しあわせがありますようにと、落とされたくちづけのこと。
いつでもやわらかい表情をしていたお母さんの、溶けそうなほど幸せな笑みに、つられて笑ってしまったこと。
走り出したばかりの頃。自分で描いた歪で小さなコースを走りきって、喜んだ自分にくれたもの。
そういうものを、思い出した。
それを思い出したのが、坂の途中で良かった。
ボクの背伸びだけじゃ、彼女の額に上手に届くかわからないから。
いつも少しだけ見上げる彼女の瞳が上目遣いでボクのくちびるが行く先を見ていて、それがなんだか不思議だった。
目を閉じて、幸福を祈る。落とすだけで、あの柔らかな輪郭の理由がわかった気がした。
目を開けた先にいた真っ赤になったマックイーンを見ると、そんなに上手にできたわけじゃないみたいだけど。
「ご褒美だよ」
ボクがそういうと、目の前の赤は濃くなって、夕焼けの中で綺麗に浮かんだ。
「一体あなたは何を考えているのやら。あんな人の前で」
「誰も見てないよ」
「いいえ、何人か見てました。みんな驚いていました。恥ずかしいことこの上ないです」
足早に先を行くマックイーンの後ろを追いかける。まくし立てるように話すマックイーンの顔は未だに熱そうだ。
マックイーンの復帰戦。トレーナーとの相談の末選んだGⅢレースで見事勝ち抜いた彼女のために用意しておいた日曜の午後。スイーツの山を抜けて話し足りないボクらが辿り着いた河川敷。どこまでも続きそうなおしゃべりは、ボクがふと落としてしまった口づけですっかり先が見えなくなってしまった。マックイーンの首の熱が引ききるころには、太陽は沈みかけていた。
「ご褒美のつもりだったんだけど。ボクからのがないって言ったのはマックイーンだよ?」
『ご褒美はないのですか』。どこか楽しそうな彼女からの言葉。拗ねるのには早すぎて、強請るにも遅すぎる。からかっただけのつもりだったんだろう。だから、ちょっとした仕返しだ。得意げな表情をしているであろうボクを、マックイーンは少し潤んだ瞳で睨んだ。握ったつもりの主導権をいつの間にか握られているときのどうにもならない悔しさは、ボクもよく知っている。
「それにしても、誰にもであんなことするんですか?」
「そんなことないよ」
「本当ですか?」
寮へと向かうボクより少し大きい足は、不自然なくらい前を向き続けている。マックイーンの悔し紛れの皮肉に、少しだけ違う色が混ざる。
その色に答えるように首を振り、気づけば昔話をしていた。
思い出してみれば、いくつもの始まりがあった。いくつものスタートラインがあった。その中の、一番初めのスタートライン。ずっと忘れてしまっていて、それでも今に続いているもの。自分で引いた線が、どんな形だったのかも思い出せない。
語り終えた頃には、マックイーンは少しだけ歩幅を緩めていた。信じてもらえてよかったと思っているボクに、マックイーンは小さく問いかける。
「テイオーのお母様は、ふだんからそういうことを、される方なんですか?」
「キスはその一回だけだなぁ。なんでしてくれたんだろう」
今思い出しても、不思議な記憶だ。それでもその記憶は、やわらかくて、嬉しい形をしている。暖かさだけはわかる、そういう類の思い出。
「祝いたかったのでしょう。自分の子供が走り出したこと、初めて走り切ったことを」
ぼんやりと物思いにふけるボクの隣へ、マックイーンは歩くペースを落としていた。
言葉の意味を掴みきれないボクのために、マックイーンはボクの目を優しく捉えた。その緩やかな感情が、思い出の母と重なる。
「額へのキスは祝福の意味ですわ。あなたの小さな新しい一歩を、お母様は祝いたかったのでしょう」
こうして言葉にされるとき、時折、マックイーンはボクより大人なのだな、と思う。今のボクでは上手に掴みきれない感情を、少しだけ遠くで拾いあげてくれる。ボクは拾われたその言葉で、ボクの感情を理解することがある。
「そうなんだ。知らなかったなぁ」
ボクのその言葉に、マックイーンの輪郭がどこか柔らかくなったのがわかった。西日で無機質に切り取られたはずの影も、どこか懐かしい形をしている。
もっといろんなことを話すつもりだったのに、気がつけば寮へと続く一本道へとたどり着いてしまった。何を話しても話したりないボクたちの帰り道はいつも短い。
