ハズレの映画だった。
二人の意見は一致した。
感動や感傷や興奮を抱えた人間が通り過ぎていく土曜日の午後の映画館のロビーで、エルコンドルパサーとグラスワンダーは驚くほど覚めていた。
ちょうど練習のない日だった。二人の揃った休日を利用して、それなりに楽しく前日から準備して、早起きをして、ポップコーンを買って並んで見るにはあまりにも不適切な出来上がりだった。
ショッピングモールの三階に到底ふさわしくない気持ちをぶら下げたままの二人の足はフードコートへと向かうが、次に入る店で難儀する。
こういうときはしっとりした店には入らない方がいいと相場が決まっている。店の記憶が悪く染まるからだ。中華はすでに昨日の昼に食べているし、和食はグラスの口がうるさい。ファストフードでもいいかもしれないと思ってみても、持ち帰り用の店しか開いていない。
二人の足はターフの上の確かさの影もないように動いていたが、それもやがて止まる。
なぜなら、あらゆる感情を飲み込んでくれるエンターテインメントを見つけたからだ。
そう、回転寿司屋である。
☆★☆★☆★
「そういえばそのまま出てきてしまいましたけど、パンフレットはいいんですか?」
『係員がご案内するまで椅子に座ってお待ちください』と告げる自動受付機の前で受付番号が印刷された用紙が吐き出されるのを眺めていると、グラスワンダーはふと気づいたようにそう聞いた。すでに待合室の椅子に座り抱えた荷物に体を預けていたエルが顔をあげる。
「いや、大丈夫デス。グラスは?」
「私も大丈夫です。今ふと思い出しただけなので」
その時点で互いの認識を擦り合わせたのか、二人は映画の話をするのをやめた。揃って天井から下がるモニターを見つめ、もうすぐ呼ばれるであろうことを確認した二人の間に一瞬の沈黙が落ちる。
「今日何か買い物とかありましたっけ?」
「特には。あ、床掃除するやつの替えが切れてる気がします」
「ウェット?ドライ?」
「ドライの方ですね。確かこの下にありましたから、買っていきましょう」
「了解デス」
「エルは?」
「必須ってわけじゃないけど、下のレコードショップをちょっとみていきたいです」
「いいですよ。何かお目当てでも?」
「ちょっとあったりなかったりって感じです」
「ふーん」
「もうちょっと興味持ってくれても良くない?」
「エルの好きな曲みんな速いんですもん」
「そんなことはないケド……」
「そんなことありますよ」
そう言いながら、グラスワンダーは体を捻って店内の方を眺めている。彼女にしては珍しく落ち着きのない行動に、エルコンドルパサーの眉間に少し皺が寄る。
「何か探してるんですか?」
「いや、このお店は席のどこにあれがあるんだろうって思って」
「あれ?」
「あの、お皿いれるやつです」
「ああ、あのガチャガチャならこの店にはありませんよ」
その言葉にショックを受けたことを隠しもしないグラスワンダーは、今日一番表情が動いているようにエルコンドルパサーからは見えた。映画もこのぐらいの衝撃があればよかったのに、とも思う。
「あのチェーン限定ですよ。特許とか取られてるんだと思いますよ」
ひよこが産まれて初めて見た生物を親だと思うように、人は初めて入った回転寿司屋を回転寿司屋の基準だと考える。グラスワンダーは同期五人で行った回転寿司が初めてだったのだろう。吸い込まれていく皿を見る目が静かに輝いていたのをエルコンドルパサーは思い出した。こういう子供っぽいところが彼女には結構ある。
「そんな……」
「そんなにやりたかったんデスか?」
「いや、そういうわけじゃないですけど、なんかショックで」
「まあ、二人で来る時はない方がいいかな」
「なんでですか」
「グラス、当たるまで食べ続けるデショ」
「そ、そんなことは」
「あるね、あります。キングほどじゃないにしても」
グラスワンダーが反論のために口を開こうとしたところで、店員が番号を呼んだ。「行きましょうか」と、エルコンドルパサーは、どこか弱ったグラスワンダーの目線を無視して立ち上がった。
☆★☆★☆★
お昼どきを少し過ぎたせいか人がまばらな店内で二人が案内されたのは奥まった場所にあるボックスだった。
「落ち着いてていい感じデス」
なんとなく呟いたエルコンドルパサーに対して、まだグラスワンダーは釈然としない表情のままだ。負けず嫌いな性格にくわえて、どこか向こう見ずな彼女の性格をちゃんと自分で理解していないらしい、と、エルコンドルパサーは席につきながら思う。同室で過ごしているせいか、そういう気質が自分に移ってきていることも気づいている。
