パンドラボックス・シルバーレッド
他愛なく今日が昨日になる
― TOYRING / HAUGA / ArtTheaterGuild
あんまり会いたくない人に会うと、私は露骨に顔をしかめるらしい。
というのは高校生の夏紀の主張で、つまり私をからかうネタだったわけだけど。なんだかんだあいつは私にあまり嘘をつかないので、多分真実だったのだろう。つまり私はあいつの前で露骨に顔をしかめていたわけで、今思うと若干酷いことをしていたような気がする。謝ったりはしないけど。
なんでそんな話を思い出したかというと、会社の給湯室で指輪の彼女とばったり出くわしたからなのだけど。うわ、という言葉を飲み込んだだけ偉いと思いたい。
彼女は赤色のフチの細いフレームの眼鏡を光らせていて、あの夜よりずっと聡明に見えた。酒と生活の力は恐ろしいなと改めて感じていると、彼女は会釈もそこそこに首を傾げた。
「どうかしました?」
「いえ、なんでも」
どうにかして無心を手繰り寄せようとして、結局洗い物の続きが一番だと悟る。普段より念入りにマグカップを水洗いしていると、彼女は私を通り過ぎて給湯器の方へ向かっていった。カップラーメンの軽い音を水で流しながら執念深くコップを洗い終えると、彼女は暇そうにスマートフォンと向き合っていたから、そのまま何事もなかったかのように片付けを進めようとした、のだけれど。
「吉川さん、お弁当なんですね」
油断したところに言葉をかけられて、固まりかける。流し台の横に放っておいた弁当箱に飛んでくる目線に、早く片付けておけばよかったと後悔する。最近こんなのばっかりだなと反芻しながら、上手く地雷を踏まない言葉を探す。
「ええ、まあ。夕食の残りを詰め込んでるだけですけど」
「それでも偉いと思いますよ。私はカップ麺ですし」
「ええ、まぁ」
なんて返せばいいのかわからずに曖昧に笑みを浮かべている私は、高校時代の自分からは想像できないだろうな、と思う。別にあの頃より融通がきくとか、妥協ができるようになったとか、そういうことは思っていない。ただなんとも言えない距離感をずっと保ち続けなければいけないことがあるということを知っただけだ。
また地雷を踏み抜いたりしたら、今度は職場で泣かれることになる、と思っていないわけではない。彼女は極めて冷静だから、そういう意味不明な行動はしないだろうが。
「一人暮らしになるとね、途端に面倒になるんですよ、自炊って」
「そう、ですか」
なんの話をされているのか。これは傷心を慰めろと言われているのか。チラリと見た彼女のカップ麺の蓋には五分と書かれていて、まだ逃げることはできなさそうだと悟る。彼女は目線をスマートフォンに戻して、淡々とまだ喋り続けた。
「二人分のメニューで作るのに慣れちゃってるから、今さら一人分を調べる気にもならないんですよね。材料も余っちゃうし、買い物もしづらいし」
「ああ、なるほど」
確かに言われてみれば、私も一人分の食事を準備する気にならないことはある。外で済ませたり、適当に次食べるように半分を冷凍したりすることばかりだ。
まあだからといって、カップ麺になるほど極端ではないと思う。私がそう考えていると、急に彼女は液晶から目線を外して、私を見抜いた。細められた目線にひるんでいる隙に、彼女は口を軽く歪ませる。
「吉川さんって、二人暮しですよね?」
「え、はい、そうですけど」
言ってから、答える必要のないことに答えてしまったと気がついた。図られたなと気がついたのは、彼女がしてやったりとばかりに微笑んでいるのがわかるからだ。薄暗い給湯室の中では、それが余計に意地悪く見える。よく観察すればわかることだけど、いや、わかることだからこそ、気が付かれたときになんとも居心地が悪い。
「前食事しているときに、お弁当に肉団子を入れてらっしゃったのを見てたので。そうだなと思っていました」
「肉団子で?」
得意げに続けられた言葉が、よくわからなくて混乱する。というか、私が食事するところ、見られていたのか。私が箸を動かしているところを目の前の彼女に見られているところを想像すると、なぜだか若干寒気がした。
「一人暮らしの女性はね、スープ以外に肉団子を使わないんですよ」
「はあ」
本当だろうか。かなり真偽の怪しい言葉だが、しかしそれは彼女の中の生活の哲学なのだろう。あまり深く突っ込まないことにする。彼女はというと、満足したようにスマートフォンに目線を戻していた。奇妙な時間だったと思いながら、小さく私は息を吐く。
今度こそ出ようと、片付けをいつもより少し乱雑に終えた。昼休みがあと五分で終わる。あんまりゆっくりはできない。心を無駄にかき乱されて、午後の業務に影響が出なければいいが。会議の前に書類まとめなくちゃ。
「そういえば、指輪、どうしました?」
給湯室から廊下に向かう私の背中に、声が飛んでくる。あんまり思い出したくないことを思い出した勢いで振り返ると、彼女の表情はちょうど棚の影になっていた。どう答えるのが正しいかわからないし、私は正直に答えを選ぶ。
「どうも、してないですけど」
「なるほど」
彼女のその言葉と合わせて、アラームが響く。蓋がめくれていく音がジリジリと響いた。ゆったりとした合間に、返事が来ないのは予想外だった。
「もしかして、返したほうがいい?」
返せるなら、返してしまいたいが。会話のキャッチボールを埋めるため、期待も込めて問いかけると、しかし彼女は首を横に振った。
「大丈夫です。ただ、早めに処分したほうがいいとは思うけど」
「なるほど、どうして?」
彼女は後入れスープを開けながら、カップ麺から目をそらさずに言った。
「ああいうの、普通持ってると彼氏さんはよく思わないと思うので。フリマアプリとかで売っちゃうのがおすすめです」
それだけ言うと、彼女はカップ麺を片手に給湯室の出口に向かう。私が道を開けると、会釈と「それでは」を置いて出ていった。私が慌てて返した会釈も、彼女は見ずにどこかへと向かっていく。
そういうところでわかりやすく嫉妬するような関係なら、困ってないんだけどな、とは言えなかった。そもそも彼氏じゃないとも言いそびれたけど、わざわざ言うこともないだろう。
ギターに指輪、帰宅時間に夕食。生活の様々な縛りから逃れるように荷物をまとめて給湯室をあとにした。置き去りにされた悩みの類からは目を逸らす。どうせ後からついてくるのだから。