ハロー、ハロー(書籍版)
ハロー、
いつか叶うならば
もう一度同じ約束をしようぜ。
―MADDERGOLD / HAUGA / ArtTheaterGuild
「バンドやめるわ」
なんでもないように放たれた言葉は、古びた練習スタジオの日焼けした床よりも、ずっとずっとむこうに落ちていったのだろう。私は、染み込んでいくように消えていこうする音の欠片を見逃したりはしないから。だから、きっとどこか遠くに投げられた彼女の言葉の行方を、私は知らない。
私の想像は目の前の世界の色を塗り替えない。ずっとべったりと日差しに塗りつぶされて、一つのシミもなく焼けきっている地面を見つめたまま、私は声を出した。
「わかった」
用意された言葉だったのだと思う。そうでなければ震えていたはずだ。その声からは、短く穏やかで十分に温められた夏のような匂いがした。その穏やかさに、自分で泣きそうになった。
いつから考えていたのか。
いつからわかっていたのか。
思い出そうとしても、色付きガラスのように歪んだ記憶しか見つけられない。私が出せる正解に近い唯一の答えは、最初から、だ。
希美は私の答えを聞くと、目を伏せた。またいつものように口角をあげて笑う彼女がそこにはいると思っていたのに、希美はただ目を閉じただけだった。そこには何もかもを投げ出すような笑いも、自嘲の形をした唇もなかった。ただ穏やかに目を閉じて、微笑みに限りなく近い何かを表情に載せて、言葉を選んでいただけだった。
「わかってたか」
「うん」
希美の唇が小さく震えて、また閉じた。それでも彼女は笑わなかった。笑って終わらせていた彼女が、気がついたら大人になっていた。そういうことに気がついたとき、考え抜いた先の結論に後悔するのだ。曖昧な痛みを腕で払うかのように小さく手を上げかけて、降ろした。
「時期とかは、また相談するけど。9月まではいられない、かな」
「わかった」
頷くと、今度こそ希美は小さく笑った。口の端を上げただけの笑みではないとすぐにわかったのに、虚勢より何故だかずっと寂しかった。昔のような不甲斐なさを感じる心と引き換えに、どこまでもたどり着けない「仕方ない」が広がっていくのがわかる。
もう荷物をまとめ終えていたから、希美は出口までどこよりも近かった。扉の向こうからは学生の節操のないやり取りが流れ込んでくる。銀色のドアノブに手を付けながら、希美は思い出したように呟いた。
「やっぱ夏紀は優しいわ。私よりずっと」
それで出ていった。
ドアが閉められて、十秒が過ぎて。
私は、優しくなんかなりたくなくて。
アンプを蹴り飛ばそうとして、やめた。
夕暮れの太陽が窓から垂れて、べったりと血のように壁に張り付いていた。床中に広がった光はだらしなく撒き散らされて、飛び降りた日差しの未来を示しているようだった。ぼんやりとそこに立ち続けたアンプを穏やかに赤色が包んでいくのを、私はただ見つめていた。
ここでアンプを蹴り飛ばせもしなかったから、私の人生はロックミュージックじゃないって、ようやくわかった。
それでも私は品のないアウトロのように、そこに立ち尽くしていた。
そもそもスリーピースロックバンドに、ギターは二人いらない。
それはどうしようもなく当たり前の事実だ。ギター二本とベースとか、ギター二本とドラムとか、当然ロックバンドの構成としてはあるけれど。カードがあるということと、それが自分の手元にあるということは違う。
新世代のオルタナスリーピースロックバンド――望む望まないに関わらず、あまりにもありきたりながらもそう銘打たれたバンドに入ってくるサポートギタリストというのは、それはそれは歪なものだ。だから「やめます」の言葉は、多分何でもないようにリスナーには受け入れられるだろう。言葉すら、必要ないかもしれない。音楽性の違いみたいなお決まりのフレーズすらなくたって大丈夫だろう。ファンがいるのかどうかは、イマイチ分かってないけれど。
とにかく、これはバンド内で解決する問題だった。
希美がやめるということは、メンバーには希美の口からではなく私から伝えた。何となくそのほうが適切だと思ったからだ。
穏やかなドラマーは「そうか」といつものように低い声で呟いて、詳しいスケジュールが決まったら教えてほしいと言った。脱退ライブのことを見据えているのだろう。彼の穏やかな瞳の波が揺れることはなかった。いつでも聡明で人を見ている彼が、希美のことをどう思っていたのかは、結局最後まで聞くことはできなかった。
サキも――ベーシストにも、つたえなければいけなかった。彼女の出るライブがあったから、それを聞きに行くという名目で、適当に取り置きを頼んで開演三時間前にライブハウスに入ると、予想通り彼女は飲んだくれていた。
彼女はサポートベースのとき、アルコールが抜け切った状態でステージに立ったことがないないんじゃないだろうか。そんなどうでもいいことを考えながら、希美が抜けることを話す私に、彼女は「わかったわ」とだけ言った。
彼女が違ったのは、そのあとに問いかけを続けたことだった。
「それって、希美ちゃんが夏紀に直接伝えたの?」
「うん」
「二人でいるときに?」
私が頷くと、サキの目には苦笑と嘲笑の混ざったような色が浮かんだ。この人の、こういう色は見やすい。あくまで底が見えているというか、善意も悪意も同じぐらいのバランスで存在しているからかもしれない。
「希美ちゃん、やっぱそういうとこあるわよね」
「そういうとこって、何?」
言葉にはできなくても、彼女が何を指差しているのかはわかる。それでも、切り捨てることもできずに、切り取ったまま返答を貼り付けている私のほうがずっと卑怯なんじゃないか。
また勝手に暑くなった季節への腹いせのように、ライブハウスのビールを勝手に持ち出しながら口に含んでいると、そんな気持ちが強くなっていく。
扉の向こうの温度もアルコールも気にもとめないような、涼しい顔を浮かべたままの彼女は少しだけ口元を歪めて笑う。
「純粋そうな顔してても、怒られないようにちゃっかり夏紀一人のタイミング選ぶところ」
その評価は、鋭く正しくて適切ではなかった。友の名誉を守るべきか、それとも目の前の人を諭すべきか、そういった選択を迫られている感覚から逃げ出してもう一度紙コップに口をつける。
「私が怒るか怒らないかなんてわかんなくない?」
