Sayonara VoyagE

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 どうしたら一番美しく、指輪を受け取れるのだろうか。
 理想は、生まれたその瞬間に指に嵌められているとか、指輪をつけて生まれてくるとか、そういうものだろう。
 人はどんどん、汚れていくものだし。


 生まれて初めて、指輪をもらった。映画になりそうなぐらい、最悪の渡され方で。
 すべてが悪かった。まず第一に、もらう相手が悪かった。下の名前も知らない女の子からのものだった。時間も悪かった。会社の飲み会の後だった。
 極めつけに悪かったのは場所で、女子トイレの個室だった。嘔吐後の。道端で吐いてるときじゃなかっただけ良かったのかもしれないと思って、目の前の現実から目を逸らしてみたりする。
 手助けという名目で、忙しい部署のどうしようもない上司の穴埋めに駆り出されていたのがようやく終わった日の夜だった。一緒に仕事しているときは、ずっと冷静だった彼女は、先日恋人に振られていたのだと飲み会のときに知った。知ってしまった。知りたかったわけではない。違う部署の人間の私生活なんて知る由もない私は、飲み会の途中でみごとに地雷を踏みぬいて、嘆き文句を聞かされつづけたわけだ。くだを巻く彼女をおそらく引きつっていたであろう顔でなぐさめる私に、周りの連中はあいまいなほほえみと適切な距離感をくれた。逃げやがって。
 彼女は聡明そうな瞳を潤ませて『男に結婚しなくてもいいかなと思わせたら負け』だの『生活の破綻は冷蔵庫を見れば一発でわかる』だの『彼氏の置いていったマグカップをベランダで叩き割ったらスッキリした』だの『4年間の同棲生活があった時点で私の負けだったの』だの言いたい放題言って飲んで言って飲んで吐いた。青い顔になったので慌てて居酒屋の手洗いに連れて行って、背中を擦っているうちに飲み会は終了した。どうにか立ち直って、口をゆすいでいる彼女の後ろでやることもなく立っていたら、指輪を渡されたというわけだ。
 それなりに有名なブランドの、それなりに可愛い指輪だった。彼女のバッグから出てきたそれをとりあえず持て余していると、口をゆすいで憑き物が落ちたような顔で「それ、あげます」と言う。
「いや、あげるって、そもそも何これ?」
 まさかマグカップや歯ブラシと同じ要領で、元彼からのプレゼントを押し付けているわけじゃないだろうな、と思って尋ねると、彼女は今日一番いい笑顔を見せた。
「彼氏が、元彼氏が出ていく前にこっそり盗りました。多分次の女へのプレゼントだと思う」
「窃盗品じゃない」
「机の上に堂々と置いたままにしてたから空箱とすり替えておきました」
「思ったよりたちが悪いんだけど!?」
 なんてものを渡すんだ、と思う。呪われていそうだ。なんでもないシンプルなリングが、急におぞましく光りだしたりしないかと身構えてしまう。
「あいつ二十五日まではいたのに、家賃払っていかなかったから、その分ということで。引っ越し資金も必要ですし」
「じゃあ、売ったりしたほうがいいんじゃないの」
 見る人が見たら、犯罪教唆に当たりそうなことを口に出してしまうあたり、私も疲れていた。恐ろしくせこい争いに巻き込まれたものだと思いながら冗談を言われたかのように自然に返そうとしても、彼女は本気だった。
「今月残業代すごかったから大丈夫です。今日いっぱい話聞いてもらったから、そのお礼として。すっきりしたので」
「こっちは夢に見そうなんだけど」
 盗品をお礼として押し付ける現代人がいるとは思わなかった。丁寧に持ち帰るための紙袋まで押し付けられそうになったので流石に丁重に断ると、彼女は残念そうにしていた。
 トボトボと肩を落として帰っていく彼女の後ろ姿が見えなくなるまで一応見送って、タクシーを捕まえるために繁華街で小さく手を上げながら、ふと思う。
 4年間の同棲が負けなら、7年間のルームシェアはボロ負けなんじゃないか。


「うわ」
 ギターにホコリが乗っている。指でなぞると見えてしまうぐらいのそれ。忙しいとこういうところから疎かになると、どれだけわかっていても疎かにしてしまう。だからこうやって汚れていくのだけど。
 アルコールと悪夢で早く目覚めた。やっぱり指輪は夢に出てきた。子どもの頃によく触っていたおもちゃの指輪に、誰かに誓うためのキスを落としたら、嘘だとバレて罰だと大きくなった指輪に追いかけられる夢だった。転がってくる指輪が、坂道の勢いでどんどん速くなり、引かれかけるところで目が覚めた。簡単にまとめれば、最悪の目覚めだった。
 これ以上寝てもいられないので掃除を始めたら、思っていたより部屋全体がくすんでいる。一度見つけてしまったものは仕方ないと、根気良く向き合うことに決めて、休日の2時間を費やすと、やっと2ヶ月前ぐらいの綺麗さが戻ってきた。戻ってきただけで、そこから先に行けるわけじゃないのだけど。持ち物の整理はまた今度だ。
 ドアが開く音がして、時計に目をやる。9時半。朝ごはんも食べずに集中してしまっていたことに気が付きながらリビングに向かうと、夏紀が欠伸のために大きな口を開けているところだった。
「お帰り」
「ただいま」
 いつものような不健康な生活をぶら下げて帰ってくる彼女に、特に言うことはない。ライブという話は聞いてなかったから、おそらく曲を作っていたのだろう。私にもこいつにも余裕がないと、家で食事するかどうか以外は全然気に留めなくなる。互いのスケジュールを書き込むためのホワイトボードは、部屋におかれただけで終わった。そもそもああいうのの運用は努力が必要なのだと気がつくのには、それなりに時間がかかる。
 朝食にどうやって食パンを調理しようかと考えながらコーヒーメーカーのスイッチを入れた。そういえばこれも掃除していない。一度手を付けるとどたばたと転がり落ちてくる細々とした暮らしの破綻に目をつむってその場しのぎのごまかしを効かせていると、夏紀の声が耳からすり抜けてくる。
「これ、どうしたの?」
 目を開くと、夏紀が昨日の箱を手に乗せていた。開かれた中で鈍く朝日を反射する銀色を、じっと見つめている。
 そういえば、と思い出す。昨日帰った後、もらった指輪をどうするか迷いに迷って、自分の部屋に持ち込むのもおかしな気がして、とりあえず食卓に置いたままにしていたのだ。なんとなく近くで寝るとろくなことにならなそうだなぁと、そう思ったのもあった。結構離れていたのに悪夢を見るなんて、呪いが強すぎなんじゃないか。ともかく昨日の全てに後悔しながら、どうにか説明するための言葉をひねり出そうとしても、糖分のまわっていない頭で単純作業以外をしようとするのは難しい。
「それね、貰った」
 結局面倒になって端折ると、彼女は珍しく驚いた顔をした。やつれた顔ばかりこのところみていたから、目を見開いた表情が珍しく思う。自分の怠惰が招きかけた面倒な事態をどうやって追い払おうかと頭を回しているうちに、夏紀の口が開いた。
「恋人から?」
 恐ろしい一言に、随分としつこかった眠気は吹き飛ばされていった。とんでもないことをいう恋人も世の中にはいたものだ。こんな風に汚れも落ちていったらいいのにと思うぐらいに目がさめて、流石に反射的に口が開いてしまう。
「あんたでしょうが」
「冗談」
「あのね」
 キツめの口調に夏紀はなんでもないように手を振るから、私もそれ以上怒るいみはない。
 ため息をついて、一から説明することにした。それ以外に方法がないから。昨日のよくわからない素敵でもない体験を、どうにかこうにか言葉にしていく。
 一つ一つ追っていくと、改めて意味不明な時間だった。話をしていくうちにとんでもない作り話をしているような気分に追いやられる。それでもなんとか話し終えると、コーヒーメーカーのビープ音が嘘だ、と、暴くように鳴った。
「そりゃ大変だったね、お疲れ」
 それでも夏紀はなんでもないかのように受け入れて、ありきたりな感想を返した。疑われないのは助かるけど、こんな調子じゃ騙されていないか心配になる。
「作り話じゃないわよ?」
「知ってるよ。それより、今週末は土日どっちも休み?」
 私の確認は、一瞬で片付けられた。その雑な態度に少し不満を覚えながら、返事を選ぶ。
「そうだけど」
「じゃあさ、申し訳ないんだけどトイレットペーパー買うの頼んでもいい?あと、キッチンペーパーもなくて」
 そう言って夏紀は申し訳なさそうに手を合わせた。眠そうな表情と、曖昧に合わせられた手のひらで焦点があっていなさそうだ、と思う。
「切れてたっけ」
「切れそうって感じ」
「わかった。買っておく」
 どうせこのあと夏紀が寝るから掃除機はあまりかけたくないし、朝食を適当に済ませたら買い物に行けばいい。決まったスケジュールを脳内でなぞっていると、疲れ切った顔の夏紀の表情が少し緩んだ。
「ありがとう、助かるわ」
 いつものように欠かさずお礼を言った夏紀は、あくびを噛み殺して目をまたたかせる。夏紀の瞳はいつも割と眠そうだけれど、今日は普段の半分も開いてない。また夏紀の限界が近くなっている。早く寝させないと、たまにとんでもないことをやらかして互いに後悔するとわかっているから、私は寝室へと催促する。
