パンドラボックス・シルバーレッド
他愛なく今日が昨日になる
― TOYRING / HAUGA / ArtTheaterGuild
結局あのあと昼食の時間にはなんとか間に合って起きた夏紀に、もやもやとした気持ちをと指輪の行く末の不安を抱えて作った割には美味しくなったチャーハンを食べさせた。彼女はあいかわらず丁寧な「いただきます」のあとに、神妙な顔をしながらレンゲを口に運んでいたけれど、そのうちどんどん蓮華の動きはスローモーションになっていて、やがて固まる。
なんだかんだ、食べるのをやめたりはしないのよね。行儀の良さと考え事が混ざり込んだその様子がなんだか面白くて眺めていた私の目線に気がつくと、そのまま目をそらさずに言葉のために口を開いた。
「希美にギターを教えるのって、自己満足なのかな」
それだけ言うと、彼女はまた動画のように蓮華を動かし始めた。あまりにもその動きが自然すぎて、一瞬問いかけられたのがまるごと嘘のように思えてきた。
「それ、私に聞いてるの?」
数秒遅れた私の反応に、夏紀は今度は口を開かずに頷く。夢ではなかったことに安堵しながら、私は慎重に問いかけられた言葉の意味を探していく。つまり、何が問いたいのか。私にはそれ自体がわからないから、ただ、思ったことを選ぶ。
「別に、夏紀の好きにすればいいと思うけど」
このとき言ったことは本当だ。だから私は、夏紀の言葉の真っ当さを認めざるを得なくなった。なんだか酷くショックを受けながら、それでもどうにかこうにか言葉を続ける。
「けど、夏紀が真剣に考えたことのほうが、私は嬉しい」
やっと言葉にし終えて、受け止めざるを得ない納得の出来ない出来事の大きさに私が改めて飲み込まれかけていると、夏紀はようやく蓮華を運び終えた。手を目の前で合わせて小さくごちそうさまをつぶやいたあとに、改めて私の目を見た夏紀の表情は、嬉しそうだったように見えたことにしたい。
「そっか。ありがとう」
それだけいうと、夏紀は流しに皿を移動させて、洗い物のためにひねった蛇口の音で壁を作ってしまった。私はと言えばそんな壁の存在どころか、どうして自分が納得できないのかに精一杯悩んでいたから、気がつくと夏紀は部屋を出ていて、洗い物の礼をいうタイミングすら逃していた。
どうにも細かく上手く行かない。無心で掃除をし続けても、汚れだけが落ちて、納得出来ない自分の気持ちはちっとも落ち着いてくれない。
仕方がないので、部屋の整理は諦めた。突然貰った、もはや生えてきたといってもよい指輪ですら扱いに困ってしまう今の私が、思い入れのある品々を管理出来るとは思わない。
諦めて、ギターをいじることにする。せっかく部屋にあるのだし、使ってあげなければ勿体無い。というか、ホコリがついているほどだとは思わなくて、そのショックを紛らわすためだという方が大きいことには気がついてる。
アンプの準備を適当に済ませて、ギターを触る。慣れたコードを幾つか弾いて、まだ手に馴染んだままのソロを弾くと、悪くなく響いた。腐りきっていないようで安心する。ヘッドフォンの圧迫感からは逃げたくて、早々に首にかけてしまうと、もうまともに聞くことはできないけれど。今日のところはどうせ手グセでいじるだけだから問題ない。まだあのフレーズたちが自分のものかどうかを確かめたかっただけだ。
きっとこういう理由で楽器を触っていると、いつかホコリがついたときのショックすら忘れてしまうのだろうな、と思う。遠くない未来に自分がクローゼットにギターをしまい込む未来が見える。こういうのは続けるための理由が、普通は必要なのだ。
そう思って、やっと気がつく。
「あ」
私の場合は、それが夏紀だったということに。
「あー」
気がつくと、まるでジェンガが崩れるように答えがわかる。
大学自体バンドが解散したあともギターを触り続けていたのは、夏紀と一緒に練習してたからだ。就職してからもなんだかんだ触っていたのは、夏紀が練習していたからだ。
ホコリが溜まっていたのは、夏紀がバンドを新しく組んで、と練習する時間がなくなったからで。
納得が行く。腑に落ちて、そのまま理由が自分のずっと深い所まで私の体を突き破って落ちて行きていそうだった。思わずベッドに倒れ込んでも、崩れ落ちた衝撃は収まってくれない。お腹の上のギターの重みが心地よいぐらいには、現実感を飛ばされている。
