冷たい二月の夜だった。無機質な着信音が、静寂だった彼女の部屋を揺らした。その波を追いかけるかのように、寂しさが自分の体から抜けていくことに、グラスワンダーは気がついた。
今日はいつもより少しだけにぎやかな一日で、この夜は彼女の部屋に昨日より少しだけ多くの冷たさを伝えていた。それだけのことで、これだけ鋭く心臓が傷つけられるのなら、今までの激情のいくつが。脳裏で今までの決意の答え合わせが始まりそうになるのを、グラスワンダーはそっとこらえた。
不在はいつも存在を照らしている。彼女の一メートル隣、質の良いはずのマットレスは、もう一年もその形を変えていなかった。主人の不在を守り抜くかのように部屋を占めるその家具が自分の感情に与える影響を、グラスワンダーはまだ掴みきれていなかった。ただこうして一人の夜に、その面積の分だけ寂しさが増えるような、そんな気がしているだけだ。
電話はまだ鳴り続けている。たとえこの夜の間、この音が鳴り止まなくても、この音を聞くのは一人だけ。そういう事実が遅れてやってきて、彼女の寂しさに色を落としていく。
グラスワンダーはいつもよりも張りつめるかのように背筋を伸ばすと、呼吸を整えてから机の上に置いた端末を手に取った。感情をごまかすようにゆっくりと傾けた液晶には、彼女が思い浮かべたばかりの人が写っていた。
慌てた手指で液晶に触れながら、急いでスピーカーに耳を押し当てる。一瞬でも遅れないように。そんなところにまで現れた貪欲さに気がつくこともできないほど、彼女の心臓は高鳴っていた。
「エル?」
切れたコール音に口をついた言葉が、部屋を気ままに飛び交っていた寂しさを彼女の胸の淵へと呼び戻した。グラスワンダーはそれを、圧迫された心臓で理解した。掛かった気持ちのまま抑えきれない鼓動の音と、スピーカーのノイズが交じって、次の言葉をのがしてしまいそうだった。
『そうです。エルですよ』
それでも、緊張した耳は懐かしいその声を正しく捉えて、期待の姿勢のまま固まっていた彼女の心を解きほぐした。気づかぬ間に入っていた力が体から抜け、揺れることのないはずの背もたれは少しだけ音を立てて彼女の体を支えた。自分が安堵のため息を零したことに彼女が気がついたときには、電話口の向こうからまた明るい声が飛び出していく。
『グラス、今大丈夫デスか?』
「大丈夫ですよ、エル」
少しだけ姿勢を整えて、それからグラスワンダーは名前を呼んだ。彼女がこれまでの季節で頑なに呼ばなかったその名前は、その分だけ過去と今との距離を縮めて、グラスワンダーの心のいくつもの思い出を照らす。
『久しぶりです、グラス。元気にしてますカ?』
「ええ。元気ですよ。エルは、大丈夫ですか?体調を崩したり、してませんか?」
『アタシですか?アタシは、元気いっぱいですよ!』
「そうみたいですね」
スピーカーの向こうからでも十分に伝わるその力強さに、グラスワンダーは静かに笑いをこぼした。気がつけばすっかり寂しさは息を潜めて、彼女の胸の奥からまた飛び出すチャンスを伺っている。
それでもこの電話を切れば、また部屋は寂しさで埋められる。そういう瞬間を想像する自分に、グラスワンダーは気がついた。その途端弱くなった自分を自覚して、彼女は動けなくなってしまった。
『それで、グラスに電話したのはですネ、ちょっと頼みたいことがあって』
だから、次に訪れたその声に、彼女はひどく安心した。たとえそれが、少し期待はずれのメッセージを届けても。少しの落胆の気持ちを抑えて、彼女はなんでもないように言葉を選ぶ。
「なんでしょう?」
『部屋に置いてきてしまったものを探してほしいんデス』
そう言う声に、グラスワンダーは少し体を傾けて、空っぽの机を見た。そこには何もないことは、その部屋で暮らしている彼女が一番知っている。何も知らない他人には、大きな部屋が使えて羨ましいと言われることもあるが、意味のある空白は余裕にならないということも、グラスワンダーは一番知っている。彼女は清々しいほど何も置いていかなかった。そう信じていたから、それが帰ってくるまで、何も見つけるつもりなどなかった彼女にとって、空白を改めて眺める時間はめまいの予感のように襲いかかる。
「どこにおいてきたんですか?」
いくら眺めても見つけることはできないだろうと悟ったのか、グラスワンダーは椅子から立ち上がりながら、電話口の向こうに答えを訪ねた。少しの沈黙は部屋の中央で立ち尽くす彼女を孤独で包もうと襲う。それを払いのけるかのように歩き出すのを抑えて、答えを待つ彼女の耳に届いたのは、随分と弾んだ声と、曖昧なメッセージ。
