Sayonara VoyagE

Use me like an oar and get yourself to shore

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 久しぶりのデートは、ずいぶん静かに始まった。
 そもそもこれがデートだということに気がついたのが、不動産屋の前で物件を互いに覗きこみながら唸ったり、雑貨屋で急に買い物を思い出したり、なぜかCDショップを巡っていたことに気がついたのを通り越して、疲れて入ったカフェで紅茶が来るのを待っていた瞬間だった。何をするでもなくコップの水滴をなぞっていた私の耳に飛び込んできた店員の「二名様ですか?」と、その向こうにいる手を繋いだカップルを見て、なるほど初々しいななどと思って――そこでやっと気がついた。今私たちがしているもの、これは一般にデートと呼ばれるものだということに。
 そういう二人なのだということをすっかり忘れている自分に悲しくなる。夏紀じゃなきゃ、指輪を持っていまいとフラれていたのかもしれない。フリマアプリはまだインストールしていないし、どこかで売るか考えていたから、まだ鞄の中にケースが入りっぱなしだ。
 真剣に住宅検索アプリなんかを開いている自分の前で、夏紀はずっと苦笑していた。一気に恥ずかしくなる。私の真面目さを笑うことはないと知ってしまっているから、怒ったりは出来ないけれど、それでも、それらしい合図ぐらいだしてくれればいいのに。
 そもそも私がすぐ一つのことにのめり込んじゃうのは、あんまり変わってないし。そういうときに夏紀が肩を叩いてくれていたわけで。夏紀が味方をしてくれないと、どこまでも行ってしまうのだ。そもそも夏紀が指摘してくれると信じているから突っ走っているわけで、などと逆恨みしてみたところで、馬鹿らしくなってやめる。
 諦めて頼んだケーキセットを慎ましいふりをして食べていると、コーヒーとモンブランを眼の前にした夏紀が、手を付けずに私を見ていた。口に含まれたチーズケーキを味わいながら、目で問いかけると、夏紀はフォークで小さくクリームの表面を削りながら、口を開いた。
「いや、あんまり安い所なかったなって思ってさ」
「え、ああ、部屋?」
「そう」
「うん、そうねぇ」
 ある程度同じような立地で、ある程度同じような広さの部屋を見比べていくと、そこまでの値段の差はなかった。引っ越しにそれなりにお金がかかるということも考えると、ただ疲れるだけの選択になってしまうところばかりだ。幾つかの候補は残しておいたけれど、そんなに強い理由になるとは思えない。
 チーズケーキの二口目を切り取っていると、夏紀は目をモンブランケーキに向けたまま答えを言う。
「ワンルームは、やっぱ安いね」
「そう、ね」
 一方で、ワンルームはそれなりに、夏紀の言う通りやすかった。これなら値上げ後の家賃の半分どころか、今の家賃の半分より安いだろう、というところもあって。夏紀が本当に生活を削り始めるのなら、選択肢としては上がってくるだろう。
 これでヘラヘラ笑っていたら、「別れたいの」なんて言ってしまっていただろうな、と思いながら、言葉の代わりに紅茶を飲み込む。
 そういう単純な問題じゃないし。
 そもそもルームシェアをやめようが続けようが、私達は立ち位置として付き合ったままなんだろうと思うんだけど。固執しているのは私の方なのかもしれないな、と、こういうときに気がつく。
 思わず黙ってしまっていた私に、夏紀はまたいつものように薄っぺらく笑っていた。
「もうちょっと見て回ってからにするけどさ」
 つまり今日中に決めてしまうということだ。どこともつかない焦燥感だけがあって、私の舌のティーセットの味はあっという間に繊細さを失う。
