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響け!ユーフォニアム/リズと青い鳥

stare stare

2020年4月に通販にて頒布したなかよし川ルームシェア本「sker sker」より二作目「stare stare」の再録。猫を可愛がる吉川優子と猫に懐かれない中川夏紀のルームシェアの終わりについて。

「あれ、もしかして」
 優子がそう声を上げたのは、二月の雨が降る週末のことだった。冷たいそれが雪にならないだけ、季節は少しずつ春に近づいていた。二本分の傘は公園とガードレールの内側では少し窮屈だ。いつものように繰り返し続けた小競り合いの途中で、それまで聞きなれた不機嫌な声を鳴らしていた優子が驚きに声の高さを上げた。
 優子の目線の先にはくすんだ色のダンボールと、そこに不自然に添えられた傘が並んでいる。言葉に詰まっているらしい優子の代わりに、私が言葉を引き継いだ。
「動物っぽいね」
 そのとき私はもう数えるほどになってしまうであろう優子との心地よい諍いを中断されてしまって、その存在に少しだけ胸がざわついていた。
 思えば、この頃から彼のことが苦手だったのかもしれない。
 彼は、驚くほどわかりやすい捨て猫だった。少しだけ縒れたダンボールの中にいて、透明な傘の下でうずくまっていた。聡明そうな翠の瞳を向けて、私達を見ていた。小さな体で怯えることもなく、ただ黙って私達を見ていた。あまりにも凛としたその様は、まるで自分ですべてを選んだかのような誇りのようなものを感じさせた。
 おそろいの色を見つめる優子がゆっくり近づくと、小さく鳴いた。雨の音でかき消されてしまいそうなほどの鳴き声が、静かな公園の中に響いた。そのときようやく本当に、私たちはこの目の前の子猫が捨て猫であることを理解したのだと思う。その声の小ささが想像つかないほど、彼はしゃんとして見えた。
「今日、捨てられちゃったのかな」
「そうでしょうね。傘があるあたり」
「なんでまたこんな寒い日に」
「雪が降っていないだけましだったのかも」
 言葉を交わす私達の間を、彼の視線が通り過ぎていく。弱っているようには見えずとも、この雨だ。時間が経って衰弱していく姿は簡単に想像できる。
「一匹だけ?」
「うん。他には、いないと思う」
 確かめるように辺りを見渡しても、雨の小さな公園には私達の他には誰もいない。私達二人ぐらいでは埋められない静かな空白が余計に寂しかった。
 だからこそ、選択肢は私達には存在しないと、そう思っていた。だから私は悲しい冬の思い出として残るであろうこの景色を少しでも和らげるために、持っていたタオルで彼の体を包もうとした。
「タオル持ってるの?丁度よかった。じゃあ、アンタが抱えていって上げて。私が傘さして上げるから」
 罪滅ぼしをするように動かした手に、優子は淡々と言葉を選んだ。私が首で挟んでいた傘を取ると、二人で入れるようにと距離を近づける。
 こういう彼女の意志の強さとためらいのなさを、私はいつから嫌いではなくなったのだろうか。そんなことを考えながら、私は文字通り固まる。タオルを取り出したままビニールすら剥がさずに動かなくなった私に、優子は少しだけ目を細めて私を睨む。
「何してんの」
「いや、まさか連れて帰る気?」
「そりゃそうでしょ」
 なんのためらいもないかのようにそう告げる彼女に、思わず笑ってしまいそうになる。右肩に微妙に当たる雨が十分冷たかったから、その前に冷静になれたけれど。
 いくつになっても優子は、まっすぐなままだ。そのまっすぐな背中をいくら好ましく思っていようとも、そしてその決断の理由を理解できても、首を縦にふれないことはある。
 言うべきことを探す間、私はやっとのことで開いた口を閉じることができなかった。先輩に買わされた安っぽいバンドのタオルは握りしめるには心許なくて、だから私は言うべきことを探すために何度か無駄に息をする。
「どうすんの」
「何が?」
