その陽射しを思い出だしたときには、すでに一筋の汗は頬に流れ落ちていた。
慌ただしい日々の中に、ふと出来た隙間で降り立った駅。いつ訪れたかも思い出せないような、懐かしさだけが漂うホームを抜けると、春に懐いたままのやわらかな風が木々を揺らしていた。その穏やかさにつられて歩き出してしまったから、見たことのあるはずの太陽の表情のことをわすれていた。愚かな私を笑うかのように、アスファルトは厚いソールの下から熱を伝える。
汗をそっと拭いながら、足を止めずに思い出す。懐かしい庭までの、道のりの影と光。
忘れてしまったことは数え切れなくて。思い出せることは、数えることも出来なかった。
じょうずな窓のひらき方。理科第二準備室の鍵のかたち。活動届けのごまかし方。午前授業の日のざわめき。今振り返れば、美しいだけの日々。
生活の中でふと思い出されるそれらは、ずっと確かに自分の中にあったはずなのに、気がつくとどこか遠い国の物語の一部のように、私の瞼の裏へと姿を隠していた。すこし霞んだ色合いの記憶が、小さく笑ってこちらに手を振っているようだった。目を閉じなければ、見えないものになっていた。
大人になるということが一体何かはわからない私でも、この小さな欠片たちがなくなる日の足音が聞こえていることだけはわかっていた。だから、突然幕の上がったなんの意味のない物語も、出来るだけ丁寧に、思い出せるだけ思い出して。
だから、私を突き刺す日射しも、噛み締めておきたくて、私は歩幅を小さくした。
いつの間にかあの頃よりも少しだけ大きくなった歩幅を縮めると、あの夏の歩き方がよみがえる。
どれだけの日射しがあろうとも、あの坂道は毎日私を待っていて。私は毎日、なんでもないことのように、あの角度を乗り越えるために地面を踏みしめていた。
私のなかの熱を、大きくしないように。のぼりきったその先で、待っているその時間で、足音が聞こえたその瞬間で、いくらでも私の温度は上がっていったから。せめて、たどり着くまでは。そう思って、小さく歩幅を合わせて、なるべく静かに足を下ろす。そういう歩き方が、ちゃんと身についていた。
これも、忘れていた。
思い出を思い出せる場所から、気がつくと少しずつ離れている。だから、こうやって日々の中のかすかな風からも、思い出せるものを探し続けている。あの頃の影を探して見つめた世界の向こう側には、陽炎で歪んだナンバープレートが揺らめく。記憶ばかりおぼろげで、季節ばかり息をしている。
汗を拭いながら、気がつく。
また、夏がやってくる。
夏がやってくるということは、季節が巡るということだ。時間が、おわりが、さよならが、近づいていることを日々の空に、水に、空気に映し出していた季節が、やってくる。あれほどまでに切実に願った永遠はあまりにも短くて、祈ることすらできなかった。そうやって終わった季節を、私は愛していたのか、今でもわからない。
それでも、今思い出せるのは、あの坂道を登りきったあとのことだけで。
どうしてなのだろうか。
あの一瞬に過ぎ去っていたはずの坂道の、長い長い頂上までの一歩を踏み出すごとに、思い出せるのはこの坂道をのぼりきったあとのことだけで。
頂上が近づいて、階段を歩き始める。この一段一段を小さく登っていると、ほんの少しだけ、日差しは鋭くなって。
どれだけ歩幅を縮めても、高鳴る心臓がおさえられないのは、あの頃とおなじだ。
のぼりきれば、待っていられる。
待っていれば、足音が聞こえて。
足音が聞こえれば、あなたがやってくる。
私の温度を、台無しにするあなたが。
踊るように現れて、私の世界を完全にする。
あなたが。
あなただけが。
あなただけを。
最後の一段にたどり着いた私の目の前には、思い出す間もなく、瞼の裏にいつも映る景色が広がっていた。
そこにはあなたはいないのに。
私はどうして、みつめてしまうのだろう。