Sayonara VoyagE

Use me like an oar and get yourself to shore

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 彼女はと言えば、窓の外ばかり見ている。
 雨の日も、晴れの日も、その瞼を不規則に下ろしては開きながら、ガラスの向こう側を見つめている。ガラスに映った彼女の顔が一番綺麗に映るのは、その向こうが少しだけ薄暗い雨の日だ。雨が降ると、そこに映る半透明の希美のことばかり考えるようになった。いつの間にか。
 希美はと言えば、何を見つめているのか、未だに教えてはくれない。おそらくは、尋ねたことがないから。私が問かければ、なんでもないように答えてくれると、そう思う。その答えには意味がないとも、思う。希美の口に出した言葉にそんなに嘘はないけれど、全部が本当なわけじゃない。
 余裕のある朝に、朝食の準備を終えたあとの時間を、窓の向こうに使う日もある。そういう朝は、よく準備された朝食は放っておかれて、生活から離れたところに彼女は立っていた。置いていかれないようにと、私も生活的な匂いをたてるトーストから上手に離れて、一緒に窓の向こうを見るけれど。
 見つめるときも、何をするでもなく、何を観察するでもなく、ただ漠然と窓の向こう側ばかりみている。ときには文庫を片手に開いていたり、テレビのチャンネルを切り替えていたり、イヤホンを片耳だけつけて体を揺らしていたりする。窓の外を見るということが、どの行為よりも先に来ているような、そんな気がする。優先はされていないけれど、ずっとずっと前の方にいるような。
 視線の向こう側にあるものを見つけようとして、一人の休日に希美と同じようにソファに座って見たけれど、何も見つからなかった。彼女にしか、彼女の見ているものはわからない。瞳に映るものが何か、覗き込んでみたこともあったけれど、そこに映るのは私の顔でしかなかった。そうやって世界は限られていくのだと私が理解したとき、希美はどうしたの、と笑っていた。

 私がウィーンでの生活をやめて、日本に帰ってきてから買ったマンションは、少しだけ駅から離れた場所にあった。生活ができればそれで。築五年駅二十五分の内見での直感と優子のアドバイスに従って選んだそこに、希美がやってきたのは引っ越しの一週間後のことだった。
 京都から、東京へ、そして京都に。行ったり来たりの生活をしているとだけ聞いていた彼女は、見てみればあのころと変わらずに笑っていた。引越し祝いといって持ってきた花瓶は今でもカウンターの上で飾られている。その日の彼女といえば、花瓶の他にも野菜だとか花だとかお肉だとかチーズだとかワインだとかを持ってきて、一人暮らしには少し大きめの冷蔵庫でも、彼女の持ち込んだものであっという間に埋まってしまった。彼女は冷蔵庫を閉めようと苦戦している私を笑って、また来週消化しに来ると帰っていった。
 その言葉通り、彼女はまたその次の週もやってきては、少し消化したあとに、また私の冷蔵庫をいっぱいにして行った。料理をしないから使わないという私に、消費しやすいレシピと、料理道具までよこして。その頃ようやく、希美が私の暮らしを気にかけているのだと気がついた。その気遣いを少しずつ受け取りながらも、どうしても上手に受け止めきれない私に、希美は笑って言った。
「私があげたいだけだから」
 そうしてその言葉から、希美は私の部屋で暮らし始めた。本当はその間にグラデーションのように変化があったはずなのだが、今の私には思い出すことができない。運ばれてきた本やら買い足した家具は確かに増えたはずなのに、今思い出そうとしてもそれがどうこの暮らしを変えたのかわからなかった。希美はそういう性質を、歳を深めるごとに強めていたようだ。
 そうしていつからか部屋の窓の向こうを眺める希美は私の部屋の景色と同化していた。そこに意味があるようには、私にはどうしても思えなかった。ベッドや椅子や化粧水があることの意味がないのと同じように。
 希美はもう私の心から消えることのないもので、距離は意味を失ってしまった。だから部屋の中にいようと、海の向こうにいようと、あまり変わりはない。心配し憤る優子に告げた言葉は本当のつもりだ。
 それでも、欲望というのはある。私はいつの日か窓の向こうに何を見ていたのか、その答えを教えてもらえる日を、まるで恋人からの告白を待つ少女のように待ちながらコーヒーを飲んで暮らした。