 やっとのことで絞り出したかけた言葉に、優子は首をかしげた。まるで他に選択肢などないかのように振る舞う優子の様子に、どうしても気後れしてしまう。それでも引くべきではない場面がある。だから、私はまだ言葉を選ぶ。
「今うちに連れて帰ったって、一ヶ月もうちにいられないでしょう」
 こうして雨に打たれている二人での生活の終わりは、すぐ近くにいた。
 三月も中旬になれば、優子は部屋を出ていく。そして東京へ。私は一人、同じ部屋のまま京都に残る。それが決まった日から、私はずっと終わりのことを考えていた。もう終わってしまうものに、可能性などないと思いこんでいた。
 終わりが近づく部屋で、一匹の猫を飼う。それはどこか夢みたいだけれど、その素敵に目がくらむほど私たちは夢想家じゃない。
「それは、そうだけど。だからって、見捨てるわけにはいかないでしょう」
 ずっと終わりのことばかり考えている私に比べて、優子は淡々と終わりまでの日々をこなしていた。別れに泣き、新天地に馴染む。そういう態度の差が、現れているのかもしれない。
 彼女の決断はシンプルだった。無責任ですらあった。苦笑いをこぼした私に、優子は少し顔をそらす。
「一ヶ月しかいられなくても、少なくとも一ヶ月はいられるんだから」
 言い訳がましいそれは真実でもあった。優子の子どものような向こう見ずを恥じる気持ちが目をふせさせようとするのを、自分の気持ちを信じて堪えているようだった。
 私は、少しは大人しくなったはずの向こう見ずがまだ優子の中で息をしていることが嬉しかった。そういう走る優子を自分が留められたのも。だから、それ以上調子に乗らないように、優子のことを助けることにした。
「大家さんに相談してみよう。あの人はいい人だから、どうにか許可してくれるかもしれない」
 私がそういうと、小さく頷いた優子はゆっくりとタオルでその猫を包んだ。猫がオスであることに気がついたのは、それから一日後のことだった。
 私はその日から、その猫のことをどこかで彼と呼んでいる。

 彼は病院で検査を受けて、健康であることが確認されると、そのままうちにやってきた。大家は優子のことを大変気に入っていたから、うちで飼わせてほしいという彼女の願いを一二もなく承知した。そうして慌てて買いそろえた彼のための生活用品が、あと一ヶ月と少しでなくなっていくはずの私達の家に並べられていったのである。
 彼にはアルという名前がついた。私がつけた名前だ。
「そこに在るだけで幸せだから」と、私は優子に嘘をついた。
 アルは優子に大変よく懐いた。彼女がいるかぎりは、なるべく彼女のそばにいようとしていた。優子も穏やかで賢いアルのことを気に入って、なるべくながいあいだそばにいてやろうとした。
 穏やかで寂しいはずの三月は、別れの準備と三人暮らしに挟まれて不思議と賑やかに過ぎていった。少しずつ暖かくなっていく日差しとともにこなれていく二人の一匹の暮らしは、そのまま流れ続けると思えるような温度があった。
 それでも、訪れる別れをなかったことにはできない。穏やかな日々の後ろ側で少しずつ優子の部屋から運び出されていく荷物は、この生活のタイムリミットのように私の目には映った。共有スペースも少しずつ歯抜けになっていき、部屋に確かにあったはずの景色がぼんやりと薄くなっていた。
 私のその隙間を、アルは埋めてはくれなかった。
 アルは、どこか私を警戒しているように見えた。
 彼は優子がいない間はいつでも、慎重に私と距離を取りながら、私の隙間の外側で暮らしていた。
 私がアルに信頼されていないわけではなかった。私の手から渡された餌は食べたし、私が撫でればそれらしく嬉しそうにした。だが、それだけでしかなった。彼は私と距離を取っているとき、その瞳で私を注意深く見つめていたように思う。その色はもういなくなる同居人と同じで、綺麗な薄い緑をしていた。どこか見透かされたようなその視線に、ずっと慣れないままだった。
「結局、里親探しはどうするの?」