「どういたしまして。寝たら?」
「そうする、その前にシャワー浴びるけど」
「どうぞ。シャンプーとかは大丈夫?」
「うん」
 長話をするために座っていた椅子から立ち上がるために、夏紀はたっぷり五秒を使う。互いに若くはないのだと思う。椅子の背もたれを掴みながら、そういえば、と顔を上げて私を見た。
「二時には起きるわ」
「どこいくの」
「希美に新曲教えないと」
「そう」
 徹夜でレコーディングして、次の日の昼に練習。流石に無理のあるスケジュールじゃないかと思うけれど、夏紀のことだからあまり強くは言えない。やっぱり掃除機をかけるのは駄目そうだ。
 疲れ切った背中が自室に向かうのを眺める。夏紀は、寿命の減らし方が激しすぎるんじゃないかと思う。早死にしないように、せめて食生活には気を使うか。そんなどうでもいいことを考えていたから、夏紀が部屋の扉を開けるまで、聞きそびれたことに気が付かなかった。
「そうだ、ちょっと」
 私が声をかけると、夏紀が振り返った。すでに眠ることしか考えてないときの顔だ。こういうときは、あんまりはっきり話が通じなくて困る。それでも話さなければいけないのだけど。
「指輪、どうすればいい?」
 私の言葉に、夏紀は首をかしげた。よく見えるように私が指輪の箱を振ってやると、ようやく夏紀は理解して、それでいて眉間に皺を寄せた。
「どうすれば、って言われても」
 夏紀はそのまま、逡巡を持て余すように扉を不要に開けきる。意外に大きな衝突音に身をすくませていると、夏紀は気を取り直したように、もう一度取ってを掴みなおした。その目は私に向けられていなかった。
「優子が、好きにすればいいと思う。優子のものなんだし」
 それだけ言って、扉は閉められた。
 せっかく淹れた二人分のコーヒーが余ってしまったことに気がつくまでに、それから五分はかかった。


 昼食の時間にはなんとか起きてきた夏紀にチャーハンを食べさせた。チャーハンは、もやもやとした気持ちと指輪の行く末の不安を抱えて作った割には美味しくなった。彼女はあいかわらず丁寧な「いただきます」のあとに、神妙な顔をしながらレンゲを口に運んでいたけれど、そのうちどんどん蓮華の動きはスローモーションになっていて、やがて固まった。
 なんだかんだ、食べるのをやめたりはしないのよね。行儀の良さと考えがちな性格が混ざり込んだその様子がなんだか面白くて眺めていた私の目線に気がつくと、私の視線を掴むように目を一度閉じて、そうして口を開いた。
「希美にギターを教えるのって、自己満足なのかな」
 それだけ言うと、彼女はまた動画のように蓮華を動かし始めた。あまりにもその動きが自然すぎて、問いかけられたのがまるごと嘘のように思えてくる。整合性のとれない景色の辻褄を無理やりあわせながら、私はとりあえず口を開いた。
「それ、私に聞いてるの?」
 数秒遅れた私の反応に、夏紀は今度は口を開かずに頷く。夢ではなかったことに安堵しながら、私は慎重に問いかけられた言葉の意味を探していく。つまり、何が問いたいのか。私にはそれ自体がわからないから、ただ、思ったことを選ぶ。
「別に、夏紀の好きにすればいいと思うけど」
 この言葉を口にしたとき、それは本心からの選択だった。だから私は、今朝にもらった夏紀の言葉の真っ当さを認めざるを得なくなってしまった。そのことにひどくショックを受ける私と、冷静に言葉を続ける私がいる。
「けど、夏紀が真剣に考えたことのほうが、私は嬉しい」
 言葉にし終えると、私のリソースはショックを受けることにすべて持っていかれてしまう。納得の出来ない言葉の意味に私が改めて飲み込まれかけていると、夏紀はようやく蓮華を運び終えた。手を目の前で合わせて小さくごちそうさまをつぶやいたあとに、改めて私の目を見た夏紀の表情は、嬉しそうだったように見えた。そうだったことにしたい。
「そっか。ありがとう」
 それだけいうと、夏紀は流しに皿を移動させて、洗い物のためにひねった蛇口の音で壁を作ってしまった。私はと言えばそんな壁の存在どころか、どうして自分が納得できないのかに精一杯悩んでいたから、気がつくと夏紀は部屋を出ていて、洗い物の礼をいうタイミングすら逃していた。
 どうにも上手く行かない。無心で掃除をし続けても、汚れだけが落ちて、納得出来ない自分の気持ちはちっとも落ち着いてくれない。
 仕方がないので、部屋の整理は諦めた。突然貰った、もはや生えてきたといってもよい指輪ですら扱いに困ってしまう今の私が、思い入れのある品々を管理出来るとは思わない。
 諦めて、ギターをいじる午後にした。せっかく部屋にあるのだし、使ってあげなければ勿体無い。というか、ホコリがついているほど使っていないとは思わなくて、そのショックを紛らわすためだという方が大きいことには気がついてる。
 アンプの準備を適当に済ませて、ギターを触る。慣れたコードを幾つか弾いて、まだ手に馴染んだままのソロを弾くと、悪くなく響いた。腐りきっていないようで安心する。ヘッドフォンの圧迫感からは逃げたくて、早々に首にかけてしまうと、もうまともに聞くことはできないけれど。今日のところはどうせ手グセでいじるだけだから問題ない。まだあのフレーズたちが自分のものかどうかを確かめたかっただけだ。
 きっとこういう理由で楽器を触っていると、いつかホコリがついたときのショックすら忘れてしまうのだろうな、と思う。遠くない未来に自分がクローゼットにギターをしまい込む未来が見える。それは避けたいのだけれど。こういうのは続けるための理由が、普通は必要なのだ。社会人になったら、特に。
 そう思って、やっと気がつく。
 私の場合は、それが夏紀だったということに。
「あー」
 気がつくと、まるでジェンガが崩れるように答えがわかる。
 大学自体バンドが解散したあともギターを触り続けていたのは、夏紀と一緒に練習してたからだ。就職してからもなんだかんだ触っていたのは、夏紀が練習していたからだ。
 ホコリが溜まっていたのは、夏紀がバンドを新しく組んで、と練習する時間がなくなったからで。
 納得が行く。腑に落ちて、そのまま理由が自分のずっと深い所まで私の体を突き破って落ちて行きていそうだった。思わずベッドに倒れ込んでも、崩れ落ちた衝撃は収まってくれない。お腹の上のギターの重みが心地よいぐらいには、現実感を飛ばされている。
「ムカつく……」
 現実に取り残されないように口を開くと、懐かしい感情が飛び出してきた。
 そこまであいつに絆されてた自覚、全然ないんだけど。なかったんだけど。気がついてしまうと恐ろしくて、それ以外の理由をどうにか探そうとする意思の道を記憶が塞いでしまう。どうしようもない。
 自分の好きだと思ってたことすら、あいつに握られてたのか。
 今日の夕飯は久しぶりにあいつの嫌いなものにしようと思って、今日夏紀は夜帰ってこないことに気がつく。
 ため息しか出てこない。自分の大切なことを意識出来ていなかった私が悪いとは言えども、こんな風に毒されてしまってはどうしようもない。悪態の一つぐらいつかせてほしい。
 起き上がろうとしても、どうにも体の力が抜けて動かない。そのまま適当にコードを抑えると、それなりに弾けて感動する。今度から本当に疲れてても練習しないといけないときは、寝そべったまますればいいのか。できれば大学生のときに知りたかった。そんなどうでもいいことを考えながら、どうしてか感じている悔しさについて考える。
 一番悔しいのは、夏紀は私が弾いてようと弾いていまいと、気にしないだろうってことで。それこそ、好きにすればいいってあいつは言うだろう。わかりきった言葉を想像するだけでも、悔しくなる。
 もう今の私の演奏レベルは、夏紀の望むラインの遥か下にある。
 あいつの作った曲のフレーズを、私は抑えられないだろう。
 当然、練習していないから当たり前だけれど。それでもやっぱり悔しい。気にしないふりをしていたけれど、こういう瞬間には嫌なことばかり次々と浮かんでくるものなのだ。わかっている。
 つまりあいつにとって今の私は、多分一緒に楽器をやって欲しい人間じゃないんだ。それは認めざるを得ない。
 そういうことを考えていると、私の頭の中の意地悪な部分が、じゃあ、希美は?と問う。たぶん私は希美より上手に演奏出来るけど、夏紀は希美に教えているよ、と。
 その声に、冷静な私が返す。夏紀にとっての希美は、私なんかよりずっと特別な場所にいるでしょう、と。
 その声たちを聞きながら、私は、なんだかなぁ、と、また息を吐いて目を瞑る。
 私は一体どういう距離にいるのだろうか。バンドメンバーでもないし、同棲という言葉の含むくすぐったさとは微妙にちがっていて、つまりルームメイトとか、共同生活者とか、そういう言葉でしか表せない立ち位置なんだと思う。
 不可侵領域が常にあって、そこに立ち入ろうとはしない関係。
 じゃあ、それってどこからどこまで?