結局私が選んだのは、私の話だった。続ける必要のない会話を続けている時点で、おそらくダメなのだろうとは思う。それでもなんとなく希美のことを庇わないのは、私らしくないような気がした。
そういうことを言いたいんじゃないんだけど、という目を作って、彼女はカウンターにどっぷりと肘をついた。ため息を疲れると私だって困る。簡易厨房でタバコを吸おうとしたから、流石に止めた。
渋々とライターをポケットに仕舞っていく彼女は、ようやくため息をついて口を開いた。
「あんたはどうせ許しちゃうでしょ」
どうせ、という言葉を、この人はどこまでも優しく使う。そういう人生の積み重ねなのか、それとも彼女が持ち合わせてきたものなのかはわからないけれど。許されたときの居心地の悪さが纏わりつくのを首を振って追い払った。
「どうせって、なに」
「どれだけ希美ちゃんが一方的にやめてても、あんたは『互いの人生が』って言うでしょ。そういうといこ。ほんとあんたは優しすぎなのよ」
口が寂しいとでも言うように、紙コップの端を噛み始めた彼女にしている私は苦笑いを浮かべていて、これだと誰が許されているか外からじゃわからないのだろうな、と、そんなことを思う。
それでもなんとなく肯定されっぱなしはいやだったから、昔のバンドの話をする。逃げ出したフロントマンのことを思い出すと、今でも自然に眉間に皺ができる。
「別にそんなつもりないけどね。あいつのこと思い出すとまだ腹立つし。修理代出してもらいたいわ」
誰の話かははっきりと伝わったはずなのに、目の前の彼女はそういうことじゃない、と首を振った。彼女にはこの前直したギブソンの存在もバレているから、下手な嘘をついたなと自分でも思う。
「それでもあんたはもう終わったことにしちゃったでしょ。許しちゃったのよ」
飲み物の中身を空にして、彼女はそう言い放った。灰皿の方に向かいながら、タバコの中身の灰を詰めるように叩く悪癖を披露する彼女の後ろを歩く。
終わったことを、終わったことにしてはいけないんだろうか。言いたいことの意味がよくわからなくて、考えをまとめようにもアルコールが邪魔をする。
空っぽの腹に酔いやすいものを流し込んだのは失敗だったなと思いながら、火をつけはじめた彼女に返す言葉をようやく選ぶ。
「終わったことにしちゃったって、実際に終わったんじゃん」
「それでもあんたが許さなければ、あんたの中では終わっていなかったのよ」
それだけいうと、彼女はまた目の前のタバコに戻っていく。煙を直に浴びながら、久しぶりに吸いたくなってしまった。煙が目に染みて、瞬きを繰り返しながら思う。
終わらせないでおける方法があるなら、もっと早く教えてほしかった。ギターを叩きつける前の私に、その方法を伝えてくればよかったのに。そうすれば無駄な修理代だっていらなかった。そんなことを思いながら、きっと彼女がいう終わらせないというのは、そういう話ではないのだろうなということもわかっている。
上手に飲み込めなくて立ち止まったままの私に、彼女は手に持ったタバコを振り回しながら口を開いた。
「あのね、どうせ人生なんてどうにもならないんだから、あんたがどうやって捉えるか以外で反抗のしようがないのよ。そんなに大切に思ってるなら、許さないで忘れないことで大切にするって方法だってあるの」
そういうと、彼女は手に持った空のはずの紙コップを呷った。
今のは、彼女の哲学の中でも聞いたことのないものだった。ロックバンドをやっていると、ふとした拍子に他人の哲学が見えて、ぞっとしたり暖かくなったりする。彼女のこの哲学は、暖かくはなくても生きていた。
この哲学にたどり着いた彼女の過去に思いを馳せながら、私はあえて茶化す。
「酔ってる?」
「割と長いこと飲んでたから」
「認めるんだ」
自分でも恥ずかしいことを言った自覚があるのか、やけに素直な彼女の態度を笑いながら、それでも、と考える。前のバンドをやめて、灰のようになっていた私に新たな場所を作るきっかけを与えたのは、結局この人だ。その頃から、私が許してしまう人間だとわかっていたのだろうか。きっと許さずに立ち続けることが私にはできないとわかっていたから、新たな場所を作ってくれたのだろうか。
ただのメンバーと、サポートの関係でしかなかったと思うけれど、よく考えれば出会ったときから、奇妙に可愛がられていた。どのぐらい彼女が私を見ていたのかわからないけれど、きっと正しいその他者からの評価になんとなく気恥ずかしくなる。頭に手をやりながら、何を言えばいいのかわからなくなった。
「人を許す、許さないとかあんまり考えたことなかったな」
「あんたはそうでしょうね。悪い意味じゃないけど、視点は常に自分よね」
「まあ、それは、わかってる」
ときどき、本当にときどき、自分の世界が本当に狭くて、何か大切なことをいつまでも見れていないんじゃないかって、そう思うときがある。なにを書いていても、なにを歌っていてもそう思うから、そういう指摘をされると、どこか残ってしまったシールの跡のような気持ち悪さが体に残る。
くだを巻いているサキにかかる、そろそろ準備、の声を聞きながら私は考える。
人生の抵抗方法。自分が選べるもの。もしかして、それなりに今、決断の場にいるんじゃないか。
黙り込んだ私の背中を楽しそうに叩きながら、彼女はステージへと入っていった。
「まああんたが好きにすればいいと思うけど。悔いのないようにしなさいよ」
この人はいつも難しいことを言う。
悔いのない別れなんてあるものか。
駅前のコンビニでタバコを買おうとして、番号を思い出せなくなっていた自分に驚いた。学生時代には吸うのをやめていたわけだから、忘れていても当然なのだけど。勝手に覚えているものだと思っていると、こういうところで目を覚まされる。渡された箱の軽さも記憶になくて、奇妙な気持ちになりながらコンビニ近くの喫煙所を探す。
一緒に買ったひどく彩度の高いピンクのライターで火を付けると、まだ吸い方は忘れていなくてなんとなく安心した。たとえニコチンが入っても、喫煙スペースから見える街の景色が新しく美しくなったりはしない。そういう地続きのところに、それなりに安心する。こういうのは結局回数を重ねるかどうかが全てで、要は気持ちよくなるスイッチを作れるかかどうかだ。そう思う。どんな習慣だって、大体はそういうものだ。私の気持ちよくなるためのスイッチは、動いていはいてもほとんど休業状態だった。禁煙に成功したのだな、と思う。