「ムカつく……」
現実に取り残されないように口を開くと、懐かしい感情が飛び出してきた。
そこまであいつに絆されてた自覚、全然ないんだけど。なかったんだけど。気がついてしまうと恐ろしくて、それ以外の理由をどうにか探そうとする意思の道を記憶が塞いでしまう。どうしようもない。
自分の好きだと思ってたことすら、あいつに握られてたのか。
今日の夕飯は久しぶりにあいつの嫌いなものにしようと思って、今日夏紀は夜帰ってこないことに気がつく。
ため息しか出てこない。自分の大切なことを意識出来ていなかった私が悪いとは言えども、こんな風に毒されてしまってはどうしようもない。悪態の一つぐらいつかせてほしい。
起き上がろうとしても、どうにも体の力が抜けて動かない。そのまま適当にコードを抑えると、それなりに弾けて感動する。今度から本当に疲れてても練習しないといけないときは、寝そべったまますればいいのか。できれば大学生のときに知りたかった。
一番悔しいのは、夏紀は私が弾いてようと弾いていまいと、気にしないだろうってことで。それこそ、好きにすればいいってあいつは言うだろう。わかりきった言葉を想像するだけでも、悔しくなる。
もう今の私の演奏レベルは、夏紀の望むラインの遥か下にある。
あいつの作った曲のフレーズを、私は抑えられないだろう。
当然、練習していないから当たり前だけれど。それでもやっぱり悔しい。気にしないふりをしていたけれど、こういう瞬間には嫌なことばかり次々と浮かんでくるものなのだ。わかっている。
つまりあいつにとって今の私は、多分一緒に楽器をやって欲しい人間じゃないんだ。それは認めざるを得ない。
そういうことを考えていると、私の頭の中の意地悪な部分が、じゃあ、希美は?と問う。たぶん私は希美より上手に演奏出来るけど、夏紀は希美に教えているよ、と。
その声に、冷静な私が返す。夏紀にとっての希美は、私なんかよりずっと特別な場所にいるでしょう、と。
その声たちを聞きながら、私は、なんだかなぁ、と、また息を吐いて目を瞑る。
私は一体どういう距離にいるのだろうか。バンドメンバーでもないし、同棲という言葉の含むくすぐったさとは無縁の場所にいるとなると、つまりルームメイトとか、共同生活者とか、そういう言葉でしか表せない立ち位置なんだと思う。
不可侵領域が常にあって、そこに立ち入ろうとはしない関係。
じゃあ、それってどこからどこまで?
髪の毛の色には文句を言えても、他人からもらった指輪には文句を言わない。独占欲なさすぎじゃない?
考えても考えても、答えは出ない。いつのまにか右手を動かすのをやめていて、ギターはただの鈍器でしかなくなってしまった。
バンドをやめたことを、後悔しているかと言われたら答えはノーだ。やりきった。あれ以上は多分できなかった。それはわかる。音楽は趣味でいいと割り切ったし、音楽の道を選んだみぞれや他の後輩達に嫉妬するか、と言われたら、これも答えはノーだ。
でも、毎日食卓の前で、私のif《もしも》が存在しているのは、ちょっと話が違う。こればっかりは違う。私が選べなかった道を――選ばなかった道を歩む人間と一緒に生活しているときに、耐えられなくなる未来が、全く想定出来ないわけじゃない。液晶の向こうで見る報告に、頑張っているなといいねを送るのとは全く別の話だ。夏紀のアカウント、どれでもフォローしていないけれど。
もし、悔しさや虚しさで耐えきれなくなる未来が来たとしたら――来たとしたら、だから何なの?嫌な方向に転がり落ちていくはずだった思考は、思ったよりも浅い底で止められる。
好きにすればいいのだから、この生活をやめることだってたぶん選択肢の一つだ。約束のない日々をやめることに、理由はいらないはずだ。
もしも夏紀に、「あんたの夢追う姿見るのがつらい」って言ったら、どんな顔するのかな。またいつもみたいに、ちょっと寂しそうに笑うんだろうな。それを想像したら、今日一番腹が立った。
当然、この理論に納得しきれたわけじゃない。夕食の時間まで、ギターの重みを手放すことはできなかった。