 髪の毛の色には文句を言えても、他人からもらった指輪には文句を言わない。独占欲なさすぎじゃない?
 考えても考えても、答えは出ない。いつのまにか右手を動かすのをやめていて、ギターはただの鈍器でしかなくなってしまった。
 バンドをやめたことを、後悔しているかと言われたら答えはノーだ。やりきった。あれ以上は多分できなかった。それはわかる。音楽は趣味でいいと割り切ったし、音楽の道を選んだみぞれや他の後輩達に嫉妬するか、と言われたら、これも答えはノーだ。
 でも、毎日食卓の前で、私のifが存在しているのは、ちょっと話が違う。こればっかりは違う。私が選べなかった道を――選ばなかった道を――歩む人間と一緒に生活しているときに、耐えられなくなる未来が、全く想定出来ないわけじゃない。液晶の向こうで見る報告に、頑張っているなといいねを送るのとは全く別の話だ。夏紀のアカウント、どれでもフォローしていないけれど。
 私は多分、そんなにすごい人間じゃない。もし、もし、悔しさや虚しさで耐えきれなくなる未来が来たとしたら――来たとしたら、だから何なの?嫌な方向に転がり落ちていくはずだった思考は、思ったよりも浅い底で止められる。
 互いに好きにすればいいのだから、この生活をやめることだってたぶん選択肢の一つだ。約束のない日々をやめることに、理由はいらないはずだ。
 そういう選択肢があるとわかった瞬間に、自分の嫌な予感が消えていくのがわかった。現金だなと思うけれど、夏紀の人生の邪魔をしなくてすむと思うだけで、随分と安心している私がいる。
 もしも夏紀に、「あんたの夢追う姿見るのがつらい」って言ったら、どんな顔するのかな。またいつもみたいに、ちょっと寂しそうに笑うんだろうな。それを想像したら、今日一番腹が立った。
 当然、この理論に納得しきれたわけじゃない。夕食の時間まで、ギターの重みを手放すことはできなかった。


 あんまり会いたくない人に会うと、私は露骨に顔をしかめるらしい。
 というのは高校生の夏紀の主張で、つまり面倒な絡み方をしてくる男子や、夏紀自身を目の前にしたときに、私をからかうネタだったわけだけど。なんだかんだあいつは私にあまり嘘をつかないので、多分真実だったのだろう。つまり私はあいつの前で露骨に顔をしかめていたわけで、今思うと若干酷いことをしていたような気がする。謝ったりはしないけど。
 なんでそんな話を思い出したかというと、会社の給湯室で指輪の彼女とばったり出くわしたからなのだけど。うわ、という言葉を飲み込んだだけ偉いと思いたい。
 彼女は赤色のフチの細いフレームの眼鏡を光らせていて、あの夜よりずっと聡明に見えた。酒と生活の力は恐ろしいなと改めて感じていると、彼女は会釈もそこそこに首を傾げた。
「どうかしました?」
「いえ、なんでも」
 どうにかして無心を手繰り寄せようとして、結局洗い物の続きが一番だと悟る。普段より念入りにマグカップを水洗いしていると、彼女は私を通り過ぎて給湯器の方へ向かっていった。彼女が持ち運ぶカップラーメンが出す軽い音を、水で流しながら執念深くコップを洗い終えると、彼女は暇そうにスマートフォンと向き合っていたから、そのまま何事もなかったかのように片付けを進めようとした、のだけれど。
「吉川さん、お弁当なんですね」
 油断したところに言葉をかけられて、固まりかける。流し台の横に放っておいた弁当箱に飛んでくる目線に、早く片付けておけばよかったと後悔する。最近こんなのばっかりだなと反芻しながら、上手く地雷を踏まない言葉を探す。
「ええ、まあ。夕食の残りを詰め込んでるだけですけど」
「それでも偉いと思いますよ。私はカップ麺ですし」
「はぁ」
 なんて返せばいいのかわからずに曖昧に笑みを浮かべている私は、高校時代の自分からは想像できないだろうな、と思う。別にあの頃より融通がきくとか、妥協ができるようになったとか、そういうことは思っていない。ただなんとも言えない距離感をずっと保ち続けなければいけないことがあるということを知っただけだ。また地雷を踏み抜いたりしたら、今度は職場で泣かれることになる、と思っていないわけではない。彼女は極めて冷静だから、そういう意味不明な行動はしないだろうが。それでも、念には念をいれて、私はちょっと引きつった笑みをどうにかもとに戻す。
「一人暮らしになるとね、途端に面倒になるんですよ、自炊って」
「そう、ですか」
 なんの話をされているのか。これは傷心を慰めろと言われているのか。チラリと見た彼女のカップ麺の蓋には五分と書かれていて、まだ逃げることはできなさそうだと悟る。彼女は目線をスマートフォンに戻して、淡々とまだ喋り続けた。
「二人分のメニューで作るのに慣れちゃってるから、今さら一人分を調べる気にもならないんですよね。材料も余っちゃうし、買い物もしづらいし」
「ああ、なるほど」
 確かに言われてみれば、私も一人分の食事を準備する気にならないことはある。外で済ませたり、適当に次食べるように半分を冷凍したりすることばかりだ。同時に、ここで同意したのはまずかったんじゃないかな、と思った。
 まあだからといって、カップ麺になるほど極端ではないと思う。私がそう考えていると、急に彼女は液晶から目線を外して、私を見抜いた。細められた目線にひるんでいる隙に、彼女は口を軽く歪ませる。
「吉川さんって、二人暮しですよね?」
「え、はい、そうですけど」
 言ってから、答える必要のないことに答えてしまったと気がついた。図られたなと気がついたのは、彼女がしてやったりとばかりに微笑んでいるのがわかるからだ。薄暗い給湯室の中では、それが余計に意地悪く見える。別に必死になって隠しているわけじゃない。私の普段の行動を、よく観察すればわかることだけど、いや、わかることだからこそ、気が付かれたときになんとも居心地が悪い。
「前食事しているときに、お弁当に肉団子を入れてらっしゃったのを見てたので。そうだなと思っていました」
「肉団子で?」
 得意げに続けられた言葉が、よくわからなくて混乱する。というか、私が食事するところ、見られていたのか。私が箸を動かしているところを目の前の彼女に見られているところを想像すると、なぜだか若干寒気がした。
「一人暮らしの女性はね、スープ以外に肉団子を使わないんですよ」
「はあ」
 本当だろうか。かなり真偽の怪しい言葉だが、しかしそれは彼女の中の生活の哲学なのだろう。あまり深く突っ込まないことにする。彼女はというと、満足したようにスマートフォンに目線を戻していた。奇妙な時間だったと思いながら、小さく私は息を吐く。
 今度こそ出ようと、片付けをいつもより少し乱雑に終えた。昼休みがあと五分で終わる。あんまりゆっくりはできない。心を無駄にかき乱されて、午後の業務に影響が出なければいいが。会議の前に書類まとめなくちゃ。無理矢理に気持ちを切り替えようとする私を、彼女はまたも止めた。
「そういえば、指輪、どうしました?」
 給湯室から廊下に向かう私の背中に、声が飛んでくる。あんまり思い出したくないことを思い出した勢いで振り返ると、彼女の表情はちょうど棚の影になっていた。どう答えるのが正しいかわからないし、私は正直に答えを選ぶ。
「どうも、してないですけど」
「なるほど」
 彼女のその言葉と合わせて、アラームが響く。蓋がめくれていく音がジリジリと響いた。ゆったりとした合間に、返事が来ないのは予想外だった。
「もしかして、返したほうがいい?」
 返せるなら、返してしまいたいが。会話のキャッチボールを埋めるため、期待も込めて問いかけると、しかし彼女は首を横に振った。
「大丈夫です。ただ、早めに処分したほうがいいとは思うけど」
「なるほど、どうして?」
 彼女は後入れスープを開けながら、カップ麺から目をそらさずに言った。
「ああいうの、普通持ってると彼氏さんはよく思わないと思うので。フリマアプリとかで売っちゃうのがおすすめです」
 それだけ言うと、彼女はカップ麺を片手に給湯室の出口に向かう。私が道を開けると、会釈と「それでは」を置いて出ていった。私が慌てて返した会釈も、彼女は見ずにどこかへと向かっていく。