それにしても、と、マックイーンは口を開いた。
「テイオーは結構乙女ですから、キスの意味ぐらい知ってると思っていましたわ」
その顔はどこか意地悪だ。今日は主導権を握りっぱなしだったから、反撃のチャンスを得たマックイーンは生き生きとしている。しまったな、と思ったときにはもう遅い。ボクの顔色が少し悪くなったのを見て、マックイーンは勝ち誇った顔をしている。こういう顔も様になるから、お嬢様はやっぱりすごい。反論もせずにボクが黙っているのを見て、マックイーンは続けた。
「でも、乙女は突然キスなんかしないかもしれませんわね」
「そんなことないよ。そういう乙女だっているさ」
ボクがそう反発すると、マックイーンは嬉しそうに笑った。
「そうかもしれません」
それから寮につくまで、マックイーンはボクにいくつかの意味を教えてくれた。少し頬を赤らめて話す彼女のほうが、よっぽど「乙女」だとボクは思った。
次のレースでは、反省を生かしたつもりだった。
出走前の控室、トレーナーが抜けてちょうど二人きりになった時間を見計らって、ボクはマックイーンに声をかけた。
「ちょっとだけ、屈んでくれる?」
ボクの言葉に少しだけ不思議な顔をしながらも、素直に曲げられたマックイーンの膝に、自分の膝があたりそうなぐらいボクが近づくいた。それだけで、マックイーンは驚いた顔で後ずさった。これじゃあ距離を詰めることができない。困った顔のボクを睨んで、マックイーンは大声を上げた。
「何するんですか!」
「キスするんだけど」
「どうして!?」
ボクの答えに、悲鳴のような返事をするマックイーンに少し笑ってしまう。そのまま少し距離をつめて、今にも逃げようとする肩を手で抑えながら、素早く額に触れた。役目を終えたボクの唇が離れて、ボクの手がゆっくりと離されると、マックイーンはフラフラと控室を後ずさっていった。テーブルに手をついた彼女はよろめいていて、まだ赤い頬を晒したままボクを薄く睨む。
「なん、で」
少しかすれかけているその声に、やりすぎたかもしれないな、と思った。少し反省する。
「額へのキスは祝福なんでしょ?だったら、レース前のほうがいいかなって」
自分ではそれなりにいいアイデアだと思ったのだけど、言っておいたほうが良かったのかもしれない。理由を説明すると、マックイーンは大きくため息をついた。もう彼女の息は整っていて、さすがステイヤーだな、と思う。
「急にあんなに近づかないでくださいまし」
「いつもだってあのぐらいの距離だよ」
「唇が近づいてくるのは話が違うんですの」
マックイーンはそういうと、軽くため息をついた。普段の冷静な態度に戻っていて、ちょっと安心する。何もかも元通り、とは、赤い頬が言わせてくれないけれど。元通りになったら、それはそれで困るけど。まだ笑ったままのボクに、マックイーンの冷たい目が刺さる。
「これで勝てなくなったら、恨みますからね」
「最強のウマ娘の祝福があるんだもん、勝てるよ」
「調子のいいこと……」
ボクの気楽な返事に、彼女はそうため息をついた。
「ボクはマックイーンのこと、信じてるよ。だからこれは、ボクからできるおまじない。ボクからできること、やってあげたいんだ」
ボクがそういうと、マックイーンはまたため息をついた。少しだけ、明るい色のため息だった。
そのレースはマックイーンはぶっちぎりの一位で、帰ってきたマックイーンにもう一度不意打ちで祝福を贈ると、今度こそ耳を引っ張られた。ちょっとだけ痛かったけど、嬉し涙を上手に隠すことができた。
それから、マックイーンのレースの前に祝福を贈るのが習慣になった。
怪我の経験を生かして復帰後のトレーニングの手伝いをする。その延長線でレース会場まで付き添うことが多かったから、そのチャンスはいくらでもあった。慣れれば挨拶のようなもの、というやつ。
そのはずなのに、マックイーンとはいえば何度やっても慣れなくて、ボクがかがむように頼むだけで、いくつものリハビリを乗り越えて強くあるはずのその足が少し震えてしまうのがなんだかおかしかった。ボクの唇が近づくと、マックイーンの体は緊張から逃げようとするから、ボクはしっかりと肩を手で掴む。そうすると、逃げ場のなくなったマックイーンは目を強くつむって、小さな子どもが痛みに耐えるかのようにボクを待っていた。そうして強張った体が、唇が離れることで緩んでいくのを見るのが好きだった。