 そもそも焦る権利が私にあるのかも、よくわからないけれど。
 それでも、はいこれでおしまいなんて、簡単に区切りを付けられるものでもないだろう。
 次の場所を先延ばしするかのように、私はゆっくりとカップを傾けた。

「やっぱりさぁ、厳しいね」
「そうね」
 それは互いに合意した結論だから、だからこそため息が出てしまう。あれからしばらく探してみても、良さそうなものはなかった。そもそもかなり良いタイミングで手に入れた部屋だという自覚があったし、同じような場所はきっと見つからないだろうとは思っていたけれど。ここまで見当たらないとなると、自分たちが暮らしていた部屋が嘘みたいに映らなくもない。
 探している私を笑うかのように、ワンルームはそれなりのものが幾つも転がっている。夏紀にいたっては最後のほう、一人用の部屋ばかり見ていた。目線がどこを向いているのかぐらいはわかる。
 人混みから逃げ込むように川沿いの道に出て、ずっと静かな人通りに落ち着いていた。それでも、息苦しさは解けない。足音と水の音に囲まれながら、この先どこかに向かえるのかを考える。
 夏紀はいつものように川の流れを覗きこんで、そのまま欄干に触れたままだ。保てないほどの葛藤が目の裏に映っているのがわかって、そのまま夏紀が口を開くまで待つしかなかった。
「自分でやっぱり探してみるよ。これ以上優子に、負担かけられないし」
 そうやって早急に話の区切りをつけようとする夏紀を見ると、ずっとこういうタイミングを探していたんじゃないかと思ってしまう。夏紀は出ていくだけだと思っているかもしれないけど、私は取り残されるのだ。
 あの2LDK上を、一人で持て余す朝を考えて、体が寒さのずっと底まで冷えていく気がした。
 だから私は、焦る。
「負担って言うけど、べつに私は」
「負担じゃないって、優子はそう言うけどさぁ」
 夏紀が私の言葉を遮ると、それはその事実だけで十分に急速に私達の間を冷やしていった。熱くなっていた頭が互いに冷え切って、あっという間に何を伝えようとしてたのかすらわからなくなる。夏紀が沈黙を破るということは、そういう意味を持っている。
「そう言うけどさ。そう言わせてるんじゃないかって思うと、つらいよ」
 夏紀はそれだけ言うと、唇を噛んで目を伏せた。
 その痛みを想像することができないから、私は攻撃することしかできない。
「私がそういうこと、言うようなやつだと思ってるわけ」
 そういうことじゃない。そうじゃないとわかっていても、思わずそういう言葉を選んでしまうほど、向かいたくはない切実さが、夏紀の瞳にはあった。私の言葉にも夜の風にもその憂いは揺らぐことがなく、ただ優しさや意思のように夏紀を形どっているそれが、決定的な言葉を夏紀に導く。
「そうじゃないけどさ。でも、まともな判断をするには、私たち一緒にいすぎたでしょ」
 取り返しのつかない言葉が夏紀の口から飛び出してきて、私は思わず耳を塞いでしまいそうだった。もうとっくに、言葉は心臓を刺しているというのに。
 夏紀の目に後悔はなかった。ただある種の諦めだけがそこには乗っていて、つまり、ずっと考えていたことなんだろう。なんとなく思ってはいたけれど、ただ予感を抱いていただけでも苦しかったのに、彼女自身の言葉によって明かされてしまうとそれだけでもう倒れてしまいそうだった。
「ルームシェア、間違いだったって思ってること?」
 もしも世界の重力がもうちょっと強かったら、私はたった今背中を通り過ぎた来る前の上には倒れ込んでいたのだろう。踏みとどまった体から声を絞り出すと、思ったよりずっと震えた声が流れ出す。
 みっともない私に比べて、夏紀の目はずっとまっすぐだった。覚悟はなくても、長い時間をかけて作られた祈りのような何かがそこにはあった。
「間違いとは思ってないよ。生活に間違いなんてない、ないけど」
