Sayonara VoyagE

Use me like an oar and get yourself to shore

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 同棲は、一般に結婚しないで一緒に住む、という意味合いが大きいらしい。
 そういう話を夏紀にしたら「じゃあ、私達はルームシェアのほうがあってるね」と言われてから、私は夏紀の日々をルームシェアと呼んでいる。
 そんな会話を交わしたのは、初めて二人で住む部屋を決めたときだ。まだ大学生だったころ。
 ルームシェアという言葉に反対しなかったのは、気恥ずかしさが半分と、それから予感に忠実だったのが半分。
 あのときは前に私が住んでいたワンルームが他の住人のせいでちょっと住みづらくなって、引っ越そうという話になったのだった。「夏紀にたまに部屋を貸している」という言い訳が、通用しなくなっていた。もう今となっては何もかもが懐かしい。
 親に二人で生活をするから、という話をしたのも懐かしい。今思えば、隠し通したと思った夏紀と私の関係も、きっとバレていたのだろう。恋人という名前をつけてから、三ヶ月も経っていないころのことだったし。まあ、端的に言えば、浮かれていた。
 浮かれていたから、気が付かなかったけれど。
 あのとき夏紀がルームシェアという言葉を選んだのは、結局いつ終わるかわからない空気感を、たがいに察知していたからだろう。それは、おそらく関係の名前が変わっても、覆しようのないものだった。
 『喧嘩するほど仲が良い』なんてみんなは他人事のように言うけれど、ぶつかり合いっていうのはいつだって、すべてを終わらせてしまう可能性を飲み込んでいる。付き合う前だって付き合ってからだって、これで終わりかもしれないという喧嘩を何度もしたし、それでもどうにかなってきたのは、多分運命とかじゃなくてたまたまだ。
 高校のときのように同じ箱庭にいるわけじゃない今じゃ、縁を切るのは簡単だ。それは互いにわかっていて、それでもこういうやり方をやめられなかった。
 いつ爆発してしまっても、悔いのないように。そういう距離感を夏紀は選択したわけで、関係の名前が変わってもそこまでは踏み込めなかった。私が踏み込ませなかったのか、踏み込んでこなかったのかは思い出せない。
 当時の私は浮かれていたから、その選択の裏にあるものに気が付かなかった。そのまま決めた関係性は見直されることなく持ってきてしまったから、まだ私は夏紀のルームメイトのままだ。関係性も一年に一回ぐらい、見直す時間が必要なんじゃないかと思う。
 もういまさら、結婚願望なんてないけれど。
 それでも、指輪が落っこちてしまうぐらいの隙間を見つけてしまえば、どうしたって覗き込んでしまう。
 その隙間に落ちたものを必死で思い出している私にも、おんなじようにときは流れて、今年も契約更新が近づいてきた。
 しかも、大家の値上げ宣告付きで。
 確かに周りと比べれば安い家賃だなとは感じていたけれど、急に二万の値上げは厳しい。折半だから一万だけど、それでも大きい。
 どっちともつかない感傷は、頭の片隅にあっという間に追いやられて、一気に生活のことしか考えられなくなる。買い物袋を腕から下ろしたまま、郵便受けに入っていたお知らせの薄っぺらい紙を玄関で見つめていると、扉の開く音でやってきた夏紀がどこか心配そうに私の顔を覗いている。
「どうしたの」
 そう聞く夏紀に、値上げ後の値段を指し示しながら書類を渡す。夏紀がじっくりと契約書類に目を通している間に、荷物を片付けにキッチンに入る。
 値上げかぁ。
 確かに、2LDKにしては安いなとは思っていたけれど、実際に値上げされるとちょっと困る。生活には困らない程度の広さ――何ならちょっと広すぎるぐらいの部屋を、それなりに気に入ってたんだけど。
 まあしかし決定は覆せないし、似たような場所の家賃と比べれば仕方ないのかもしれない。この辺の土地も高騰しているって話もあったし。
 曖昧に計算をし直しながら、電子レンジの買い替えはまた先になりそうだと思う。若干ディスプレイが不調だから、もうちょっといいやつに買い換えようかと思っていたけど、また収支計画を練り直さないといけない。お菓子作りでもと買った、ちょっと高めの卵パックが袋から取り出されるときに笑っているように見える。