自傷行為に手を染めながら、自分の精神を天秤に乗せて図る自分が、どこまでも現実的で笑える。自暴自棄になるのすら下手なのか。ロックシンガーらしさのかけらもない私のことをおかしく思っていると、いつの間にか一本目は消え去ろうとしていた。
喫煙室はいつでも、ちょっとした逃げ場だと思う。デビュー三歩手前でぐるぐると回り続けているようなそういう状態で、ちょっとした刺激がほしいだけだ。二本目に伸ばした手は閉じた。一本吸えば十分だ。家に帰れば優子が叱ってくれる。まだたっぷりと重い箱を適当に隠すこともなくポケットに突っ込んで、自分の幼さを笑いながら帰る。
怒られることが目的でも、扉を開ける瞬間はそれなりに緊張した。結局鍵でこっそり入ろうとしたのに、チェーンがかかっていて優子が戻ってきてしまった。
「うわ」
チェーンを開けてもらって玄関に入ると、おかえりもなしに思った通りの反応が帰ってくるものだから、思わず小さく笑ってしまいそうになるのを我慢する。
金曜日の夜に同居人がタバコのニオイをさせて帰ってきたら、だいたい誰だってこういう顔をするのだろうなと思う。金曜日の夜は生活に空いた隙間のようなもので、平日に持ち続けていた面倒な感情や出来事を捨てるために存在している。そこに煙ともう一つの面倒事を従えた人間がやってきて、不快にならない人間はまあ見つからない。優子も当然例外ではないようで。こういうところを見ると、余計に奇跡みたいな人だなぁと、そう思う。
曖昧にまかして怒られて、そうして寂しさを埋める算段だったのに、最初に打たれたため息に怯んで言い訳すらできない。だから私はヘラヘラとした笑いを浮かべている。それ嫌いだって言われたけれど、やめることができない自分に気がついて、また情けなくて笑ってしまう。そんなふうに笑い続けている私を見て、優子は大きくため息をついた。
「吸ってきたの?」
「うん」
正直に答えるしか能がない私に、優子はまた大きく息を吐いた。このまま生きてたら優子の一生分のため息のうち、半分ぐらいは私のせいになるのだろうな、と思った。それはそれで優越感があって嫌いになれない、とか調子に乗って言えば本当に怒られることが目に見えてるからやめておく。
「まさか、口寂しいとか言うんじゃないでしょうね」
「いや、ね」
「あのね、ライブハウスでつけてきたのか、吸ったかどうかぐらいはわかるからね」
「ごめんなさい」
玄関でやるにはあまりにも情けない問答で、まあ自分に呆れるしかない。優子がどうして私のこと、嫌いにならないのかよくわからない。一年前より一部屋分小さくなった生活空間と、彼女と私の生活リズムのズレについて考えると、縮こまるか開き直るか以外の選択肢が薄れていく。
薄っぺらい笑いを浮かべたままのバンドマンに、もう一度優子はため息をついた。
「またしょうもない理由で悩んでるんでしょ」
「酷いなぁ、こんなに苦しんでるのに」
「どうだか」
それでも口角を上げたままの私に、優子はもう一度大きなため息をついて、私の頭を優しく叩いた。
手刀にしては随分と優しいそれに痛い痛いと大げさにうずくまっていると、そういうやりとりは卒業したとでも言うかのように彼女は腰に手を当てた。
「タバコ吸って怒られようったってそうはいきませんからね。自分のことぐらいちゃんとしてください」
それだけ言うと、優子は部屋に戻っていく。一度も出されなかった大声に、優しくて寂しいなぁなんて思った。
返事も適当に、匂いを落とすための洗濯とシャワーを済ませた。自分もそんなに好きな匂いじゃないし、ライブハウスにいるとどうしたってついてしまうから簡単に落とす方法は身につけた。
よく考えると、やめたはずのタバコを吸うなんて冒険、本当にどうしようもなくて悲しくなる。ダブったライターと吸う予定のないピースの置き場所について考えながら身支度を終えると、優子はリビングでいつものようにギターを弾いていた。
リッケンバッカーの赤はピンクの寝巻きと絶妙に合う。何かのPVに出たら十分に映えそうだと思いながら缶チューハイを取り出そうと冷蔵庫に向かうと、お目当てのものは見つからなかった。
「あー、ごめん飲んじゃった」
アンプからの音が止んで、優子をみると彼女の手には見覚えのある缶がぶら下がっている。
「えー」
わざとらしく口を尖らせると、優子はまたわざとらしく目を細める。
「やめたはずのタバコ吸って帰ってくる人に文句言われたくないんですけど」
「すいません……」
項垂れるフリをしながら、こういう生活のやりとりのロールプレイのようなものの意味がなんとなくわかるようになったな、と気がつく。どうやったって茶番でしかない夫婦喧嘩をやっていた両親の行動の意味がやっとわかるようになって、なんとなく自分も大人になったのだと、ようやく思えるようになった。
「まだ残ってるけど、飲む?」
リビングからの声に頷いて、適当に空いているグラスを掴む。傾ける瞬間を今か今かと待っている同居人のもとに急いで駆けつけると、そんなに急がなくてもいいのに、と笑われた。
注がれていく透明な液体をぼんやりと眺めている私に、優子が色づいた視界の向こう側から口を開いた。
「まあ別にタバコ吸ってもいいけど。ほどほどにしなさいよ」
「うん」
七分目で止まったアルコールの表面を眺めながら返すと、曖昧な私の返事がお気に召さなかったのか、また優子が目を細めた。
「わかってんの?」
「わかってるよ」
話を終わらせるように一気に呷ると、優子のため息と喉の動く音が重なっていく。
「健康に気を使わない同居人がいると大変ね……」
それだけ言って優子は、ギターに戻っていく。きっと私がどういう選択をしても、受け止めてもらえてしまうのだろうなぁと、そう思った。あまりにも優しいその言葉に、少しだけ泣きそうになりながら。
見たことのある失望感を咥えてビルを出ると、深々と挨拶を寄越す担当社員の姿が見えた。こちらからも簡単に会釈を済ませて彼らの視界の外に出ると、大きくため息をつく。数歩先に出ていたサキのところへと追いつくと、彼女は社会性でギリギリ保っていた真剣な表情を崩して、風刺画の社会人のような意地の悪い笑みを浮かべた。
ほとんどベーシスト一筋なのに、どうしてそんな顔ができるんだろう。昔そう思って聞くと、彼女は「しがらみがあるのは大体どの職業も同じ」とだけ言った。そのときに感じたなんともいえない失望感を思い出していると、十分に距離が離れたことを確認して、サキが口を開いた。
