている女性を押しのけるように進んで扉を開くと、冬の冷たい空気が汗に吹き付けて体を冷やしていく。
 もう一枚着る余裕のなかった自分を恨みながら、地上から吹き付ける風を正面にみぞれの姿を探すと、彼女はカウンター近くのコインロッカーのすぐ横に蹲っていた。
「みぞれ」
 思ったよりずっと大きな声が出て、カウンターでスマートフォンをいじっていた男が顔を上げたけれど、気にしないことにした。影みたいな場所で下を向いていたみぞれは、私の声にゆっくりと顔を上げた。さっきよりもずっと近くで見る顔は、知っているそれより、ずっと苦しそうな表情をしている。
「希美」
 そういう彼女の声はいつもよりもっと小さくて、声の出し方も忘れてしまったみたいだった。階段を照らすライトが、跳ね返ってみぞれの目元を照らしている。
「どうしたの?大丈夫?」
 しゃがみ込んで顔を合わせると、次のバンド目当てらしい女の子二人組が私達を一瞥しながら受付へ駆け込んでいった。足音が反響して不愉快になる。
 みぞれは耐えきれなくなったように顔を伏せると、大きく息を吸い込むと、吐き出した。ライブハウスよりはずっといいけれど、ここの空気だって良くはない。ブルーシートの空気が、どうにも嫌になる。
「気持ち悪いの?」
 問いかけに頷く余裕もなさそうなみぞれにどうすればいいのかわからなくて、背中にそっと手をやった。肩が跳ねたのは拒絶のサインじゃないと信じて、柔らかく擦る。取って付けたような照明が恨めしかった。こんなところを照らさなくたっていいのにと思う。
 思った以上に小さな背中をさすり続けていると、また大きな音を立てて誰かが去っていった。みぞれの肩が苦しそうに上がる。睨もうと顔を上げても、もう犯人はいなかった。
 彼女の背中に当てた手が、いくら往復したのかわからなくなったころに、みぞれはやっと顔を上げた。曖昧に暗いこの場所でも、顔色はそこまで悪くはなさそうだ。とりあえず安心する。
「優子は?」
「電話があって、途中で出てて」
「そっか」
 さっきから上から聞こえる高い声は、優子のものだったのか。まだ終わりそうにない声のトーンに、任せることはできなさそうだ。片付けの分の礼は一体ビール何杯になるのかを考えながら、みぞれのカバンからペッドボトルを取り出す。
 パスポートが見えて、空港からそのまま来たことがわかる。長時間のフライトと、なれない環境で体調を崩したんだろう。その無理をさせた原因が私だと思うと、何を言えばいいのかわからなかった。言葉にはできないから、代わりに現実的な心配しかできない。
「ごめん勝手に漁って。飲める?」
 手渡したペッドボトルを、しかしみぞれは首を振って押しのけた。そのまま口を開いてなにかを伝えたはずの彼女の声は、ライブハウスから聞こえる大きな歓声で消されていった。次のバンドが始まったらしい。
「どうしたの?」
「ごめん」
 はっきりと聞き取れた彼女の言葉は、ひどく痛そうに響いていた。さっきまでよりもずっと苦しそうな声が鼓膜を震わして、私は次の言葉を待つ。
 みぞれはゆっくりと立ち上がった。彼女にあわせて膝を伸ばせば、眼の前には苦しそうな顔が浮かんでいる。そんな顔、することないのに。
「希美の演奏、最後まで聞けなかった」
 そういってみぞれはまた俯いた。あのころよりずっと大人になったはずの彼女は、こうやって下を向いているだけで、ずっとずっと幼くて、頼りなく見えてしまう。
 こんな子に、私は何を伝えたかったんだろう。
 そんなことないよ、大丈夫だよ。いつものような軽薄な言葉が喉の奥で引っかかって、出てきそうにない。
「希美が、せっかく呼んでくれたのに」
