助けてくれ、と、言われた気がして、路地裏を覗いた。
まだ白く息の曇る夜のことだった。オレ以外の誰もが春を望んでいるかのような日のことだった。
それで、子犬を拾ったのだ。始まりを話せば、そういうことになる。
柄ではなかったが、そんなことは言っていられない程度に衰弱していた。間接光だけで形成された色達の中でも、眩しいぐらいに霞んでいた。感じるであろう後味の悪さと、これからかかるコストを天秤へと乗せたのは、既にダンボールを持ち上げたあとのことだった。一晩超えられなかったらそこまでだ、と思いながら、閉店間際のスーパーへと駆け込んで、ペットフードと諸々を購入した。
似合わない量の荷物を抱えて自動扉の前に立つと、扉の向こう側では雨が降っていた。十分に静かな夜だった。店を出たオレは濡れないようにと体を小さくしながら、自室への道を急いだ。暗闇の中で見える景色は確かに移り変わっているはずなのに、脳裏に何度も同じ光景が浮かんだ。もう終わってしまっている姿。部屋にある骸が目も合わせない未来。
オレの焦燥が乱暴に扉を鳴らして、驚いた子犬は小さく顔を上げた。
そこで初めて、そいつの表情を見つけた。
「今のあなたには大変かもしれませんが」
次の日に行った病院で、やけに明るい髪の毛をした獣医はためらいがちにそう言ったあと、少なくともしばらくの間、あなたが面倒を見るべきだ、とオレに言った。
衰弱していること。まだ子犬であること。どういうことにストレスを感じるかを見極めてあげるべきだということ。
医者がいくつかの倫理的な理由を適切に並べるのを遮って、具体的に必要なことを説明させた。医者はオレのその態度に満足したあと、仕事人らしく端的に要点だけを説明した。スマートフォンのメモを片手に診察室を出るオレの背中に、椅子に座ったままの誠実そうな声が飛んでくる。
「無理はしないようにしてください。気軽に相談してくださいね」
振り向かない人間に資格はないように感じて、ゆっくりと振り返ったオレの目に映ったその笑顔に、相談なんて言葉を久しぶりに聞いたことを思い出した。
帰り道の途中で、名前が必要なことに気がついた。
いつまでも「子犬」なんて格好がつかないように思った。
家に帰ってもまだ眉間にシワを寄せて考えているオレに、物怖じしない性格なのか、子犬は側へと寄ってきた。かまってほしいのか小さく鳴いて、しかし態度を崩すことはない。
だから、オレは「ココ」と名付けた。名前を誰かに与えられたオレが、それを誰かに与える側ことになるなど、想像すらしたことがなかったからか、恥ずかしいはずの名前も静かについた。オレの名付けなど意図することなく生きるのであれば、それがいいと思った。名前を声に出すと、それはゆっくりと部屋に馴染んで、五回目の呼びかけで子犬が顔を上げたとき、それはたしかに名前になった。
ココはオレの気持ちを知ってか知らずか自由に育った。
誇り高くあるかのように姿勢を崩さずに鳴く態度はオレの記憶をくすぐった。オレが勝手にココに記憶を差し出しているだけかもしれないが、その違いはオレにはよくわからなかった。
レースのない退屈な日々において子犬はそれなりに刺激になった。スマホのカメラをここまで使ったのは初めてのことだった。
ふとした日にこの写真たちを上げたら面白いかもしれないと思って、レースをやめてから更新していなかったSNSにログインした。
画像だけの投稿はそれなりに反応があったし、「丸くなりすぎだろ」「寂しいのか?構ってやろうか?」「アカウント乗っ取られてねえか?」などのコメントが並んだ。ほっとけ。
コメント欄で茶化す人間など可愛いもので、電話までかけてきたやつもいた。滅多になることのないプライベート用のスマートフォンの着信音が、深夜一時半に健康的な生活を心掛けるかと眠りにつこうとしたオレの耳元を劈いた。
『犬飼ってるの!?』
「お前時差ってもんを考えろよ」
迷惑なそいつの名前はファインモーションと言った。
しばらくぶりに声を聞いて、想像とは違うかどうかすら思い出せない程度の年月が経っていることに気づいた。
『教えてよ!グルーヴさんに教えてもらえなきゃ一生知らないところだった』
「なんであいつが知ってんだよ」
『さぁ?わからないけど、自分が知ってる子たちのアカウントは全部見てるんじゃないかな』
「管理主義は変わってないってわけか」
『それよりも!』
オレのどうしようもない皮肉を無視して、ファインはスマートフォンの向こうで強張った。その真っ直ぐな声が、時差よりもノイズよりもはっきりとお互いの距離を想像させた。想像では踊れない。ファインもそれに気づいたのか、彼女は小さく声をしまって、でも、とこぼす。
『シャカールと子犬なんて想像もしなかったな』
「まあ誰も想像しなかっただろうな」
『そのアイデアがあれば、たくさんの子犬とシャカールを並べてたくさん写真を撮ったのに』
「趣味が悪いな」
『いいなぁ、みたいなー』
