Sayonara VoyagE

Use me like an oar and get yourself to shore

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 新しい住人について

 この冬、二人暮らしを始めた。
 親元を離れて、一人暮らしの期間が長かったものだから、どうやって二人で暮らしていくのかということに不安があったけれど、始まってしまえばなんでもない。生活というのはその場の人間に合わさるように出来ているのだと、つくづく思う。
 二十五歳で二人暮らし。順調な生活具合だ。世間一般に言うまっとうな人生、そういうものに似ている。
 いつものようにすぎるはずだった日々に、あるいはなんてことのない生活に、人と人の化学反応が起きれば、そこには記憶が生まれていく。これがそのうち思い出になったりするのだろうと思うと、どこか面映ゆくなる。同居人の存在をそばで感じながら巡っていく日々は、いつかなんでもない映画のようになっていくのかもしれない。
 大切なことを言うのを忘れていた。
 同居人の名前は、ギブソン・レスポール・スペシャル、イエローという。
 身長は62センチメートル。体重は3キログラム。出身地はアメリカ。趣味はまだわからないけど、仕事は音楽関係らしい。
 黄色人種なんて言葉が馬鹿らしくなるほど輝く肌は、普段は大人しめの黒い衣服に包まれている。私から話しかけないと何も喋らない無口。触れば律儀になにか返してくれるけど、私の伝え方が下手だと雑な返事しかよこしてくれない。気難しいのかもしれない。
 一緒に生活しているのに同じ食卓を囲まないなんて、と、この前の休日の夕食の際は、一緒にテーブルについてみた。
 「いただきます」までは済ませたけれど、作ったキーマカレーを口に含んだ瞬間に耐えられなくなった。
 傍から見たら、ギター眼の前に置いて、食事をつまらせるおかしな人間だっただろう。いや、実際にそれ以外の何者でもないのだけれど。
 話しかけるようにしてみたこともある。観葉植物に話しかけるとよく育つみたいな噂と同じ要領でやれば、少しは二人暮らしらしくなると思ったのだ。
「元気?」
 当然返事はなかった。
 一緒に暮らしている人に元気かどうかは尋ねないということに気がついたので、やめた。

  ▲

 冗談はさておき。
 今、私の部屋には、ギターがある。
 それなりに重い、整理しづらい物体が、一人暮らしの1LDKに存在するときのことを考えてほしい。当然急に押し掛けてきた来客に寝床なんて用意していないから、どこかに重ねたり隠したりもできない。悩んだ末の結論として、ギターは作業机の隣、曖昧に空いていたスペースの観葉植物を押しのけて座っている。
 本当に邪魔だ。特に掃除をしているときは酷い。休日、掃除をしているときに動かない旦那さんを前にした奥さんというのは、こういう気分なのだろうかと思う。
 でも旦那さんはホコリをかぶらないし、いくらものぐさでもどけと言ったら動くだろうし、まだマシな気がする。と、わざわざ動かして床のホコリを掃除して、少し乗っかったホコリを拭く度に思っている。週に1度は掃除をしているから、まあそこまでひどくなることはないのだけど。
 すっかり習慣として身について、今では土曜日の朝が来ると勝手にハンディクリーナーを持ち出すこの体は、毎度こまった同居人にため息をつくことになるのである。
 これでいて、勝手に音楽の一つでも流してくれたら良かったのだけれど、残念ながらギターは勝手に鳴ったり、メロディを奏でたりしない。ただそこにあるだけで、自分を使う人が現れるまで、ただただ沈黙し続ける。
 果たして待ち人が誰なのか、その答えも分かってしまっているから、余計に気まずい。
 つまるところケースから出されることもなく、ただオブジェとして置いていかれるだけのそのギターは、部屋の片隅を彩ることもなく、ただただのっぺりとした印象だけがそこに存在している。招く人もいないからよかったけれど、これで部屋に遊びに来る人がいたら「ギター弾くの?」と質問されることは間違いないだろう。なにせ見逃せない程度に大きいから。そのときのことを考えて、私は勝手に冷や汗をかいているわけだ。
 彼女――もしかしたら彼かもしれないが、あまり男性と二人暮らしをしているとは考えたくないから、私はこのギターのことを女の子だと思うことにした――がやってきたのは、もう一ヶ月も前になる。
 ある日の朝、突然彼女はやってきた。正確には「運ばれてきた」のだけど。
 二日酔いが残る朝方に、インターフォンの音で起こされたと思ったら、寝ぼけている間に玄関に大きな箱が広がっていた。何も覚えがなくて開けたら、そこにはあの艷やかな鈍器が、堂々と構えていたわけである。これにはびっくりした。なにせ箱の中身にも覚えがないとは思わなかった。調べてみたらたしかに深夜の購入履歴が残っていて、確かに注文はしていたらしい。全く記憶がないのだけれど。
 その前の日は会社の送別会で、職場でも親しい年の近い人たちしかいなくて。大きな仕事が終わって、一段落ついて。つまり酔うためにはもってこいの条件だったわけである。質が悪いのは、無事に家についた途端平気だと思い込んで――何なら足りないと思いこんで――貰い物のワインを開けてしまったことで。あっという間に真っ逆さま。気がついたら見に覚えのないギターの解説ページと、注文を知らせるブラウザの履歴が、新品そのもののギターと一緒にニヤニヤと私に笑いかけていたわけである。
 そのときすぐさま追い出してやらなかったのは、今思えば失敗だった。圧倒的に合理的なその行動を取らなかったのは、私がこの同居人にどこか責任のようなものを感じていたからかもしれない。買ってしまったのは事実なわけだし。高価なものを何度も行ったり来たりさせてしまったら悪いし。もしかしたらキャンセル料とか取られるかもしれないし。
 そういった憶測と役に立たない感傷をいくつも並び立てて、調べもせずに考えるふりをしている間に、一般的な返却期間は過ぎていき、キャンセルのボタンが注文詳細から消える頃にはすっかりギターはこの部屋に馴染んでいた。日々目にするものへの慣れというのは恐ろしく、いつの間にかずっと前からそこにあるような、そんな顔をしているように私には見えている。
 酩酊した私が丁寧なことに購入していたアンプとピックは機能していて、音は鳴る。それだけは一応確認した。それ以来、一度も触っていない。やらない理由はいろいろあって、例えば防音はどうだとか、教材をどうしようかとか。いくらでも正当な理由は並べられた。それでも置きっぱなしにしてしまっているということ――つまりやらない決断をすることが、やる決断をすることと同じぐらい難しいことを思い知らされているわけで。
 一年ぶりに夏紀に出会ったのは、鳴らすこともないのにしまい込むことも出来ないそのギターを、まるで自分のように持て余していたときのことだった。

