天石佳代はその端正な顔を夕暮れの日差しに歪ませた。少しずつ日の差す時間が長くなる春の終わりでも、午後四時のキャンパスは夕方の色になる。四限の終わる学生の姿と、隣接する高校の部活の声が響くからだろう。昨日まではあの群れに混じって駅の中に向かっていたはずなのに、今日では九階の廊下を渡りながらそれを見下ろしている。人生もこのように乱高下するのか、と佳代は思った。違うことといえば佳代の居場所で、彼女の気持ちは今地下九階よりずっと低いところにあった。
佳代の自撮り用のアカウントにそのメッセージが届いたのは、つい昨日のことだった。
拝啓
素敵なお写真を拝見させていただきました。
キャンパスで見る普段の雰囲気からは想像できませんでした。
二ー七講義室の柱のすぐ横でいつも座っているあなたは、目立たないようにしているように思えたので。
これからの活動を楽しみにしています。
夕方の九階休憩スペースの主より
慇懃無礼とはまさにこのことだな、と急激に高まった体温に対して随分と冷静に佳代の脳内は結論を出した。自動生成のようなIDも適当なアカウント名もそれを助長させていた。
しかし、その意見を捨て置くことのできない重大なものであるということも、佳代ははっきりと理解していた。はったりではないことは、文章中のいやみったらしい脅し文句にも現れている。
自分が投稿した文面にも写真にも、場所が特定できるものは写っていない。二ー七講義室の柱のすぐ横を選んだのはそこだけ日差しが当たらないからで、お気に入りの場所だった。それを知っているということは、明らかに同じ学科の人間だろう。
目的が何かはわからないが、とにかく無視するのは怖かった。最後に余計に付け足された文面が挑発を意味していて、しかしそれに乗らないという選択肢を取ることは佳代のプライドでは難しかった。特に最近は新しい自撮りも不調だ。部屋のコンセプトを決められずに、曖昧に自分だけを撮ってお茶を濁している。端的に言えば苛立っていて、そんなときに売られた喧嘩をつい買ってしまった形になる。
そうしてメッセージに従って、佳代は九階の奥まった休憩スペースに足を運んでいる。少し階段を登ればキャンパスをすべて見渡せる屋上にたどり着くことができる通過地点であるこのフロアは、相対的に人気が少ない。学生が一斉に活動する昼休みですらそうなのだから、夕方には一人の影も見当たらない。そもそも、ここに足を運んだことすら彼女には初めてだった。
会いたくない学科の人間の顔が勝手に頭の中にリストアップされるのを諦めて、小さな歩幅で奥へと向かう。後ろ姿の長い髪と、紙の擦れる音に、今まで佳代の脳内であげられた顔たちが消えていく。上がった顔が窓に映って、その目に佳代は立ち止まってしまった。
窓ガラス越しに目があって、大判のスケッチブックを開いたままの彼女は振り向いた。若干呆然としている佳代の表情を見て、満足そうに微笑む。
「いいでしょ、ここ」
そう自慢げに笑った彼女の顔を見た瞬間に、佳代は脅しまがいのメッセージにも挑発にも怒れなくなってしまった。九階の主の正体は、脅して良からぬことを考える卑しい男でも、他人の弱みを握って悦に浸る女でもなく、佳代が密かに憧れていたひとだった。
かばんの中の手で握っていたハサミを取り落して戸惑う佳代に、楽しそうに笑っていた女――由比は少しだけ笑みを納めて、品のいい表情を作った。
「ごめんね、変なことして」
「いや……」
どう考えても彼女の行動が悪いはずなのに、佳代にはその謝罪を上手に受け取ることができなかった。
趣味の合わない同期の中で、相木由比は唯一佳代の興味を引く人間だった。淡々とした態度。絵を描きすぎて受験に落ちたせいで、一つ年上だと話すその姿は、その年齢差以上に大人びて見えた。近寄りがたいわけではなかったけれど、声をかけるのをためらうような姿勢ではあって、結局声をかける機会もないまま人数で区切られたクラス制度によって彼女と会う機会はなくなってしまった。
忘れていたはずの彼女のことを思い出したのは、二年生の全体講義のおかげだ。思い出したように彼女の後ろを通ると、開いていたスケッチブックが映った。
それは衝撃そのものだった。