 思わぬ出費に頭を抱えたい気持ちをどうにか逃がそうとしていると、夏紀が部屋に戻ってきた。なんでもないように問いかけようとして、私以上に深刻な顔をした彼女がダイニングから覗いていて、思わず怯む。
「どうしたのよ」
 問うと、夏紀は「いや、厳しい」とだけ言った。そういえば、部署が変更になって残業代がつかなくなったという話を思い出した。
 眉間にシワを寄せたままリビングで動かなくなった夏紀をとりあえず食卓に座らせて、私もその向こうに腰掛ける。同居人会議の時間だ。夏紀は少しだけ小さくなりながら、言葉を切り出し始めた。
「出費が減らせなくて」
 無意味に真ん中に契約書を置きながら、夏紀は言う。
「今新しいCDのためにレコーディングとかしてて、あと機材もちょっとお金かかるから」
「機材また新しく買うの?」
「新しく買うんじゃなくて、修理なんだけど」
 思い当たる節がなくて、首をかしげていると、夏紀は少し恥ずかしそうに切り出した。
「ギター、壊しちゃったでしょ」
「あー、あの解散ライブのときに叩きつけたやつ?」
「そう、お恥ずかしいことに」
 実際に見たわけじゃないけれど、荒れてたというのは知っている。ギターを床に叩きつけて、アンプを蹴飛ばしてステージから出ていく夏紀を捉えた画質の悪い映像が出回っているのは見た。
 あの壊れたギター。もう話にもあげることはなかったから、使うこともないのだと思っていたけれど。
「希美に教えるとき、ギブソンのほうがやっぱいいなって思ってさ」
「希美、ギブソンなの?」
 そういえば聞いていなかったけど、思わぬブランド名に驚く。あいつ、もしかして私よりいいギター持ってるんじゃないか。
「ボーナス飛ばして買ったらしいよ」
「へぇ」
「衝動買いで」
「何やってんのよ」
 人の人生とはいえ心配になってしまう。自暴自棄にでもなってたんだろか。
 同級生の奇行に呆れながら、それでも納得がいかない私は言葉を選ぶ。
「別に、ギブソンで揃える必要なんてないんじゃないの」
「そう、なんだけど」
 私の問いかけに、夏紀はうつむきながら数秒間言葉を選んでいた。こういう沈黙の瞬間に、夏紀の聡明さは一番素直に彼女の瞳に宿る。
「なんだろう、ここでギブソンを直さなかったら、いつまでも許せないで終わっちゃう気がして」
 言葉足らずの説明は、それでも私に十になって伝わった。
 なるほど、と思った。ここが、夏紀にとっての選択の瞬間なのだろう。ちゃんとそれを向かえられている夏紀になんだか悔しくなった。胸の中を埋め始めた鈍い痛みを隠すように、私は話を戻す。
「まあ、修理するかどうかは自由にすればいいと思うけど」
 時計をちらりと見ると、まだ買い物から帰って十分も経っていない。更新書からずいぶんと遠いところにいってしまった話題を取り返すかのように口を開く。
「どうするの。一緒に住むの、やめるの?」
 焦って言葉にしたせいで、思ったより直接的な言葉になってしまう。体の中心を氷を落としたかのように冷やしていく言葉を今になって取り返そうとしても、出てきた言葉は取り戻せないし、そもそも私の選ぶことじゃないから、取り繕いようがない。私の手のひらにあったのは言葉の選び方だけで、それだって結局は同じところに行き着いてしまう、と言い訳をする。
 とんでもないと言えば、まあそれなりにとんでもないだろう。少なくとも私が同情を求めて喋れば、誰でも夏紀を責めてくれる構造だ。私の恋人は楽器の修理をする金がかかるから一緒に住めないって言うんです――そんなふうに媚を売る自分を想像すると笑えてくる。
 正直なところ、どうだってよかった。そういうのは。ギターをしばらく触って気がついたのは、夏紀がバンドを続けていることを、どうやったって責められない自分だった。もしかしたら十年も二十年もすれば愛想が尽きるのかもしれないけど、そもそもここにあるのは所謂愛じゃないだろう。家賃はそれよりもずっとずっと差し迫った問題で、耐えきれなくなった自分のことを心配してる余裕なんてない。
 しかし、それは私だけの話で。
「ワンルーム、とかのほうがまだ安いかなとは思うけど」
 夏紀は歯切れ悪く言った。私との生活をやめたいわけじゃないことはわかる。夏紀は今、もっと別のところを見ている。それは家賃とか生活費みたいな手のひらに収まる問題じゃなくて、もっと私達のこれからを左右する問題だ。
 そういう問題に向き合う前に、まず現実的な解決案を持ち出してしまう。