 夏紀が一度口を閉じると、聞こえてたはずの川の音が鳴っていないことに気がついた。血が体中を駆け巡って、この先は危険だと叫んでいる。
「私の選択にどこまで付き合わせなきゃいけないんだろうって思ったら、ここが、もしかしたら最後の分岐点なのかもなって」
 だから。
 夏紀は小さく唇を噛むと、その先を小さく飲み込んだ。相変わらず苦しそうな顔だけをする夏紀を目の前にして、夏紀が一体見失ったものの重さについて考えている。一つになれない人間二人が側に居続けるということは、それは互いに互いを変え続けることにほかならない。
 侵略し合う、といってもいいかもしれない。
「あんたは、それが嫌なの?」
 思わず言葉が溢れた。当然、そんなこと当たり前だと思っていたのに。
 思った以上に食い違っていた自分と彼女に、果たしてどんな答えを求めているのかもよくわからない。
 それでも、一つ確実に、問いかけたいことがあった。
「あんたは、私とサヨナラしてはいおしまいで、それでいいんだ?」
 言葉にすると泣きそうになっている自分がそこにいる。大人になってから、自分のことじゃ泣かなくなったはずなのに。
 まだ大人になりきれてなかったのかな。
 涙はきっと夏紀の瞳にも反射しているはずなのに、こいつといえば微笑んでいた。
「手紙、卒業するとき私にくれたの、覚えてる?」
 急に出された懐かしい存在に、涙が引っ込んだ反動で勝手に頷いてしまう。学生のころは存在を出されるだけで恥ずかしくて燃えそうだったのに、今では小さい頃の失敗のような距離感だ。
 それでもなんでもなく頷いた私に、夏紀は満足そうに笑う。そうして私から目をそらして、欄干に預けた体で川の流れを覗き始めた。
「あの手紙もらったころさ、結局私に何ができたかって、ずっと考えてたんだよね」
 下に向かって届く言葉は、流速と共にあっという間に流れてしまいそうな小ささだった。取りこぼすことのないように先の見えない思い出もちゃんと掬っている私に目もくれず、夏紀はまだ回想に浸る。
「全国は行けなくて、希美とみぞれの仲も最後までどうにかできた訳じゃないからさ、私が何が出来たんだろうってさ。そう思って、でも仕方ないよなって思ってた卒業式に、あんたからの手紙があってさ」
 そこまでいうと、夏紀は本当に楽しそうに笑った。屈託のない笑みはこんな場面じゃなければもっとずっと綺麗に映るということを知っているのに。
「何がおかしいのよ」
「いや、本当に、嬉しかったなぁって」
 それが嘘じゃないことはわかる。ずっと知っていることしか伝えられていないのに、目の前にいる夏紀を知らない誰かのように思ってしまうのはなぜか。答えが日々の中に置いてけぼりになっていることはわかった。たぶんどこかで拾い上げることが出来たのであろうそれは、川の流れなんかよりもずっとゆっくりであっという間な日々の中で見失ってしまった。見失ったことすら気が付かなかったけれど。
「本当に。優子が私に嘘つけないって知ってたから。そのまま、思ったまま書いてくれるって信じられたからさ。だから、本当にそう思ってくれてるんだろうなって、そう思ったらさ」
 嬉しくて。その言葉はほとんど泣きかけていて、聞いたことのない夏紀の声がまだあるということに、私は驚いた。そんなものないって思い込んでいた自分にも。
「あの手紙で、初めて私はあそこにいた意味があったわけがあるんだなって、そう思えたんだよ」
 そう言い切って、やっと私の方を見た夏紀は、いつものように穏やかに笑っていた。私がずっと嫌いだった笑い方で。やめなさいよって今まで言えなかった笑い方で。
「それは、」
 言い過ぎでしょ。
