もう諦めていた。ひどく冷たい駅のホームでのことだった。ため息まで律儀に白く染まるその場所で、もう随分と中川夏紀は立ち尽くしていた。実時間にして、三分と少し。彼女の中では、半年と少し。キリキリと痛むような寒さの風が吹くたびに、自動販売機が恨めしげにやる目線を乱雑にかわしながら、彼女は電車がやってくるのを待っている。覆い隠しきれなかった肌を寒気が襲う。痛みが思考を妨げる。今は「ろくでもない」ことしか考えられないとわかっていたから、夏紀はただ来るはずの電車を待つことだけを選んだ。「考えないように」と考えられてしまった思考は、冷たさによって言語化されずにどこか彼女が拾えない場所に落ちていく。溜まっていく感情のような何かが、丁寧に見つめてくれと叫んでいる声が聞こえるのは、頬に当たる冷たさのせいなのだろうか。待つのはそんなに嫌いじゃないと、ずっと夏紀は思っていた。ただ、今日みたいな日は違う。どうにも逃れられないのなら、せめて外気ぐらい暖かいほうがいい。そう焦れた八両編成がレールに乗ってやってくる音が聞こえて、もう一度小さくため息をついた。例外なく白くなった息は空気の中で少し消えて、電車の音にかき消されてしまった。
少しだけ急いで到着した電車は、まるで何事もなかったかのように静かにドアを開けた。降りてくる人たちを横目に見ると、皆落ちていく温度に恨むようにしながら歩いていた。彼女は静かに乗り込んで、所々空きが見えるシートの横に寄りかかる。聞き慣れたアナウンスとともにドアが閉まると、冷たい風が届かなくなって、何故かこの場所に閉じ込められたかのように夏紀は思った。走り出しているはずのものに、どこにもいけない気がしていた。
少しだけ乱暴な暖かさに身を委ねながら、夏紀の背中がひっそりとシートに触れる。そっと電車の扉から外を覗けば、街灯で照らされた道を歩くカップルが見えた。照らされている幸せと日常を数えながら、冷たさに落ちていった思考が少しずつ流れていくような感覚が襲う。どうにもならない感情も、いつかどうにか救われるのだろうか。すこしずつ走り出した電車を背中で感じながら、また小さくため息をついた。誰にも悟られないように。自分にさえも。
回っていく。動いていく。あまりにも身勝手に進んでいく世界に安心しているのかもしれないと、夏紀は思った。すこしだけ囁くような声があって、あとは線路の上で揺れるおとがあまりにも静かに響いていた。徐々にスピードを増していく列車は、誰かをどこかに運んでいく。ポケットに入れたイヤホンをそっと取り出して、プレイヤーのジャックに差し込む。世界を音で埋める前に、アルバムアートをめくってみても、聞きたいものは見つからなかった。選ぶ指だけが滑って、どうにも今日はだめだと改めて思い知る。すこしずつ電車は速度を緩める。少しだけ曇ったガラスの向こうに、駅のホームが移りだす。佇む人たちも、この電車の温度を待っているのだろうか。思っているほど、優しくはなかったと夏紀はなんとなく思った。
アナウンスがすこしだけ車両を乱す。今日の演奏を思い出す。少しだけ急に電車が止まって、吊革達が前のめりになった。少しは上手になれたかな。ドアが静かに開いて、誰よりもはやく外気が乗り寄せてきた。来年はどこまでいけるんだろうか。一人だけ、恨めしそうに席を立つ。この先に、なにが待っているんだろうか。電車によって暖められた身体が降りていって、代わりに駅のホームで冷やされた身体が乗車する。本当に、私になにかできるんだろうか。小さな駅の停車時間は短い。それでも、見たくなかった思考が固まるには十分な寒さだったのだ。
何者にもなれないのに、どうして必死になるんだろう。閉じかけた扉に飛び込む人。特別にはなれないのに、どうして必死になるんだろう。発射のメロディで、ドアが閉まる。日々の積み重ねの堅実さが、こんなところで痛みになってやってくる。小さなため息もなにもかも飲み込んで、電車は次へ走り出す。愚かなのはわかっている。それでも、考えてしまうのは悪いことなんだろうか。夏紀にはよくわからなかった。
どうせ何もかも思い出になるのなら、難しくないものを選んだほうが幸せだと思うのだ。苦しまなくたってそこにあったものが青春になるなら、そうしてなにもかも過去になってしまうのならば、苦しまなくていいものを選んだって、バチは当たらないと思うのだ。すこしだけ急に感じられた発射に身体を揺らされて、とっさに掴んだ手すりの指先は、そんなことを思っている。叫んでいる。静かに削られていく時間。うまくなれない自分。天才への羨望、秀才への嫉妬。不安定要素がいつまでも重なっていく。電車は先に進んでいく。感情も、苦しみも、何もかも置いてけぼりにして。発作のようにおこる自由への焦がれは、努力の現れなんだろうか。本当に?電車は答えを出してくれない。ただ進む。思考は深くなっても、孤独は止めてくれなかった。
気付くと、最寄り駅まであと二駅しかなかった。考えてもしかたない、そう結論づけて、さっきまで見向きもしなかったミュージックプレイヤーとイヤホンを取り出す。もうあと一曲、聞けるかわからなかったけど、それでもよかった。タッチパネルに触れた指先が真っ先に選んだのは今の課題曲だ。結局逃れることは出来ないのだと自分の中ですこし笑った。それでよかった。結局そういうことなのだ。
きっと明日も練習して、また真っ暗な道を帰るのだ。また明日も、きっとみんなと笑うのだ。それだけでよかった。悩みたいときは、悩めばいいのだと、シンプルに考えていくしかない。楽譜に小さく書き込まれた文字たちが、びっしり埋まった予定表が、きっと十年後もすこしだけ特別な意味を持つのだろう。そうだったらいいな。
先を行く者のためのドアが開く。荷物をまとめて降りていく。外の空気は冷たくて、少しだけ夏紀は足を速めた。