佳代は、自分の顔がいいことを十分に知っていた。
遺伝。環境。それなりに幸運だった過去と培った技術がそれをより確かにしてくれた。画面に映る自分はちゃんと見れるものになっていた。
だから羞恥なんて今更、やってくるはずがないと信じていたのに。
立ち止まっていることにすら気づけないほど、その線達は美しかった。紙面の上にモノクロで描かれた輪郭だけの彼女たちの未来が浮かぶような、そういう絵だと感じた。スケッチの体裁でありながら、そこには過去と未来がつながっていた。その一枚の絵に、自分のカラフルな写真なんて子供騙しのように思えてしまったのだ。
それほどの衝撃を与えた人間が、しまらない脅迫まがいの文章を送ってくる。その事実をどう受け止めればいいのかがわかるほど、佳代には経験の積み重ねがなかった。
佳代の曖昧に捻れてしまった憧れの感情を当たり前に知らずに、由比はスマートフォンの画面を佳代の目にも映るように傾けながら、佳代に昨日送られてきたメッセージを写した。慇懃無礼に思えたそのメッセージですら、彼女の目の前にあるとよくわからなくなってしまう。
「やっぱりこれ、あなただったんだ。天石、さん、であってるよね?」
改めて目があうと、堰き止められていた疑問が佳代の口内に溢れ出した。
「そう、だけど。どうして」
私だとわかったの。なんでそんなメッセージを送ってきたの。口の中のどれを言葉として取り出せばよいのか彼女にはわからなかった。そこで言葉は切られる。佳代の今までの人生で、一番たくさんの意味が詰められた「どうして」だったかもしれない。そんな疑問の塊を避けて、由比のスマートフォンは佳代のアカウントの画面へと移動している。
自分の作った作品を自分の前で見られるのは、佳代にとって初めての体験だった。やりづらいことこの上ない、と小さく足を動かしながら彼女は思う。目の前の彼女からどんな言葉が出てこようと、何らかの形で傷つくことだけはわかっていた。
「良く撮れてるね」
それが彼女の感想なのか、はたまた社交辞令か嫌味か。佳代には判断を下すことは出来なくても、とにかく自分の小さなプライドに妙な形の傷がついたことは自覚出来た。開くことのできない口の代わりにとっさにそらした目線の先には、彼女の手の中のスケッチブックがあって、その淡白な色が彼女を辱める。
「どうして、わかったの?」
「そりゃ毎日こっそりスケッチブックを覗いてくる人、気にしないわけないでしょ」
その言葉に、佳代は今日一番恥ずかしくなった。あれから毎日のように彼女の後ろを通っていれば、バレていても仕方ない。それでも、その行為自体を指摘されてしまうのは気まずさが違った。
「ごめん。冷やかしとかじゃないの」
「わかってる。私も変なことしちゃったから、おあいこってことで。まあ、私がかなり得していると思うけど」
なんなら犯罪だしね、と笑う由比の態度に、佳代は曖昧に笑い返した。釣り合いが取れていると言われれば別に不満はないが、そもそも釣り合いを取るようなことではないように思えた。
「あと、アカウントは分けたほうがいいよ。私のアカウント、基本オタクの人しかフォローしてこないから。あなたみたいなかわいい女の子のアイコン、スパムかと思って確認しちゃうんだ」
そんな佳代の態度を知ってか知らずか、由比は話を切り替えていく。言葉の間に賞賛が隠れていて、インターネットに慣れきった佳代の心は勝手に反応してしまう。一方で、彼女の言葉はあまりにもよどみなくて、それに落ち込む心も佳代には感じられた。冷静に評価されているだけだ。自分はあれほど衝撃を受けて、言葉にもならなかったのに、そう思う。
「バレたことないから、大丈夫かなって思っちゃったわ」
そういう感情を出すこともどこか憚れて、話をあわせる。一目見たときからずっとアカウントを探し続けて、数週間後にようやく見つけられた由比のアカウントを、達成感でそのままフォローしてしまったのを思い出した。更新が随分と止まっていたから、見ていないものだとばかり思い込んでいた。自分の失敗が次々と浮かんでくるように思えて、佳代は恥ずかしさを通り越して疲れを覚えた。