 だから私がそう切り出したことについて、私は正義感や義務感だけからその選択肢を取ったとはとても言い難い。優子との生活が終わる虚脱感に、彼の瞳が重なった自分が耐え難いと思わないとは考えられなかった。
 優子の部屋の地面に座って、ベッドの上で優子と戯れるアルに問うように視線を向ける。彼が来てから多くの時間を優子の部屋で過ごすようになったけれど、その分欠けた場所ばかり目に入ってしまう。すっかり夕食後の定番になったこの時間にも、少しずつ終わりが近づいている。
 里親探しにはそれなりの時間がかかる。優子が東京に行く前に終わることではないだろう。それでも、今のうちから動き出さなければどうにもならなくなってしまう。
「そうねぇ」
 優子はまた新たに買ったおもちゃで緩んでいた頬を引き締めると、遊ぶ手はそのままにため息をつく。彼女も可愛いばかりが先に走り問題を先送りにしていた。私も彼女がアルを甘やかすこの時間は終わりにふさわしく優しかったから、見てみぬふりをしていたけれど、それでもタイムリミットを無視し続けることはできなかった。
 このままでは不誠実だ。命の問題でもある。優子の暴走を止める役割は私のものであったし、最後までそうであってほしかった。
「提案なんだけど」
 私が答えが出るまでと優子を見つめていると、彼女が撫でる手を止めずにつぶやく。
「アルとこれからも一緒に暮らしてくれない?」
 予期せぬ――いや、どこかで予想していた言葉がやってきて、それでも動揺は隠せない。
「どうして」
 思っていたより掠れた声が飛び出す。その声に、アルがゆっくりとこちらに瞳を向けた。
 優子はようやく撫でる手を止めると、私にその瞳を向けて言葉を選んだ。
「誰か知らない人のところに預けるよりは、アンタに預けたほうがいいでしょうって」
 二人暮らしが終わっても、この部屋は私の部屋であり続ける。
 東京に就職を決めて、テキパキと新たな生活の拠点を決めていく優子に比べて、私の新生活の決定と言ったら、それは怠惰なものだった。地元での就職では転居しようがしまいが生活圏内はさして変わらなかった。二人で住んでいるこの部屋の家賃も、一人で払えないことはなかったのも、私を部屋選びから遠ざけた原因の一つであろう。もともと力の入らなかった新居選びは最後には形だけになっていて、「生活が落ちつくまで」という名目で私一人がこの部屋に残ることになっていた。
 だからアルがこの部屋に残り続けることは、別に不可能ではなかったのだ。私がその選択肢を、どこかで望んでいないだけで。
「ねえ、私からの最後のお願いだと思って」
 『最後』という言葉に、思わず息ができなくなる。もうこの生活が終わりなのだとわかっていていたつもりでも、これからの数日間にいくつもの『最後』があるということにひどく動揺した。耐え難くなった私は、思わずこの会話を打ち切ることを選んでしまった。
「わかったよ。とりあえず出ていくまでは、面倒見るよ」
 優子の暴走を戒めるために話し始めたはずなのに、私のほうがよっぽど酷い態度だ。後悔が渦巻く私の中を知らずに、優子は満足そうに頷いた。
 諦めたように私がそういうと、優子は満足そうに頷いた。
「ありがとね」
 これは、共同生活の中で記憶に残る最後のありがとうだったと思う。
 そして心残りなどないように、優子は東京に向かってしまった。
 がらんと空いた部屋には、私とアルだけが残された。

 アルとの二人暮しは、曖昧に境界なく始まったように思う。食事や家事などのいくつかの生活の要素が大きな変化を起こしていたのは事実だけれど、不思議とそこにおどろきや発見はなかった。
 優子がいなくなることで起こった多くの変化について、そのいくつが想像の外にあるものだったのか、私には正確に数えられる自信がない。生活の変化はいつでも、運び出される小説や、私に譲られたぬいぐるみや、ずっとずっと前からあった私と彼女を隔てるものの向こう側に見えていた気がしていてならなかった。