 そういうところでわかりやすく嫉妬するような関係なら、困ってないんだけどな、とは言えなかった。そもそも彼氏じゃないとも言いそびれたけど、わざわざ言うこともないだろう。
 ギターに指輪、帰宅時間に夕食。生活の様々な縛りから逃れるように荷物をまとめて給湯室をあとにした。置き去りにされた悩みの類からは目を逸らす。どうせ後からついてくるのだから。


 同棲は、一般に結婚しないで一緒に住む、という意味合いが大きいらしい。
 そういう話を夏紀にしたら「じゃあ、私達はルームシェアのほうがあってるね」と言われてから、私は夏紀の日々をルームシェアと呼んでいる。
 そんな会話を交わしたのは、初めて二人で住む部屋を決めたときだ。まだ大学生だったころ。
 あのときは前に私が住んでいたワンルームが他の住人のせいでちょっと住みづらくなって、引っ越そうという話になったのだった。「夏紀にたまに部屋を貸している」という言い訳が、通用しなくなってもいた。もう今となっては何もかもが懐かしい。
 親に二人で生活をするから、と正直に話をしたのも懐かしい。今思えば、隠し通したと思った夏紀と私の関係も、きっとバレていたのだろう。恋人という名前をつけてから、三ヶ月も経っていないころのことだったし。まあ、端的に言えば、浮かれていた。
 浮かれていたから、気が付かなかったけれど。
 ルームシェアという言葉に反対しなかったのは、気恥ずかしさが半分と、それから予感に忠実だったのが半分だった。
 あのとき夏紀がルームシェアという言葉を選んだのは、結局この関係性がいつ終わるかわからないというある種の終末めいた感覚を、察知していたからだろう。その感覚を、私も同様に持っていた。そんな二人で、結婚なんて考えることが難しくて。それは、おそらく関係の名前が変わっても、覆しようのないものだった。あくまで一時的なもの。口には出さなくても、そう思っていた。
 喧嘩するほど仲が良い、なんてみんなは他人事のように言うけれど、ぶつかり合いっていうのはいつだって、すべてを終わらせてしまう可能性を飲み込んでいる。吐き出されるかどうかは、正直運だ。付き合う前だって付き合ってからだって、これで終わりかもしれないという喧嘩を何度もしたし、それでもどうにかなってきたのは、多分運命とかじゃなくてたまたまだ。
 高校のときのように同じ箱庭にいるわけじゃない今じゃ、縁を切るのは簡単だ。それは互いにわかっていて、それでもこういうやり方をやめられなかった。
 いつ爆発してしまっても、悔いのないように。そういう距離感から夏紀は選択したわけで、関係の名前が変わってもそこまでは踏み込めなかった。私が踏み込ませなかったのか、踏み込んでこなかったのかは思い出せない。
 当時の私は浮かれていたから、その選択の裏にあるものに気が付かなかった。わかってはいたのだろうけど、言葉にしたくなかった。そのまま決めた関係性は見直されることなく持ってきてしまったから、まだ私は夏紀のルームメイトのままだ。関係性も一年に一回ぐらい、見直す時間が必要なんじゃないかと思う。
 もういまさら、結婚願望なんてないけれど。
 それでも、指輪が落っこちてしまうぐらいの隙間を見つけてしまえば、どうしたって覗き込んでしまう。
 その隙間に落ちたものを必死で思い出している私にも、おんなじように時は流れて、生活は続く。
 そういうわけで、今年も契約更新が近づいてきた。
 しかも、大家の値上げ宣告付きで。
 確かに周りと比べれば安い家賃だなとは感じていたけれど、急に二万の値上げは厳しい。折半だから一万だけど、それでも大きい。
 どっちともつかない感傷は、頭の片隅にあっという間に追いやられて、一気に生活のことしか考えられなくなる。買い物袋を腕から下ろしたまま、郵便受けに入っていたお知らせの薄っぺらい紙を玄関で見つめていると、扉の開く音でやってきた夏紀がどこか心配そうに私の顔を覗いている。
「どうしたの」
 そう聞く夏紀に、値上げ後の値段を指し示しながら書類を渡す。夏紀がじっくりと契約書類に目を通している間に、荷物を片付けにキッチンに入る。
 値上げ、か。
 確かに、2LDKにしては安いなとは思っていたけれど、実際に値上げされるとちょっと困る。生活には困らない程度の広さ――何ならちょっと広すぎるぐらいの部屋を、それなりに気に入ってたんだけど。
 まあしかし決定は覆せないし、似たような場所の家賃と比べれば仕方ないのかもしれない。この辺の土地も高騰しているって話もあったし。
 曖昧に計算をし直しながら、電子レンジの買い替えはまた先になりそうだと思う。若干ディスプレイが不調だから、もうちょっといいやつに買い換えようかと思っていたけど、また収支計画を練り直さないといけない。お菓子作りでもと買った、ちょっと高めの卵パックが袋から取り出されるときに笑っているように見える。
 思わぬ出費に頭を抱えたい気持ちをどうにか逃がそうとしていると、夏紀が部屋に戻ってきた。なんでもないように問いかけようとして、私以上に深刻な顔をした彼女がダイニングから覗いていて、思わず怯む。
「どうしたのよ」
 問うと、夏紀は「値上げか」とだけ言った。
 そのあとに、「厳しい」と付け足して。
 そういえば、と思う。あまりにもな労働環境で倒れかけた夏紀は、その上司が飛ばされたあとに、別の部署に異動になっていた。ほとんど残業のない部署での仕事は比較的楽そうではあるものの、残業代がつかなくて眉間に皺を寄せていたのを思い出す。
 それなりに楽なルートを引いた私に比べて、夏紀の生活はいつでも若干苦しそうだ。悩んだまま夏紀をとりあえず食卓に座らせて、私もその向こうに腰掛ける。同居人会議の時間だ。夏紀は少しだけ小さくなりながら、言葉を切り出し始めた。
「出費が減らせなくて」
 無意味に真ん中に契約書を置きながら、夏紀は言った。これが普通の夫婦だったら怒るべき場面なのだろうかと思いつつも、私の選ばなかった道を選び続けている彼女を責める気にはならない。
「今新しいCDのためにレコーディングとかしてて、あと機材もちょっとお金かかるから」
「機材また新しく買うの?」
「新しく買うんじゃなくて、修理なんだけど」
 どれか壊れているものでもあっただろうか。思い当たる節がなくて、首をかしげていると、夏紀は少し恥ずかしそうに切り出した。
「ギター、壊しちゃったでしょ」
「あー、あの解散ライブのときに叩きつけたやつ?」
「そう、お恥ずかしいことに」
 実際に見たわけじゃないけれど、荒れてたというのは知っている。ギターを床に叩きつけて、アンプを蹴飛ばしてステージから出ていく夏紀を捉えた画質の悪い映像が出回っているのは見た。このぐらいの粗さを職場でも見せていれば、もっと早く異常な案件から抜け出せたんじゃないかと思ったのも思い出す。その場合は、職ごと失うけれど。
 あの壊れたギター。もう話にもあげることはなかったから、使うこともないのだと思っていたけれど。
「希美に教えるとき、ギブソンのほうがやっぱいいなって思ってさ」
「希美、ギブソンなの?」
 そういえば聞いていなかったけど、思わぬブランド名に驚く。あいつ、もしかして私よりいいギター持ってるんじゃないかと思う。
「ボーナス飛ばして買ったらしいよ」
「へぇ」
「酔っ払った勢いで」
「何やってんのよ……」
 人の人生とはいえ高校の同期が心配になってしまう。自暴自棄にでもなってたんだろか。
 友人の奇行に呆れながら、それでも納得がいかない私は言葉を選ぶ。
「別に、ギブソンで揃える必要なんてないんじゃないの」
「そう、なんだけど」
 私の問いかけに、夏紀はうつむきながら数秒間言葉を選んでいた。こういう沈黙の瞬間に、夏紀の聡明さは一番素直に彼女の瞳に宿る。一緒に生活をしてこれを散々見せられて、絆されてしまったのだろうなと思う。
「なんだろう、ここでギブソンを直さなかったら、いつまでも許せないで終わっちゃう気がして」
 言葉足らずの説明は、それでも私に十になって伝わった。
 なるほど、と思った。ここが、夏紀にとっての選択の瞬間なのだろう。ちゃんとそれを向かえられている夏紀になんだか悔しくなった。胸の中を埋め始めた鈍い痛みを隠すように、私は話を戻す。
「まあ、修理するかどうかは自由にすればいいと思うけど」