楽しそうに自分の過去の写真を漁る由比の手を止めたくて、佳代は思い切って声を出す。
「アカウントのこと、誰にも、言わないでくれる?」
「あなたが隠したいならね。もったいないと思うけど。いや、もったいないってことはないかな」
諭すような物言いに傷つく前に、佳代の視線は目の前で破られたスケッチブックに向かった。鉛筆画の描くモノクロは佳代には作れない世界で、憧れてしまう。たたまれていくそれに焦りを覚えて、諭されたことも忘れて佳代は由比を呼び止める。
「その紙、捨てちゃうの?」
「そうね。いる?」
「じゃあ、もらう」
「え、いるの?」
困惑の色を見せながら由比は切り取ったばかりの紙を佳代に差し出した。佳代が丁寧にしまうのを苦笑して眺めたあと、スケッチブックをトートバックに仕舞いながら由比は口を開いた。
「まあとにかく、自分の表現したいことがあるのは、いいことだと思うよ」
引きずるように足を運んで、電車を降りて家へと向かう。普段から意識して姿勢を良く保つ佳代も、この日ばかりは背中が曲がっていくのを抑えられなかった。
疲労困憊で家にたどり着く。撮影用の小道具だって大体見繕っていたはずなのに、雑貨店の中をぐるぐると歩いたり、棚の前で立ち止まったりしていたら、いつの間にか夕食時すら見逃していた。可愛らしい商品を眺める彼女の頭の中を支配していたのは、彼女の最後の言葉だった。
『表現したいこと』なんて、何もなかった。ただ、楽しかったから撮っていただけだ。佳代には、あそこで否定できなかった自分が卑しく思えた。撮影も諦めて布団に潜り、撮影をやめることだけを文面だけで伝えると、常連のアカウントからすぐに反応があった。リプライにも適当に反応しつつ、由比のアカウントがないことにどこか落ち込んでいる自分に、佳代はまた落ち込んだ。
最悪な一日だった、誰もが同じぐらい悪いのに、と佳代は思った。私ばかりが落ち込んでいる。由比から最後に手渡されたスケッチだけが救いだった。雑念だらけの心でそれを眺めていると、気がついたら眠りに落ちていた。
次の日、佳代が四限を終えて夕日に目を細めながら休憩スペースに向かうと、由比は昨日と同じ姿勢でスケッチブックに向かっていた。彼女が顔を上げる気配がないので、佳代は十分に近づいてから声をかけた。
「見ていい?」
顔を上げた由比は佳代の顔を見ると、すぐに理解したように頷いた。集中を逃さないように、由比はすぐスケッチブックに目を戻した。イラストから連想される由比のイメージとその態度が一致したことに安心した自分に気がついて、佳代は苦笑を噛み殺した。出力から中身を判断する人間達に――私のことをただの目立ちたがり屋だと思って接触してくる人間に辟易しているというのに。
由比が次に顔をあげたときには、まだ隠れていなかった太陽もほとんど沈んでしまっていた。その間、佳代は由比の邪魔にならないように少しだけ距離を取りながら、彼女の指が作り上げていく世界をじっと眺めていた。
「つまんなかったでしょ」
一息つくようにペットボトルの蓋を開けながら、由比は佳代に問いかけた。佳代は描かれた校舎の風景から目を離さずに口を開く。
「全然。面白かった」
その目は今でも興味深そうに紙の上に注がれたままだ。少しだけやりづらい感情を覚えながら、由比は昨日の自分の態度を思い出してスケッチブックを閉じてしまいたい気持ちを抑えた。
「そう?それなら良かったけど」
二人とも昨日の妙な興奮の反動か言葉数が少ない。不自然にできた沈黙を耐え難く思っているのは由比の方だけで、佳代といえばずっとスケッチブックに浮かんでいるモノクロの青春を見つめている。人通りの少ない裏門で別れを惜しんでいるかのように話を続ける女子高生たちの姿は、鮮やかで今でも動き出しそうだと佳代は思う。
「そんなに好き?」
沈黙に耐えきれなくなった。
「好き。すごい好き。うまく説明できないけど……。鉛筆画でこんなことできるなんて知らなかった。なんだろう、構図なのかな、題材なのかな、全部だと思うんだけど。青春って感じが好きなのかな。でも他の青春作品とかそんなに好きじゃないから、きっと相木さんの絵が好みなんだと思う」
「そ、そう……。ありがとう」