 確かに言葉にしようとしたそれは、空気を震わせる前に、二人での幾年にも渡る生活が大きな口を開けて綺麗に飲み込んでいく。こいつのセンチメンタルをからかうには、もう歳を取りすぎていたし、冗談にして流すには、夏紀の表情と触れ合いすぎていた。出会ってからの十年ちょっとを声にならない言葉と一緒に飲み込むと、喉の奥に引くような痛みが走る。吹き抜けた風は夜でも暖かいはずなのに、私は少しだけ、震えそうになった。
 あの手紙は、確かに本心から書いた。偽りない自分の気持ちだった。私はこいつに上手に嘘をつけないから、きっと手紙に書き落とした瞬間から、ずっと真実だ。
 だけれど、それだけだ。伝えた私にとっては、懐かしく思い出すことでしかない。
 でも、伝えられたこいつにとっては、それはずっとずっと、繋がっているものだったのだろう。どんなものだって、与えられたほうが持て余すものだ。それは指輪も、承認も、愛情も、変わりなく。
 飲み込まれた言葉が肺に落ちて、私が喋れなくなっていることにきっと夏紀は気づいていて。それでも言葉を続けるぐらい、こいつにも余裕はない。
「だからさ、あれだけあれば十分だからさ。あの手紙さえ大事にしていいって、言ってくれれば、それで」
 そう言って夏紀は口角を上げた。見逃してほしい子犬のように。そっとしておいてほしい子どものように。
 もう季節は過ぎて、夜で、河川敷の向こうに見える繁華街に、その笑みはあまりにも場違いだ。
 とても柔らかくはない風を浴びながら、私は、毒されてしまったのだな、と思った。
 ワンピースに雨が染み込んでいくように、それよりずっと長い時間をかけて、私達の関係は侵略されていたんだろう。みんなが「生活」や「毎日」と呼ぶそれらに。すっかり囚われていて、私は気がついたらそれに浸っていた。高校三年間で作り上げた信頼を、何度も構築し直すことが正しいと、それでいいと思っていた。あの指輪がやってくるまでは。
 でも、夏紀は違う。今私の目の前で薄い諦めを笑みで薄めてごまかしている情けないこいつは、ずっと、手に入れられなかったものを数えてきたのだ。丁寧に、私の分まで。仕方のないことなら丁寧に埋めて。どうしたって耐えきれなければ音楽にして。
 私が何でもなく夏紀のいる部屋で朝を迎えて日々を送る隣で、私が取りこぼした物の可能性について、考えていたのか。「全うな」人間との私の生活を、考えていたんだろうか。朝は六時に起きて、夜は十一時に眠るような、そういう人間と私の暮らしを、考えていたんだろうか。
 そうして私がなんでもなく生活を続けている間に、いつの間にか夏紀の大切なものを私は与えることができなくなっていた。
 今の私があの手紙を書いても、もうあの頃のようには響かない。それに夏紀は気がついているし、気がついているからこそ苦しんだのだろう。
 道行く人は、尋常でない雰囲気の私達を横目に見ては、地下鉄の入り口に消えていく。
 離れて暮らして生きることで、私達の中に染み込んだ暮らしが抜け落ちてしまえば、またあの頃のように手紙を渡せるんだろうか。
 好きだと、特別を持って伝えてあげられるんだろうか。 
 夏紀の存在を証明してあげられるんだろうか。
 そうしたら夏紀はまた、心から嬉しく思ってくれるのかな。
 屈託なく美しい夏紀の微笑みが胸に浮かんで、苦しい。おそらくもうなくしてしまったものを見つけて、苦しい。
 それでも。
 それでも、それは出来ない。
 恋人は、もう笑うのをやめていた。その変わり、頼りのない仕切りに体を預けて、穏やかな流れの水面の向こうを見つめるように目を閉じていた。右足がステップを刻んでいて、心の準備ともつかない何かに耐えきれないように今にでも逃げ出してしまいそうだった。
「夏紀」
 声をかけると、閉じていた瞼がゆっくりと開いた。でも、それだけだ。曖昧な相槌を言葉で返しながらも、こちらを見ようとはしない。