当然レースだから、勝てるときも勝てないときもあったけど。それでもそれなりの結果は出せていた。いつかの約束が大きな舞台で叶えられる日も近そうで、嬉しくなる自分がいる。泣きそうな自分もいて、混ざってよくわからなくなる。
自分の中で抑えられない感情を、マックイーンに分け与える。それだけでボクはどこか安心して、上手に走れるようになる。
遠征で会えないときに投げキスを求められたのは、流石にまいったけど。勇気を出してやったそれを動画に撮られていたのには更にまいった。動画でみたそれは、あまり様になっていなくて、それでもマックイーンは随分と楽しそうだった。リベンジと、ネイチャに上手な投げキスのやり方を聞きに行ったら怒られた。マックイーンはあの下手くそな投げキスを随分と気に入っているようで、たまに見ていることがある、と、こっそり教えてもらった。
ボクのレースのとき、一度だけマックイーンからキスされたこともあった。
「いつも付き添ってもらえっているのですから、これぐらいは当然ですわ」
そう言って、いつもはレース日だろうとトレーニングをすることが多いのに、珍しくついてきたマックイーンの様子は最初からどこか変だった。レース前のボクの肩を力強く掴んで、黙ったまま固まっている様子に、ボクは思わず笑ってしまった。
「ちょっと触れるだけだよ」
「それができたら苦労してませんわ」
マックイーンはそう言うと、肩においた手を緩めた。少し自由になったボクの体は、それでもマックイーンから離れることはない。レースに出るはずのボクよりも固まったマックイーンの手にそっとふれると、少しだけ抜けた体の力がボクに伝わる。それだけでもう十分だった。
「無理しないでいいよ?」
「そうも行きませんわ」
ボクの本心からの問いかけに、マックイーンはそう言うと、深く息を吸い込んだ。呼吸の気配すら感じられる距離にずっといるのは、少しだけ心臓に悪い。人一倍負けず嫌いなところがあるマックイーンからすると、やられっぱなしは性に合わないのだろう。そういうつもりじゃないんだけどな。
「やめとく?」
「いいえ、やります」
そういうと、もう一度マックイーンは息を吸い込んで、目を閉じた。額に当たる感触に、思い出した記憶が重なっていく。愛された記憶の一ページが増えて、自分の名前のノートがまた厚くなった。くすぐったい気持ちで目を閉じると、気がつけばマックイーンは先程の緊張はどこへやら、どこか満ち足りたような顔をしていた。
「あなたに、祝福を」
そう笑ったマックイーンに、ボクは何も言えなくて、走り出したい気持ちが胸を満たした。
あとにも先にもキスはその一回だけだったけれど、それから、走り出したい気持ちに、少しだけその祝福が重なるようになった。
今日もボクは、マックイーンに祝福を送る。
もう見慣れた控室でいつもと同じようにマックイーンに手振りをすると、マックイーンは慣れたように膝を緩めながらふと問いかけてきた。
「恥ずかしくないのですか?」
シンプルな問いかけに、答えが詰まる。からかいでもなんでもないその純粋な目には、なかなか未だに太刀打ちできない。ごまかす方法を探してあたりを見渡しても、そこにはマックイーン以外の答えになるものは何もない。
「恥ずかしいよ」
だから、ボクは正直にいった。単純に恥ずかしいし、マックイーンにいつも屈んでもらっているのだって恥ずかしい。いつまでたってもスマートにできている気がしなくて、会長とかならもっとカッコよくできるんだろうか、とか、思ったりもする。
「でも、それ以上に嬉しい」
そういってボクは目を閉じた。
その口づけを与えるとき、いろんな思い出が蘇る。それはどこからかやってきて、どこまでも繋がっている。
一つ残らず持っている。脳裏に浮かぶ顔の数は、自分の強さの源だ。いろんなときにいろんな形でそれぞれが輝いて、ボクに立ち上がる力をくれる。
その中で一番強く輝くもの。憧れの代わりに手にした距離。あのターフを走り抜けた理由。それが今日もボクの前で、少し膝を曲げてボクの祝福を待っている。
それがボクにとって、何よりもの祝福だと思う。少しだけ固くなった体も、少し赤い頬も、愛おしかった。
目を開いた先で、同じ高さのマックイーンが笑っていた。