 時計をちらりと見ると、まだ買い物から帰って十分も経っていない。更新書からずいぶんと遠いところにいってしまった話題を取り返すかのように口を開く。
「どうするの。引っ越すの?それとも、一緒に住むのやめるの?」
 焦って言葉にしたせいで、思ったより直接的な言葉になってしまう。体の中心を氷を落としたかのように冷やしていく言葉を今になって取り返そうとしても、出てきた言葉は取り戻せないし、そもそも私の選ぶことじゃないから、取り繕いようがない。私の手のひらにあったのは言葉の選び方だけで、それだって結局は同じところに行き着いてしまう、と言い訳をする。
 とんでもないと言えば、まあそれなりにとんでもないだろう。少なくとも私が同情を求めて喋れば、誰でも夏紀を責めてくれる構造だ。私の恋人は楽器の修理をする金がかかるから一緒に住めないって言うんです――そんなふうに媚を売る自分を想像すると笑えてくる。
 正直なところ、どうだってよかった。そういうのは。ギターをしばらく触って気がついたのは、夏紀がバンドを続けていることを、どうやったって責められない自分だった。もしかしたら十年も二十年もすれば愛想が尽きるのかもしれないけど、そもそもここにあるのは所謂愛じゃないだろう。家賃はそれよりもずっとずっと差し迫った問題で、耐えきれなくなった自分のことを心配してる余裕なんてない。
 しかし、それは私だけの話で。
「この価格なら、ワンルームとかのほうが、まだ安いかなとは思う」
 夏紀は歯切れ悪く言った。私との生活をやめたいわけじゃないことはわかる。夏紀は今、もっと別のところを見ている。それは家賃とか生活費みたいな手のひらに収まる問題じゃなくて、もっと私達のこれからを左右する問題だ。
 そういう問題に向き合う前に、まず現実的な解決案を持ち出してしまう。
「あんたが入れたバンドの売上、まだ手つけてないから半年ぐらいなら持つわよ」
 夏紀はバンドの分前を、そのまま共用の口座に入れている。使い方がわからない、ということらしい。正直大した額じゃないけれど、私も触っていいのかわからないから、別枠でカウントして管理していた。そういうものを持ち出せば、まだ三年ぐらいは全然なんとかなる。
 それに。
「そもそも、別に多少家賃出すぐらいなら別にどうとでもなるけれど」
 そう、どうとでもなる。互いの尊厳とか選択とかで、なるべく選ばないだけで、別に一年ぐらいなら養うことだって多分可能だ。それ以上はちょっとなんとも言えないけれど。
 でも、多分夏紀が問題にしているのはそこじゃない。わかっていても言葉を続けてしまうのは目をそらしていたいからだ。
 私の提案に、夏紀はずっと俯いたままだった。その様子があまりにも苦しそうだから、私はつい、答えを言ってしまった。
「でも、そういう話じゃないのよね」
 私の言葉に、夏紀は頷いた。
「このまま続けても、優子を振り回し続けちゃうから。そういう権利、私にはないし」
 夏紀のその声を聞きながら、私はまっとうな人生について考える。
 まっとうな人生っていうのは、思っているより色んな形で枷として存在するものだ。
 一人より二人。二人ならこういう道筋。おそらく真っ当な二人の人生には、決断のタイミングがいくつかある。互いにここから先は違うのだと決めるライン。一つで決めていこうと決める瞬間が。
 そういうのが、結局私達には今までなかった。多分。ずっとない。
 そのこと自体を後悔しているわけではないけど。でも、いつまでも1+1だ。選択の行く末に立っているだけだ。
 1+1のままでは、一つにはなれない。そこにあるのは二人での選択じゃなくて、一人と一人の選択の重ね合わせだ。私に夏紀の選択を動かすことはできないし、夏紀も私の選択を動かすことはできない。それは互いにわかっているし、今までずっと納得してきたけれど。
 そういうことをずっと続けていると、どこかで互いの選択が重ならなくなる。そういう瞬間が来ると――この更新通知が連れてきたのだと、夏紀は言っている。
 ずっと暮らしていて、わかったことがある。
 私と夏紀は一つになれない。
 いまさら、どうやって一つになるのかわからない。
 恋というのは、二人を一つにするものじゃなかったのか。
 夏紀がバンドをやってなかったら、どうなんだろうな考えたことがないわけじゃない。向かう場所がない二人の選択として、まっとうな人生として、一つに向かっていったんじゃないかっていうもしもを考えなかったわけじゃない。それは多分、私の自惚れじゃなければ夏紀も同じだ。
 でも、やめてほしいとはそれでも思えないのだ。音楽を続けることの大変さを私は知っているし、ちゃんと進んでいくことがもっと難しいことだってわかっている。たくさんの努力と奇跡の上に成り立っている表現たちを、私は冗談としてもやめさせたくない。
 あまりにもよくわからなくて、少し前に希美に相談すると、半日かけて答えは帰ってきた。『でもそれって、二人が必要なときにちゃんとコミュニケーション取って決められるからでしょ。凄いと思うよ』。
 この言葉に裏はない、と思う。でも、助けにはならない。
 互いにずっと選び続けることの途方もなさは、私を時々飲み込む。
 それでも。
「とりあえず、他の部屋でも見てみましょうか。シャンプーの類も切れてたでしょう」
 また生活の中に逃げ込んでしまった。ここだけが、選択の途方もなさから私を守ってくれるって、わかってしまったから。
「今日、空いてるんでしょ」
 夏紀に問いかけると、急に現実に引き戻したせいで少し遅れて反応が帰ってくる。
「あ、うん。でも」
 話を戻そうとする夏紀を、手のひらで制止する。
「ごめん、もうちょっと考えさせて。買い物の間に、もうちょっと考えるから」
 思ったより声が苦しそうで、自分のことなのに驚いてしまう。引きつりかけた私を、夏紀の細められた瞳が優しく貫いている。
 唇が開きかけて、また閉じた。もう一度開く頃には、そこには覚悟は乗っていない。
「わかった」
 少しだけ思い通りの返事に満足する私と、生活に負けたのだとありありとわかってしまう私がいる。
 互いの選択を持ち出して、果たしてどうなってしまうのか。その結果を見ることを、私はまた先延ばした。


 久しぶりのデートは、ずいぶん静かに始まった。
 そもそもこれがデートだということに気がついたのが、不動産屋の前で物件を互いに覗きこみながら唸ったり、雑貨屋で急に買い物を思い出したり、なぜかCDショップを巡っていたことに気がついたのを通り越して、疲れて入ったカフェで紅茶が来るのを待っていた瞬間だった。何をするでもなくコップの水滴をなぞっていた私の耳に飛び込んできた店員の「二名様ですか?」と、その向こうにいる手を繋いだカップルを見て、なるほど初々しいななどと思って――そこでやっと気がついた。今私たちがしているもの、これは一般にデートと呼ばれるものだということに。
 そういう二人なのだということをすっかり忘れている自分に悲しくなる。夏紀じゃなきゃ、指輪を持っていまいとフラれていたのかもしれない。呪いの指輪は、フリマアプリはまだインストールしていないし、どこかで売るか考えていたから、まだ鞄の中にケースが入りっぱなしだ。
 真剣に住宅検索アプリなんかを開いている自分の前で、夏紀はずっと苦笑していた。黙ってもらっていたという事実に、一気に恥ずかしくなる。私の真面目さを笑うことはないと知ってしまっているから、怒ったりは出来ないけれど、それでも、それらしい合図ぐらいだしてくれればいいのに。
 そもそも私がすぐ一つのことにのめり込んじゃうのは、あんまり変わってないし。そういうときに夏紀が肩を叩いてくれていたわけで。夏紀が味方をしてくれないと、どこまでも行ってしまうのだ。そもそも夏紀が指摘してくれると信じているから突っ走っているわけで、などと逆恨みしてみたところで、馬鹿らしくなってやめる。
 諦めて頼んだケーキセットを慎ましいふりをして食べていると、コーヒーとモンブランを眼の前にした夏紀が、手を付けずに私を見ていた。口に含まれたチーズケーキを味わいながら、目で問いかけると、夏紀はフォークで小さくクリームの表面を削りながら、口を開いた。
「いや、あんまり安い所なかったなって思ってさ」
「そうね」