『ベッドを、探してみて!』
「ベッド、ですか」
言われた通りに目線を動かすと、シーツも外されて裸のままのベッドマットがただ沈黙している。一体ここに何が隠せるというのだろう。子供の秘密の一つも隠せないように晒された白い塊に向き合いながら、グラスワンダーは電話の奥へと疑問を向ける。
「収納ケースか何かに入っているんですか?」
そう言いながら膝をついて、一つ一つケースを開けていくけれど、どれもがその空白を主張するばかりで、ここに置いていけるものなど何もなさそうだ。彼女の脳裏には、旅立ちの前日にあわてて荷物を詰めるルームメイトを手伝った時間が蘇る。彼女の勢い任せの行動に最後まで呆れるばかりで、寂しさにくれる時間などなかった。
『いいえ、ベッドです!』
そんな思い出に浸りかけているグラスワンダーのことなど知りもしないかのように、海の向こうから楽しげな声を続ける。陽気なばかりの声に、少し前の日常が蘇っていく。嗜めたり怒ったりしてみせた自分のほうがありのままであるような、そんな錯覚にとらわれる自分と、向こうの明るいばかりの声に、思わず苛立ちを覚えた彼女の声は少しだけ低くなっていく。
「一体何を置いていったんですか?」
そう言いながら立ち上がって、彼女は一年振りに触れるマットを少しだけ強くその指で凹ませた。そこに溢れそうになった感情が流れ込んで、少しだけ彼女の心は晴れた。静かに息をしながら、この場所のどこに何を隠せるのかを考える。マットレスの中、ということは、流石にないだろう。ということは。
『持っていこうか迷ったけど、置いていったほうがいいと思ったんデス。そのほうが、楽しいデスから』
それは、ベッドの隙間で眠っていた。ベッドフレームの直ぐ側でそっと眠っていたその便箋は、小さな赤い花が散らされた穏やかなもので、差出人の名前だけが書いてある。「エルコンドルパサー」。その名前を呆然とグラスワンダーが見つめていると、今日一番の楽しげな声が彼女の部屋を揺らした。
『見つかりましたか?開けてみてください!』
少し震える指で、彼女は便箋の中に入ったものを取り出した。受け止めた指の間には、二人で撮った写真と、二つ折りの手紙。裏から透ける言葉をつい追ってしまった彼女の目には、心の中で今日ずっと待っていた言葉が映った。
『グラス、誕生日おめでとう!』
そうしてまた、明るい声が部屋を揺らした。手に持った写真は過ぎ去った季節を映し出してるのに、今のようにきらめいて見える。手紙に書かれた短いメッセージを読み終えるころには、冷たいばかりの夜は消えて、部屋の灯りが柔らかく自分を包みだしたようだった。
『サプライズ成功です!グラスが怒って電話切っちゃったらドウシヨウ!って思ってましたけど、良かったデス!グラス、少し気が長くなりましたか?』
「エル!」
『電話越しだと、全然怖くないデスヨ!』
恥ずかしさをごまかしているのはすぐにバレて、調子のいいばかりの声に、しかし上手に反論もできない。届くような大きさでため息を付きながら、これもどうせ照れ隠しだとわかられている。頬の温度は正直になるには高すぎて、グラスワンダーは不貞腐れることしかできない。
「今日までに私が見つけていたら、どうするつもりだったんですか?」
『グラスは意地っ張りなので、そんなことしないってわかってマス!どうせ今日まで、アタシのベッドに触りもしなかったんでしょう?』
思っていたよりも、自分のことを、ルームメイトはよくわかっていたようだ。恥ずかしさを逃がすように、グラスワンダーはもう一度ため息をついて、大切なメッセージを隠していたベッドを見つめる。これまでずっと不在の象徴だったのに、この数分間でその意味を失ってしまった。これからは、寂しくなることなんてできなさそうだ。一番のため息をついたのは、彼女の胸の奥から逃げ出してどこかに消えてしまった寂しさたちだろう。
『誕生日プレゼントは、他にも用意してあります!来月の帰国を、楽しみにしててクダサイ!』
スピーカーの奥の声は楽しいことばかりのように息を弾ませている。グラスワンダーは再会の日を改めて待ちながら、一番のわがままを言う。
「プレゼントも嬉しいけれど、まずあなたの話を聞かせてくださいね、エル」
その夜は、二人分の声が部屋を埋めた。二人の会話を止めないように、冷たさは部屋の外へと逃げ出した。