オレンジの明かりに引き伸ばされた影が、私たちを追い抜いては消えていく。
あざ笑うかのように現れて、悲鳴を上げるかのように暗闇に吸い込まれていく。その影の、その声が届かない場所に逃げるかのように、私達は走り続ける。トンネル内の狭い歩道をただ走る足元に、まだ冷たい二月の風が通り過ぎていく。
幾度も現れる照明のライトは、このトンネルが長く入り組んでいることの証拠だ。古びた車の通りも少ないこのトンネルでも、トレーナーは使うことに反対した。暗い、危険だというもっともな言葉を受け止めながら、私はこの道を選んで走り続けている。自分の心臓を、呼吸器を、ゆっくりと試すように進んでいく。
もうトンネルの外では、朝がやってきているのだろうか。まだ薄明の学園を出て、トンネルを入る頃には薄暗い青が包んでいた空に、太陽が浮かんでいるところを、私はいつもここで想像する。朝焼けが滲む景色がこのトンネルの外にあるのだろうかと思いながら、私たちはこのオレンジの光だけを頼りに走っていく。
出口はまだ見えない。
「カフェ、ペースを上げ過ぎだ」
体の力みを自覚したのと、後ろを並走する彼女に見抜かれたのはほとんど同じタイミングだ。観察眼に内心舌を巻きながら、動揺を悟られないようにゆっくりと息を吐く。
まだ先は長い。焦るわけにはいかない。苛立ちにも似た感情を捌きながらゆっくりと体から力を抜くと、後ろから、タキオンさんらしい満足そうな声が聞こえる。
「そうだ。いいねぇ」
彼女の声はいつにも増して鋭く、トンネル内に反響する。私たちが聞いているこの音は、反射なのか本物なのか、区別はつかなくなっていく。
吐く息は?足音は?空もない小さな空間の下では、私たちの存在がひどく危うく、まるでどこにも本物などないかのように錯覚する。誰もが一度は怯える場所。全長2450mのトンネル。
だからこそ私は、この道を選んで走る。あの子の背中がよく見える気がするから。選ばれない道をあえて進む私を、冷たい目で見る人がいても構わない。私の目的に沿った正しい選択だと信じている。
天皇賞・春。次の盾への道は、長く険しい。自分の体が悲鳴を上げて、目的を見失ったりしないように、あの子の背中をいつでも感じ取れるように、道標《みちしるべ》を見失わないように、私は暗い道を行く。何度でも。何回でも。孤独には慣れている。
でも、だからこそかもしれないが、タキオンさんがトレーニングについていきたい、という話をしたときに、首を振ることはしなかった。「データを取りたい」といういつもの口癖のような理由を並べながら、彼女が持ちかけてきた取引に頷いたのは私自身だ。
『君のフォームを確認してあげよう。トレーナーもついてきてくれないのだろう?』
口車に乗るべきではないといういつもの私を遮って、頷くようにしめしたのはあの子の影だった。あの西日ばかり差し込む研究室の奥で笑う彼女の瞳に、少しいつもと違う光が映ったように見えた。
そうして狭いあの二人の部屋を出て、また狭いトンネルの中を私たちは走っている。オレンジの光は等間隔に並ぶ。追い越していくトラックたちの風を感じながら、私たちは走り続ける。
「こんなところをいつも走っているのかい?」
ふいに横に並んだ彼女の声に、私はもう一段階スピードを落とした。走る私の影が彼女を切り取っていて、その瞳に浮かんでいるはずの感情がよくわからない。「正常」ではないであろう彼女の足音を聞きながら、「正常」であろうと私は沈黙を選ぶ。
「殊勝なことだねぇ」
前を向いて走り続けている私から返答を待たずに、彼女は完結していく。カーブへと入って、私たちの距離は近づいて離れていく。いつもの私たちだ。
いつでも私達の間には一定の距離があって、それを上手く避けるように走り続けている。今日のように気まぐれを言いながらついてくる彼女も、その距離を越えようとはしない。まだ作られたままのその距離を測りながら、私達はいつも走り続けていく。
だから、いつものようにただ、ともに走るだけでも、よかったのだけど。そこで満足できなくなったのは、光のせいか、影のせいか。あの子の背中をうまく捕まえられないからか。
遠くで響く耳鳴りのような音に、トンネル内の意思たちが答え続ける。私は少しだけ、足を緩める。後ろから聞こえる息遣いを注意深く聞く。息をつく私に少しだけ不思議そうな彼女の横顔が見えたら、そこが仕掛けるタイミングの合図。
私の横へと並んだ彼女に目をやる。いつも走るときは、あの子の背中ばかり見ている私にしては珍しいことだ。
ゴールは今決めた。あの五つ目のライトの向こう。