「ご感想は?」
あんたが始めたバンドだろうに。そういう言葉を飲み込んで、私はきっと望まれているだろう言葉を選ぶ。
「ポストアンディってフレーズが出てきた時点で断るべきだったよ」
予想通り大笑いを始めた彼女に構うのはそこそこに彼女のピンヒールを追い越して、東京の地下鉄網に入り込む。長い長い地下通路に紛れ込むと、私達の会話を聞く人は誰もいない。東京や大阪のこういうところは楽だ。二枚自主制作EPを出しただけのロックバンドのフロントマンなど知る人がいるわけがない。誰も私を見ていない。そういう安心感が都会にはある。
しばらく無言が続いた。人混みに慣れるための時間が互いに必要だった。一通り歩いて慣れきったところでようやく言葉に出来るようになっても、そのころには大切なことなんて忘れている。だから、地下通路はどうでもいい話で溢れているのだろう。みんな大切な話は階段の間になくしてしまうから。
「今日がライブじゃなかったら完全に新幹線代が無駄になるところだった」
安くはないその出費を気に留めながら、比較的どうでもいいことを口にする。時間の都合上諦めた深夜バスと車を恋しく思いながら人混みを歩くと、連れは流石に笑うのをやめていた。その代わりに、小さく足音を響かせながら、私の表情を覗き込んでくる。
「でも、大体ああなるってわかってたんじゃないの」
「まあ、ね」
彼女の指摘はいつも鋭い。大体、人間の底というのは初対面でわかるものだ。この人達は自分たちのことがわかっていない、というのは、ライブ後に軽く声をかけてきた時点で大体わかる。そもそもあちらはどうやって売り込むかを考えていて、私達はどう歌うかを考えているのだから、その時点で結構なズレがあるのだ。
到底期待などできそうにないとわかっているのに、しがみついたのにはそれなりに意味があって、その理由を問われているのだということにも、気がついている。無駄な会議に付き合わせた彼女には、その理由を問う権利があるということも。
その理由が子供っぽくて、なんとなく気まずくて先延ばしにして話を変えてしまって。結局ワケを話せたのは、鈍行のつり革に捕まったあとだった。
「ラストチャンスだった」
揺られだした地下鉄で急に話を戻した私に、彼女はすばやく適応した。こういうところが信頼出来る。このまま全部セトリまで決めてもらおうかなんてかんがえながら、私は言葉を足した。
「スケジュール的に、希美がレコーディングに参加できるね」
「ああ、なるほど」
言葉にしてしまえばそれほど理不尽なわがままでもないのだけれど、どうしたって自分が見ているときは間違ったことのように思える。何度フロントマンになろうと、こういうところの境はよくわからないんだろう。おそらく、横暴になる意味もないのだろうけど。
「まあ、最後のチャンスだからって何でも縋ればいいってもんじゃないことはよくわかったけど」
噛み合わなさに呆れ返ってしまいそうになりながら、どうにか穏便に終わらせた話し合いを思い出す。最後の方は、どうやって逃げ出そうかばかり考えていた。私の集中のなさが伝わったのか、あちらから適当に話を切ってくれたのはありがたかったけれど。
いくつかのオファーを蹴ったから、残っているのはいわゆるインディーズレーベルだけだ。元からそうやって活動するつもりではあったけれど、今から話を付けても希美のスケジュールを確保するのは難しいだろう。わかっていたからなるべくチャンスにしがみついてみたものの、しかしそういうものだ。
「希美のために私達が妥協するのは、それは違うなって思うし」
「そうねぇ」
「だから、まあ仕方ないんだけどさ」
諦めは一番最初にやってきて、それでいて足が早い。「仕方ない」が胸の中からいなくなっても、まだ地下鉄は目的地にたどり着かない。諦念がいなくなったあとの場所には、「どうして」と「やっぱり」が座っていた。あと二駅、この気持ちを隠しながら地下鉄の窓で自分と見つめ合うのは辛かった。だから、そうそうに言葉にしてしまう。
「結局希美はEPの収録にも間に合わなかったし、次のやつのころにはいないって考えるとさ」
ステージの上なんて幻想みたいなもので、良くも悪くもどうしたって特別な空間だ。MCや演奏ミスでしか、現実に帰って来れない。ぼんやりと霞んだ記憶にしかならない。記憶はどれもちゃんとあるけどちゃんと思い出せるライブなんて、私にはそんなにはない。
そう思っているから、ステージの右端でギターを鳴らしていた女の子のことなんて、誰も覚えてないんじゃないかって、そう思うと突然怖くなる。
「どうやって希美がこのバンドにいたって証明するのかなって思ってさ」
そもそも、自分の記憶すら結構曖昧だ。一緒にステージに立ったのって3回ぐらいだし。こういう東京に呼ばれたりするやつは、スケジュールの調整が効かなければ出られないわけで。彼女の記憶もステージも、どんどんと伝説みたいなものになっていくんじゃないか。
「いや、別に写真とかはあるでしょ」
私の妄想が爆発する前に、彼女からの歯止めがかかる。そのまま目的地に到着してあわてて降りると、後悔とか諦めとかを連れてくるのを忘れてしまった。だから、言葉にできるのはわがままだけで。
「そうだけどさぁ」
子どものように愚痴る私をみて、彼女の小さな笑いがホームの奥に吸い込まれて消える。
「あんた、この数ヶ月ずっと高校生みたいね」
その言葉に、自分の首元に熱い血が巡ったかのように顔が火照った。至るところにある熱をすべて首から上に集められたみたいで、上手に声がでない。悩みはしゃいだ自分の記憶が蘇ってきて、追い打ちをかけられる。思い返してみれば、たしかに幼かったかもしれない。
「そんなに?」
「なんだかんだ楽しいんでしょうね、友達とやれることが」
私の喉の奥がずっと熱くなっていることなんて知りもしない連れは、ひどく穏やかに言葉を続けた。構造的に大人になられると、もう勝てることはなかなかない。こういうところで見抜かれているから、この人にきっとずっと勝てないのだろう。
それでも、私達のこの日々が、なんでもないことのように見えているのなら、それは救いなのかもしれないとも思う。
幼さへの羞恥と、なぜだか存在する救いの両方に挟まれて黙り込んでいると、改札を抜けた先で首をかしげられた。
「いや、恥ずかしくて……」