 私と彼女を隔てるもの。二人暮しを始める前は感じていなかったはずのその壁を感じ始めたのは、一体いつからだっただろうか。
 連続した生活の中でその区切りを見つけるのは難しいが、それでも最後の一年間はその壁に漠然とした恐怖を感じていたのは事実だった。
 私の感情が、見透かされているのではないか。そう思っていた。
 私と優子の間を指す言葉はいくつかあった。「腐れ縁」、「同居人」、「同級生」、そして「親友」。そういう言葉の中に、もう一つ、特別な言葉が加わることを私は夢見ていた。その夢は叶うことがなくて、それでもその感情は消せなかった。
 親愛と友愛とその他の欲求が混ざった感情は期限付きの同居人に向けるにはどうしてもやはり歪だったと、そう思う。
 私の中にあるその感情を想像するとき、それは棘があった。その棘が私の背中から突き出ていて、いつか誰かを、優子を傷つけてしまうのではないか。そういう想像が私を襲うことがあった。それに狂えるほど愚かではなかったにせよ、それを振り払えるほど賢くもなかった私は、その棘の長さだけ距離を取るように生活をした。
 ときどき、その棘から身を守るかのように、優子が私を静かに見つめていたように思う。それは夕食の場面であったり、二人のささやかな団欒の途中であったりした。ふとした瞬間にその瞳に私が目を背けた汚さや、気がついていない穢れまで見透かされているような気分だった。
 それでも一度も私の気持ちを問いかけることなく、また恋愛や愛情と言った話題を私からそれとなく遠ざけてくれた優子には感謝している。最後まで確信を持つことはできなかったから、その感謝を言葉にすることは出来なかったけれど。
 私がアルと暮らすお願いを引き受けたのは、そういうことに対する清算を晴らすためでもあった。
 そうして始まった新たな二人暮しだったわけだけれど、その瞳によく似た色の瞳が私をまた見つめていることは、どこかやはり胸の奥に痛みを残した。その事実に気がつくたびに、私は少しだけ彼と距離を取った。気づかれていることに気づかないふりをし続けるためには、必要な行動だったと思う。
 彼も私が確保した何センチかのその距離を理解しているように、私から少しだけ離れて暮らした。優子がいたころのあの甘えん坊な子猫の姿はどこへやら、そこにいるのは聡明さの塊のような生き物だった。彼は小さく舌を出して毛づくろいをしているときも、眠そうにまぶたをおろそうとしているときも、どこか私の方に意識を向けているように思えた。それが一体どういう理由なのかは、
 そんなアルも、唯一私に近づくことがあった。優子が近況報告と言いながら、アルの動画をねだるときだ。
『そういえばアルは、元気?』
 用もなく電話をかけてきては、彼女がそわそわとした態度を浮かべながらそう尋ねるたびに、私は笑いながらアルを手招き画面の奥の彼女を見せた。その瞬間だけはいつもの距離などないようにアルは私の膝の上に乗り、可愛く鳴いた。まるで共犯関係のようだと私が笑いを堪えている間にも、優子とアルの画面越しの対話は続いていた。
 ひとしきり彼女が満足すると、アルが膝から降りた。そうして音声通話に切り替えられた先で、私達は本当に近況報告を交わした。
 三月の最後の週には東京に越していた彼女は、新たな住居の周辺から新人研修まで様々なとりとめのない話をした。私はそのたびに、彼女が隣の部屋にはもういないのだということをぼんやりと考えていた。優子の声がスピーカー越しに聞こえることよりも、優子が隣の部屋にいないことのほうが、ずっと遠くにあるような気がした。
 いなくなって一週間近くは、ふと隣の部屋の扉を、優子が開けるのを待っている瞬間があった。そのとき私は開くはずのない扉を見つめて、ぼんやりと一人分の夕食しか作らなかったことを後悔していた。
 いずれアルの要望で、彼女の部屋の扉は常に開け放すことになった。彼は、私がいない間その部屋で過ごしているらしかった。開け放した扉の奥に誰もいないことはひと目でわかるから、彼女の部屋の扉を見つめることはなくなっていった。