 ▲

 私も二十五年生きてきたわけで、様々なものの実在を確かめる経験があった。
 嬉しくない誕生日だとか、 特別じゃないクリスマス。捨てられないCDとか、そういうものだ。大人たちが語るそういった哀愁の匂いが取れないものを子ども心に笑っていたはずの私は、いつのまにかその実在を確かめては、手触りの感触を記憶するようになってしまっていた。
 「何をやっているのかよくわからない友人」なんてものが存在するということもわかったし、高校時代にあれだけ近かったはずの夏紀が、いつの間にかそういう立ち位置に落ち着いていることもあるのだとわかった。あの頃と気持ちの距離感は変わっていないはずなのに、彼女を取り巻くものだけはいつも移り変わっているから、好きだったバンドの数年ぶりの新譜に手を付けるときのような不安が、彼女を前にするとやってくる。
 たまたま駅で見かけた彼女は、そのときはギターケースを背負っていて、それ自体は大学生の頃から見慣れた景色だった。土産屋の邪魔にならないような隅にいるのも彼女らしい。あの髪色も柔らかな目もあまり変わっていなくて、ただ違うのは、彼女が見たこともない女の子二人に囲まれているということだ。
 囲い込まれていると言った方が正しいかもしれないその様子は、傍から見ると微笑ましいような、そうでもないような、しかしただ対等ではないことだけはわかった。夏紀を見つめる目にはそれぞれ羨望が乗っているのがよく見えた。駅を急ぐ人たちも、心なしか彼女たちを避けて通っているように見える。午後四時の京都駅に在っていい雰囲気じゃなかった。
 話し込んで気づかない夏紀達の横をなんでもないように通りながら、彼女に気づかれないぐらいの距離に立って、様子を見守ることにした。頼まれてチケットを買った大学の同期のコンサートが、休日を無駄に過ごしてしまったと少しでも思ってしまうようなものだったから、このぐらいの時間のロスはいいだろう。後ろからじゃ彼女の表情は見えないが、別に見えなくてもよいぐらいには、親しいと自負している。
 夏紀は渡されたCDにサインをしていて、それが彼女がやっているインディーズバンドのものなのだろうということには想像がついた。
(CDって持ち歩いているものなのかな)
 素朴な疑問を持て余しているうちに、夏紀は一人になっていた。曖昧に手を振る方向にさっきまでいた女の子二人がいるのが見える。彼女たちが夏紀の方を振り向かなくなって十分経った所で、彼女の肩の力が抜けていくのが見えた。わかりやすい気の緩め方を見ながら、少しだけ生まれた悪戯心のまま、彼女の背中に近づく。夏紀がマスクを付け終わるのを待ちながら、花粉症だったかどうかまでは忘れてしまったことを思い出した。
「久しぶり」
 後ろから声をかけると、力の抜けた肩が強張るのが見て取れる。俊敏な動きでこちらを振り向くと、私だとわかって安心したのか、少し大きく息を吐いたのがわかった。
「希美」
「お疲れ。どうしたの?」
 私が省略した主語を恐らく理解した彼女は、しかしそれには答えず、腕時計で時間を確認した。大学時代からつけているものだとわかって、私はやっと本当に目の前の彼女が夏紀なのだと安心する。確か、優子からプレゼントで貰ったもののはずだ。
「このあと時間ある?」
 曖昧な記憶が一致していくのを確かめている私に、夏紀は少し籠もらせた声で答えた。
「あるよ?」
「じゃあお茶しない?久しぶりだし」
「いいよ」
 頷いた私に、夏紀は安心したように笑った。