片方だけ隠しながら、正直に答えた私に、笑い声が街に飛んだ。東京の夏の温度と私の熱で、何を考えていたのかも上手に思い出せなくなってしまった。
驚くほど穏やかな午後だった。
映画を見ようと誘ったのは私だった。
希美の部屋にお邪魔して、DVDを流しはじめた。物語は何でも良かった。映画を見るのは言い分で、彼女にラストライブの話をするつもりだったのに、穏やかな物語に結局見入ってしまった。エンディングが流れ終わるころには、白く眩かった太陽がすっかり赤く染まっていた。窓の向こうから垂れ流されたその光が、ギブソンに染み付いていたのは映画のようだと思った。
よい映画だった。きっと私達の青春に必要だったのは、こういう物語だったのだろうと思う。エンディングのフレーズを追っている間に流れてしまった涙を拭っていると、同じように真剣に見ていた希美は私の方を見た。彼女の大きな瞳が、また少しだけ開かれていくのが見えた。彼女は手に持っていたコーヒーカップを下げると、そのまま選ぶように口を開く。
「夏紀、泣くようになったよね」
「え?」
希美は私が流している涙を見続けないようにと、そっと視線をずらしながら言葉を続けた。
「あんまり映画とかで、泣いたりするイメージなかった」
「そう?割と映画でボロボロなくタイプだけど」
「そうなの?」
「っていうか、泣かないってどんなイメージなのよ」
冗談とばかりに私が彼女を肘で突くと、希美は答えずに笑いをこぼした。夕暮れにふさわしいその笑みに、私もつられて笑う。リビングは二人の声で溢れて、エンドロール後の注意書きだって無粋にならないような、そんな部屋になっていった。
メニュー画面の美しい音楽を打ち切りながらディスクを取り出した。いくつになっても正解のわからない力加減で無粋なケースにDVDを収めていると、コーヒーカップをしまい終えてキッチンから戻ってくる希美が口を開く。
「そういえば話って、なんだったの?」
希美の言葉にすっかり目的のことを忘れていたことに気がついて、高校生気分が抜けきってないな、なんて曖昧な相槌を打ちながら思う。話の持ち出し方もわからなくて、映画を持ってくるなんてベタなこと、やってしまった自分が少し恥ずかしい。完璧な午後に終わりの話を持ち込むことをためらってしまいそうな心情をどうにか抑え込んで、言葉を選ぶ。
「多分これが、希美の最後のライブになるライブが、決まった」
どういう距離感で話せばいいのか、全然わからなかった。ポップ体でどこか抜けたデザインのチラシを手渡すと、希美はなんでもなく受け取った。適当なマージンで作られたシンプルなフライヤーは、ラストライブと銘打つにはどこか情けなかった。いつだってそんなにかっこいいものを用意できるわけじゃないけれど、こういう端々が洗練されていないと思うたびに、もうちょっと売れてたらよかったのかなって思わなくもない。
「わかった」
ぼんやりと対バン相手の名前を眺めているその表情に、大きな変化はない。希美が次に口にする言葉の行方をぼんやりと考えながら、曖昧に時間を待つ私に、希美はあ、と小さい声を上げた。その言葉に、私は少しだけ肩を固める。
「これ、最初にライブやった箱だ」
「うん」
思ったよりも思いつめた私の声色に驚いている私に気が付かずに、希美は淡々と話を続けた。
「わかった。ありがとね。セトリは決まってる?」
「これから決めるけど、その、希美が」
「私が?」
「希美が、決めたいなら、決めてもらおうかなって」
歯切れの悪さが出たのは、杞憂に気がついたからというべきなのか。それとも気にしすぎの癖が出ていたからなんだろうか。どこか浮かれていたことに気がついた自分と、穏やかに終わっていく午後の空気が相まって、私の気持ちはどこまでも小さく蹲る。私の中であまりにも大切になってしまうと、他の人からどんな風に見えているのか、上手に想像ができない。
二十代後半の人間が、人の家でなんとなく小さくなっているなんて滑稽だなと思う。映画が青春モノだったから、彼女たちの美しさに引けを取られて、なおさらそう思うのかもしれない。
曖昧に放り投げてコントロールもめちゃくちゃなボールを、それでも希美は丁寧に受け取る。昔から、彼女はそうだった。
「じゃあ、一緒に決めよ」
笑いながら、希美はポスターの裏をひっくり返した。うつむいたままの言葉に、こういう優しい言葉をかけられるのが希美なのだと思うと、幼いころ頭をなでてくれた大人たちへのような恥ずかしさが、私の顔を上げさせてくれない。
「わかった」
床に転がった子供らしさを眺めながら返事をすると、希美がソファに思いっきり体を預けるのが視界に見えた。柔らかな布の形が歪んでいって、日差しも入り込めない隙間の奥に希美の指先が動いている。
「結局、短い時間だったけど」
指先では表情は見えない。だから、少しだけ曲げられた関節の想いはわからない。
「それでも、私の曲、夏紀に歌ってもらえたの良かったわ」
それだけ、呟くように希美は言った。少し逸らされた目線の先にあるのは、ギターなのか、それともレースの向こう窓の外なのか。外はもう夜の準備をしていて、夏の夕方に澄んだ青色と太陽の金が混ざり合っている。
言葉にされてまず、希美の作った、少し気の抜けたワンフレーズが私の体の中を通り過ぎていった。すっかり馴染んでいったメロディは、まだ音源にできていないから、ほとんどの人たちは私が作った曲だと、きっと思っているだろう。
いつかできるCDのジャケットに、希美の名前を載せる日のことを思う私を知らずに、希美の言葉はまた放たれていく。彼女は瞼の裏側で、一体なにを見つめているのだろうか。
「あの曲も、いろいろみぞれとか、昔のこととか考えて作ったけど。私じゃ、いろんな気持ち忘れちゃうからさ」
それだけを確かに言いきった彼女の、小さく開いた口からあふれた感情を見つめている。
目を開けて、笑いをこぼした希美に口元を緩めながら、この人は本当に残酷だなぁと、思った。
伝えてもらえなかった気持ちの行方を追う人のことを、想ったことはあるのだろうか。
感情を預けられた私のことを、想ったことはあるのだろうか。
小さく息を吸い込んで、なにかを伝えようとして、やめた。
「そう、かな」
答えることができたのは、そんな曖昧な言葉だけだった。気がつけば空の向こうから差し込む日差しはかき消されて、分厚い雲で遮られてしまっているようだった。天気予報のことを思い出しながら、私は言葉を続ける。