『聞いてるの?』
「考え事してた」
『もう』
 気がつけば聞き流していた彼女の環境について、ぼんやりとそれなりに上手くいっていることだけはわかっていた。それは一抹の寂しさを私に与えないわけではなかったが、届かない場所で苦しむ彼女の姿を見るよりはよっぽど幸せだった。
 できれば幸福でありますように。そういうことを祈ってばかりの私を呼び覚ますように、優子の声がまた響く。
『あんたは、どうなの?大丈夫?』
「大丈夫、なんとかやってる」
 お決まりの返事を繰り返す私に、優子はため息をついた。私は彼女が一人の部屋で、あの瞳をしているところを想像した。緩やかに私を苦しめたあの光が懐かしかった。
 私が静かに息を吐くのを、アルはただ見つめていた。同じ色の瞳は、私が静かに目を閉じるまで、私の方へと向けられていた。逃げるように目を閉じている間に、季節がゆっくりと動き出しているのを感じていても、私は目を開けることが出来なかった。

 春にしては冷え込む日が続いている。朝から振り続ける雨が喉を緩やかに締め付けているように、今日はずっと気分が晴れなかった。有意義に使おうと机に向かっても、思い出される後悔と未遂の感情ばかりに気を取られて、何度も顔をあげてしまっていた。結局スマートフォンを立ち上げたり落としたり、機材を触ったり閉まったりを繰り返しているうちに夜になった。
 そんな私を、アルがどう思っていたのかはわからない。彼は餌をねだるときに小さく鳴く以外は、そのしっぽを優雅に揺らしながら、開け放した部屋の扉を出たり入ったりしていた。集中を欠いた私が彼の方を見つめようとするたびに、彼はそっぽを向いてしまったから、私はとうとう諦めて生活の時間を早めることにした。
 まだ少し明るいうちから私がキッチンに立ったのがそれほど珍しかったのか、簡単なリゾットを作る私の足元からきっかり三十センチ離れて、アルは弧を描くように歩き回っていた。彼の分の食事を用意してから食卓についても、彼は食事に手をつけようとせずに私の方を見つめていた。
 どこか息詰まる気持ちをぶら下げながら、自分で作ったリゾットを口に運んでいく。自分で作った食事はどうしても薄めになっていて、食事をしている気分にならない。一人で食事することなど二人暮らしの間にもいくらでもあったはずなのに、一人とわかりきっている今になって目の前の空白を気にしてしまう。
 空中を見つめる私の視線の端では、アルがゆっくりとペットフードを食べながら、一口ごとに私を見つめている。
 その瞳が一体どんな感情を込めて私を見つめているのか、もう二ヶ月以上暮らしている今でもわからない。猫はなにも語らない。ただ鳴くだけだ。
 どうにもできない気持ちを抱えながら、それでもコミュニケーションを取ることを試みる。
「見てて、面白い?」
 私がそう聞くと、彼は答えずにまた食事に戻った。答えない彼にがっくりとうなだれていると、今度こそ珍しいものを見るような目で彼はまた鳴いた。

 思い出したかのように目が覚めていく。
 呼吸の仕方を徐々に思い出していく。
 悪い夢ばかり見ている。そんな気がしている。うっすらと汗をかいているのに、部屋の空気は冷たいままで肌が冷える。
 だるくなった体を無理やり持ち上げて、どうにか扉を開けると流し台のコップを無理やり掴んだ。どうにか口に含んだ水道水すらどこか不味くて吐き出してしまう。もう一度ゆっくりと口をつけて飲み込むと、初めて落ち着くことができた。
 こんなことばかりだ。言葉にしない後悔だけが追いかけてきて、私のことを責め立てる。そういう夢ばかり見ている。原因は自分だとわかっていながらも、どうにもできない自分が憎い。
 傷つけてしまいそうだからと身勝手にとった距離を、埋められなかった自分が嫌い。どうにもならない感情を抱えてしまった自分が嫌い。今でもまだ、叶わなかった恋心を持て余している自分が嫌い。どうしようもない自分が、全部、全部きらい。
