パンドラボックス・シルバーレッド
他愛なく今日が昨日になる
― TOYRING / HAUGA / ArtTheaterGuild
どうやったら一番美しく、指輪を受け取れるのだろうか。
きっと理想は、生まれたその瞬間に指に嵌められているとか、指輪をつけて生まれてくるとか、そういうものだろう。
人はどんどん、汚れていくものだし。
生まれて初めて、指輪をもらった。映画になりそうなぐらい、最悪の渡され方だった。
すべてが悪かった。まず第一に、もらう相手が悪かった。下の名前も知らない女の子からのものだった。時間も悪かった。会社の飲み会の後だった。
極めつけに悪かったのは場所で、女子トイレの個室だった。道端で吐いてるときじゃなかっただけ、良かったのかもしれないと思って、目の前の現実から目を逸らしてみたりする。
手助けという名目で、忙しい部署のどうしようもない上司の穴埋めに駆り出されていたのがようやく終わった日の夜だった。一緒に仕事しているときは、ずっと冷静だった彼女は、先日恋人に振られていたのだと飲み会のときに知った。知ってしまった。知りたかったわけではない。ちがう部署の人間の私生活なんて知るわけもないから、飲み会の途中でみごとに地雷を踏みぬいて、嘆き文句を聞かされつづけたわけだ。管を巻く彼女と引きつった顔でなぐさめる私に、周りの連中はあいまいなほほえみと適切な距離感をくれた。逃げやがって。
彼女は聡明そうな瞳を潤ませて『男に結婚しなくてもいいかなと思わせたら負け』だの『生活の破綻は冷蔵庫を見れば一発でわかる』だの『彼氏の置いていったマグカップをベランダで叩き割ったらスッキリした』だの『4年間の同棲生活があった時点で私の負けだったの』だの言いたい放題言って飲んで言って飲んで吐いた。青い顔になったので慌てて居酒屋の手洗いに連れて行って、背中を擦っているうちに飲み会は終了した。どうにか立ち直って、口をゆすいでいる彼女の後ろでやることもなく立っていたら、指輪を渡された。
それなりに有名なブランドの、それなりに可愛い指輪だった。彼女のバッグから出てきたそれをとりあえず持て余していると、口をゆすいで憑き物が落ちたような顔で「それ、あげる」と言う。
「いや、あげるって、そもそも何これ?」
まさかマグカップや歯ブラシと同じ要領で、元彼からのプレゼントを押し付けているわけじゃないだろうな、と思って尋ねると、彼女は今日一番いい笑顔を見せた。
「彼氏が、元彼氏が出ていく前にこっそりとった。多分次の女へのプレゼントだと思う」
「窃盗品じゃない」
「机の上に堂々と置いたままにしてたから空箱とすり替えておいた」
「思ったよりたちが悪いんだけど?」
なんてものを渡すんだ。呪われていそう。なんでもないシンプルなリングが、急におぞましく光るように思える。
「あいつ25日まではいたのに、家賃払っていかなかったから、その分。引っ越し資金も必要だし」
「じゃあ売ったりしたほうがいいんじゃないの」
見る人が見たら、犯罪教唆に当たりそうなことを口に出してしまうあたり、私も疲れていた。恐ろしくせこい争いに巻き込まれたものだと思いながら返そうとすると、やっぱり突き返される。
「今月残業代すごかったからいい。今日いっぱい話聞いてもらったから、そのお礼。すっきりしたから」
「こっちは夢に見そうなんだけど」
盗品をお礼として押し付ける現代人がいるとは思わなかった。丁寧に持ち帰るための紙袋まで押し付けられそうになったので丁重に断ると、彼女は残念そうにしていた。
トボトボと肩を落として帰っていく彼女の後ろ姿が見えなくなるまで一応見送って、タクシーを捕まえるために繁華街で小さく手を上げながら、ふと思う。
4年間の同棲が負けなら、7年間のルームシェアはボロ負けなんじゃないか。
「うわ」
ギターにホコリが乗っている。指でなぞると見えてしまうぐらいのそれ。忙しいとこういうところから疎かになると、どれだけわかっていても疎かにしてしまう。だからこうやって汚れていくのだけど。
アルコールと悪夢で早く目覚めた。やっぱり指輪は夢に出てきた。子どもの頃によく触っていたおもちゃの指輪に、誰かに誓うためのキスを落としたら、嘘だとバレて罰だと大きくなった指輪に追いかけられる夢だった。坂道だったせいでどんどん速くなる指輪に引かれるところで目が覚めた。簡単にまとめれば、最悪の目覚めだった。
これ以上寝てもいられないので掃除を始めたら、思ったろより汚れていた。しかたないから根気良く向き合うことに決めて、休日の2時間を費やすと、やっと2ヶ月前ぐらいの綺麗さが戻ってきた。戻ってきただけで、そこから先に行けるわけじゃないのだけど。持ち物の整理はまた今度だ。
ドアが開く音がして、時計に目をやる。9時半。朝ごはんも食べずに集中してしまっていたことに気が付きながらリビングに向かうと、夏紀が欠伸のために大きな口を開けているところだった。
「お帰り」
「ただいま」
ライブという話は聞いてなかったから、おそらく曲を作っていたのだろう。私にもこいつにも余裕がないと、家で食事するかどうか以外は全然気に留めなくなる。互いのスケジュールを書き込むためのホワイトボードは、部屋におかれただけで終わった。そもそもああいうのの運用は努力が必要なのだと気がつくのには、それなりに時間がかかる。