少しだけフォームを変えて加速するだけでも、賢い彼女はちゃんと意図を汲んでくれた。私からは、後ろを行く彼女の表情は見えない。それでも十分だった。彼女の一声で、すべてわかったから。
「カフェ!」
追い抜かれないようにフォームを切っていく。本気ではないとしても、今の私たちにあるのは勝負なのだ。誰も観客のいない、太陽すら見ることのないレースで、私たちは走る。
対向車線の車のライトが、私たちの影を複雑にしていく。そんなものに目もくれずに、私は走り続ける。
彼女の足音が反響する。
私の決めたゴールについて、私がゆっくりとスピードを落とし始めると、タキオンさんもゆっくりとその歩幅をもとへ戻し始めた。彼女の横に並ぶようにスピードを落とせば、どこか幼さの見える表情で彼女が私を見ている。拗ねているようにも、面白がっているようにも見えるその表情を見つめていると、呼吸を落ち着けた彼女が口を開く。
「君がそんなに意地の悪い子だったなんてねぇ。そういえば君はレースでプレッシャーをかけながら位置を取るのが上手かったねぇ。」
憎まれ口を叩く彼女に微笑むと、息も上がっていなかったというのにその頬は染まっていく。こどもらしさと、それをすぐに恥じる本能。そういうところが好ましいと思っていると改めて思うと、浮かべたほほえみはそのまま私の体に焼き付いていく。
「少しは、楽しめましたか」
怖くはなくなりましたか。本当はそう聞きたかったけど、そういうものではないとわかっているから、言葉にはしなかった。
暗闇を恐れないものなどいない。それは身についた本能だ。自分の不利な環境を警戒するのは当たり前のこと。
手放したものをもう一度掴む。限界だと思ったものに立ち向かう。それは自分の体が暗闇に包まれていると認めるのと同じだ。ゆっくりと立ち上がってきた恐怖、途方もなさに立ち止まりそうになる足。目の前をまっすぐ走り出すことも怖い。どれだけの明かりがあろうとも、そこは外ではないから。そばにある光を見失うのはいつのことなのか。
もう一度走ると決めたと、そう聞いたときから、彼女にも、こういう日が来るのだろうとは思っていた。そういう素振りを見せていなかったから、いつもの強がりを見せているだけなのかと思っていたけれど。
「バレていたのか、とは言わないよ」
もう彼女の声には恥じらいはなかった。いつもの冷静なトーンを聞き逃さないように注意しながら、私は私たちの間にある奇妙な信頼に想いを馳せる。
ライバル。まともに勝負になったこともないのに、こういう言葉を使うことが許されるのかわからないけれど、私とあなたの信頼の理由に名前をつけるとしたら、きっとそれ以外の言葉は選べないだろう。
「トンネルを走るというのは、初めてのことだ」
悪い亡霊がもしもいて、彼女を呪おうとしているのであれば、今襲いかかろうとするのだろうな、と、私は思った。私に表情を見られないようにか、少し先に進む彼女の背中は、それぐらい小さく見えた。
最強。四戦四勝。幻のダービー馬。そういう言葉は挑戦の前では全て意味を失って、私たちはこのちっぽけな体で自分と戦わなければならない。
それでも、彼女は走り続ける。すべての亡霊は彼女に追いつけない。走り続ける限り、光も闇も過去のものだ。
「何も見えなくなったから、それがゴールだとっていたんだ」
彼女はそういった。静かな、低い声だった。それは私たちの足音の間をかけて、トンネルの出口へと向かっていった。言葉の感情は混ざり合って複雑で見えないけれど、灰色の壁に反射するうちにいくつかの色にわかれていく。
「まさかまだ途中だったとはね」
横顔は見なかった。私は走るペースを緩めなかった。この不健康なオレンジに照らされた彼女に、どういう表情が浮かんでいようとも、それはどうでもいいことだった。悲しみでも喜びでも関係ない。
彼女がそこへと、私たちと同じところにたどり着いていたことが嬉しかった。この長いトンネルを抜けることをの意味を、理解してくれて嬉しかった。まだ進み始めたばかりだというのに、喜びが心臓を強く打つ。私は深く息を吸う。
「私はずっと気づいていましたよ」
それだけ言葉にして、私は少しペースを上げた。驚いた顔の彼女が少しずつ遠ざかっていく。いい気分だった。彼女に、気づかせてあげたのが自分だというのが。その感情の意味は知らない。知る必要もない。私たちはまだ、このトンネルを抜けてもいないというのだから。
地面を強く蹴り上げて、スピードを上げる私たちの横を、風が追い越していく。等間隔に並ぶライトからは、私たちを笑っている。それが例え運命だとしても、いくらでも追い抜いてみせる。
出口はまだ見えない。