若干気圧されながら、由比は反射的に言葉を返した。自分には過剰な評価だとわかっていても、褒めてくれてるのは確かだから。ここで下手に謙遜すると面倒なことになる経験がそうさせた部分も、彼女には否定できないが。
曖昧な生産者の態度に気づかないほど、佳代はその絵を飽きずに見続けている。
佳代はさっぱりした性格だった。特にトラブルもなく自撮りアカウントを運営できていたのも、結局のところ下手な欲望を出さずにやっていたからである。昨日の夜散々落ち込んだとしても、今日にはもう忘れている。そう思うことで、目の前の良いものを見つめる事ができる。そう信じている。
それも建前でしかなくて、結局好きの衝動とプライドのバランスが、前者に傾いてしまったというだけのことも、佳代は気づかないふりをした。
「これ、毎回捨てちゃってるの?」
佳代の目がようやく紙面から離れて由比へと動いたときも、その心は紙面に囚われたままのように由比には見えた。過度な感情に若干うんざりした気持ちを抱えつつも、由比は律儀に答えを返す。
「まあそうね、取っておく意味ないから。写真だけ撮ってあるけど」
「じゃあ、今日ももらっていい?」
「いいけど……。煮るなり焼くなり好きにしていいよ、勝手に公開とかしなければ。でも、そんなにいい?ただのスケッチだよ?」
一時間弱で描きあげた作品に、過剰な期待をされるのはそれなりの負担だった。ごまかすように自虐を重ねても、佳代は聞いていないようだった。
「写真もほしい、今までの全部」
「欲張りだな!?」
「今日もいたけど、毎日ここにいるの?」
大学のネットワークを利用して約十ヶ月分の写真を送ってもらいながら、佳代は何でもない風を装って尋ねた。
「毎日はいない。三限に講義のある月曜と火曜と金曜だけ」
退屈な作業にぼんやりとしていた由比は正直に答えたあと、自分のミスに気がつく。まさか、と思い佳代を見ると、彼女は少しばかりすました笑みを浮かべていた。
「じゃあ毎週行くね」
「やっぱり別に面白くないと思うけどね……」
「毎日絵もらうから。脅しの対価として」
「そう……勝手にして」
由比は若干疲れ果てていた。図々しいやつだな、と佳代の目を見ると、佳代は見目の良い顔で微笑んだ。
そうして二人の奇妙な関係が始まった。呼び出したのは自分だとしても、毎日見つめられるのは気が滅入る。そう考えて憂鬱になった由比も、一週間も経てば佳代の気配に慣れきっていた。
佳代の存在は自然だった。毎週異なるテーマで自分を撮影し、そのどれもが適した表現になっている彼女のセンスはキャンパス生活においても発揮持されていた。目立たないために不快にならない組み合わせを適切に選びながら、印象自体がつかないように適度に変えていく。それはちゃんと九階でも発揮されていて、由比はすぐにその存在を自然に受け入れるようになった。
佳代は自分が上手に生きていくことにそれなりの自信があった。そんな中で、彼女が唯一上手に人生を使えていないのが、九階の隅で過ごす時間だったとも言える。服を買うためのアルバイトの時間も、奨学金を維持するための復習の時間も削って、彼女は毎日絵を見ていた。それだけ由比の絵が好きだった、というのは少し間違っているかもしれない。結局のところ、彼女はあの絵から自分の突破口を探そうとしていた。それまで出来ていた自己表現ができなくなったのは、由比の絵を見たときからだ、と気がついていたから。
「テスト期間はどうするの」
「流石にやんないよ。七月さえすぎればいくらでも好きな場所で描けるんだし」
ある日、他愛のない会話をしながら絵を受け取ったあと、佳代はふと抱えてた疑問を口にした。
「なんで屋上じゃなくて九階のここなの?」
もう渡すことになんのためらいもないかのように差し出していても、由比にどこか気にかける気持ちがあったのは確かだった。人に見せるためのものは人に見せるために作るのだから、スケッチを差し出すのは生の自分を見せているような奇妙な違和感を覚える。そんな感覚を振り払うかのように、簡潔に由比は答えを口にする。
「カップルが入ってきて気まずいから」
「あー……」