もうちょっとクレーバーにやっていくつもりだったはずの二年前を思い出しながら、外から見えない席であることを確認して、エルコンドルパサーはかけていた伊達メガネを外した。
「似合ってたのに」
「なんか変な感じがするんデス。サングラスは別に大丈夫なのに」
「そうなんですか?」
そう聞きながら、グラスワンダーも被っていたキャップを外して、髪を撫でた。昨年度ジャパンカップ優勝ウマ娘と有馬記念優勝ウマ娘は、それなりの変装が必要とされる。ちょっとした休日の外出でも。だからこそ、その目的で外れてしまえば落胆もする。
「グラスー、お茶入れてー」
外の目線から解放されて、力が抜けたようにコップを差し出すエルコンドルパサーに、グラスワンダーはため息をついた。
「別にどっちがやっても変わらないでしょう」
「いや、お茶のことならグラスにやってもらわないと」
「そんなんで海外行ったときどうするつもりだったんですか」
「そりゃまあ、適当に……」
一杯分の抹茶粉末を取りながら、グラスワンダーは話題を間違えたことに気づいた。あまり気持ちのよくない沈黙が落ちて、エルコンドルパサーはお手拭きと箸を並べることにする。丁寧に入れられた二杯のお茶の前で、エルコンドルパサーはメニュー注文のタブレットと向き合っていた。
「まず汁物頼んでいいですか?」
「いいですよ。何があるの?」
「あおさか、蟹か、」
「蟹にしましょう」
「オーケー」
「あと何品か頼んでおきませんか?」
「そうですね。何頼みます?」
「私はこの季節のネタ三点というのが気になります」
「いいですね。私はどうしようかなー」
「このひかりものセットなんかいいんじゃないですか?」
「それグラスが食べたいだけですよね?確かにいいですけど」
「ばれましたか」
「いいですけど。そっちの季節のやつと何個か交換しましょう」
「あとは?単品何個か頼んでおきましょうか」
「そうデスねー。久しぶりにネギトロとか食べたいデス」
「じゃあ私はえんがわを。注文がこれでいっぱいなので一旦頼んじゃいますね」
「お願いしまーす」
グラスがタブレッドを凝視する間に、エルの目線は回るレーンへとむけられる。乾燥を抑えるためか、最近の回転ずしで寿司が回っている様子を見ることはあまりない。流れていくワサビをなんとなく人数分取りながら、回転寿司でワサビをつけるような意識の高い寿司の食べ方はしないということに気づく。とりあえずでグラスのところに差し出したけど、グラスはすでにスマートフォンを取り出していたようで、差し込まれた相手に気づくことはない。彼女の細い指が画面の上をすべるのを眺めながら、もう一度力を抜いて背もたれに体を預けた。気の抜けた沈黙の反動か、今まで避けていた話題が口から飛び出してくる。
「しかし、つまんない映画デシタネ……」
「予告編がよくできてたから仕方ないですよ」
「伏線あった?」
「多分序盤に出てきた手紙、テーブルの上に置かれてたやつです、あの手紙がそう」
「あれ読めないじゃん!」
「それはそうですけどね」
「最初の五分ぐらいであれ?って思ったけど、それ以上に酷かったデス」
「女優さんの顔は良かったですね」
「グラスそれしか言わないじゃないデスか〜」
「そんなことないですよ」
「あります」
「こちら蟹汁になります」
二人の口論はやってきた湯気とともにさえぎられた。人が少ない割にはあわただしく去っていった店員の後ろ姿をエルコンドルパサーがなんとなしに見ている間に、グラスワンダーは箸を取り出してお椀に口をつけた。
「今日の女優さん、顔がスズカさんに似てて綺麗でしたね。ちょっと幸が薄い系というか。ああいう人が手首を出しているのはいいですね」
「それ、スペちゃんに言わない方がいいデスよ」
「スぺちゃんに顔の話なんかするわけないじゃないですか、あの純真なスぺちゃんに」
「うわ」
「うわってなんですか、蟹汁あげませんよ」
「それはいただきますけど」
差し出されたお椀をそっと受け取って同じように口を付けている間に、別の店員がやってきて、盛り合わせの寿司を出していく。突然にぎやかになるテーブルの上に、二人は話をやめて寿司を食べることに集中し始める。
「エル、醤油を」
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
「何から食べようかな」
鯵、鰹、鯛、鯖、生しらす、そしてなぜか漬けマグロ。育ち盛りらしいスピード感で皿の上から寿司が消えていく。交換を挟んでいるうちに何を食べたかも曖昧になっていく。
皿がある程度片付く頃には、二人のお腹も気持ちも落ち着いてきたようで、同じようなタイミングで箸が止まった。食休めにべた褒めされた相手の顔を思い出して、まあ確かに、とエルコンドルパサーは口を開く。