「会いたければ会いに来ればいいだろ」
拒絶のつもりで選んだ言葉は、思っていたよりも柔らかく響いて、それがオレたちを寂しくさせた。赦しなんて関係なく触れ合っていたはずなのに、気づいたら一つの赦しで許されたかのように感じている。
『それじゃあ』
と、予定を立てるファインの声にどこかためらいが見えた。淡々と立てられていく予定を決める携帯電話を、ココは不思議そうに見つめていた。
ワックスを買い直して、タトゥシールも買い足した。掘っても良かったけど、まだやめておいた。シールは当然余ってしまったから、あいつが真っ白な背中をオレに見せることがあったら、貼ってやろうと思っている。デザインはあの頃から変えて、翼を減らした。あの頃のように飛べないとわかっているから。
唯一の誤算は、ワックスの匂いをココが嫌ったことだった。近寄られないだけならまだいいが、アイツは気に食わないその匂いを遠ざけるために、ペットフードを撒き散らかした。流石に何度もやられて嬉しいもんじゃない。だから諦めて、あいつが気に入る匂いのものが見つかるまで、オレの髪は無造作に結んだだけだ。
オレの部屋にやってきたファインは、オレの髪型を見て大きく口を開けたあと、扉を締めた玄関の先には似つかない神妙な顔で、「カッコいいね」とだけ言った。それが笑いをこらえているとすぐにわかったので、ほほを軽くつねってやった。
「ひどい!」
「久しぶりに会うやつを最初に笑うほうがヒデェだろうがよ」
「そんなことないよ。カッコいいと思ってるよ」
「も、だろ」
オレがそういうと、ファインは返事をせずに笑った。少しの空白と沈黙だけで、あの頃ならいつまでも二人の間に浮遊していたはずのくだらないやりとりは空気中に溶けてしまう。ファインの微笑みが少しだけくすんで、オレは次に向く視線の場所がわかった。
「……足は、大丈夫なの?」
消え去った先に二人の間に何が必要か、オレもファインもわかっていた。だからファインのためらいがちな声に憤ったりはしなかったけれど、気遣うだけの力もなくて、オレは投げやりな言葉を選ぶ。
「これが大丈夫に見えっかよ」
オレはそう言うと、手に持っていた杖をあげた。流石にバランスが取れなくなるようなことはもうないけれど、不安が先にやってきて、自然と手をおろしてしまう。無機質な音を地面が鳴らして、ファインはあの頃より美しくなった顔を歪めた。お前がそんな顔することないのにな、と思った。けれど、その表情を吹き飛ばすための本音も、喜ばせるためのブラフもオレの体のどこにも存在しなかった。強がりはもう捨ててしまっていた。
黙り込んだオレの足もとを抜けて、ココはファインへと近づいた。愛されることを少し恐れるココは、しかしファインが顔を和らげたのを見て、後ずさらずに立ち止まった。
「おいで」
ファインがそういうと、ココはゆっくりと足を運びながら、あいつの差し出した手を小さく舐めた。オレが三年かけても出来なかったことを軽やかにやってみせたココのことを、しかし羨むことはなかった。ためらいをすぐに振り払えるのはいいことだ、と思う。オレはためらいが消えるまで待っている間に、気持ちも機会も失ってしまったから。
髪型を変えたのは、ワックスを切らしたからだ。それだけの理由だった。空になったケースを前に、やめることができるのだとわかったからだった。それから、タトゥーが消えるのを待った。服の露出は減らしていたから、オレがオレであることをやめるのは簡単だった。
子犬を見つけたのは、暗がりを選んで歩いていたからだ。光の方へと行きたくなかった。時折茶目っ気を出したあいつがそうしたように、護衛を巻くかのように、暗い路地へと入り込んだつもりでも、誰からも追われずどこにも行けないオレは迷い込んだだけだった。そうしてあの鳴き声を聞いて、気づけば再会の約束が出来た。導かれたのだと囁く思考回路にため息をつきたくなる。絆されてんじゃねえよ。そう思いながら、育て切る程度の感謝は感じている。
あの路地裏でないていたのはオレの方だったのかもしれない。
足を故障してから少しの期間だけ、ファインに連絡をしていた。もう走ることはできないこと。見舞いに来る必要はないこと。生活はどうにかなるということ。なんとしてでもやってこようとする彼女を止めたのは、慰められたくなかったからじゃない。慰められたかったからだ。そういう感情が自分にあって、向き合うことができなかったからだ。日々のブラフの裏返しにそういう感情があるのだろうと自覚していたつもりだったけれど、本当にそこにあったのはただの甘えだった。杖を手にしたオレにやってきたのはそういう漠然とした期待ではなくて、もっとシンプルなものだった。
互いに互いを特別に思っていた。それは確かだったと思う。だけど、それは勝負の上に乗って初めて成立するものだったと思う。シンプルな人と人として向き合うことが、今更できるのかわからなかった。
