私の気持ちを、みんな恋だと言った。
だから、もしかしたら、恋なのかもしれない。
たった一つしかない感情に、名前をつける意味なんてない。燃え続ける想いに、燃やされない日なんてないから。いつか灰になる日を待ちながら、炎の中で生きていく。恋に生きるというのは、きっとそういうことだ。私のこの想いの名前が、なんであったとしても、いつか私を跡形もなく消していくことに変わりはない。だから、私は感情の名前をつけようとは思わない。
燃やし尽くされるその瞬間までの延長戦で、抜け出すことのできない戦場の上、いつか迫りくる炎を向こう側に眺めながら、私は生き延びている。
故郷から遠い国での日常は、もしかしたら、あの街の重さに耐えられない不器用な私を、少しでも生き延びさせるために本能が選び取ったものなのかもしれない。
パリの築二十年のアパルトマンに、連れていけたのは燃え続ける私の炎だけで。思い出はそこにはなかった。記憶とともに作り込まれた愛おしさが、狭い部屋に広がってはいるけれど。それでも、あの街ほどの強烈な愛おしさや感情を、感じることはなかった。大人になって自分が作った空間は、生きていける程度の恋の記憶に囲まれている。
空だとか、川の流れだとか、そういうものが思い起こさせるものはあるけれど。それでも、新しい記憶が少しだけ、その痛みを和らげてくれるから。
だから、遠い国でこれからも生き延びていくことを、私は悟っていた。
それでも、もしも、恋なのだとしたら、と。
一人眠れず過ごす乾いた夜に、あるいはステージを降りて客席から見えなくなる瞬間に、夕焼けのきれいなスーパーマーケットからの帰り道に、私は胸に手を当てて、一つ考えることがある。
私のお腹にも、蝶はいるのだろうか。
恋を知らせる蝶が、舞っているのだろうか、と。
穏やかな春の日差しの中で、眩い夏の太陽の下で、まさに自由のように飛ぶ蝶が、こんな窮屈な私の体の中に、いるんだろうか。
初めてその言葉を知ったときから、ずっと考えている。
私の蝶は、どんな色をしているのだろう。
私の蝶は、どんな風に飛ぶのだろう。
私の蝶は、いつ死ぬのだろう。
それは恋が終わったときなのか、恋が叶ったときなのか。私が死んだときなのか。何度も私の体を突き破ろうとして、それでも私を殺さなかった蝶々のことを、考えることがある。
もしも私の蝶が死ぬことがあるならば、丁寧に埋葬をしてあげるべきだと、そう思っている。
そのお墓は、きっと私と同じぐらいの大きさであるべきで。
なぜなら彼女は、もう私そのものだから。
私の代わりに、きっときれいに舞ってくれたから。
希美と、連絡が取れなくなっている。
そう気がついたのは、三年ぶりの地元でのコンサートのことだった。
もう季節は秋で、寂しくて厳しい冬の前触れが宇治川の光の上をなぞるように吹いていた。懇意にしてくれているフルート奏者から、話をもらった。東京でのコンサートが一年以上前で、随分と長いあいだ、日本でオーボエを吹いていなかったことに気がつく。
もらった関係者席のチケットを、持て余して悩み抜いた末、希美に渡すことに決めて。自分の部屋から抜け出して、静かな川沿いにまで歩いて覚悟を決めた。人が聞けば少女のようだと言うだろう。
彼女の声を最後に聞いてから、二百日以上が経っていた。私の炎は、もう生活の一部になっているから、アラートのようにけたたましく彼女との距離を伝えたりはしない。こういうことに気がつく瞬間に、私はこの街を出て、あの街で暮らしていることに後悔する。
それでもこの四年間、この十一桁の数字は私と彼女をちゃんと繋いでくれていて。どれだけためらった先でも、私の音を希美へと届けてくれていたから。だから、今日だって、そうやってまた細い糸の存在を確かめさせてくれると思ったのに。強く握りしめた左手を、また解いてくれる魔法をくれると思っていたのに。
無機質なコールは一瞬で鳴り止んだ。
おおよそ永遠の時間をかけて、伝わらないことを告げられた。
世界から色が消えた。また、いつかと同じように。
どうにかすがりつくように、もう一度かけ直してみても。また同じような永遠を味わうだけで。
突然、この大きな川の流れの中に、取り残されてしまったようだった。ひどく孤独な自分が、そこにはいた。つながらない電話と届かないメッセージを並べて見ていると、お腹の中の蝶が死んだように苦しみだした。これでも死ねないなんて、私と同じで可哀想だ。
逃げ出すように、どうにか次の一歩を踏みしめて家に帰りながら思う。