「かわいいかつキレイ系の珍しい感じの女優さんですね」
「でしょう?」
「ああいう感じの顔がすきなんデスか?グラスは」
「いえ、顔が良ければなんでも」
「そうですか……」
雑食ということだろうか。きれいな顔でお茶をすするグラスワンダーに、エルコンドルパサーは思いつきの質問を投げる。
「エルの顔は?エルの顔はどうですか?」
「マスクつけてる人はちょっと。カツオもらっていいですか?」
「そんなフラレ方ある?いいですけど」
「ありがとう。お礼に素顔で告白してくれたらかなり真剣に考えますよ」
「グラスに告白することがあったら参考にしますね。少なくとも一年間はないですけど」
冗談の間に、ネギトロとえんがわが流れてくる。専用レーンに流れてくる寿司をそれぞれ受け取ると、二人の間にはまた沈黙が落ちた。
エルコンドルパサーは脂っぽさを口に感じつつ、タブレットをもう一度取り上げてメニューを眺める。無機質な画面の上に描かれるネタに目が滑っていく。ここまで選ばされると食べたいものがわからなくなるのだろうかと思いながら、前から思っていたことを口にする。
「グラスの面食い、やっぱりこの一年で加速しましたよね」
「面食いじゃないですよ」
「いやさっきまでめちゃくちゃ顔の話してたでしょ」
「へぇ、見て、タルタルチキンですって」
「話逸らされてるのに突っ込めない程度には気になりますね、とってください」
流れていく皿をつかんだ代わりに、グラスワンダーは話題を流すことに成功した。そうして取った皿が、あまりに寿司屋に似合わないものだとしても。
「チキンデスね」
「チキンですね」
「そりゃ美味しいだろうケド」
「プライドとかないんですかね?」
「グラス、辛辣」
しかし回転寿司は回転しているのであるから、流した話題も戻ってくる。
分け合ったタルタルチキンを先に飲み込んだエルコンドルパサーの口がまた開いてしまう。
「グラスが面食いになるのは、まあグラスに寄ってくる人たち見てれば……」
「やめましょうかその話」
「ハイ」
もう一度水に流して、エルコンドルパサーはなんとなく流れてきた卵を取った。
取った獲物を食べる前に、それなりに広がっていた皿を積み上げていく。邪魔にならないようにと横にどけて、少し冷めてきた蟹汁を飲む。
ようやく手を付けられた卵を食べて満足し、お茶を飲もうとしたエルコンドルパサーに、先ほどまでタブレットを見ていたグラスワンダーの声が飛ぶ。
「そういうエルはどうなんですか」
「エルですか?エルはもちろん、」
「みんなの恋人はなしですよ」
「そんな、あ、サーモンが」
「はい、ねえ、あなたね、前のことを忘れたんですか」
「覚えてませんネー、サーモンが美味しくて」
「バレンタイン」
「ハイ」
「ハロウィン」
「ハイ」
「エイプリルフールもありましたね」
「ハイ……」
「わかりましたか、あと、一貫もらえますかそれ」
「今の話の流れでも炙りサーモンをわけるエルの寛大な心に感謝してほしいですね」
一貫だけ寿司が乗った皿が散らばったテーブルの隙間に差し込まれ、それを箸を持ったグラスワンダーが待ち構えていた。
「いいんですよどうせ会計割り勘なんだし、いただきます」
「まあそうデスね」
頬を緩める向こうの人を視界に入れつつ、エルコンドルパサーはグラスワンダーの分の皿も重ね始める。すっかり彼女のお世話が身についてしまった。それを損と思っているわけではないけれど。
エルコンドルパサーの視線を勘違いしたのか、グラスワンダーは視線をテーブルに下げた。かわいらしく首をかしげて、エルコンドルパサーに問いかける。
「何か食べますか?」
「うーーーんじゃあ漬けマグロを」
譲られた漬けマグロをどこか釈然としない様子で頬張るエルコンドルパサーを置いて、グラスワンダーは真剣に次のメニューの検討を始めた。テーブルに敷かれたタブレットを片手で触りながら次に頼むメニューを選んでいる。
与えられた漬けマグロを飲み込み、残っていた鰹や鯵を食べている間に、グラスワンダーの長い葛藤の時間は終わったようだった。エルコンドルパサーのほうに差し向けたタブレットを見ると、すでに注文完了済みの画面に移動している。
「エルもどうぞ」
「ありがとう」
エルコンドルパサーが適当にメニューを決めている間に、グラスワンダーは二杯目のお茶を入れた。賑やかだったテーブルの上は気づけば寂しくなっている。タブレットを充電器に戻しつつ、エルコンドルパサーは熱くなった湯呑に気づく。
「ありがと。私は今頼んだ奴が来たらちょうどいいぐらいデスね」
「私もですね」
