Sayonara VoyagE

Use me like an oar and get yourself to shore

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 あの曲が好きだと笑ったあなた。
 あなたによく似合うと思った私。
 どれも昔の話。
 消えてしまった旅路の光。

 思い出を呼び起こす引き金は、ありとあらゆる形をしている。
 その夜それは、誰かの口ずさむ歌の形をしていた。空気を震わせて柔らかに響きながら、私の心を静かに撃ち抜いた。弾丸はどこか遠くへと消えて、私は思い出されたはずの記憶に触ることもできなかった。
 夜の談話室では、みな公然の秘密に夢中だ。まだ遠い明日のターフを待ちわびながら、曖昧な将来への不安を抱えながら、限界への予感に目を背けながら、酸素を得るかのように言葉を並べている。
 この空気の裏に気がついたのは春を越えてからだ。それまでは愛おしい時間でしかなかった。欠けてわかることがまた一つ。音のしないため息を吐いて、気付かされたものを忘れていく。
 穴の開いた心でも、十分に息はできる。声のする方はこの耳がすぐに見つけてくれた。見知った声の愛おしい友人たちのするほうへと、気づけば吸い込まれていった。
 声の主は近づく私に気づかずに、今も明るい声でとぎれとぎれのメロディを紡いでいる。その音が途切れて、ああ、とため息をついた彼女は、それ以上のメロディを思い出せないようだった。
「素敵で、見入っちゃったんですよね。この後が、思い出せないんですけど」
 そう言ってスペちゃんは頬をかいた。同室の二人の前にはマグカップが置かれていて、おしゃべりに夢中な二人はそれが空であることも気づかないようだった。
 静かに歌う目の前の子を頬を緩ませて見つめていたスズカさんは、ようやく口を開いて、そうして固まってしまった。
「ええっと、どう始まるんだったかしら」
「ザット・イズ・ホワイ、ですよ」
 私はそう言いながら、空いた席を選んで近づく。こうして椅子を引くときに、私は孤独に誘われる。誰も彼もを見失ってまで一人の欠落に目を凝らすかのように、あの頃のことを思い出す。いつも人が集まるのは彼女のそばで、だから私はもう先に腰掛けていたのだ。あの暖かな空気の中へと。
 私の甘やかな淋しさは鈍い音で紛れた。だから私は、友人たちに向けた笑顔を、正しく作ることができている、はずだ。
「グラスちゃん!知ってるの?」
「ええ、有名な曲ですからね」
「そうなのよね。なのに歌詞を知らないの。そんな始まりだったかしら……」
「私もちょっとわからないです」
 私の言葉だけでは、二人はまだあの歌を思い出せなかったようだ。私は少し息を整えて、なるべく小さな声で歌う。
 言葉たちは自分に染み込んでいたから、こうして小さな声で歌って初めて、その意味が溢れ出した。
 大げさなまでの恋の歌。惚れた相手を大げさに褒めるその言葉たちが、柔らかなメロディで一つの情景になる。あれほど美しい声にはなれなくても、声を出す意味のある歌。
 歌の終わりに近づくと、辺りにその景色が浮かんでいるかのように、みんながメロディに体を委ねていることに気づいた。恥ずかしさをこらえるように息を吐いて歌い終えると、小さな拍手が起こった。私はなんとか、小さく頭を下げた。こういうときに彼女なら、上手く私の恥ずかしさを慣らしてくれたのだろう。
「そうだわ、すっきりした。ありがとう」
「いいえ。お役に立てたなら、何よりです」
 礼を言ったスズカさんに私がそう返すと、スペちゃんは目を輝かせながら身を乗り出した。こういうときの彼女の純粋さは美しくて、脆いほどだ。
「グラスちゃん、歌上手だよね!この曲も歌えるんだ」
 だから、その言葉にどれだけ正直に答えるか、私は確かに迷った。
「エルが、好きでしたから」
 それでも嘘をつかなかったのは、強がりの意味もなかったから。たとえ寂しいとしても、嘘はつきたくなかったから。
「そう、なんだ」
 少しだけ閉じた同級の耳に、寂しさを感じているのは自分だけじゃないとわかる。明るい寂しさはずっと漂っていて、私たちはそれを眺めて笑い合っている。こうして沈黙のうちに、談話室は夜の焦燥も不安も飲み込んで、私達が穏やかな夜を迎えることを少しだけ手伝ってくれる。
 少しの空白のあと、スズカさんはそっと口を開いた。
「歌、送ってあげたら?きっと喜ぶわ」
 彼女らしい、暖かな言葉だった。少しだけ長く生きた彼女の言葉には、小さな、確かな一歩を踏むために背中を押してくれる。
 私は曖昧に笑いながら、それでも、そうすることはないだろう、と思った。
 私の寂しさを、あの曲はきっと伝えてくれるけど。
 伝えたいわけじゃない。
 伝えられないから、寂しいのだろう。

 賑やかな談話室を出て、暗い廊下を進みながら歩く。心細さに負けないように、あの歌の続きをなぞりながら。
 部屋の扉を開けると、暗闇の部屋が自分を迎えた。空白以上の闇が、どこかにあるような気がする。
 あなたは光のようだった。撃ち抜かれた心臓でもそれは確かだ。誰もが目を覚ますかのようにあなたに気がついた。
 その隣で暮らしていた私には、太陽の重みはわからない。光に照らされた日々の中で、どれだけの眩しさがあったのかなどわかるはずもない。
 そして、もう今は。あなたさえ見えはしない。
 私は一人の部屋で、もう一度だけあの歌を思い出す。
「クローズ・トゥ・ユー」
 口にしたメロディだけが明るく灯って、部屋を少しだけ照らしてくれた。この光が、どこへでも届けばよいのに。壁も世界も撃ち抜いて、あなたに思い出させればいいのに。
 その想いを殺してしまった壁の中で、私は小さく歌い続けた。


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