  ▲

「自意識過剰だってわかってるんだけどね」
 そういいながら鬱陶しそうにマスクを外す夏紀は、至って健康体だった。花粉症じゃないという私のおぼろげの記憶はまちがっていなくて、つまりそれは変装のためのものだった。
「大変だね」
「ありがたいことなんだけどね」
 そう言いながら力を抜いて椅子に寄りかかる彼女は、この至近距離で見ても、あまり変わったところを見つけられなかった。いつかの冬の彼女と同じように、夏紀はその髪の毛を下ろしていた。あのときからずっと変わっていないような気がして、すこし怖くなる。いつの間にかあの頃に取り残されてしまったような、そんな気がして、慌てて違うところを探す。彼女の目の前に置かれた紅茶とミルクレープを見出して、なんとか安心した。
「よくあるの?」
 私の質問に、夏紀は苦笑いで答える。
「メジャーデビューもしてないバンドで、そんなによくあったら大変だよ」
「そうなの?」
「三ヶ月に一回もないはずなんだけど、ここのところ連続してて」
 そういう彼女が嬉しく思っているのは、鈍いらしい私でもわかってしまう。友人の素直じゃない幸福をどう扱ってやろうかと考えていると、目線に意図が乗ってしまったらしい。夏紀は私から目線をそらして、取り繕うように紅茶を口にした。
「熱っ」
 その様子に、からかう言葉を投げかけられるほどみっともなくはなかった。高校の頃よりずっと自覚的になった意地悪さを、私は急いでしまいこんだ。
「じゃあバンド続いてるんだ」
「お陰様で」
「なにそれ」
 笑いながら、ひどく安心した。夏紀の席のとなりに立てかけられたギターは、生きているような、そんな感じがしている。同じようにケースに入っているはずなのに、私の家で黙ったままのあいつとは、あまりにも違う。
「久しぶりだね」
「一年ぶりぐらいだっけ」
「もうそんなになるのか」
「前、いつだったっけ」
「なんだっけなぁ」
 夏紀が考え始めた隙を見て、頼んだカフェラテを口にする。てっきり甘いものだと思っていた舌が、苦味に驚いたのを隠しながら、自分の記憶を取り戻そうと躍起になる。
「前、みぞれが帰ってきた時じゃなかったっけ?」
「そんなになるっけ」
 喫茶店のロゴの入ったカップをテーブルに戻しながら、夏紀の奥にいる家族のパスタを見つめる。カレンダーを出すのはなぜだか冷たい気がして、私は記憶の景色から季節を当てる。
「去年の1月だよ」
 言葉にして引っ張り出すと、曖昧にぼやけていたはずの記憶が引きずり出された。
「思い出した。雪降ってて、優子が帽子被ってた」
「なんでそんな細かいとこ覚えてるの?」
「どうでもいいことってよく覚えてるじゃん」
 夏紀の疑問を解決したふりをして、哀愁に浸るふりに勤しむ。
「もうそんなになるのかぁ」
「今年は私が都合つかなかったからね。そういえば、誕生日おめでとう」
 誕生日はもう一週間前で、つまり今年ももう終わりだった。自分の部屋で一人で迎えたそれよりも、ずっと嬉しい気がした。
「ありがとう。もう25ですよ」
「私もですけど」
 口を抑えて互いに笑い合う。特別じゃない誕生日も、祝われれば嬉しいもので、何気ない拾い物をした気持ちだった。目を細めて笑っていた夏紀は、ふと気がついたように私に向き直った。
「今日夜空いてる?ご飯奢るよ。大したことじゃなくて悪いけど」
「えっ、いやいいよ。ご飯は行きたいけど、夏紀の誕生日私何もしてないし。普通に食べに行こ」
「まあまあ、じゃあ来年覚えてればなんかしてくれればいいよ。こういうのはタイミングだし」
 そうやって笑う夏紀は、本当になんでもないように人に与えるのが得意だ。一生敵わないんだろうな、なんて考えながら、それでも引き下がるわけにはいかない。私の曖昧なプライドもあるし、何よりなんか、悪いし。
「でも」
「ご飯以外でもいいんだけど、私ができることってギターぐらいしかないし」
 そういいながら、夏紀は隣にあるギターケースを引き寄せた。その手に、あることを思いつく。
「じゃあさ、夏紀に頼みたいことがあるんだけど」

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