ほどなくしてグラスワンダーの注文した寿司が流れてきて、テーブルの上はまたにぎやかな色になる。その代わりに、物音がボックス席を支配する。
手持ち無沙汰のようにガリを取るエルコンドルパサーに、グラスワンダーの目線は動かない。その射抜くような眼差しに気づいたエルコンドルパサーが小さく首をかしげると、彼女の向こう側で少しだけためらいがちに口が開いた。
「これは聞いていいのかわかりませんけど」
「グラスに話せないことなんてなにもありませんよ!」
「じゃあ私のことどう思ってます?」
「大好きデス!」
「はいはい、そんなエルにはいくらをあげましょうね」
「えー、雑、いただきますけど」
「そうではなくてですね」
軽口の間にも寿司は来る。グラスワンダーは鉄火巻きを受け取りながら、エルコンドルパサーの方を見ずに切り出す。
「なんで海外遠征をやめたんです?」
「話したじゃないデスか。私の知名度をね」
「ふーん」
「あまりにも雑な相槌!」
トロとエビマヨが流れてくるのを横目にエルコンドルパサーは抗議する。しかし、とも思った。どこかバレている部分もあるだろうと。グラスワンダーの追撃が来ないうちに話してしまうのが得策だろうと判断して、エルコンドルパサーはエビマヨを口に突っ込みながらぽつぽつと話す。
「まあ一つは、ジャパンカップ勝っておきたいなっていうのがありますね。遠征の期間的に一度行っちゃうと今年のジャパンカップは出られなかったでしょうし」
「来年があるじゃないですか」
「グラスが出てるかどうかはわからないですからね」
「……」
「あそこでグラスに負けたのは結構悔しかった。あなたどんだけ負けず嫌いなんデス?」
「ちょっとばかしほかの人に現を抜かした人に対してお仕置きしただけですよ」
「いやグラスが言えたことじゃないでしょ、まあそれはともかく、中距離でも私が強いって示しておきたかったので」
「そして私に勝てないことを再確認して海外に行くんですね」
「口が減りませんね、この口デスか」
差し出されたエビマヨを前にしても、挑発的なグラスワンダーの目つきは変わらなかった。少しの間、二人の間に火花が散る。休日のショッピングモールに似合わないその眩しさは、しかし無遠慮にはじけ飛ぶ。
しかしその目もいずれは閉じられて、彼女は甘んじて受け入れるかのように口を開いた。咀嚼されていく寿司にエルコンドルパサーは満足そうな笑みを浮かべる。自分も頼んだトロを一口で食べると口をふいた。
「まあ、その辺も含めて。URAで勝てなかったのも結構心残りですしね」
小さな口でようやく飲み込み終えたグラスワンダーはそういう彼女の方を少し睨むようにし、そうしてため息をついた。
「まあ、なんでもいいですけど」
「あら」
「エルに勝てるチャンスができたのは、うれしかったですよ。今年一年は楽しめる年になると思いますし」
そういって不敵にほほえむグラスワンダーに対して、挑発される気持ちもある一方で、どこまでも負けず嫌いな彼女を心配する気持ちがエルコンドルパサーに生まれた。この子は勝負のためならどこまでも突き進んでしまいそうだ。
「グラス」
そう声をかけられたとき、グラスワンダーは最後の鉄火巻きへ箸を伸ばしていた。しかし投げられた真剣な声色に手を止める。エルコンドルパサーは箸も持たずに、グラスワンダーをじっと見つめていた。
「どうしました?エル」
「グラスに恋人ができたときは教えて下さいね、賭け事やってないか確認するので」
真剣になって損したとため息をついて、グラスワンダーは箸の動きを再開した。鉄火巻きを少しだけ雑に口の中に放り込みながら、投げやりに返答する。
「そんなに心配ならエルがずっといてくれればいいのでは?」
「いや私一年後には海外の予定なんデスケド」
「あら残念」
「帰ったときに相手の趣味に染まってるグラスとか見たくないデスよマジで」
「定期的に電話してくださいね」
「それでわかるかなぁ」
お茶を飲みつつ皿を重ねると、それなりの高さになった。二人で不思議な感慨を感じながら、頼む気もないメニューを眺める。
「何かデザートとか食べます?」
「いや……。ここで食べなくてもいいでしょう。下によさそうなカフェがありましたし」
「ではそこで。出ましょうか」
会計を頼み、出されたレシートを手に席を立つ。メガネとも帽子も忘れずに。互いに忘れものを確認しつつ、レジに向かう途中でグラスワンダーは呟く。
「ほんとはカフェで昼ごはんを食べるつもりだったんですけどね」
「まあそういう気分じゃなかったデスね」
最後に思い出した映画のことは、寮に帰るまで忘れていることだろう。
会計、三千二百二十円。