この世界は、どうやらいつかの日と同じように残酷らしい。
夏紀によると、希美はどうやら東京に行ったらしい。
呆然として一日が過ぎて、もうコンサート当日になっていた。リハーサルを終えた私は、ようやく夏紀に聞く、という選択肢を思い出した。
控室の奥まった暗い廊下、いつかの夏以来に、夏紀と電話をかけた。
挨拶もそこそこに希美の居場所を聞いた私に、彼女はまた背中を丸めるように言葉を放った。転職の関係で、東京にいる、と。
夏紀の声は季節の間のように穏やかでありながら、希美の名前を出したとき、少しだけその声色に陰りを見せた。その影の黒さは、夏紀が私と希美の話をするとき、いつも同じように染みていく
夏紀が密かに抱え続けている後悔の正体を、私は知らない。きっとそれを私が奪うことは出来ないから、私はこの先もずっと、彼女に密かに償わせ続けるのだろうと思う。それでも、私にできることはなにもないと、そう思う。
『ごめんね、希美が伝えてると思ったから』
スマートフォン越しの声は相変わらず優しかった。ずっと昔からそこには嘘がなくて、だからきっとそれが真実なのだろう。夏紀の正しさにきっと報いることができない私にも、夏紀はいつでも誠実だ。
優子が彼女と暮らしていることは、私にとっても幸福だった。二人の善き人間が、支え合っているということは、ひどく暖かくて、尊いことだと思った。その暖かさが時折、私を凍えさせないといえば、嘘になるけれど、それでも。
考えても、夏紀の謝罪に返す言葉は見つからない。だから私は少しだけ引きつった声で希望を手繰り寄せようとする。
「連絡先、とかは」
それでも、ためらいが向こう側から聞こえた途端、手繰り寄せられる希望なんてどこにもないと気がつく。
『スマートフォン変えたっぽくて、私からも連絡つかない。引き継ぎ失敗したんじゃないかな』
自分だけが遮断されたのかもしれないという恐怖と惨めさからは逃れられても、絶望には変わりがない。縋るように頼った糸が切れて、自分が色のある世界から落とされていくような気がした。頼れない両足の代わりに背中を廊下の壁につけると、ふらついた体がどうにか支えられたのがわかった。また立ち続けてしまった自分に気がついて、消えなかった自分の体が少しだけ邪魔だと思う。
「そっ、か」
確かめるように返事を返すと、自分が思っているより、ずっと弱った声が出た。もう慣れっこだと思っていたのに。こんなこと、何度でもあったのに。何度覚えようとも、絶望の味は猛毒で。
『大丈夫?』
「だいじょう、ぶ」
向こう側で気を配る彼女の言葉に、自分でも上手に返事ができない。こんなとき、上手にできたことなんてないけれど。二十五年以上生きてきて、やっと少しだけ人並みにできるようになったことも、こんな痛みの中ではまた、幼いころのように拙いものだけだ。
「ありがとう」
『……うん』
それでもどうにかお礼だけを伝えると、きっと同じように傷つくことのできる夏紀は、静かに息を吐き出すように答えを返した。暗闇の中で目を慣らすことに精一杯な私に、夏紀はためらうように二回息をして、それからそっと私に語りかけた。
『あのね、みぞれ』
「なに?」
上手に前が見えない場所では、音はあまりにも大切な命綱だ。それがわかっているからこそ、夏紀はためらうのだろう。もし私がその音に耳をやられてしまったらと、思うのだろう。そのためらいが小さく響いて、ざわついた控室の声にもかき消されてしまいそうな戸惑いとともに、声になる。
『私からこんなこというのも、変かもしれないけどさ。バンド、やめるときに、希美、新しいこと始めるって頑張ってて。だから、今あんまり手が回ってないのかも、しれない』
その言葉には、夏紀のためらいと同時に、夏紀の寂しさまでちゃんと含まれているように思えた。そういう誰かの寂しさが、私の中で救いになるようになったのが、私の大人の始まりだった。
夏紀は、きっと同じように寂しがっているのだろう。私の痛みとは違うところで、夏紀はまた泣いたのだろうか。ちゃんと思い浮かべられること、もう忘れてしまったこと。その二つを上手に並べながら、私は夏紀の言葉の続きを待つ。
夏紀は、自分の寂しさに気がつくと、それを恥ずかしがるように、そうしてあざ笑うように言葉を続ける。
『だけど、そんなことみぞれは知らないよね。私がちゃんと、言っておけばよかった』
「夏紀は悪くない」
『でも』
「希美が悪い」