 ある程度同じような立地で、ある程度同じような広さの部屋を見比べていくと、そこまでの値段の差はなかった。引っ越しにそれなりにお金がかかるということも考えると、ただ疲れるだけの選択になってしまうところばかりだ。幾つかの候補は残しておいたけれど、そんなによい選択肢になるとは思えない。
 チーズケーキの二口目を切り取っていると、夏紀は目をモンブランケーキに向けたまま答えを言う。
「ワンルームは、やっぱ安いね」
「そう、ね」
 一方で、ワンルームはそれなりに、夏紀の言うとおり安かった。値上げ後の家賃の半分どころか、今の家賃の半分より安いところもあって。夏紀が本当に生活費を削り始めるのなら、選択肢としては上がってくるだろう。
 これでヘラヘラ笑っていたら、「別れたいの」なんて言ってしまっていただろうな、と思いながら、言葉の代わりに紅茶を飲み込む。
 そういう単純な問題じゃないし。
 そもそもルームシェアをやめようが続けようが、私達は立ち位置として付き合ったままなんだろうと思うんだけど。固執しているのは私の方なのかもしれないな、と、こういうときに気がつく。
 思わず黙ってしまっていた私に、夏紀はまたいつものように薄っぺらく笑っていた。
「もうちょっと見て回ってからにするけどさ」
 つまり今日中に決めてしまうということだ。どこともつかない焦燥感だけがあって、私の舌のティーセットの味はあっという間に繊細さを失う。
 そもそも焦る権利が私にあるのかも、よくわからないけれど。
 それでも、はいこれでおしまいなんて、簡単に区切りを付けられるものでもないだろう。
 次の場所を先延ばしするかのように、私はゆっくりとカップを傾けた。


「やっぱりさぁ、厳しいね」
「そうね」
 それは互いに合意した結論だから、だからこそため息が出てしまう。あれからしばらく探してみても、良さそうなものはなかった。そもそもかなり良いタイミングで手に入れた部屋だという自覚があったし、同じような場所はきっと見つからないだろうとは思っていたけれど。ここまで見当たらないとなると、自分たちが暮らしていた部屋が嘘みたいに思えなくもない。もしかしたら二人の生活まで、全部ウソだったりして。冗談で思いついた言葉は、口にするまえに自分でも冷たすぎて音にはならなかった。
 一方で、ワンルームはそれなりのものが幾つも転がっている。夏紀にいたっては最後のほう、一人用の部屋ばかり見ていた。目線がどこを向いているのかぐらいは一緒に生活しているからわかる。それでも、責められない私がいた。
 人混みから逃げ込むように川沿いの道に出て、ずっと静かな通り道に落ち着いても、息苦しさは解けない。足音と水の音に囲まれながら、この先どこかに向かえるのかを考えている自分がいる。なんだか、選択肢はそれなりにあるはずなのに、どうしてか選ぶことができない。
 夏紀はいつものように川の流れを覗きこんで、そのまま欄干に触れたままだ。保てないほどの葛藤が目の裏に映っているのがわかって、そのまま夏紀が口を開くまで待つしかなかった。
 しばらくの沈黙の末、届いた夏紀の言葉は、不自然なほど明るくて現実的だった。
「自分でやっぱり探してみるよ。これ以上優子に、負担かけられないし」
 その言葉に、あの2LDK上を、一人で持て余す朝を考えて、体が寒さのずっと底まで冷えていく気がした。
 話の区切りをつけようとする夏紀を見ると、ずっとこういうタイミングを探していたんじゃないかと思ってしまう。夏紀は出ていくだけだと思っているかもしれないけど、私は取り残されるのだ。
 だから私は、焦る。
「負担って言うけど、べつに私は」
「負担じゃないって、優子はそう言うけどさぁ」
 夏紀が私の言葉を遮る。熱くなっていた頭が互いに冷え切って、あっという間に何を伝えようとしてたのかすらわからなくなる。夏紀が言葉を遮るということは、そういう意味を持っている。
「そう言うけどさ。そう言わせてるんじゃないかって思うと、つらいよ」
 夏紀はそれだけ言うと、唇を噛んで目を伏せた。
 その痛みを想像することができないから、私は攻撃することしかできない。
「私がそういうこと、言うようなやつだと思ってるわけ」
 そういうことじゃない。そうじゃないとわかっていても、思わずそういう言葉を選んでしまうほど、向かいたくはない切実さが、夏紀の瞳にはあった。私の言葉にも夜の風にもその憂いは揺らぐことがなく、ただ優しさや意思のように夏紀を形どっているそれが、決定的な言葉を夏紀に導く。
「そうじゃないけどさ。でも、まともな判断をするには、私たち一緒にいすぎたでしょ」
 取り返しのつかない言葉が夏紀の口から飛び出してきて、私は思わず耳を塞いでしまいそうだった。もうとっくに、言葉は心臓を刺しているというのに。
 夏紀の目に後悔はなかった。ただある種の諦めだけがそこには乗っていて、つまり、ずっと考えていたことなんだとわかる。なんとなく思ってはいたけれど、ただ予感を抱いていただけでも苦しかったのに、彼女自身の言葉によって明かされてしまうとそれだけでもう倒れてしまいそうだった。
「ルームシェア、間違いだったって思ってること?」
 もしも世界の重力がもうちょっと強かったら、私はたった今背中を通り過ぎた来る前の上には倒れ込んでいたのだろう。踏みとどまった体から声を絞り出すと、思ったよりずっと震えていた。
 みっともない私に比べて、夏紀の目はずっとまっすぐだった。覚悟はなくても、長い時間をかけて作られた祈りのような何かがそこにはあった。
「間違いとは思ってないよ。生活に間違いなんてない、ないけど」
 夏紀が一度口を閉じると、聞こえてたはずの川の音が鳴っていないことに気がついた。血が体中を駆け巡って、私に危険を知らせている。
「私の選択にどこまで付き合わせなきゃいけないんだろうって思ったら、ここが、もしかしたら最後の分岐点なのかもなって」
 だから。
 夏紀は小さく唇を噛むと、その先を小さく飲み込んだ。相変わらず苦しそうな顔だけをする夏紀を目の前にして、夏紀が一体見失ったものの重さについて考えている。一つになれない人間二人が側に居続けるということは、それは互いに互いを変え続けることにほかならない。
 侵略し合う、といってもいいかもしれない。
「あんたは、それが嫌なの?」
 思わず言葉が溢れた。当然、そんなこと当たり前だと思っていたのに。
 思った以上に食い違っていた自分と彼女に、果たしてどんな答えを求めているのかもよくわからない。
 それでも、一つ確実に、問いかけたいことがあった。
「あんたは、私とサヨナラしてはいおしまいで、それでいいんだ?」
 言葉にすると泣きそうになっている自分がそこにいる。大人になってから、自分のことじゃ泣かなくなったはずなのに。
 まだ大人になりきれてなかったのかな。
 涙はきっと夏紀の瞳にも反射しているはずなのに、夏紀は微笑んでいた。
「手紙、卒業するとき私にくれたの、覚えてる?」
 急に出された懐かしい存在に、涙が引っ込んだ反動で勝手に頷いてしまう。学生のころは存在を出されるだけで恥ずかしくて燃えそうだったのに、今では小さい頃の失敗のような距離感だ。
 それでもなんでもなく頷いた私に、夏紀は満足そうに笑う。そうして私から目をそらして、欄干に預けた体で川の流れを覗き始めた。
「あの手紙もらったころさ、結局私に何ができたかって、ずっと考えてたんだよね」
 下に向かって届く言葉は、流速と共にあっという間に流れてしまいそうな小ささだった。取りこぼすことのないように先の見えない思い出もちゃんと掬っている私に目もくれず、夏紀はまだ回想に浸る。
「全国は行けなくて、希美とみぞれの仲も最後までどうにかできた訳じゃないからさ、私が何が出来たんだろうってさ。そう思って、でも仕方ないよなって思ってた卒業式に、あんたからの手紙があってさ」
 そこまでいうと、夏紀は本当に楽しそうに笑った。屈託のない笑みはこんな場面じゃなければもっとずっと綺麗に映るということを知っているのに。
「何がおかしいのよ」
「いや、本当に、嬉しかったなぁって」