「あんたが入れたバンドの売上、まだ手つけてないから半年ぐらいなら持つわよ」
 夏紀はバンドの分前を、そのまま共用の口座に入れている。使い方がわからない、ということらしい。正直大した額じゃないけれど、私も触っていいのかわからないから、別枠でカウントして管理していた。そういうものを持ち出せば、まだ三年ぐらいは全然なんとかなる。
 それに。
「そもそも、別に多少家賃出すぐらいなら別にどうとでもなるけれど」
 そう、どうとでもなる。互いの尊厳とか選択とかで、なるべく選ばないだけで、別に一年ぐらいなら養うことだって多分可能だ。それ以上はちょっとなんとも言えないけれど。
 でも、多分夏紀が問題にしているのはそこじゃない。わかっていても言葉を続けてしまうのは目をそらしていたいからだ。
 私の提案に、夏紀はずっと俯いたままだった。その様子があまりにも苦しそうだから、私はつい、答えを言ってしまう。
「でも、そういう話じゃないのよね」
 私の言葉に、夏紀は頷いた。
「このまま続けても、優子を振り回し続けちゃうから。そういう権利、私にはないし」
 夏紀のその声を聞きながら、私はまっとうな人生について考える。
 まっとうな人生っていうのは、思っているより色んな形で枷として存在するものだ。
 一人より二人。二人ならこういう道筋。おそらく真っ当な二人の人生には、決断のタイミングがいくつかある。互いにここから先は違うのだと決めるライン。一つで決めていこうと決める瞬間が。
 そういうのが、結局私達には今までなかった。多分。ずっとない。
 そのこと自体を後悔しているわけではないけど。でも、いつまでも1足す1だ。選択の行く末に立っているだけだ。
 1足す1のままでは、一つにはなれない。そこにあるのは二人での選択じゃなくて、一人と一人の選択の重ね合わせだ。私に夏紀の選択を動かすことはできないし、夏紀も私の選択を動かすことはできない。それは互いにわかっているし、今までずっと納得してきたけれど。
 そういうことをずっと続けていると、どこかで互いの選択が重ならなくなる。そういう瞬間が来ると――この更新通知が連れてきたのだと、夏紀は言っている。
 ずっと暮らしていて、わかったことがある。
 私と夏紀は一つになれない。
 いまさら、どうやって一つになるのかわからない。
 恋というのは、二人を一つにするものじゃなかったのか。
 夏紀がバンドをやってなかったら、どうなんだろうな考えたことがないわけじゃない。向かう場所がない二人の選択として、まっとうな人生として、一つに向かっていったんじゃないかっていうもしもを考えなかったわけじゃない。それは多分、私の自惚れじゃなければ夏紀も同じだ。
 でも、やめてほしいとはそれでも思えないのだ。音楽を続けることの大変さを私は知っているし、ちゃんと進んでいくことがもっと難しいことだってわかっている。たくさんの努力と奇跡の上に成り立っている表現たちを、私は冗談としてもやめさせたくない。
 あまりにもよくわからなくて、少し前に希美に相談すると、半日かけて答えは帰ってきた。『でもそれって、二人が必要なときにちゃんとコミュニケーション取って決められるからでしょ。凄いと思うよ』。
 この言葉に裏はない、と思う。でも、助けにはならない。
 互いにずっと選び続けることの途方もなさは、私を時々飲み込む。
 それでも。
「とりあえず、他の部屋でも見てみましょうか。シャンプーの類も切れてたでしょう」
 また生活の中に逃げ込んでしまった。ここだけが、選択の途方もなさから私を守ってくれるって、わかってしまったから。
「今日、空いてるんでしょ」
 夏紀に問いかけると、急に現実に引き戻したせいで少し遅れて反応が帰ってくる。
「あ、うん。でも」
 話を戻そうとする夏紀を、手のひらで制止する。
「ごめん、もうちょっと考えさせて。買い物の間に、もうちょっと考えるから」
 思ったより声が苦しそうで、自分のことなのに驚いてしまう。引きつりかけた私を、夏紀の細められた瞳が優しく貫いている。
 唇が開きかけて、また閉じた。もう一度開く頃には、そこには覚悟は乗っていない。
「わかった」
 少しだけ思い通りの返事に満足する私と、生活に負けたのだとありありとわかってしまう私がいる。
 また先延ばした。

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