彼女の赤い髪
あのまま置いていってやろうと思ったのは本当だ。
だけれど、結局私はギターケースを背負ってしまった。それはあの金額を思い出してのことかもしれないし、単純に楽しかった時間をなくしたくなかったからかもしれない。理由はいつでもわからない。確かなのは、私の部屋に今でもギターは立ち続けているということだ。
ギターの練習は、一人でもするようになった。単純に新鮮だったから。新しい演奏技術を身につけられるのが、嬉しいから。ピックを持つたびに抱きしめられたように痛む心臓のとおりに弾く手を止めてしまったら、負けてしまうような気がしたから。
仕方のない私に素知らぬ顔をして、ギターは日々いい音を響かせるようになる。どれだけセンチメンタルな気分になったって、お前はいい音がなればそれだけで満足してしまう人間なんだって笑われているような気がして、どこか腹が立つ。
しかしそんな情けない私のギターも、夏紀曰く上手くなっているらしい。一月に一度が二度に、三度にと増えていく度に、夏紀は感心と指導のレベルを上げていった。
「どんどん良くなるね」
そうやって私を褒める彼女はどこまでも爽やかで、ギターに情けなく映る自分の顔とこの表情が、高校時代は共に並んでいたのかと考えると不思議な気持ちになる。
「そうかなぁ」
休憩にペッドボトルを携えながら、曖昧な答えを返す。夏紀がお世辞で褒めているわけではないとはわかっていながらも、どこか信じきれていない自分がいる。コンクールに出るわけでもないのに。信じる必要すらないものだって、夏紀の口から飛び出せば信じてしまいたくなる。
「夏紀には全然勝てる気しないんだけど」
「そりゃ私が何年やってると思ってるの」
夏紀は苦笑いを浮かべていた。よく考えれば失礼な発言だと反省しながらも、どうやればああやって様になる演奏が出来るのか全然わからない。
私の場合、いつまでもギターに持たされているような、そんな感覚が抜けきらないのだ。どこまでも無理をしているような、そんな気持ちになる。二人で演奏しているときは夏紀の様になる様子になんとなく恥ずかしくなるし、家で練習しているときはふと写った自分の決まらない姿に手をおろしかけてしまう。楽器の練習がこんなにも難しいものだとは知らなかった。
「半年かそこらで抜かれたら私何やってたって話でしょ」
そういう難しさも全部隠したような顔をして夏紀は笑う。そういうところまで含めて、私はため息をつきたくなる。
「確かに、そうかもしれないけど」
「仮にもロックバンドのリーダーなわけで」
「えっ」
何気なく笑った夏紀の言葉に思わずピックを取り落とす。初めて聞いた情報だ。慌てて拾い直しながら、いつもどおりの笑みを浮かべた彼女から目線を外せない。
「夏紀、リーダーやってたの?」
自分の記憶を辿ってみても、そういう記憶はない。そもそも夏紀がリーダーなんて意外だった。そういう器じゃないとかじゃなく、彼女がやりたがるようには思えなかった。私の中の彼女は、そういうところから一歩身を引いて笑っているような、そんなイメージだ。
私の感情が見えていたのか、夏紀は照れくさそうに笑った。
「やらされてるんだけどね」
そういった彼女が頬にやった手を眺めながら、夏紀を選んだその人の、人を見る目に少し感謝したくなった。
▲
その目を見る機会は、案外あっという間に来たのだけど。
その日もいつものようにスタジオに勝手に入って、遅れてくるという夏紀を待ちながら様にならないギターを構えていた。
あれだけ迷宮のように立ちはだかっていたスタジオも、慣れてしまえば帰り道のように目を瞑ってでも歩けるようになる。慣れというものは恐ろしい。そうやって調子にのって目を閉じて演奏に集中していたから、扉が開いたことにも気がつかなかった。だから、ワンフレーズを弾き終えて目を開いた途端、知らない顔が眼の前に広がっていたのに気がついて、思わず仰け反った。晒された私の醜態を見て、目の前の顔はニッコリと笑った。どこか憎めない、いい笑顔だった。腹立つ。