 それが嘘じゃないことはわかる。ずっと知っていることしか伝えられていないのに、目の前にいる夏紀を知らない誰かのように思ってしまうのはなぜか。答えが日々の中に置いてけぼりになっていることはわかった。たぶんどこかで拾い上げることが出来たのであろうそれは、川の流れなんかよりもずっとゆっくりであっという間な日々の中で見失ってしまった。見失ったことすら気が付かなかったけれど。
「本当に。優子が私に嘘つけないって知ってたから。そのまま、思ったまま書いてくれるって信じられたからさ。だから、本当にそう思ってくれてるんだろうなって、そう思ったらさ」
 嬉しくて。その言葉はほとんど泣きかけていて、聞いたことのない夏紀の声がまだあるということに、私は驚いた。そんなものないって思い込んでいた自分にも。
「あの手紙で、初めて私はあそこにいた意味があったわけがあるんだなって、そう思えたんだよ」
 そう言い切って、やっと私の方を見た夏紀は、いつものように穏やかに笑っていた。私がずっと嫌いだった笑い方で。やめなさいよって今まで言えなかった笑い方で。
「それは、」
 言い過ぎでしょ。
 確かに言葉にしようとしたそれは、空気を震わせる前に、二人での幾年にも渡る生活が大きな口を開けて綺麗に飲み込んでいく。こいつのセンチメンタルをからかうには、もう歳を取りすぎていたし、冗談にして流すには、夏紀の表情と触れ合いすぎていた。出会ってからの十年ちょっとを声にならない言葉と一緒に飲み込むと、喉の奥に引くような痛みが走る。吹き抜けた風は夜でも暖かいはずなのに、私は少しだけ、震えそうになった。
 あの手紙は、確かに本心から書いた。偽りない自分の気持ちだった。私はこいつに上手に嘘をつけないから、きっと手紙に書き落とした瞬間から、ずっと真実だ。
 だけれど、それだけだ。伝えた私にとっては、懐かしく思い出すことでしかない。
 でも、伝えられたこいつにとっては、それはずっとずっと、繋がっているものだったのだろう。どんなものだって、与えられたほうが持て余すものだ。それは指輪も、承認も、愛情も、変わりなく。
 飲み込まれた言葉が肺に落ちて、私が喋れなくなっていることにきっと夏紀は気づいていて。それでも言葉を続けるぐらい、こいつにも余裕はない。
「だからさ、あれだけあれば十分だからさ。あの手紙さえ大事にしていいって、言ってくれれば、それで」
 そう言って夏紀は口角を上げた。見逃してほしい子犬のように。そっとしておいてほしい子どものように。
 もう季節は過ぎて、夜で、河川敷の向こうに見える繁華街に、その笑みはあまりにも場違いだ。
 とても柔らかくはない風を浴びながら、私は、毒されてしまったのだな、と思った。
 ワンピースに雨が染み込んでいくように、それよりずっと長い時間をかけて、私達の関係は侵略されていたんだろう。みんなが「生活」や「毎日」と呼ぶそれらに。すっかり囚われていて、私は気がついたらそれに浸っていた。高校三年間で作り上げた信頼を、何度も構築し直すことが正しいと、それでいいと思っていた。あの指輪がやってくるまでは。
 でも、夏紀は違う。今私の目の前で薄い諦めを笑みで薄めてごまかしている情けないこいつは、ずっと、手に入れられなかったものを数えてきたのだ。丁寧に、私の分まで。仕方のないことなら丁寧に埋めて。どうしたって耐えきれなければ音楽にして。
 私が何でもなく夏紀のいる部屋で朝を迎えて日々を送る隣で、私が取りこぼした物の可能性について、考えていたのか。「全うな」人間との私の生活を、考えていたんだろうか。朝は六時に起きて、夜は十一時に眠るような、そういう人間と私の暮らしを、考えていたんだろうか。
 そうして私がなんでもなく生活を続けている間に、いつの間にか夏紀の大切なものを私は与えることができなくなっていた。
 今の私があの手紙を書いても、もうあの頃のようには響かない。それに夏紀は気がついているし、気がついているからこそ苦しんだのだろう。
 道行く人は、尋常でない雰囲気の私達を横目に見ては、地下鉄の入り口に消えていく。
 離れて暮らして生きることで、私達の中に染み込んだ暮らしが抜け落ちてしまえば、またあの頃のように手紙を渡せるんだろうか。
 好きだと、特別を持って伝えてあげられるんだろうか。
 夏紀の存在を証明してあげられるんだろうか。
 そうしたら夏紀はまた、心から笑ってくれるのかな。
 屈託なく美しい夏紀の微笑みが胸に浮かんで、苦しい。
 もうなくしてしまったものを見つけて、苦しい。
 それでも。
 それでも、それは出来ない。
 恋人は、もう笑うのをやめていた。その変わり、頼りのない仕切りに体を預けて、穏やかな流れの水面の向こうを見つめるように目を閉じていた。右足がステップを刻んでいて、心の準備ともつかない何かに耐えきれないように今にでも逃げ出してしまいそうだった。
「夏紀」
 声をかけると、閉じていた瞼がゆっくりと開いた。でも、それだけだ。曖昧な相槌を言葉で返しながらも、こちらを見ようとはしない。
 言葉で言っても、伝わらない。平手打ちとかしたら流石に気が付きそうだけど、ちょっと可愛そうだから、とっておきの治療法を決める。
「見てなさいよ!」
 少しだけ大きな声を出して、夏紀の目線を奪う。その矢印に映るように、リングケースを取り出す。
 今日で、区切りのあるきちんとした人生を歩む夢とはお別れだ。夏紀と生きていくということはそういうことだ。
 何度でも曖昧になるどっちつかずの人生を、言葉と言葉で直して生きていくことしかできない。夏紀がもうそういう生き方しか出来ない人間なんだって、やっと気がついた私も、それでも一緒に生きていくことしか考えられない私も悪い。この選択が生活によるものなのか、それとも夏紀への感情なのか、それはわからない。もうそんなのべったり混ぜ合わされて、見分けがつかない。それでもいい。そんなことはどうだっていいんだ。どうせ生活には勝てない。
 でも、誓いの指輪ぐらい、もうちょっと夢見ていても、許されたんじゃないかなって。思わなくもない。
 後ろ髪を引かれる前に、指輪を箱ごと放り投げた。よくある紺色の指輪は、綺麗な放物線を描く、ことはなく、回っていくうちに開け放たれて、やがて夜に飲まれる。水面の上できらめいた銀をちゃんと捉える前に、少しだけ重い雫の跳ねる音と一緒に流されていく。やがて流れさえ元通りになったのを見て、満足した。
「ああいうの、手元にあるだけで呪いみたいよね」
「腕の筋肉、また落ちたね」
「うるさいわね」
 肩を叩くと笑われた。急に高校時代に戻ったみたいで、寂しくて、夏紀の袖に縋り付いた。
 夏紀は目線を落としたままの私に、それでも優しく声をかける。
「どうしたの、急に」
 こうやって心配されていると恋人のように見えるのだろうか。そんなことを考えながら、自分の中でついた区切りを繰り返しなぞる。
 今日はっきりわかったこと。痛みを伴ったそれを、目の裏で追いかけながら言葉にする。
「あんたが言いたいことは、わかった。私から言いたいことは、一つ」
 わざとらしく指を立てると、空気が少しだけ柔らかくなった。なんとか二人で暮らしていけそうな温度に落とし込めたことがわかる。互いに見えないものを美しく取り合うよりも、ぶつけ合うほうが慣れているから。
「まず一つ。私あの手紙燃やしなさいって書いたわよね?」
 いつの間にか持ってくることに苦労するようになっていた声は、思った以上にちゃんと不機嫌に聞こえたみたいだ。ひるんだ夏紀を見て、それなりの演技力に満足する。
 夏紀はといえば、いたずらを咎められた少年のように目を動かしていた。握っていた袖を引っ張ると、無理やり視線が私に向く。こういう喧嘩は先手必勝。高校のときに嫌と言うほどわからされた。
「いや、書いてあったけど。あれ本気だったの」
「あんな恥ずかしい手紙の話蒸し返される私の気持ちわかる?」
「いや、わかんないけど」
「へー、私の気持ちわかってくれないんだ」
「いや、そんなキャラじゃないでしょあんた」
 冗談の応酬に、笑いそうになるのを我慢する。楽しそうにするのは、そのままだけど。
「約束を八年間ずっと破られた私には、お返しを要求する権利があるわよね」
「そんなこと言われたって、私に何してほしいの」
 肉体労働?冗談を飛ばしながらあのころのペースを楽しむ夏紀の笑みに、私は言葉のために吸ったはずの酸素がすべて奪われていく気がした。それでも、どうにか言葉にして。