 言葉で言っても、伝わらない。平手打ちとかしたら流石に気が付きそうだけど、ちょっと可愛そうだから、とっておきの治療法を決める。
「見てなさいよ!」
 少しだけ大きな声を出して、夏紀の目線を奪う。その矢印に映るように、リングケースを取り出す。
 今日で、区切りのあるきちんとした人生を歩む夢とはお別れだ。夏紀と生きていくということはそういうことだ。
 何度でも曖昧になるどっちつかずの人生を、言葉と言葉で直して生きていくことしかできない。夏紀がもうそういう生き方しか出来ない人間なんだって、やっと気がついた私も、それでも一緒に生きていくことしか考えられない私も悪い。この選択が生活によるものなのか、それとも夏紀への感情なのか、それはわからない。もうそんなのべったり混ぜ合わされて、見分けがつかない。それでもいい。そんなことはどうだっていいんだ。どうせ生活には勝てない。
 でも、誓いの指輪ぐらい、もうちょっと夢見ていても、許されたんじゃないかなって。思わなくもない。
 後ろ髪を引かれる前に、指輪を箱ごと放り投げた。よくある紺色の指輪は、綺麗な放物線を描く、ことはなく、回っていくうちに開け放たれて、やがて夜に飲まれる。水面の上できらめいた銀をちゃんと捉える前に、少しだけ重い雫の跳ねる音と一緒に流されていく。やがて流れさえ元通りになったのを見て、満足した。
「ああいうの、手元にあるだけで呪いみたいよね」
「腕の筋肉、また落ちたね」
「うるさいわね」
 肩を叩くと笑われた。急に高校時代に戻ったみたいで、寂しくて、夏紀の袖に縋り付いた。
 夏紀は目線を落としたままの私に、それでも優しく声をかける。
「どうしたの、急に」
「決別よ」
 こうやって心配されていると恋人のように見えるのだろうか。そんなことを考えながら、自分の中でついた区切りを繰り返しなぞる。
 今日はっきりわかったこと。目の裏で追いかけながら言葉にする。
「あんたが言いたいことは、わかった。私から言いたいことは、二つ」
 わざとらしく指を立てると、空気が少しだけ柔らかくなった。なんとか二人で暮らしていけそうな温度に落とし込めたことがわかる。互いに見えないものを美しく取り合うよりも、ぶつけ合うほうが慣れているから。
「まず一つ。私あの手紙燃やしなさいって書いたわよね?」
 いつの間にか持ってくることに苦労するようになっていた声は、思った以上にちゃんと不機嫌に聞こえたみたいだ。ひるんだ夏紀を見て、それなりの演技力に満足する。
 夏紀はといえば、いたずらを咎められた少年のように目を動かしていた。握っていた袖を引っ張ると、無理やり視線が私に向く。こういう喧嘩は先手必勝。高校のときに嫌と言うほどわからされた。
「いや、書いてあったけど。あれ本気だったの」
「あんな恥ずかしい手紙の話蒸し返される私の気持ちわかる?」
「いや、わかんないけど」
「へー、私の気持ちわかってくれないんだ」
「いや、そんなキャラじゃないでしょあんた」
 冗談の応酬に、笑いそうになるのを我慢する。楽しそうにするのは、そのままだけど。
「約束を八年間ずっと破られた私には、お返しを要求する権利があるわよね」
「そんなこと言われたって、私に何してほしいの」
 肉体労働?冗談を飛ばしながらあのころのペースを楽しむ夏紀の笑みに、私は言葉のために吸ったはずの酸素がすべて奪われていく気がした。
「一緒にいてよ」
 言葉に酸素が足りていないように、苦しい響きだった。ずっといつもより柔らかい声を出したはずなのに、私の体は私の心のこと、お見通しなんだろう。
 夏紀の目を見て言うことは出来なかった。目線を落とした先にある夏紀のスニーカーが、小さく動いては消えていく。
 夏紀はいま、どんな顔をしてるんだろうか。
「たぶん無理よ。離れて暮らしても、あの頃みたいに手紙は書けない。ルームシェアが七年あった時点であんたの、私達の負けよ」