「言葉にできたってことは、ちゃんと覚えていられたってことだと、思うんだけど」
「覚えてたっていうよりは、考え直したってだけだよ。思い出しただけ。正直、忘れてたんだと、思う」
目を伏せた彼女からゆっくりと選ばれていく言葉は拳銃のようだった。胸元に押し当てられた銃口の冷たさだけで心臓が止まってしまいそうだった。彼女が見つけた彼女の真実が、あまりにも冷ややかで、こんな温度で息ができるのだろうかと、そう思ってしまう。
「それだけで、十分じゃないの?」
私のひねり出した言葉に、希美は小さく首を振る。
「私は、それを宝物みたいにはできないから。思い出すだけじゃ、生きていくだけなのと同じなんだよ」
ごめんね。とだけ彼女がつぶやいた。謝ってほしくなかったけれど、正しいとも言えない自分がひどく情けなかった。何も言葉にできない私は、彼女が少しでも上手に息ができればよいのにと、それだけを思った。
許す、許さない。
ずっとその2つの言葉が頭の中でちらついている。
もしも同居人が、花言葉のようにその2つを並べて言っていたら、とんでもない恐怖だろうなと思う。
そういうどうでもいいことを考えながら電話をかけると、やっぱりミスをする。
『夏紀?』
電話の向こう側で、みぞれの言葉が聞こえて慌てて口を開く。いつの間にかコールは鳴り止んでいて、向こう側からは曖昧な空気音だけが聞こえていた。
「ごめん、ぼうっとしてて」
『大丈夫』
相変わらずのフラットな声にもう一度重ねるように謝りながら、向こうの時間を頭の中で計算しなおす。大体優子が電話をかけている時間を選んでいるから、問題ないはずだけれど。結局心配になって、もう一度聞き直してしまう。
「時間、大丈夫?」
『そんなに長くならないなら、全然』
「良かった」
タブレットを使って時間を計算すると、あちらの時間は十一時のようだった。本当に簡単に終わらせないとよくないだろう。どうやって切り出したものかと昨日の夜から考えていたはずなのに、いつの間にかフレーズも覚悟もどこかへ飛んでいってしまっていたみたいだ。
「今度、希美がやめるんだけど、うちのバンド」
慌てて選んで組み合わせた言葉たちは、辻褄合わせのためにどこまでも歪になっている。坂道のような高低を経る私の言葉に、返事はなかった。十秒の隙間は、私を不安にさせる。通話が切れているわけじゃないはず。朝六時から部屋の中で大汗をかいているのは、きっと数えるほどしかいないんだろうななんて思いながら、私は慌てて言葉を足す。
「あれ、希美がうちのバンドやってたって、知ってたっけ」
『うん』
事実確認で、受話器の向こうから肯定が返ってきて安心する。一緒にいるときはリズムをつかめても、どうしても電話越しでは上手にできない。そのぐらいには一緒にいられなかったのだろうな、と、高校時代の自分を思う。
『知ってる。見に行った』
「そうだよね、見に来てくれてたよね」
小さく息を吐いて安心しながら、私はまた話を続けた。今さら気遣っても仕方ないと思うと、だんだんと言葉の選び方が大雑把になる。
「それで、希美がやめることになってさ」
『うん』
「ライブ、やるんだけど」
『うん』
わかりやすく相槌を打つ彼女に助けられながらも、本当に切り出していいかわからなくなる。どうにか勇気を出して、電話をかけた意味を取り戻すかのように声を出した。
「映像、いる?ライブの」
大切な言葉が抜けて、慌てて付け足した。自分の鼓動で優子が起きてしまうんじゃないかなんて、そんなありえないことを考えてしまうほど慌てている自分がいる。永遠とも思える待つ間には、ノイズが笑えるほど乗り続けている。
『いら、ない』
多分三十秒もしないうちに返ってきた、その答えはノーだった。私がその言葉に返事を作らないうちに、みぞれはさらに言葉を重ねた。
『私は、バンドのときの希美のこと、なにもわかってないから』
その言葉にどういったみぞれの感情が乗っているのか、私にはきっとわかることはないだろう。それでも、それはきっと大切にしなくちゃいけないものなのだということはわかる。それが、きっと二人になにもしてあげられなかった私のできることなのだ。
希美が作った歌を、みぞれは聞いていない。それは多分確かで。それに、希美が伝えたいと思っていることは、きっとみぞれには伝わっていないんだろう。そういうものだと思う。みぞれはあのとき休んでいて、ライブハウスの外に出ていた。すべての感情をドアノブの向こう側に届けるには、あまりにも私の声は未熟過ぎた。
伝えきれなかった私ができることは、できる範囲で大切にすることだけだ。
「そっか。わかった」
『ありがとう』
歯切れの悪い私の言葉に、みぞれのフラットで、それでいて柔らかな言葉が続いた。あの校舎でいくつかもらったこの言葉も、今ではこんなに素直に受け取ることができるようになる。これ以上私ができることはない。それだけ確かに理解した。
「こちらこそ、夜遅くにごめんね」
『大丈夫』
その声を聞いて、本当に、大丈夫になったんだなぁと思う。嬉しくて、それでいてあまりにも悲しいその事実に、泣きそうになっている自分がいて。卒業式の優子のこと、今じゃからかえないなって思った。
そのまま話を続けていたら、私が涙ぐんでいることがバレてしまいそうだったから、私は最後のお礼をいう。
「そっか。ありがとう。おやすみ」
『おやすみ?』
二人で小さく笑って、そうして通話が切れた。
また一つ抱えきれない哲学を、知ってしまったような気持ちだった。朝食の準備をするには、ちょっと大きすぎる哲学だった。
「許す、許さないとか結局よくわからないわ」
答え合わせのようにその言葉を口にすると、サキは驚いた表情をした。リハーサル後の午後の遅い昼食をファミレスで取っているときのことだったから、ドリアを動かす手が止まっているのはなんだか滑稽だった。
リハーサルを終えると、スケジュールの確認をして、希美はどこかに行ってしまった。おそらく引っ越し関連の手続きなのだろう。転職をする、という話だけは聞いていた。友人の生活の合間にライブハウスを突っ込んだのは私だと思うと、複雑な気持ちになる。それも今日で終わりだと思うと、気を抜くとフォークを動かす手を止めてしまいそうになるぐらいには脳内が感情であふれる。どうにか生活を続けるかのように執拗にパスタを巻きつけていると、どこか愉快さを含んだ声が飛んでくる。