それに。走れなくなった姿を見せたくはなかった。こんなふうになる自分のことを考えたこともなかった。あいつがいつまでも抜け出せなかった世界ってやつに中指を立ててやりたかった。今自分が立てた中指は、あっという間にただの呪いに変わるだけだととわかったから拳を握りしめることしかできなかった。
でかいことを言っておいて、杖をついた無様な姿を見せたくはなかった。今にも追い出したくなる足を引き留めているのは歳をとってそれなりに成長した諦観か。ボケるにはまだ早いだろと思うオレの前に、ただ杖だけが立ちふさがる。恨んだ夜だって数えしれないが、ありとあらゆるオレの前を塞いだ杖が、唯一、オレに教えたことがある。
どれほどの道を塞がれてもなお、歩き続けなければいけないということ。
「子犬も育てなくちゃいけねえしよ」
オレがそう言うと、ココは不思議とファインから適度に距離を取って、オレの方へと近寄った。手を差し伸べると、ちょうどオレの手のひらに収まるぐらいの頭が触れる。
「どうしようかねぇ。スポーツ情報学か、普通にセキュリティエンジニアでもやるか」
賞金で暮らせねえわけでもないけど、というしようのない自分の声は消した。
ファインはじっくりとオレの言葉が指し示すものの先を見つめていた。ただの1DKには似合わないヒリついた空気に、オレは含まれていないことに互いに気づいている。失うものがないオレは笑っているだけでよかった。部屋を改めて見渡して、他人のために人生を捧げることの心地よさを味わいながらもう一度口を開く。
「お前が会いに来たけりゃ会いにくるんだな」
あの頃のオレなら唾棄していたであろう感情も、今のオレは持つことを許せた。本当には互いを必要としていなくても、生きるために騙しあって選び合うということ。そういう契約を、オレはココに一方的に結んだ。その代わり、オレのできる限り共に生きることにした。
オレにもう、差し出せる人生はない。オレは空になって初めて、オレの人生を餌にできる。
「シャカールは私に会いたくないの?」
「毎日でも思い出してるよ」
「……今の私を見てほしいな」
「それならお前が頑張らなきゃな」
無茶苦茶なことを言っている自覚はあった。でも、50/50へと持ち込める賭けだとも思っている。ここで失われたらもう最後で、二度と取り戻せないんだろう。それでも、オレにとって大切なモノを、オレにとって大切なままにしておくために、オレが思いつく唯一の正解がこれだ。慰めでも救済でもなく、ファインとつながっているための方法。そのためには騙してでも、オレへの情熱を持っておいてもらわなくちゃいけない。
「オレはお前と違って強欲じゃないからな、欲しい物なんてそんなにいくつも持てねえよ」
二つも嘘をつきながら、オレの言葉は本当のことを話しているかのように聞こえた。
「生活と、ココと、データ。お前のことは、思い出だけで充分だ」
これは、嘘ではなかった。嘘だとしたら、すがるしかないから。でも、オレにとって思い出にすがるのも、今のこいつにすがるのも、どちらも同じことでしかなかった。だから、思い出だけで問題ない。
オレの諦観と挑発を目の前に、ファインの表情は目まぐるしく動く。愉快だな、と思う。いい気味ですらあった。けれど、あの頃のファインも同じぐらい失っていたのだろうかと想像するオレの脳細胞が、愉快なだけでは終わらせてくれない。
天性でやる目の前の人間には叶わなくても、『小悪魔』らしく振る舞えているだろうか?天使って質じゃないから、真似するならこれしかなかった。でもきっと、オレの前にいるお嬢様が、似つかない闘志をあの頃と同じように目に燃やしているから、十分な出来ではあったんだろう。
「それがムカつくなら、思い出で満足してるオレの目を覚ましてくれよ」
ダメ押しにオレがそう笑うと、ファインの目が瞬いて、大きく開いた。オレにしては柔らかな挑発は、ファインの目を覚ますには十分だったらしい。
「いくらなら雇える?」
「副業になるからそこまで金はかかんねえよ」
「専業になってほしいなぁ」
「そりゃお前のデータが魅力的かどうかだな」
「今のシャカール、ほんと可愛くない!」
そういって頬を膨らませたファインに、今度こそ大きな声で笑ってみせた。
「元からだろ」
素直になれたらなんて甘い幻想は燃やした。思い出にならないように、本当の言葉に火をつけた。燃え上がった月が灰になる前に、お前はオレの形を見つけてくれるだろうか?
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それから、一通のメールが届く。見慣れないドメインとヘッダーの中の文面に目を通して、返事を書く前に席を立つ。仕事が早いことはいいことだ、と思う。コーヒーを取りに行く前に、計画成功を伝えるために相棒の頭を撫でる。
「また忙しくなっちまうよ」
そうこぼした独り言に、寝ぼけた目をしたココが珍しく低く唸る。
よく言うぜ、と言われた気がした。