「そこまで驚かなくてもいいじゃない」
そう言って笑ったその人は、散々存在を聞かされてきた夏紀のバンドメンバーだったわけである。サキと名乗った彼女は、ベースを弾くらしい。カタカナの感じがするから、私は彼女のことをカタカナで呼ぶことにした。
「初心者って聞いてたけど、随分うまいのねえ」
そう笑うサキさんの耳には、銀のリングピアスが光っていた。恐らく三つほど年上なのだろう。高校生の時はあれだけ大きく見えていた年の差は、いつのまに数十分の会話で抜け出せるようなものになっている。
彼女はその笑みと言葉で、あっという間に私のパーソナルスペースに潜り込んできた。嫌な感じはしないその仕草と言葉に、私はあっという間に気を許していった。
「じゃあここ数ヶ月夏紀が一緒に練習してたっていうのは希美ちゃんだったのね」
「話、聞いてたんですか?」
「はしゃいだ子どもみたいに嬉しそうに喋ってたわよ」
何気なく伝えられた友人の様子に、なんとなく恥ずかしさを覚えた。もうすっかり大人になったはずの友人の幼い一面というのは、回り回って自分を晒しているような気分になる。どう返せばいいのかわからなくて笑っている私から視線を外して、彼女はベースに目線を落とした。
「なんだかんだ今のバンドも前のバンドもギターは夏紀一人だからねぇ。一緒の楽器ができる人がいるのは、嬉しいんじゃない?」
適当に膝に載せたベースをいじるその手に目を奪われながら、頭では彼女のことを考えている。ギターを弾きはじめたときの彼女は、一人だったんだろうか。
「前のバンド、っていうのは?」
私の質問にサキさんは手を止めると、顔を上げて私を見た。
「今あの子は私ともう一人とバンドやってるんだけど」
「夏紀が大学時代に組んでたバンド、知ってる?」
「知ってます」
学祭にも見に行った。ステージの中央で歌うボーカルの髪色が毎年変わっていたことをよく覚えている。不思議なことに、毎度よくにあっていた。その隣で黙ってギターを弾いていた夏紀ばかり見ていたけれど。
「あのバンドね、解散したの」
「えっ」
話によれば、サキさんはサポートベースだったらしい。しかし去年の十一月に解散したのだという。
かなり揉めたらしく、ボーカルの男性と夏紀の掴み合いまで発展していたらしい。ラストライブではあの夏紀がギターを投げ捨てたと聞いて、想像ができなかった。
十一月って、私と会うすぐ前じゃないか。そんな素振りすら見せなかった彼女と、気にすることすらできなかった自分にショックを受ける。そんな私をおいて、サキさんは感慨深そうにベースを指でなぞっている。
「夏紀が本当に抜け殻みたいになっててねえ」
あの夏紀が死んだ魚の目をしているようなところは、あんまり想像できなかった。退屈そうな顔も怒っている顔も呆れている顔も見たけれど、抜け殻みたいな彼女なんて、想像ができない。私には、彼女は見せもしないだろう。そういう夏紀を、きっと優子ですら知らないような夏紀を、この眼の前の人は見てきたのか。そう思うと、なんとなく背筋が伸びた。
「どうやって、立ち直ったんですか?」
私が会ったときには、あくまで普通の夏紀だった。あのとき彼女がどういう気持ちでサインを書いていたのか、うまく想像できない。
「あれは立ち直っていうか、まあ生活できるようになっただけじゃないかしら」
生活ができる。曖昧な定義のその言葉が指すものが何なのか、この歳になればなんとなくわかる。それは食事であったり、洗濯であったり、たまにあう友人に笑うことができたりすることだ。
「どうして、生活ができるようになったんですか?」
「歌でも作れば?って言ったのよ」
「歌?」
意外な言葉が飛び出してきて、思わずオウム返しをする。
「ちょうどその頃夏紀は作詞作曲やっててね。そんな抜け殻みたいになるなら、それを曲にでもすればって言ったの」
そう言った彼女は、急に笑みを浮かべた。
「それで、夏紀がどんな曲持ってきたと思う?」
「え、恨み節、みたいな?」