 深夜の台所というのは恐ろしくて、初めて見る自分ばかりがシンクに映る。電気もつけずにぼんやりと映る自分を見つめていると、隣で鳴き声がした。
 振り返ると、いつもより少しだけ近い位置で、アルが私を見つめていた。暗闇の中では瞳の色は見えない。そこにいることがわかるだけだ。
「起こしちゃった?」
 そういうと、彼は静かにもう一度鳴いた。怒っているわけではないようだ。ただただ私を見つめている。
「ごめんね」
 私が意味もなく謝ると、アルは返事をしない代わりに、そっと私の足元に近寄ると、頭を足に擦りつけた。こんなことは初めてだった。
 ようやく、心を開いてくれたのだろうか。そう思って、心を開いていなかったのは自分の方だということに気がつく。勇気を出してゆっくりとしゃがむと、アルは頭を上げて、じっと私のことを見つめている。
「アルも、寂しいのか」
 そういって頭を撫でると、アルはされるがままだった。私がゆっくりと手を離すと、また頭を上げて私を見つめている。
 置いていかれたもの同士、もっと前から仲良くなれたのかもしれない。自分の痛みばかり気にしていた私には、気づかなかった。
 上手に傷つけ合わずに触れ合う方法が、きっとあったのだろう。今からでも、見つけ出せるのだろうか。
 自然と呼吸は落ち着いていた。淋しさばかりになった胸を引きずりながら、どうにかこれなら眠れそうだと思う。
 もう一度だけアルを撫でてから、私は立ち上がる。おやすみ、という掠れた声をかけて、寝室に戻る私の足元を離れずに、アルはいつものように歩く。扉を締めたこちら側に、アルが入ってくるのははじめてのことだ。
 私が布団をかぶるのと同時に、布団の上に飛び乗ったアルは、上手に私と布団の隙間に入って丸くなった。確かな温度を胸と手に感じながら、私があったはずの隙間を見つめると、アルは私の指先を舐めた。
 小さな舌がゆっくりと動くその姿を見ながら、もしかして、と思う。
「慰めてくれるの?」
 かすれかけた声が孤独だった寝室に落ちた。アルは鳴かない。もう舐めるのはやめて、ただ私を見つめている。その瞳に暖かさを感じたのは、初めてのことだった。
 ずっとこうして暖かく暖かく見つめられていたのかもしれないと、初めて気づいた。目の前の真円も、あの翠眼も、ずっとこんな温度だったのだろうか。その温度に気づくには、この部屋が暖かすぎただけで。
 そういう可能性が、曖昧に体を包み始める。冷え切ったはずの空気が頬を撫でても、悲しみはやってこなかった。
 穏やかな二つの星が暗闇の中に瞬くのを感じていると、少しずつ揺らいでいく悲しみがまどろみとなって体を包む。目を開けていられなくなった頃に、熱源はそっと移動して私の胸元へと潜り込んだ。不器用な優しさを抱えたまま、私はまた眠りにつく。

 夢も見なかった。そう気づいたのは、壁掛け時計が十時半を指しているのをぼんやりと眺めていたあとだった。久しぶりに迎えた爽やかな朝を持て余すように体を起こしたままでいると、寝ぼけた私をたしなめるように、猫が一鳴きする。昨日の優しさはどこへやら、すました顔でベッドの下から私を見つめている。
 その瞳に怯えることはもうなくなるのだろう。そう思いながら、ゆっくりと体を伸ばした。休日の怠惰な私を叱るように、もう一鳴きした彼に、おざなりに返事を返す。
「ご飯ね、ちょっとまってね」
 自分の部屋を出て、ダイニングで朝食の用意をする。用意した食事の前で、今日も私を見つめる。一口食べる。その繰り返しだ。
「そんなに私って心配になる?」
 聞いてみると、返事はない。ただ見つめるだけだ。実際、頼りないのだろう。もしかしたら思っている以上に、情けない顔をしていたのだろうか。そんなんだから、元同居人に叱られてしまうのだろう。情けなさに苦笑いを簡単に済ませて、最低限心配させないように自分の生活を始める。
 洗顔を済ませて、鏡に向かって笑顔の練習をしていたら、チャイムが鳴った。いたずらを覗かれた少年の心臓のように跳ねる左胸を落ち着かせながらディスプレイを覗き込むと、元同居人が映り込んでいた。