「一緒にいてよ」
 言葉に酸素が足りていないように、苦しい響きだった。ずっといつもより柔らかい声を出したはずなのに、私の体は私の心のこと、お見通しなんだろう。
 夏紀の目を見て言うことは出来なかった。目線を落とした先にある夏紀のスニーカーが、小さく動いては消えていく。
 夏紀はいま、どんな顔をしてるんだろうか。
「たぶん無理よ。どれだけ離れて暮らしても、あの頃みたいに手紙は書けない。ルームシェアが七年あった時点であんたの、私達の負けよ」
 生活のすべてが抜け落ちることは、おそらくないだろう。遠く遠く時間が経って、夏紀との日々が果てしない思い出になっても、寂しさが時折顔をのぞかせて、私の中から消えていこうとする日々を取り戻していく。そうなるのだろう。高校の日々を思い出しては、寂しくなったのと同じように。
 それも、いつか、いつか消えるのかもしれないけれど。
「急に一人にされたら寂しくて死んじゃうわ」
 あまりにも長過ぎる日々の中で、こんなに弱くなっていたのか。これは弱さじゃないのか。わからないけれど。どうやったって覆せない生活の記憶に、取り残されることはもう難しい。
 それが別れ話でもないのなら、なおさら。
「支えさせてよ。そうじゃないと、私は笑っていられる気がしないわ」
 幻滅、されるだろうか。
 がっかり、させるだろうか。
 それでもこれが、私の選択で。これ以外は選べない。
 袖を掴む指の隙間に、ゆっくりと風は流れる。夜の匂いと風の明るさに、私の弱さがそのまま世界中にばらまかれてしまいそうだ。思わず離しそうになってしまって緩めた指先に、もう一度決意を込めるように力を入れる。
 今どんな顔で夏紀は私を見つめているのだろうか。もしも、もしもを考えるとその視線が怖くて顔を上げられない。そんな臆病な私でも、卑怯でもこの生活を選んでいたかった。
 答えが渡されるまで、ずっと待っていることしか出来なかった。震えそうになる指先を、手首ごと掴んでくれたのは、夏紀の少しだけ硬い指先で。
「優子からもらってばっかりだなぁ」
 顔をあげると、くしゃくしゃになりかけの夏紀の表情が飛び込んできた。
「いいの?迷惑かけるよ」
「今更よ」
「またバンドにうつつ抜かして、デートの約束破るかもしれないよ」
「それなら、二回分リードしてもらうから」
「また赤色に、髪の毛染めるかもしれないよ」
「いや、それは、ちょっと相談して」
 私のためらいと混乱に、夏紀の笑い声がこぼれた。自分の選んだ道の中で、向き合っていくべきものの数にクラクラしてしまう。赤い髪だとか、壊れたギターだとか。
 果てしない人生の長さに置いていかれないように、強く夏紀の手の平を握りしめた。
 握り返してくれたその指先に、初めて通じ合えた。ふざけた約束のような細い糸を、また果てしなく紡ぎ直す人生が始まる。
 二人でさよならを選ぶまでは、ずっと選び合う人生が。またなんでもないように。今までとは違う意味を持って。


 なんとなく手を放すのがもったいなくて、人のいない帰り道を繋いで帰った。あの喫茶店でのカップルを笑えないかもしれない。きっと明日からはまたこの手と手は離れていくのだろうけど。
「そういえば、2DKで探しましょうか」
 隣をなんでもないように歩く夏紀に、思い切ってずっと考えていた提案をする。
「え?」
「作業用の部屋と、寝室で一室ずつあればいいでしょ」
 同じような値段の部屋を探すと、どうしても2DKしか見つからなかった。互いの部屋をそのまま作ってもいいけれど、そもそも、寝室を一緒にしてしまえば済む話だ。希望する値段帯を考えると、その選択がずっと合理的だと思っていた。口に出すことを憚れていたけれど、もう思い切ってしまっていいだろう。
「え、寝室一緒なの」
「なに、不満なの?」
 わざと低めにした声が夏紀をひるませる。しばらく握った手に力を込めたり緩めたりしていた彼女は、やがて観念したかのようにもとの位置に戻した。
「いや、私優子が隣にいると、寝れなくて。緊張して」
「中学生なの?」
「わかってるから言わないでよ」
 この夜でも、夏紀の頬が染まっていることがわかって満足した。どうせそんなことだろうとは思っていたけど。臆病なのか、恥ずかしがりやなのかもこの生活の中で解明していかないといけないと思う。前者なら手を差し伸ばしていくし、後者ならからかうだけだ。
「じゃあ私が子守唄歌ってあげるわよ」
 そのぐらいは、まあしてもいいだろう。いつまでも歌ってあげられなくても。
「本当にもらってばっかりだ」
 さっきよりもずっと苦しみのないその声に、なんだか安心する。私だって同じぐらいもらっていることは、これから少しずつ伝えていけばいいだろう。今日はこれ以上、恥ずかしいことができそうにない。
 さっきの自分を思い出して顔の温度が上がっていくのを夜風に任せて抑えていたら、夏紀は小さく笑って見逃してくれた。こういうところが憎くて、ちょっと強めに力を手に込めたら、「痛いんですけど」なんて、思ってもいない文句が呟かれた。高校生のころのようなそのやり取りに、なにかがおかしく笑ってしまう。小さく肩を揺らし始めた私に、夏紀も同じように笑う。
 笑い声がやむと、もうそろそろ私達の家だ。同じマンションの住人には気が付かれているかもしれないけど、それでも手を離そうとして、まあ良いかと思い直す。どうせそろそろ引っ越すし。
 駐車場の光が私達を照らして、その明るさに目を細めたながら夏紀は口を開いた。
「優子が私にしてほしいことあったら、なんでも言ってね。歌うことぐらいしか、できないかもしれないけど」
 穏やかに前を向き続ける夏紀に、あるアイデアが浮かぶ。
 そのまま言葉にするのも恥ずかしいけれど、こんな夜でしか伝えられそうにない。
 踏ん切りがつかない私の様子に、夏紀が不思議そうに視線を送る。そんなことをしている間に、いつの間にかエントランスにたどり着いていた。
 せっかくだし。自動ドアが開くタイミングを狙って、口を開く。
「じゃあラブソング、私に向けて作ってよ。そうね、五年に一曲ぐらい」
 ずっと思っていた。なんでずっと私に向けた曲がないんだろうって。自意識過剰かもしれないけれど――でもロックミュージシャンって、恋人のために曲を作るもんでしょう。適当な偏見を転がしていることには気がついていないふりをする。
 言ってみたけれどやっぱり恥ずかしくて、私は夏紀の手を振りほどいてエレベーターのボタンを押しに行く。夏紀の困った表情が見たくて、それでもやっぱり恥ずかしくて。エレーベータがたどり着くまで、時間稼ぎをしたかった。どんな顔をしているのか、なんとなく思い浮かべながら。
 それでも、飛んできたのは予想外の言葉だったのだけど。
「それだと、五十年ぐらい一緒にいてもらうことになるけど」
「は?」
 思わず振り返ると、夏紀は照れたような、それでいて嬉しそうな表情をしている。一曲も、聴いたことないんですけど。
「十曲ぐらいはあるよ。優子が来ないタイミング狙って、ライブでやってたから」
「え、なにそれ初耳なんですけど」
「気が付かれないようにしてたからね」
 どこか誇り高そうにする夏紀にそうじゃないでしょうとか、そもそもそんな恥ずかしい歌をオーディエンスの前では普通に歌っていたのかとか、そもそも十曲って何よどんだけ私のこと好きなのよとか、いろいろ言いたいことあったけれど。恥ずかしさが勝って口を開けそうにない。エレベーターが到着して、部屋の扉を空けるまで何も言えなかった。きっと顔が真っ赤になっていることはバレバレだろう。私の表情を見て、夏紀はまた満足そうに笑った。
「今度歌ってあげるよ。ラブソング歌えなくなったら、サヨナラだけど。それまでは」
 恥ずかしさで肩を叩きながら、こいつと一緒に生きていくためにまずやるべきことは、ギターだな、と思った。こいつがラブソングを歌えなくなったときのために、練習しておこう。
 叩かれたままの夏紀は、どこか楽しそうに笑って、それで私達のドアを開けた。開かれた真っ暗な部屋に、また泣きそうになったのは一生の内緒。


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