恨み節はロックじゃないか。そう気がついた私の答えなんて気にしてなかったかのように、サキさんは楽しそうに答えを教えてくれた。
「失恋曲だったの」
「ええ……」
「情けない感じの男性目線の失恋の歌でね。それが本当に情けない、未練がましい歌詞でね。それが良くてねぇ!メロディも完璧で」
そうやって嬉しそうに喋る彼女のにこやかな様子に、冷たいなぁと思った私と、それでいいのかもしれないと思った私がいた。このぐらいの付き合いじゃなければ、見えないものがあるのかもしれない。
「それでこの子にロックやめさせるのはもったいないなって思っちゃって、誘ったってわけ」
「なる、ほど」
「今の話、私がしたっていうのは内緒ね」
「はい」
「じゃあ希美ちゃんには、もう一個夏紀の秘密を教えちゃう」
と言っても、知ってる人はみんな知ってる話なんだけどね。そういった彼女は、手元で触っていたスマートフォンの画面を私に見せた。
そこに広がっているものに私が目を見開いている間に、スタジオの扉が開く。
「失礼しますー」
小さな部屋の時の人は、私達の方に目をやると、意外そうな顔をした。話すべきことはあるはずなのに、画面の中に映るものと夏紀を見比べることしかできない。
ギターケースを隅に立て掛けた夏紀は、さっきから顔を上げたり戻したりする私に不思議そうな目線をやりながら、会話に滑りこんだ。
「紹介してましたっけ」
「さっき仲良くなったのよ」
「へぇ」
「夏紀のこと話してた」
面白がるサキさんの声に、夏紀は不安そうな声をあげる。ニヤついた笑顔を前に、夏紀の表情はどこか険しいものになった。
「なんの話、してたんですか?」
「夏紀、髪赤に染めてたの?」
話を遮って質問を投げると、彼女の目が一瞬見開かれて、そうして私の問いに答えることはせず、代わりに咎めるような目を私の隣に向けた。こういう表情をする彼女は、久しぶりに見た気がする。
「見せたんですか」
「希美ちゃんも知っておくべきだと思ってね。友人の昔の話っていうのは貴重なのよ」
「楽しんでるだけでしょ」
「そうとも言うわね」
コロコロと愉快そうに笑うサキさんに、夏紀は溜息をついた。二人のやりとりを聞きながら、私はもう一度スマートフォンの画面に目を落とす。赤く伸びた前髪と写真の雰囲気で、普段の彼女の気さくさはそこには全く残っていないが、たしかに夏紀だ。見間違いではない。「ビジュアル系」っぽいとは思うけれど、こうしてホームページの一部を埋めている分には違和感はない。
顔を上げると、呆れたような、困ったような、それでいて少し照れたような様子で夏紀は前髪をいじっている。説明を求めて夏紀の目をじっと見つめると、彼女は珍しくたじろいたあと、目をつぶってため息をついた。
「それ、昔の写真で。染めたの、もう三年前とかだから」
彼女の声がいつもより少しだけ刺々しくなっているのには気がついていても、それ以上の疑問に口を閉じる事ができない。最近はずっとこんな調子だ。知りたがりの小学生に戻ったようだとも思う。
「三年前って、大学四年じゃん。私染めてるところ見たことないよ?」
「そりゃそうよ、三日間の儚い命の赤髪だったんだから」
サキさんが口を挟んだ。写真フォルダを眺める彼女の爪の薄いネイルが光る。さっきからどこか愉快そうにふくらませたままの声は、狭いスタジオでも存在感を放つ。引っ張られるように、声のする方向を向く。
「どういうことですか?」
幼い子どものような私の質問をそのまま投げ渡すように、サキさんは夏紀の方に目線を移す。
「どういうことだって、聞かれてるわよ」
「もう、勝手にしてください」
拗ねた子どものような夏紀の姿に、なんだか新鮮な気持ちになった。それを表情に出したら本当に怒らせてしまいそうだから、あくまで子供のような顔をしておくのを忘れずに。
「じゃああることないこと話しちゃおうかしら」
「わかりました話します話しますから」
こんなにも遊ばれている彼女の姿を見るのは初めてのはずなのに、どこか懐かしい感じがするのはなぜだろうか。ため息をついた彼女の姿に、取り返しがつかないことがないように、慌ててフォローを入れる。