 生活のすべてが抜け落ちることは、おそらくないだろう。遠く遠く時間が経って、夏紀との日々が果てしない思い出になっても、寂しさが時折顔をのぞかせて、私の中から消えていこうとする日々を取り戻していく。そうなるのだろう。高校の日々を思い出しては、寂しくなったのと同じように。
 それも、いつか、いつか消えるのかもしれないけれど。
「急に一人にされたら寂しくて死んじゃうわ」
 あまりにも長過ぎる日々の中で、こんなに弱くなっていたのか。これは弱さじゃないのか。わからないけれど。どうやったって覆せない生活の記憶に、取り残されることはもう難しい。
 それが別れ話でもないのなら、なおさら。
「支えさせてよ。そうじゃないと、私は笑っていられる気がしないわ」
 幻滅、されるだろうか。
 がっかり、させるだろうか。
 それでもこれが、私の選択で。これ以外は選べない。
 袖を掴む指の隙間に、ゆっくりと風は流れる。夜の匂いと風の明るさに、私の弱さがそのまま世界中にばらまかれてしまいそうだ。思わず離しそうになってしまって緩めた指先に、もう一度決意を込めるように力を入れる。
 今どんな顔で夏紀は私を見つめているのだろうか。もしも、もしもを考えるとその視線が怖くて顔を上げられない。そんな臆病な私でも、卑怯でもこの生活を選んでいたかった。
 答えが渡されるまで、ずっと待っていることしか出来なかった。震えそうになる指先を、手首ごと掴んでくれたのは、夏紀の少しだけ硬い指先で。
「優子からもらってばっかりだなぁ」
 顔をあげると、くしゃくしゃになりかけの夏紀の表情が飛び込んできた。
「いいの?迷惑かけるよ」
「今更よ」
「またバンドにうつつ抜かして、デートの約束破るかもしれないよ」
「それなら、二回分リードしてもらうから」
「また赤色に、髪の毛染めるかもしれないよ」
「いや、それは、ちょっと相談して」
 私のためらいと混乱に、夏紀の笑い声がこぼれた。自分の選んだ道の中で、向き合っていくべきものの数にクラクラしてしまう。赤い髪だとか、壊れたギターだとか、朝帰りだとか。
 果てしない人生の長さに置いていかれないように、強く夏紀の手の平を握りしめた。
 握り返してくれたその指先に、初めて通じ合えた。ふざけた約束のような細い糸を、また果てしなく紡ぎ直す人生が始まる。
 二人でさよならを選ぶまでは、ずっと選び合う人生が。またなんでもないように。今までとは違う意味を持って。
 
 なんとなく手を放すのがもったいなくて、人のいない帰り道を繋いで帰った。あの喫茶店でのカップルを笑えないかもしれない。きっと明日からはまたこの手と手は離れていくのだろうけど。
 もう夜が深くて、それでも怖くなかった。怖くないふりが出来る。
「そういえば、2DKで探しましょうか」
 隣をなんでもないように歩く夏紀に、思い切ってずっと考えていた提案をする。
「え?」
「作業用の部屋と、寝室で一室ずつあればいいでしょ」
 同じような値段の部屋を探すと、どうしても2DKしか見つからなかった。互いの部屋をそのまま作ってもいいけれど、そもそも、寝室を一緒にしてしまえば済む話だ。
「え、寝室一緒なの」
「なに、不満なの?」
 わざと低めにした声が夏紀をひるませる。しばらく握った手に力を込めたり緩めたりしていた彼女は、やがて観念したかのようにもとの位置に戻した。
「いや、私優子が隣にいると、寝れなくて。緊張して」
「中学生か?」
「わかってるから言わないでよ」
 この夜でも、夏紀の頬が染まっていることがわかって満足した。どうせそんなことだろうとは思っていたけど。臆病なのか、恥ずかしがりやなのかもこの生活の中で解明していかないといけないと思う。前者なら手を差し伸ばしていくし、後者ならからかうだけだ。