場面を想像したのであろう佳代の苦笑いが由比の目に映る。恋人たちの逢瀬を批判するつもりはないが、世界に二人しかいないと思われると困るということを、佳代も由比も年齢相応に知っていた。
「あと、見えるものがそんな好きじゃない」
久しぶりの共感に安心した感情が先走って、余計なことを口にしたと由比が気がついたころには遅かった。彼女の言葉を聞いた佳代は、すでに疑問を口にしていた。
「そう?グラウンドとか、青春っぽいじゃん」
「ああいうのはだめよ、密度が高すぎて」
余計なことを口にしたかもしれないと思いながら、由比は取り繕うように言葉を選ぼうとして失敗したことに気がつく。疑問符を浮かべたままの佳代はオウム返しを続けてくる。
「密度?」
「青春のね」
「青春の?密度?」
普段冷静な佳代が混乱するのは珍しい光景であったが、それの責任が自分にあるとなると説明しないわけにはいかない。少し細くため息をついたあと、由比の口から言葉が流れ出した。
「グラウンドとかでさ、野球部が甲子園目指すぞって言ってるのはさ、熱量がありすぎるの。気持ちが大きすぎて、それを上手に描けないのよ、私は。全部ほどほどがいいの。青春もそう」
自分の創作論の欠片でも、口に出してしまうと途端に恥ずかしくなる。溜まった熱をすべて吐き捨てるかのように、言葉を並べ終わると、佳代は納得も不満も見せずに、ただ考えているようだった。しばらくの沈黙のあと、諦めるようかのように言葉に出した。
「よくわかんないな。私は好きなもので部屋を埋めるのが好きだから」
「天石さんはそれでいいんじゃないかな。私にはここから見える裏門の青春ぐらいがちょうどいいんだ。小さくて忘れられちゃうぐらいが。だから、私の絵も忘れちゃっていいよ」
佳代に適当な返事をしながら、由比はまたガラス奥の裏門を眺める。今見ると、由比が今日題材にした子どもたちはとっくに校舎を去っていた。このぐらいでよい、と改めて彼女は思う。その満足気な横顔を、佳代はぼんやりと見つめていた。
上京して得た1DKを、自分の「好き」で埋めることは、すぐに佳代を夢中にさせた。
ソリッドなデザインのマグカップ、柔らかなクッション、あの頃の少女には可愛らしすぎて、上手に組み合わせられなかったシュシュ。
自分で選んだ好きな物たちと、自分を合わせて上手に撮る。そのために研究もした。光、色、向き、表情。積み上げたものが評価につながっていくのは、佳代の今までの行儀のよいだけの人生に蜜を垂らしたかのような刺激を与えた。
今思えば、楽しかっただけなのだけれど。
今でも自分のことは撮り続けているけど、あの頃のように好きなもので囲んだ自分を撮る気に佳代はならなかった。好きなもの、写真を撮ること、そういう物の意味を、あの絵たちにすっかり壊されてしまったように思う。
だからこそ、彼女の放った言葉を意外に思う。青春の密度。その言葉をもう一度自分の中で呟いても、どこか納得できない自分がいる。
青春に密度なんてあるのだろうか。泥沼でもしょうもなくても、あるだけで青春だと思っていた。由比の絵を見て、何気ない瞬間にそういう青春のかけらがあるのだと初めて理解した彼女にとって、由比の言葉は余計許せなかった。
ムカつく、とシンプルに思った。忘れてもいいような絵が忘れられなくて戸惑う自分はどうなるのか。
佳代には、撮ってみたい写真ができた。それは由比の絵を見てから、初めてのことだった。
そこから佳代は二週間、由比のところに来なかった。由比に描いた絵を捨てないように頼むだけで、九階に姿を見せない佳代のことを、最初こそ心配したものの、日が経つにつれて気にかけることがなくなった。彼女の態度は自然すぎて、そこにいようといまいと問題なかったのかもしれない。失礼だとわかっていながらも、そう考える自分がいることに由比は気づいていた。
だから、その金曜日の三限に佳代を見かけたときに、由比はまず違和感を覚えた。そして今日九階で佳代が先に待ち構えていたときに、妙な納得があった。
「カメラマンをしてほしい」