「別に無理に話さなくていいよ?」
いまさらだったろうか。私の言葉に夏紀はすこしだけ目をひらくと、また苦笑いを浮かべた。さっきよりなんだか、やわらかな笑いだった。
「いや、別に全然大した話じゃないんだよ。しょうもなさ過ぎて、恥ずかしいだけ」
そう言いながら夏紀は椅子を引っ張ってきて腰掛けた。長くなりそうだ。広いスタジオの中で、真ん中で小さな三角形を描いている姿は、なんだか滑稽だろうなとふと思う。
「笑わないでね?」
夏紀のその問いかけに、私は真剣に頷いたけど、さっきからおかしそうにしていたサキさんはついに吹き出した。
「ちょっと」
咎めた夏紀に、サキさんは手をひらひらと振った。
「努力するわ」
誰が聞いても信憑性の欠片もないその言葉に、夏紀はまたため息をついた。今日何回目だろうか。数え直すまもなく、夏紀は話し始めた。
「昔バンドやってたとき、みんなでアー写を撮ろうってことになってね。アー写って、アーティスト写真の略なんだけど、わかるよね」
私が頷くと、夏紀は話を続ける。
「それで、メンバー全員での写真は撮ったんだけど、一人一人の写真もせっかくだから撮ろうってことになって。その時悪ふざけで、普段と違う感じで撮ろうってなったの。それで、普通に撮ってもらおうとしたら、その時のリーダーが、赤く染めた夏紀の髪見てみたいーって言い出して、それで」
何気なく出された噂の人物の名前に、思わず固まる。夏紀の表情には苦しさも柔らかさも浮かんでいるようには見えなかった。
固まった私を助けるつもりだったのか、それともただの気まぐれか。投げやりな感じのするまま、サキさんは口を開いた。
「まあわかるわ。似合いそうだものね」
「確かに」
さっきの写真だって、雰囲気の問題はあっても、決して似合っていないわけではなかった。夏紀の髪を自由に染められるなら、私も赤を選ぶかもしれない。
「そうかなぁ」
「あんただってちょっとはそう思ってたんでしょうが。そうじゃなきゃ染めてこないでしょ」
夏紀の曖昧な反論は、サキさんの言葉でぺしゃんこになった。言い返す言葉も見当たらなかったらしく、俯いた夏紀に、サキさんの声に含まれる笑いはどんどん大きくなっていく。
「それで本当に染めてきて、似合ってるってみんなで褒められたんだけど。次の日、すっごい暗い顔でスタジオに来たんだって」
「え?なんでですか」
「彼女に怒られたって」
「え?優子に?」
驚きのあまり名前を反射的に口に出していた。しまったとサキさんを見ると、驚いている様子はなかった。
「あら、知ってるの?」
「あ、はい」
意外な反応に飲み込めずにいると、夏紀が補足を入れる。
「優子と私と希美は高校同じなんですよ」
「なるほどねー」
「ごめん、驚いて名前出しちゃった」
「大丈夫、サキさんは知ってるから」
夏紀はなんでもないことかのように手のひらをひらひらと振った。その力の抜けた動きを眺めながら、私はようやく夏紀が大人になって――バンドマンになって、積み上げてきた物の大きさを理解した。それは彼女自身が染み込んでいて、ちょっとやそっとでは壊れはしないのだろう。
私はどうなんだろうか。曖昧に思いを巡らす私の向こう側で、サキさんはまたあの軽やかな声を出す。
「本当にすごい落ち込みようだったらしいのよ。私も実際に見たわけじゃないけど。でもバンドの約束だから写真を撮るまではって言って染め直そうとしなかったらしくて」
難儀よね、と言いながら、その実面白がっているようにしか見えない。
「ほら、この子基本真面目でしょう?」
「わかります」
「ええ……」
思わず少しだけ前のめりになりながら答えると、隣の夏紀は首を傾げている。ほらね、と言わんばかりの表情を浮かべたサキさんは、しかしそれを口にはしないまま言葉を続けた。
「だから赤髪だから家に帰れないっていってスタジオで徹夜して行って。そのまま写真撮ったからあんなにダウナーな感じなのよね」
「なるほど……」