「それ、まだ考えてたの」
「あのねぇ」
私が反射的に渋い顔を作ると、たいして真剣でもないような謝罪が飛んでくる。いつものやり取りに、メンバーが一人抜ける日の緊張感はどこにもない。
「酔っぱらいの戯言だと思って流してると思ってたわ」
「言われたほうはいつまでも覚えてるもんでしょ、こういうの」
「まあそういうもんか。あんたはとくに」
そうやって投げやりな言葉の中にも、私への信頼が見え隠れしていて若干恥ずかしい。
この人の私の可愛がり方は本当に異常なものがあるなと、味のよくわからないパスタソースを絡めながら思う。そうじゃなきゃバンドなんて組まないのか。世間的にはそうでもないような気がするのだけれど。
ちょうどよく正しくそれでいて適切なサイズの信頼には、答えてしまったあとだからか、もどかしさに首をすくめることぐらいしかやれることがない。
「まあ、許そうが許すまいが、別に縁が切れるわけじゃないしね」
「そう、だね」
立ち上がった彼女にすることをなくして、空になった皿をぼんやりと見つめていると、やってきたウェイトレスに余韻は奪われていった。仕方なく顔を上げると、同じく食事を終えてドリンクバーから戻ってきたサキは健康に悪そうな緑色をテーブルにおいて、座りながら私の顔を見つめている。
「なに」
「なんか言いたいことあるんじゃないの」
見抜かれているなぁ、なんて思いながら、もう残り少なくなったアイスコーヒーの氷を混ぜる。グラスに反射する音が思ったより大きくて、ピークタイムを過ぎた店内でも流石に迷惑だ。
回せるものもなくなると、促された話の続きをすることしかできない。どうやって言葉にしたものか悩むけれど、なにかを選ばなければどうにもならないのもわかっている。
「許す許さないとは微妙に話が違うんだけど」
ゴールの見えない言葉でも、この人はそれなりに真剣に聞いてくれる。それが気まずくて、私は薄まりきったコーヒーを口にする。味のしない液体で口の中は少し満たされて、ちょっとだけ安心した。
「希美が作った歌、あるでしょう」
「うん」
「あれを、私のものに、しないでいれば。許さないでいれればいいなぁって」
握りしめた机の端を頼りに、言葉を続ける。向こう側の人はストローをかじりながら私の言葉を聞いている。待たれていれば、丁寧に言葉にできるから、助けられているなといつも思う。
「あれは結局希美の曲だからさ。希美がいつか向き合わないと、いけないんじゃないかな、って」
希美の作った曲をセットリストに入れたのは、本当に久しぶりだった。希美がいないときにやったことはあるけれど、希美がいる場で歌うのは、それこそ最初のライブ以来で。どういうタイミングで歌えばいいのかわかっていない曲だった。
好きな曲だけれど。どこまでも自分の曲じゃないと思う。ああいうことを私は思えない。ああいう思い出との適切な距離感の歌詞は私から出てこないのだろうと思うと、なんとなく悔しいのもあるけれど。それでも、ああいうちょうどよい距離感を、希美が見つけられたということは、ひどく嬉しいことだった。
だから、私たちのCDに入れるのは、なんとなく間違いな気がするのだ。
私の言葉がどこまでも甘い考えなのはわかっている。音楽が「正しく」伝わらないことなんてわかりきっているから。きっとそれは私の音楽だろうと、希美の音楽だろうと一緒だ。それでも、そうすべきことのような気がしたのだ。
いつの間にか空になったコップを握りしめながら、目の前の大人は私を現実に引き戻す声の温度でつぶやいた。
「聞いてるだけでもその人のものになっちゃうのに?」
「やっぱそっかぁ」
ため息をついて落胆の感情を表そうとして、思ったよりもずっと子供らしくなった自分の態度に驚いた。真剣に考えていたつもりもないけれど、それでもなんとなく止められてしまうと寂しい。
「いや、あんたが悪いわけじゃなくてね」
「え?」
ため息をついた彼女の言葉を、上手に飲み込めなかった。首をかしげた私の代わりに、会計を済ませるために立ち上がった彼女が笑う。
「演奏を終えて、あんたがそれでもそう思うのなら、スコアごと返してみればいいわ」
そういった彼女は、今思えば希美の気持ちを、私よりもわかっていたのだろう。
ライブが始まる。同じように歌って。彼女の作ったフレーズを弾いたとき、初めて聞かせてもらったその瞬間の感情が、もう思い出せなくなっていた。
気がついたら、私の音楽になっている。
希美の最後の出番は、大した感慨もなく終わった。
トリを任せていれば、アンコールができたのにな、と思う。
それなりの歓声を浴びてから引っ込んで、また片付けのために戻るのは、毎度どうにもやりづらいなと思いながら機材を片付けて控室に戻る。最初のころは一番最後に片付け終えて、次のバンドに頭を下げていた希美も、いつの間にか要領よく戻ってこれるようになっていた。もとから手際はいいほうだけれど。彼女が丁寧にギターケースにしまっていく姿に、ステージ上で身につけた作業も、きっともう、使われることがないのだろうなと思う。
センチメンタルに寄りすぎている自覚はある。それでも渡したエフェクターがステージに上る最後かと思うと、どこか涙が出そうになる自分がいた。
せめて泣かないようにと上を向いた私の耳には、次のバンドのキーボードの音が響いている。確かに次のバンドは、音の厚みが圧倒的だという話を聞いていた。とくにはっきりしない記憶を転がしていると、片付けを終えた希美が上から覗き込んできた。驚いて体制を崩しそうになりながら、目元が赤くなっているのがバレていないか心配になる。
倒れそうになった椅子を慌てて掴んだ希美に謝ると、希美はひらひらと手を振った。
「良かったよ」
どこかその言葉が、時間をかけて作られたものだったとわかって、寂しくなった。
こうやって互いに言葉を選んでいるうちに、たくさんのものをなくしてしまうのだろう。それが希美はもう二度と訪れないであろうこの狭い控室に落ちていって、私だけが見つめていくのは辛かった。
だから、本当に伝えなきゃいけないことはちゃんと言葉にするしかない。
そう思って希美の瞳を見つめると、彼女の作られた笑みが静かに崩れ去っていった。
「希美がくれた曲、返そうと思う」
そうして、スコアをまるごと差し出した。もう十分に私のものになっていたことを、改めて今日のステージで思ったけれど。それでも、返そうと思う。