そういった佳代は、一見いつもどおりのスタイルで、上手に女子大生に擬態しているように見えていた。それでも、二ヶ月以上それなりに近くで見ていれば、そこに佳代の主張が混ざっていることに気がつく。例えばピアスは随分と派手だし、手にしたかばんも可愛らしさが強い。それが適切に共存するように作り上げられたメイクはさすがのものだな、と考えていると、問答無用で手を引っ張られた。
そのまま由比は佳代につれられて、夕暮れの道を歩いた。あの九階の奥以外で彼女と一緒にいるのは初めてだった。差し込む西日にも負けないように、佳代の背中はまっすぐで、由比はどこか恥ずかしくなった。
そのままたどり着いた佳代の部屋の前で、彼女は鍵を開けたあと、由比に振り向く。
「入って」
その態度にどこか怯みながらも、由比は静かに目の前の扉を開いた。
「お邪魔しま、」
部屋に上がった彼女の言葉が途中で途切れたのは、その目に写った彼女の部屋の景色のせいだ。
絵、絵、絵。カーテンも壁も惜しみなくつかって、由比の絵が並べられていた。無作為のようで丁寧な絵の隙間を、いくつもの青春の道具が埋める。消しゴム、鉛筆、マフラー、スカート、リボン。由比の描いていた一つ一つの小さな青春のパネルが、補完されてつながって、この1DKを飛び越してどこまでも行けそうに由比には思えた。
圧倒された由比の表情を見て満足気な佳代が、由比の隣に立つ。言葉にできなかった。
「煮るなり焼くなり好きにしていいよって言われたからね。好きにさせてもらった」
「二週間、ずっとやってたの?」
「そうだよ。大変だった。ライトとか小道具とか探すのさ」
なんでもないように話しながら、彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。私を連れてきて驚かせることが目的だったのだろうかと、由比は一瞬思う。その考えはすぐに消えた。佳代の目の奥の意思は強く、そんなふざけた理由が生きる余地はない。
「なんで、こんなこと?」
由比の疑問を聞きながら、佳代はさらに狭くなった室内を移動する。ほぼ正方形の部屋の真ん中には、彼女が用意したのであろう上品な木製の椅子が、部屋の主の帰りを待っているようだった。ゆっくりと佳代がその椅子に腰掛けると、由比の描いた絵がぐるりと取り囲む。
百ほどの絵の中に囲まれていながら、佳代はよく目立っていた。悪目立ちでもなく、圧倒的な光としてでもなく、ただその絵と上手に調和していた。薄く入り込んだ西日と調和しながら、彼女は口を開く。
「今私が好きなものが本当はなんなのか、よくわかってないけど。だけど、あんたの絵が好きなことはほんと。だから、こうやって並べてみた。今私が好きなものはこれなんだって。表現したいものはこの絵で変わった私なんだって。それをあんたに表現してみたかった」
熱烈なラブレターのようで、そこにはどこか怒りがあった。
「忘れらちゃうぐらいの絵がいいって言うけどさぁ」
静かなその声には、力強い意志が宿っていた。ゆっくりとテーブルに降ろされた手は、由比の描いた世界をいとおしむようになぞった。溢れ出た感情が指を伝ってこぼれるかのように繊細に紙面の世界は揺れて、由比は心臓の奥から火をつけられたように頬が熱くなるのを感じた。
「私は一枚だって忘れてないよ。一枚一枚が小さくたって、私にとっては、今はこんな大きな世界だ」
そう言い切った彼女の背中を、由比の今まで描いたささやかな青春が埋め尽くしていた。写真で渡したものは丁寧に紙質を気にして再現されていて、出会えていなかった過去の分まで、彼女は丁寧に汲み取ろうとして居る。夏、秋、冬と佳代の後ろを巡って、春は佳代の目の前に丁寧に芽吹いている。
自分の描いた絵に囲まれて、美しい女が笑っている。それでも、由比はどこか負けた気持ちだった。自分の持っていた可能性を全部まるごと見つけられてしまったように思った。しかし、もう作られた世界を壊す事もできない。由比は負け惜しみに口を開く。
「あんたこれ、楽しいの?」
「楽しいよ。久しぶりに好きなものに囲まれた写真が撮れて」
皮肉も忘れて直球で叩きつけた嫌味も、楽しそうに笑う佳代に飲み込まれてしまう。やられたな、何にかはわからないけど、と由比は思った。渡されたカメラを覗き込んで、あまりの光景に笑いがこぼれた。
「やっぱり、密度が高すぎるでしょ」