「よく見ると目も虚ろよね」
拡大した画像を眺めながら、頷く。本人の前で言うのも悪いが、これは健全な人間の顔じゃない。
「その話を聞いててねえ。今のバンド組むときに、夏紀にデータまだ残ってるって聞いたら送ってきてくれたから、そのままホームページに貼っちゃったわ」
「ほんと酷い人ですよ」
彼女はそう言いながら笑っていた。これが信頼ってやつだろうか。
今は至って健康的な夏紀と目を合わせる。聞いていない事の顛末があった。
「それで、優子には許してもらえたの?」
「わかんない」
深刻な事の顛末を、夏紀は何でもないことのように話す。見逃しそうになるその言葉は、見逃すには流石に重かった。
「どういうこと?」
「染め直して謝ろうとしたら『別に謝ることじゃないでしょ』って言われて、そのまま」
「じゃあ怒ってないんじゃないの?」
「うーん、どうなんだろ。でも一ヶ月ぐらい、髪の毛をめっちゃ見られて気がする」
深刻そうな夏紀の表情を前に、サキさんは今度こそ愉快そうに笑い声を上げた。それは嫌な感じのするものじゃなく、もっと慈しみのある笑いだった。そこに邪気がないことはわかるから、夏紀の口からため息は出ない。
「夏紀もなんだかんだこういうところは子どもっぽいわよねぇ」
「そりゃサキさんから見たら、私なんてほとんど子どもでしょう」
「そんなことないわよ。殆どの部分で私よりずっと大人よ。まあでもそうねえ、惚れた弱みってやつじゃないかしら」
彼女が何を言わんとしているのか、なんとなく理解することができた。まだ納得の行かない表情をした夏紀を見て、サキさんがため息をつく。
「ほんと、気がついたら馬に蹴られてるんだからたまったもんじゃないわね」
「わかります」
「ええ……」
▲
「あ」
「え?」
スタジオの階段を上がったところで、優子に会う。彼女は九月にしては随分と厚着をしていて、何故かそれがとても優子らしいな、と思った。薄い黒のパーカーには見覚えがあって、蹴られていると気がつく。口には出さない。
「なんで希美?……ああ」
「そういうことです」
一人で解決したらしい優子に、なんの意味もない返事をする。なんとなく肩からズレている気がして、ギターケースを背負い直す。私の背中にあるそれに向けられた目線は、興味を失ったようにすぐ外れた。
「練習?」
「うん、今終わったとこ」
「夏紀は?」
「スタジオの人と話があるみたい。来月の予約のことらしくて」
「ふぅん」
会話はそこで途切れた。互いにちらりと入口に目をやる。夏紀を奥にしまい込んだままの扉は、まだ開くことはないだろう。曖昧に止まってしまうと、そこから言葉を選ぶことは急に難しくなってしまう。
高校生の時は、優子と一対一で話すとき、私は何故かひどく狭い部屋の中にいるような、そんな気分になった。優子に非はないのだけれど。
だから、彼女の前では言葉を探してしまうくせが抜けない。今も、選ぶための言葉を探している。
「そういえばさ」
「なに?」
なんでもないことを話すふりをしながら、優子の方を注意深く見る。見逃すことはないと思っていても、注視するクセは抜けない。
「なんで夏紀が髪の毛赤くしたとき怒ったの?」
踏み込んだ瞬間、優子の大きな目がさらに大きく開かれることはなかった。ただ規則的な瞬きが一度だけ止まっただけだった。
「誰から聞いたの?……ああ、夏紀のバンドの人ね」
優子の口ぶりは本当になんでもないことを話すようで、きっと本当に何でもないのだろう。もうちょっと踏み込んでも良さそうだ。
「今日あの写真見せてもらって」
「ふぅん」
興味なさげに呟いた彼女は、ふと周りを見渡すと、まるで内緒話をするかのように声のトーンを落とした。
「……ねえ、あの写真、どう思う?」
「どう……って。カッコいいと思うよ?ちょっと不健康な感じもするけど」
質問の意味を探り当てるように答える。優子はその答え自体には触れることなく、眉間に皺を寄せた。
「あの写真で夏紀のファン増えたのよね」
「へぇ」
「女の子の」