私の断言に、夏紀は電話越しに笑った。カラッとした夏紀の笑いは、この静かな廊下でも十分に私を暖めてくれて、それでよかった。ここに優子がいたら、もっと暖かくなっていたのかもしれない。そう思う。
『そりゃ、そうか』
「うん」
電話は、相槌が伝わらないから、全部言葉にしなくちゃいけなくて面倒だ。そんなことを思いながら、言葉にした同意の言葉は、いつかよりもずっと優しくて。こういう声が出せると、私は生きたのだな、と思う。彼女のいない時間を。
『ごめんね、変な話しちゃって。私の方でもなるべく調べてみる。連絡取れたら、またつなげるから』
「ありがとう」
十分に話し終えた、そんな気持ちだった。まだ十分に休憩時間はあるけれどこのまま話し続けることもないだろう、と思う。不思議な距離感だった。夏紀の善意は、いつでも柔らかくて、だから手で除けようと割れたりはしない。
「優子、元気?」
しばらくの沈黙の先で、一つ確かめたいことができた私が声を紡ぐと、夏紀はまた色が変わったように明るい声を出した。
『元気だよ。変わろうか?』
その言葉に、二人が一緒に生きていることがわかって、今まで流れもしそうになかった涙が、溢れそうになった。
優子と夏紀は、たとえ幸せでなくても、二人で生きていける関係なのだろう。
羨ましかった。
それでも、それ以上に、安心した。
今の私には「幸せになってほしい」なんて言葉、苦しすぎて呪いのようなものだ。自分の喉からその言葉が出てきたとして、私の身に降りかかる呪いがどれぐらいの重さなのか、考えるだけでも心が殺されるようだった。
「大丈夫。私は元気って、伝えておいて」
『わかった』
「ありがとう」
『いえいえ。頑張ってね』
「うん」
電話が切れたあと、暗闇に目が慣れていることに気がついた。私は、幸福じゃなくても幸運だと思う。目が慣れるまで寄り添ってくれる人がいて、立ち止まっていたら声をかけてくれる人がいて。ずっと先の明かりに、なってくれる人がいる。
それでも。
希美が、この街を離れたということ。
それだけが、今の私には確かな事実だった。
電話を切ってからどれだけか待つと、本番の時間になった。
もう絶望に目を慣らしていたから、私はステージまで一人で歩くことができる。上手に歩けるようになった、と思う。
ステージの上で、いつものように希美を想ったけれど、今日は遠い遠い昔のことしか思い出せなかった。花のある道を、彼女が歩んでいくような、そんな思い出。多分美化されたであろうその記憶の、元の姿を見つけ出すことはもうできない。生きていくうちに変わっていく記憶が、私の生きる糧になってしまったから。
演奏が始まる前、主催が私を褒めるのを、ぼんやりと聞いていた。その上品な言葉選びを見つめながら、いつでも思う。
もっと寂しさを表す言葉が、世界に溢れていればいいのに。
寂しさを表すための言葉は、私の人生にいくつあっても足りることがない。
そう、ずっと思っている。
埋めることのない穴を、誰もが胸の奥に持っているのだとしても。私の寂しさは、いつでも私を飲み干してしまいそうで。
だから、それに殺されないために。私は今日も息を吸い込んで。
「鎧塚みぞれです。本日はよろしくお願いします」
そう声を出して、拍手の音を聞きながら、それでも思う。
あなたが、そこにいたら。もっと美しかっただろうに。
演奏は終わって、ステージから引くとき、私はまた客席全体を眺める。
また今日も、泣いてくれる人がいた。客席の右端で、きっと私の知らない誰かを思って泣いていた。そのハンカチに吸い込まれる涙が、ひどく輝いて見えた。
そうやって、私の分まで泣いてくれればいいと思う。わたしが泣けるようになった日に、流す涙がなかったとしても、あなた達の涙を思い出して、私は私を慰めることができるから。乾ききったあの街と、燃え続ける感情の下で、私はきっと一滴の涙も残されずに死ぬのかもしれないと、そう思う。
いつも通りの行動も、少しでも近くにいられると思ったあなたがいない夜では、特別な意味を持ってしまう。泣き方を思い出せそうな気がしても、涙があふれることはなかった。
今年の年末年始は帰郷できないことがわかっていたから、今回の帰国はそれなりに長い日数を取っていた。
仕事が終わってから帰国までの一週間を、私は街を歩いて過ごした。実家の部屋には、あの頃読んだ本も、アルバムも、楽譜もあって、ちょっと身動きしただけで、その熱に火傷してしまいそうだったから。冬になるための風の冷たさが、燃えた心にはちょうど良かった。夏紀からの連絡はなかったし、希美の連絡先を見つけることもできなかった。