「じゃあ私が子守唄歌ってあげるわよ」
 そのぐらいは、まあしてもいいだろう。いつまでも。
「本当にもらってばっかりだ」
 さっきよりもずっと苦しみのないその声に、なんだか安心する。私だって同じぐらいもらっていることは、これから少しずつ伝えていけばいいだろう。今日はこれ以上、恥ずかしいことができそうにない。
 さっきの自分を思い出して顔の温度が上がっていくのを夜風に任せて抑えていたら、夏紀は小さく笑って見逃してくれた。こういうところが憎くて、ちょっと強めに力を手に込めたら、「痛いんですけど」なんて、思ってもいない文句が呟かれた。高校生のころのようなそのやり取りに、なにかがおかしく笑ってしまう。小さく肩を揺らし始めた私に、夏紀も同じように笑う。
 笑い声がやむと、もうそろそろ私達の家だ。同じマンションの住人には気が付かれているかもしれないけど、それでも手を離そうとして、まあ良いかと思い直す。どうせそろそろ引っ越すし。
 駐車場の光が私達を照らして、その明るさに目を細めたながら夏紀は口を開いた。
「優子が私にしてほしいことあったら、なんでも言ってね。歌うことぐらいしか、できないかもしれないけど」
 穏やかに前を向き続ける夏紀に、とんでもないアイデアが浮かぶ。
 そのまま言葉にするのも恥ずかしいけれど、こんな夜でしか伝えられそうにない。
 踏ん切りがつかない私の様子に、夏紀が不思議そうに視線を送る。そんなことをしている間に、いつの間にかエントランスにたどり着いていた。
 せっかくだし。自動ドアが開くタイミングを狙って、口を開く。
「じゃあラブソング、私に向けて作ってよ。そうね、五年に一曲ぐらい」
 ずっと思っていた。なんでずっと私に向けた曲がないんだろうって。自意識過剰かもしれないけれど――でもロックミュージシャンって、恋人のために曲を作るもんでしょう。適当な偏見を転がしていることには気がついていないふりをする。 
 言ってみたけれどやっぱり恥ずかしくて、私は夏紀の手を振りほどいてエレベーターのボタンを押しに行く。夏紀の困った表情が見たくて、それでもやっぱり恥ずかしくて。エレーベータがたどり着くまで、時間稼ぎをしたかった。どんな顔をしているのか、なんとなく思い浮かべながら。
 それでも、飛んできたのは予想外の言葉だったのだけど。
「それだと、五十年ぐらい一緒にいてもらうことになるけど」
「は?」
 思わず振り返ると、夏紀は照れたような、それでいて嬉しそうな表情をしている。一曲も、聴いたことないんですけど。
「十曲ぐらいはあるよ。優子が来ないタイミング狙って、ライブでやってたから」
「え、なにそれ初耳なんですけど」
「気が付かれないようにしてたからね」
 どこか誇り高そうにする夏紀にそうじゃないでしょうとか、そもそもそんな恥ずかしい歌をオーディエンスの前では普通に歌っていたのかとか、そもそも十曲って何よどんだけ私のこと好きなのよとか、いろいろ言いたいことあったけれど。恥ずかしさが勝って口を開けそうにない。エレベーターが到着して、部屋の扉を空けるまで何も言えなかった。きっと顔が真っ赤になっていることはバレバレだろう。私の表情を見て、夏紀はまた満足そうに笑った。
「今度歌ってあげるよ。ラブソング歌えなくなったら、サヨナラだけど。それまでは」
 恥ずかしさで肩を叩きながら、こいつと一緒に生きていくためにまずやるべきことは、ギターだな、と思った。こいつがラブソングを歌えなくなったときのために、練習しておこう。
 叩かれたままの夏紀は、どこか楽しそうに笑って、それで私達のドアを開けた。開かれた真っ暗な部屋に、また泣きそうになったのは一生の内緒。

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