 そうしてその日は案外あっけない形でやってきた。いつもと違い肩を落として帰宅した希美の口から、伝えられたのであった。
「隣、なんか建っちゃうっぽいね」
 そう言われて私は初めて、隣の更地に意識を向けたのだった。もちろん頭のどこかでは理解していたはずだけど、意識に上ったのは初めてのことだった。越してくるときも散歩のときも空白以外の意味をなさなかったその場所が、一瞬にして匂いを持ち始めた。
「いつも見てたのに」
 そういう希美の表情は素直で、いつも浮かべているどこか遠い笑顔よりずっと近くにあるように思った。私はその悲しい顔をどこか好ましく思いながら、彼女の前にコーヒーを差し出した。
 目の前のコーヒーをちびちびと飲みながら彼女が言うには、私の部屋の隣にあるあの更地が、眺めているうちにいつの間にか好きになっていたということらしい。彼女が眺めていたものは空の向こうにも1マイル先にもなくて、ずっとすぐの真下にあったようだ。
 私が彼女といると、気づかないことばかりのようだ。私はそう思いながら、ついには突っ伏してしまった彼女に声をかける。
「行ってみる?」
 私がそう言うと、彼女はゆっくりと顔をあげた。雨上りの子供のような顔をしていた。
「行く」

 『売約済み』の看板の横、ロープを潜り抜けて土地へ入る。ストレッチを欠かさない彼女の体は柔らかく、するりするりと抜けていくのに、私といえばどう足を上げればいいのかわからない。
「思ったより簡単に入れちゃったね」
 膝についた土を払いながら、希美は大きく伸びをする。
「もし誰かに見つかったら、落とし物しちゃってって言おう」
 そう言いながら歩き進める希美に、慌てて足を上げて、ロープにぶつかる。これならもっと、気楽な格好をしてくればよかった。おろしたてのワンピースを気にしながら私が侵入し終えた頃には、もう希美は更地の真ん中で伸びをしていた。彼女が立つと、どこでも世界の中心のようだ。
「思ったより、狭いね」
 彼女は両腕を広げて軽く回りながらそう言った。あの部屋からあれほど未来に溢れて見えたこの土地も、入ってしまえば輪郭が見えてしまう。贔屓目で見ても、ダンスホールには少し狭いかもしれない。希美がウェディングドレスを着て、この更地で踊るところを想像しようとしたけれど、なぜか頭の中で彼女は壁にぶつかってばかりだった。少しずつ少しずつその純白の衣装がなんでもない土に汚れていくのは、親不孝で綺麗だろうと思った。
 目を閉じてもう少しだけその風景を楽しもうとした私の隣で、ステップの真似事をしている希美の足音が穏やかに鳴る。もう少し眺めていたかったけれど、暗闇の中の彼女はダンスをするのをやめてしまったようだ。諦めて目を開けば、想像よりずっと近くにいる塀が私を笑っている。
「結局、何が建つんだろうね」
 希美はいずれ消える更地を踏みしめながら、そう言った。窓の向こう側に見ていたあの場所は、もう見つからなくなるのだろう。それでも、希美は窓の向こう側を見つめるのだろうか。あの向こう側にあるなにかをぼんやりと抱え続けるように、見つめ続けるのだろうか。
 何でも良かった。
「なんでも、建つ」
「なんでもは建たないでしょ」
 私の言葉に、希美は笑った。でも、私が正しい。更地には、何でも建つはずなのだ。可能性では、何でも。
「希美は、何が建ってほしい?」
 ロープをもう一度くぐり抜けながら、私が聞く。
「城とか?」
 もうすでに外側にいた希美は、手を払いながら答えた。そうしてすぐに、いや、でも、と、考え直し始めた。
「窓の外に城があるの、嫌だな」
 考え込んでしまった希美の代わりに、私は話す。
「船は?」
「船かぁ」
 いくつかの選択肢を検討しながら、私達は家に帰る。


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