いろんな街に行った。二人で歩いた道から、変わり果てて記憶のない雑貨店まで、逃げ回るように歩き続けた。人混みの中からあなたを見つけたように思ったことはなかった。あなたがこの街にいないとわかっていたからかもしれない。あなたのいないこの街では、人混みはもはや空気のようでしかない。私は少しだけ温かいその空気を避けるように街を歩いた。
そもそも、この街を最初に出ていったのは私の方だ。結局選んで、そうなっただけで。
だから、希美がこの場所を離れていくことに、私が何も言えることはない。
それはわかっていても、それでも。
どうして、と思う。
どうして、伝えてくれなかったのだろうか。
一言でも、その声が聞きたかったのに。
それだけで、それだけでよかったのに。
そうすれば、私はあなたとの思い出を慰めて、この短い帰郷を少しでも穏やかに過ごすことができたのに。
密かな希望を砕かれた今は、あなたのいないこの街で、あなたを訪れることもできない部屋の中で、どうやって過ごせばいいのかわからなかった。街灯に照らされてみても、秋の風に吹かれてみても、あなたがいない寂しさだけが胸に刺さっていて、どうやって歩いていのかも思い出せなくなってしまう。空の上であなたに会えるかもしれないと、それだけを考えていた私を笑っても、結局上手に歩くことはできない。
もしかしたら、もう二度と会えなくなるのかと、そう思ってしまう。
初めて、今の自分の部屋が恋しかった。
早く、帰りたいと思った。
あそこには、思い出で作った記憶しかないから。あの部屋で一人で過ごす夜に、時折胸の奥に感じる痛みさえ、今思い返せば甘やかでごほうびのようだった。私の幻想と美化された出来事の中で暮らしてくほうが、ずっとずっと簡単だと、この街にきてようやくわかる。
この痛みと一緒に生きていくのだと思っていたのに。いなくなってみて初めて、まだ感情の炎が燃え続けていることに気がつく。いつまでも終わらない恋をかき消すように胸を掴んでも、燃え続ける炎はまだ私を焦がし続けている。
苦しかった。
逃れたかった。
それでも、この痛みは私そのもので。
私の話を聞いた人の多くが、私の恋を私そのものだと言った。あなたはその恋を手放せないと。その恋を手放させないから、あなたの演奏が生きるのだと。そう言った。結局私はその炎をわけるようにして表して、それで生活をしている。だから、手放せないと、わかっている。
きっと今の私から、この恋を引き剥がそうとしたら、私の体はちょうど二つに分かれてしまって、どこにもいなくなってしまうのだろう。
だから今の私は、この炎にいつか私が焼き尽くされるか、それとも消えて涙の流れる日が来るか。そのいつかを待ちながら、燃やされ続けるしかない。
いつか灰になるその日まで、私は生き続けるのだろう。それだけが確かに、私にわかることだった。
実りの無いおとぎ話でもいい
出鱈目で不細工だった日々にめがけて
放り投げてみた秘密の呪文
なるようになるしかない
でも
それでも。
そうだとしても。
空港には、出発時間の少し前についた。帰国一日前の時間を十分に使って、書いた手紙を送るために。
優子の住所が書かれたその封筒には、三枚の便箋が入っている。
一枚は優子。彼女がいつも送ってくれる日々の報告と私の気遣いに感謝を込めて。お幸せに、とは書かなかった。幸せそうでよかった、とは書けなかった。書く必要もなかった。私なんかが祈らなくても、彼女たちはきっと生きていける。それが嬉しかったから、そういうことを書いた。伝わるかはわからないけれど、きっと読んでくれるだろうと、思う。泣いてくれるだろうか、とも思った。
一枚は夏紀。穏やかなその優しさに許しを求めて。どれだけの傷を彼女に持たせ続けたのか、私にはもうよくわからない。きっとそれを軽くすることも、私にはできない。それでも友達でいてくれますように、と、願って。きっと許してくれる彼女に、それでも私はまだ謝りたかった。
そしてもう一枚は、希美。
贈り物をしてあげたかった。私の光に、いつまでも輝き続ける太陽に、何か、一つでも届くものがあればいいと、そう思った。届けてみたい魔法があった。
雲の上で、また思い出す。私の蝶に会うことができたら、彼女にも贈り物をしてあげなければいけない、と。燃え尽きることのできない羽を広げて、痛みと共に舞う彼女にせめて、なにか、私から。