 そういう彼女の言葉は、悲しみを重力にしてどこまでも落ちていくみたいだった。拾い上げることが出来ないそれを追いかける前に、私には伝えなきゃいけないことがあった。
「来てくれて、ありがとね」
 そういうと、みぞれは顔を上げて、首を振った。それが本当に何を意味するのか、私には多分わからない。それでも、一つわかることがあった。
「聞けた分だけでも、楽しかった?」
 みぞれはすぐに大きく頷いた。こういうところまで、今日の彼女は子供のようだ。幼い友人の様子に自然と笑みが溢れる。
「それなら、良かった」
 私の手が、自然とみぞれの頭に伸びた。
「それだけで、いいんだよ」


 楽屋に戻ると、夏紀がグロッキーになっていた。
 椅子の背もたれに無理に首を乗せて、目の上にタオルをかぶせている夏紀は、敗北したボクサーのようだ。ボクシングなんて見てないけれど。
「夏紀?」
 ステージから響くシャウトに負けないぐらいの声で呼びかけると、彼女は目にかけてたタオルを外した。私の姿を見ると、ゆっくりと体を起こす。
 疲れ切ったその表情は、さっきまで黄色い歓声を浴びていたとは思えない。記録に残しておけば面白い気もするけれど、流石に悪いのでやめておく。夏紀と一緒にギターを引き始めてから記憶に残っているのは、初めて見る表情ばかりだ。
「希美」
「物販は?」
「代わってもらった。次のバンドは私が行く」
「そっか」
「みぞれは」
「体調悪いから帰るって。ご飯の予定はまた今度立てよう」
「わかった」
 適当な会話を済ませると、夏紀はまた大きなため息をついた。心の底から疲れ切ったみたいな声だった。ステージが終わったときは普通だったのに。あの爽やかな笑顔で引っ込んでいく彼女を思い浮かべながら、私は声をかける。
「どうしたの」
「逃げられた」
「誰に」
「前のバンドのやつ。もう二度とお前の演奏なんて見ねえよなんて言ってたのにコソコソ来てて、追いかけようとしたら帰ってた」
 夏紀はそれだけ吐き捨てるように言うと、テーブルに体を投げ出した。
「あの野郎……」
 今まで聞いた中で、一番暗い夏紀の声だった。こんな声を出せるなら、曲の幅も広がりそうなんて、無責任なことを考えてしまう。私には、彼女の怒りの現実感が結局最後までつかめなかった。
 恨みの籠もった親友の言葉に、どんな顔をすればいいのかわからない。とりあえず口角を上げておく。前のバンドの前半が終わったようで、大きな拍手が終わって、MCの声が聞こえる。
 他愛のないバンドの昔話だけが聞こえてくる楽屋で、私と夏紀だけが黙りこくっている。このライブハウスでこんなに静かなのは、私達だけだろう。
 しばらく死んだような目で伏せながら流れてくる言葉を聞き流していた夏紀は、突然立ち上がると近くにあった紙コップを二つ掴んだ。一つを私の手に押し付けると、もう一つを持ちながら部屋の中何かを探し回る。
「どうしたの」
「飲むよ」
 そういった彼女の手には、まだ半分以上残ったままのウィスキーの瓶があった。
 思わず私が笑っている間に、夏紀は私の紙コップに勝手に注いでいる。
「飲まないとやってられないよ」
 自分の分を注ぎ終わった彼女は、早々に手を上げた。こんな思いやりのない夏紀、レアだと思う。
「ほら乾杯」
「か、乾杯」
 コップを軽くかすめるだけの挨拶を上げると、夏紀は早々に飲み干した。顔を歪ませる彼女に呆れながら、私も口に含む。
「まっず」
 呻く彼女を見て笑いそうになるのをこらえながら、喉に無理やり流し込む。また喉を焼き付けて流れていった琥珀色の液体は、私の中でどんなふうに暴れまわるんだろう。飲み込んだあとにも残る熱い感覚に、顔を顰めた。
「やっぱり、痛いや」


作者HP / 感想フォーム / お問い合わせ(メール)