私の言葉が響くと、ちょうどステージでは演奏が終わった。ぼんやりと聞こえる拍手に、励まされているようには思えない。それでも続ける必要があった。希美の瞳からそっと目をそらして、言葉を選ぶ。
「もう歌わない、と思う。あれは希美が大切にしておくべきだよ」
許さない、ということがどういうことなのか、ずっとこの夏の間考えていた。八月が過ぎ去っても、答えは出なかったけれど。私が言えるのはこれだけ。
あの想いは、私が持っているべきものじゃなくて。希美が持っていないといけない。
決断を噛み締めて差し出したままの手のひらを、それでも希美は受け入れなかった。
「もう今さら遅いよ」
希美はそういって笑っていた。薄汚れた蛍光灯の下でも、希美の笑みが本物だということはわかる。
「今日の演奏で改めてわかったけど、あの曲はもう夏紀の曲になってるよ。私じゃあんなに優しく歌えない」
そうやって、希美は立て掛けていたギターケースを柔らかくなぞった。その輪郭がはっきりと映るにつれて、私のものになっていた彼女の言葉を想う。
希美は、わかっていたのか。
いつからわかっていたのだろうか。スコアを渡された日のことを思い出す。きっとそうではないだろう。それでも私の声が、そうやって別の意味を持つことを、希美は気がついていたんだ。隣に立っていたから。一緒に作ったステージの上で。そうして、そのままそれを取り返すこともせずに、私に差し出した。私に持っていてもらえるように。
騙されたことに何も言えない私の前で、希美は少年のように笑う。
「夏紀に歌ってほしくて、夏紀にあげたの。私じゃ失くしちゃうよ。プレゼントだと思って受け取ってほしい」
その言葉にようやく、じっくりと長い時間をかけて穏やかな罠にかけられていたことに気がつく。
卑怯だな、と思った。
それでも責められない私がいた。電話越しのみぞれの聡明さと、映画のあとの午後の寂しさがやってきては、取りこぼす選択肢はわたしにはない。
私が手をおろして、スコアをもう一度握りしめ直すと、希美は本当に嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
そういう彼女は、一番きれいに笑っていた。
せめての反抗として、ため息をついて腰に手を当てた。これほど清々しく諦められてしまう後悔はなくて、余計に悔しい。
「希美は本当に、こういうとこ自分勝手だよね」
私の言葉は、思ったよりもずっと優しくて。
希美は私の言葉を聞くと、少しだけ目を見開いた。それで笑った。
「そうだよ、知らなかった?」
意地悪なその笑顔が変わってなくて、眩しかった。
「知ってたよ」
二人だけの三次会を抜けると、もう外が白んでいた。朝の六時前でも、この季節は十分に暑い。適当に買った自販機のペッドボトルに口をつけて、働かなくなった頭を無理矢理動かして電車へと向かう。
「なんの話してたっけ」
「覚えてない」
「滝先生のモノマネで盛り上がったのは覚えてる」
「私もそれだけだわ」
高校生のようなその仕方のない遊びを、また思い出して二人で笑う。朝がきて、少しずつ街が動き出していても、酔っ払った人間二人ぐらいのスペースはある。人通りの少ない方を選んで歩けば、いくらでも笑うことができる。今は笑っていたかった。
あれだけ手を叩いて笑ったというのに、まだ笑えるのは不思議だなんてそんなことを思う。話足りなくなるなんて昔のことのようだと思いながら、二人でふらついて歩くと、朝の光に川の流れが見えた。
「川だ」
「そうだね」
ほとんど意味のない会話をよそに、目的地でもないのに希美は階段を下って川岸を降りていった。また帰るのが遅くなるな、なんて思いながら、どうせ日曜日の朝のことだ、ラッシュなんてないだろうと思い直して私も後を追う。私が同じように慎重な足取りで階段を降るのを見て希美は子どものように嬉しそうに笑った。置いて帰るわけなんてないのに。
穏やかな川岸はあまりにも静かで、私たちが歩く足音と、水の流れだけだ。通り過ぎていく散歩中の人間は、私達の背中を見て違う人種だとでも言うように避けていく。
「若い頃に比べてさ」
「なに?」
先を行く希美が歩幅をゆっくりと狭めながら口を開いた。外はどこも眩しくて、3メートル先の彼女の表情もよく見えないけれど、それでも問題ないんだろう。
「徹夜がキツくなったよね」
「あー、わかる」
「今もうフラフラだもん」
それだけ言って、希美はその場に座り込んだ。私も真似をして体を下ろすと、なんとなく風が気持ちよかった。日中川沿いに座り込んでいる恋人たちを笑えないな、なんて思いながら、誰もいない向こう岸からやってくる静かな風を感じている。
希美も穏やかに目を閉じていたけれど、やがて今にも全部倒れきってしまいそうな体をどうにか持ち上げて、体育座りのように膝を抱え込んだ。緩やかに曲がっていく彼女の背中を眺める私をおいて、希美は小さく笑った。
「嬉しかったな」
そういって、背負ったままのギターケースを叩いた。もう何度も見慣れたそれが、希美の背中に馴染んでいるのは、私にとってもなぜか幸せだった。
「こいつ買ったときはほんと生活どうしようかと思ったけど、もう十分すぎるぐらいいいものもらったよ」
「元が取れた?」
「うん」
「それは良かった」
打ち明けられたときのあのいたたまれなさそうな表情からはずっと遠くにある今の笑顔に、大体すべてを許してしまう。希美もそれだけで満足したのか、また目を閉じた。
穏やかな朝に、ここなら後悔せずに言えるだろうと思った。
「あのさ、希美」
もう一度目を開けた希美の、その瞳を見つめて言葉にする。
希美がやめることがわかっていたときから、一つだけずっと伝えたいと思っていたこと。
「いつかさ、もう一回バンドやろうね」
家に帰ると、もうすっかり朝が街を支配していた。休日の朝にまだ起きてこない優子を起こさないように、静かにリビングのカーテンを開けた。眠ることは諦めてシャワーなんて浴びたあとだから、もうすっかり太陽が大きな顔をしている。強い光に、そっと目を細めた。
穏やかな日差しが私を貫いている。優子に持って帰ってもらった花束が、リビングのテーブルの上に小さく横たえられていた。
優子が起きてきたら、花瓶を買いに行こうと思う。花束を美しく飾るための。それを希美の家にも送ろう。ギターと並んだそれは、きっと素敵だろうなと思った。