思わず息を飲む。首を振って優子の表情を見ると、思ったよりなんともない顔をしていた。不躾に眺めた私のほうを見て、彼女の口が尖る。
「何よ」
「いや、なんでも」
「言っておくけど、別にファンに嫉妬してるとかそういうわけじゃないから」
「そう、だろうね」
あまり優子が嫉妬に燃えているところは想像出来ない。そんなことでイライラするぐらいなら、自分から奪いに行くだろう。そういう良いわかりやすさは、彼女が歳をとった今でも変わっているようには見えなかった。
「そのファンの女の子がさ、みんな揃って言うわけ。『ダウナーな感じがかっこいい』って。何よダウナーって。陰気臭いと何が違うのよ」
「そこまで言わなくても」
優子の勢いに苦笑してしまう。だってそうでしょう、優子は続けながら不満を吐き出していく。
「あいつのギターが上手いのは私だってわかるし、歌も声もいいと思うのよ。贔屓目に見ちゃってるのかもしれないけど」
恥ずかしいのか、少し早口になる彼女は、それでも誤魔化したりはしない。強いなと思う。
「それなのにダウナーだとか、ダークだとか言って。見た目しか見てないようなファンの子に、私が恨まれるのよ?酷くない?」
「あー」
過去に何かあったのだろうか。なんとなく想像できるやりとりに、口元を少し歪めてしまう。二人は二人で、きっと色々面倒にあってきたのだろう。
「だから、あいつの赤髪はあんま好きじゃない。そもそももうちょっと黒に近い赤じゃなくて、地毛に近い赤のほうが似合うのよ」
「それはそう思う」
「そうでしょう?」
言いたいことを言いきったのか、眉間に込められていた力が抜けていくのがわかった。それと同時に、彼女の目が遠くを見た。
「まあこれって、全部後付けなんだけど」
「今ならわかるのよね。なんで怒ったのか」
優子は階段の手すりに体を持たれると、懐かしいように口を開いた。
優子のこういうところが、本当に強いなと思う。まっすぐで、信じることができて、それでいて振り返ることができる。どうして私の周りには、できた人間ばかりいるんだろうか。少しだけ憂鬱になってしまうほど、でもそれが誇らしかった。
「結局、不安だったのよね。夏紀が新しくバンド始めて、自分の知らないところでどんどん大人になっていくような感じがしてて。自分と夏紀がどうして一緒にいるのか、理由もないって思ってたし。その不安がその時爆発しちゃったってだけ」
階段の奥を覗き込む彼女の目は、風のない湖のような色をしている。向こうにいる恋人を見つめるそれは、若さゆえの熱さも不安ゆえのゆらぎもなく、ただ今を見つめている。長い間に培った関係というのは、ここまで強固なものになるのか。その積み重ねまでの距離を、私が理解できる日は来るのだろうか。少なくとも、今の私には出来ない。
「時間が経つと、自分が何に傷ついてたのかとか、何に怒っていたのかとか、ふとした瞬間にわかるようになるのよね」
「……そうだね」
それでも、優子の言うことは痛いほどわかってしまう。言葉にされていくうちに、わかってしまった。だから、噛みしめるように、もう一度言葉を落とす。
「そう、だね。わかるようになるね」
私の言葉に優子が視線を向けないうちに、ライブハウスのドアが開いた。中に挨拶を済ませた夏紀が振り向く。キャップを被った彼女は、こちらを見上げると少しだけ歩くペースを上げた。
「待っててくれたんだ。何の話してたの?」
いつもの笑みを浮かべる夏紀に、優子はニコリともせずに言う。
「あんたの話してた」
「えっ」
助けを求めるように私に目を向けた夏紀に、曖昧に笑いを浮かべる。残念だけれど、助けてあげられることはなにもない。
「今日、家に帰ったら話があるから」
優子はそれだけ言うと、帰り道を歩き出した。わかりやすい照れ隠しに笑ってしまいそうになる私の前で、夏紀はその後ろ姿を呆然と見つめている。優子が10メートルは離れたところで、振り向いた彼女は、少し泣きそうになっていた。
「何の話、してたの……?」
「別に、悪い話じゃないと思うよ……」