 驚いて扉を開けると、久しぶりに見たはずの懐かしい顔が立っている。
「良かった。いなかったら、合鍵で入ろうかと思ってたわ」
 そういう優子の手からは見慣れたストラップがはみ出している。二ヶ月前に戻ってしまったように映る目の前の景色に目をこすっている間に、いつものように靴を脱ぐと部屋に入っていく。
「新人研修に必要な本、置きっぱなしにしてることに気づいて」
 そういって慣れ親しんだ部屋の半分だけ開いた扉を完全に開けると、部屋になんてことないように入り込んでいく。私の洗顔中にいつの間にか優子の部屋に戻っていたらしいアルは、優子の姿を見ると完全に固まった。そしてそのまま優子のもとへと走り出す。本棚から目的の本を取り出した優子は、しゃがんでアルを思いっきりなでた。
「掃除しててくれたの?」
 器用に本とアルを抱えながら、部屋を見渡した優子が部屋の入口に立ち尽くす私に聞いた。私は未だに目の前の現実を上手に飲み込めていないことを自覚しながら、どうにか言葉を絞りだす。
「アルが、寝てたから」
 小さな子どもの言い訳のような自分の言葉を恥じる。暖かさに甘えて眠ってから、まだ気持ちが大人に目覚めていないのだろうか。どこか体ごと背けたくなるような気持ちを抑えながらそんなことを考えている私の前で、アルは思い切り優子の腕の中で甘えている。
「そうなの?」
 優子の問いかけに、アルは一鳴きした。肯定とも否定とも違う鳴き声に、どっちなのよと優子が笑う。それは甘えているだけなのだと言おうとしたけれど、二人揃って敵に回したくないからやめた。
 子猫の顔をして甘え続けるアルに、私に見せるよりずっと笑顔の優子は彼をなで続ける。
「元気そうねぇ」
 優子はそう言って、甘え上手な彼の頭を撫で続ける。ここまで上機嫌な彼女の様子を見ていると、アルに会うための口実を作りたかっただけなんじゃないかと疑ってしまう。どうでもいい疑念に苦笑いを浮かべた私を、優子は撫でる手を止めずに私を見つめた。
「で、あんたはどうなの。大丈夫?」
 そういう優子の瞳を、自然と見つめ返している自分に気がついた。こうやって怯えなく彼女の前に立つのは、一体いつ以来のことだろう。ずっとこんな気持ちで見ていた高校生のころのことが懐かしくなっても、羨ましくなったりはしない。
「平気だよ」
 初めて本当に、そう言えた気がした。寂しいけど、平気だ。今は、仲間もいるし。
「ほんとに?」
「ホント」
「アンタわかりづらいのよね。アルを見習ってほしいわ」
 足元にすり寄る子猫を嬉しそうに撫でながら、彼女はボヤいた。
 そいつがわかりやすいのはアンタの前だけだよ、とは、今は言わないでおく。
 私がだめになっちゃうのはアンタの前だけだよ、と、いつ言えるようになるのだろう。
 訪れるかもわからないその未来をぼんやりと考えている間に、優子はアルとの戯れを続けている。私が七年間かけても得られなかったその距離感を、アルは一ヶ月もかけずに獲得したと思うと、嫉妬している自分がいる。猫に嫉妬する小さな自分に思わず笑いかけた私をおいて、そうだ、と優子は立ち上がると、持ってきた大きな紙袋の一つから立方体を取り出した。
「これ、持ってきたの!いつでもアルが見れるようにって」
 そうして手渡されたものは、不思議な形をしたカメラだった。混乱している私が首をかしげていると、優子は得意げな顔で話し始める。
「これね、ペットの映像見るやつ」
「ああ、アプリとかで見れるやつ?」
「そう!」
「うちに置くの?これじゃ、私の生活も見られたい放題じゃん」
「今までだってそうだったでしょ」
 優子はなんてことないようにそう言うと、リビングが見渡せるような場所を探した。文句を言いながら、またこの部屋を出ていく理由が減ったことに、私は気づかないふりをした。


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