朝食にどうやって食パンを調理しようかと考えながらコーヒーメーカーのスイッチを入れる。そういえばこれも掃除してないな。一度手を付けるとどたばたと転がり落ちてくる細々とした暮らしの破綻に目をつむってその場しのぎのごまかしを効かせていると、夏紀の声が耳に入った。
「これ、どうしたの?」
目を開くと、夏紀が昨日の箱を手に乗せていた。開かれた中で鈍く朝日を反射する銀色を、じっと眺めている。
昨日帰った後、自分の部屋に持ち込むのもおかしな話な気がして食卓に置いたままにしていたのを今頃思い出した。結構離れていたのに悪夢見るなんて、呪いが強すぎだと思う。昨日のこと自体、思い出したくなくて忘れたことにしたかったのもあるけれど。昨日の全てに後悔しながら、どうにか説明するための言葉をひねり出す。
「それね、貰った」
結局面倒になって端折ると、彼女は珍しく驚いた顔をした。やつれた顔ばかりこのところみていたから、目を見開いた表情が珍しく思う。自分の怠惰が招きかけた面倒な事態をどうやって追い払おうかと頭を回しているうちに、夏紀の口が開いた。
「他に恋人でも出来たの?」
とんでもないことをいう恋人も世の中にはいたものだ。恐ろしい一言に、随分としつこかった眠気は吹き飛ばされていった。こんな風に汚れも落ちていったらいいのに。
「あんたでしょうが」
「冗談」
キツめの口調に夏紀はなんでもないように手を振るから、私もそれ以上怒れなくなってしまう。ため息をついて、一から説明することにした。それ以外に方法がないから。昨日のよくわからない素敵でもない体験を、どうにかこうにか言葉にしていく。
一つ一つ追っていくと、改めて意味不明な時間だった。話をしていくうちにとんでもない作り話をしているような気分に追いやられる。それでもなんとか話し終えると、コーヒーメーカーのビープ音が嘘だ、と、暴くように鳴った。
「そりゃ大変だったね、お疲れ」
それでも夏紀はなんでもないかのように受け入れて、ありきたりな感想を返した。疑われないのは助かるけど、こんな調子じゃ騙されていないか心配になる。
「作り話じゃないわよ?」
「知ってるよ。それより、今週末は土日どっちも休み?」
あまりにも雑に除けられた私の確認に少し不満を覚えながら、返事を選ぶ。
「そうだけど」
「じゃあさ、申し訳ないんだけどトイレットペーパー買うの頼んでもいい?あと、キッチンペーパーもなくて」
そういう夏紀は申し訳なさそうに手を合わせた。眠そうな表情と、曖昧に合わせられた手のひらで焦点があっていなさそうだ、と思う。
「切れてたっけ」
「切れそうって感じ」
「わかった。買っておく」
どうせこのあと夏紀が寝るから掃除機はあまりかけたくないし、朝食を適当に済ませたら買い物に行けばいい。決まったスケジュールを脳内でなぞっていると、疲れ切った顔の夏紀の表情が少し緩んだ。
「ありがとう、助かるわ」
あくびを噛み殺して目をまたたかせる。普段から細めに開かれているけれど、今日は普段の半分も開いてない。また夏紀の限界が近くなっている。早く寝させないと、たまにとんでもないことをやらかして互いに後悔するとわかっているから、寝室に催促する。
「どういたしまして。寝たら?」
「そうする、その前にシャワー浴びるけど」
「どうぞ。シャンプーとかは大丈夫?」
「うん」
長話をするために座っていた椅子から立ち上がるために、夏紀はたっぷり五秒を使う。椅子の背もたれを掴みながら、そういえば、と顔を上げて私を見た。
「二時には起きるわ」
「どこいくの」
「希美に新曲教えないと」
「そう」
徹夜でレコーディングして、次の日の昼に練習。流石に無理のあるスケジュールじゃないかと思うけれど、夏紀のことだからあまり強くは言えない。やっぱり掃除機をかけるのは駄目だと、改めて思う。
疲れ切った背中が自室に向かうのを眺める。夏紀は、寿命の減らし方が激しすぎるんじゃないかと思う。早死にしないように、せめて食生活には気を使うか。そんなどうでもいいことを考えていたから、夏紀が部屋の扉を開けるまで、聞きそびれたことに気が付かなかった。
「そうだ、ちょっと」
私が声をかけると、夏紀が振り返った。すでに眠ることしか考えてないときの顔だ。こういうときは、あんまりはっきり話が通じなくて困る。それでも話さなければいけないのだけど。
「指輪、どうすればいい?」
私の言葉に、夏紀は首をかしげた。よく見えるように私が指輪の箱を振ってやると、ようやく夏紀は理解して、それでいて眉間に皺を寄せた。
「どうすれば、って言われても」
夏紀はそのまま、逡巡を持て余すように扉を不要に開けきる。意外に大きな衝突音に身をすくませていると、夏紀は気を取り直したように、もう一度取ってを掴む。目は私に向けられていなかった。
「優子が、好きにすればいいと思う。優子のものなんだし」
それだけ言って、扉は閉められた。
せっかく淹れた二人分のコーヒーが余ってしまったことに気がつくまでに、それから五分はかかった。